未来の死神、過去に哭く

 ふらふらと歩く俺はようやく隣りの病室までやって来ると、ノックをした。
 もう間もなく夜を迎える時間帯、面会時間も過ぎ去ろうとしているせいか、廊下は恐ろしいほどに静かで閑散としていた。

「はーい」

 天音の思いのほか元気そうな声が返ってきて、俺は内心安堵しつつ扉を開ける。

「大丈夫か?」

「うん! 真希人こそ大丈夫?」

 俺と目が合った天音は目を輝かせ、案の定自分のことよりも俺の心配をする。

「平気だよ。もう歩けるし」

 そう言ってゆっくりと天音が寝ているベッドに歩いて行き、近くの椅子に腰を下ろす。

「こっちに来てよ!」

 天音はどこか甘えたような声色でベッドを叩く。

「しょうがないお隣さんだな」

「こっちでもお隣さんとはね」

 渋々彼女のベッドの空いたスペースに移動した俺を、天音はニヤニヤしながら眺めている。

「なんだよ」

「なんでもないよ」

 そう言って天音は起き上がって勢いよく抱きついてきた。
 
「お、おい……」

「いいから。お願いだからこのまま……ね?」

 さっきまでのふざけた雰囲気はどこへやら、急にトーンダウンした掠れそうな声を発し、天音は腕の力を強める。
 
 心地いい。
 素直にそう思った。
 当然同年代の女子に抱かれているのだからドキドキもあるのだが、他人の体温というのはここまで人を安心させるものなのかと実感する。
 いつもの天音の匂いと桜の匂い。
 今朝の夢の中で抱かれた死神から香った匂いと同じ。
 
「やっぱりあれは天音か……」

 俺はあらためて確信を持った。
 女子の匂いで完全に判別するというのは、他人から見たら相当気持ちが悪いのだが事実なのだから仕方がない。
 
「他の女の匂いがする……」

 俺の独り言の直後、天音が恐ろしいことを口にする。

「マジ?」

「マジよ?」

 どうやらマジらしい。
 俺を抱いた女の子なんて、天音か死神ぐらいのものなのだが……。

「俺を抱いたことがあるのは天音だけだぞ」

 嘘は言っていない。
 だって死神は天音の未来の姿なのだから。

「へ~」

 天音の声が心なしか冷たい。
 俺が匂いで確信したように、天音も匂いで他の女の存在を察知したらしい。
 なんて恐ろしい能力なんだ……。

「わ、分かった。お話します」

「最初からそうしてよね」

 天音は悪戯っぽく笑うと、俺の背中に腕を回したまま寝転がり、俺ごとベッドに倒れこむ。

「ちょっと天音!?」

「いいから黙って」

 天音は俺を抱きしめたままベッドの上、俺の唇を奪う。
 
 俺は何の抵抗もせずにされるがまま。

 こういうのって普通は男からするもんじゃないのか?
 そんな疑問が一瞬巡るが、すぐに天音の匂いと感触に支配され、ぼんやりとし始めた。

 前はこんなに積極的じゃなかった気がする。
 どちらかと言えば俺の方が依存気味で、天音の方は見かけ上は俺にべったりだが、精神的には自立していた。
 何故なら天音には俺以外の人間関係もあったし、学校というコミュニティーもあったから。

 だけど今の天音はどうだろう?

 俺から唇を離し、ベッドで俺を締め上げる天音を見て思う。
 きっと学校でまた揉めたのだろうか?
 先生の話が本当だったとするならば、天音はもしかしたら誰かと心の距離が離れすぎて倒れたのではないだろうか?
 
 だから妙にここ最近スキンシップが激しい。
 俺に依存してしまっている証拠だ。

「それで、他の女の匂いがするのはなんでかな?」

 散々俺をベッドの上で締め上げた後、満足そうに俺を手放した天音が問いただす。
 俺は彼女の隣で正座中である。

「夢の中の話なんだけど……」

「ほぉ……そういう逃れ方をしてくるんだ」

 天音の表情がこわばった気がして、俺は焦って訂正する。

「違うから。最後まで話を聞いてくれ!」

 違うからと言いつつ、何も違わない。
 何故なら本当に夢の中で抱かれただけなのだから。
 でも抱いたのは未来の君だけどね?

「わかったわかった。話してよ」

 天音は今度こそ話を聞く姿勢になった。

「夢の中で例の死神に会ったよ」

 俺がそう切り出すと、天音は目を大きく見開いた。

「それってどんな格好だった?」

 天音が答え合わせをするように尋ねてくる。
 俺は見たまんま。
 ありのままの死神の姿を伝えた。

「……全く同じだ。記憶の中の死神と同じ。三か月前に演奏会で見た時と同じ」

 天音は腕を組んでブツブツと独り言のように繰り返す。
 
 しかしこれで確実になった。
 あの死神は天音が見た死神と同じ存在だ。

「死神といろいろ話したよ。彼女は後悔していた」

 俺はそのまま今朝の話を全て伝えた。
 死神が後悔していることも。
 未来の世界で俺が孤独になって死んでしまうことも。
 世界の呪いのこと。
 死神が俺から音楽の才能を奪ったせいで、その死が、世界の呪いがより早く発現してしまったことも。
 
「それじゃあ死神は真希人を助けようとして、結果的に悪化しちゃったってこと?」

 静かに聞いていた天音は、ただそう結論付ける。
 確かに客観的に聞いていればそうなる。
 いわゆる善意のお節介。
 死神が行動を起そうが、そのまま未来で俺の命を刈り取っていようが、結局俺が死ぬ未来は変わらない。
 現状のままではそうだろう。
 
 だけど俺は死神に、未来の天音に約束してしまった。
 絶対にこの俺、菅原真希人と早坂天音を救うと。
 どちらかしか生かせない選択はしないと。
 未来を変える。
 そう約束したのだ。

「まとめてしまうとそうなるな。だけどここでもう一つ最大級の秘密がある」

 俺は一度深呼吸をする。
 俺の様子を見て、天音は真剣な表情を浮かべる。

「演奏会の時、お前だけが死神を見ただろう?」

「うん……他の人に見えてたなら騒ぎになっているからね」

 天音は思い返すように答える。
 
「そう。答えから言うとさ、あの死神は未来の天音なんだ」

 俺の答えを聞いて天音は硬直する。
 固まってしまう。
 そりゃそうだ。
 まさか自分が未来で死神になっているなんて、信じたくもないし信じられない。

「死神の言い方的に、おそらく死神を見ることができるのは、その死神と深い関係にある人間だけなんじゃないかな? だから天音は演奏会の時に見ることができた」

 天音は半分思考停止してしまったのか、ゆっくりと頷く。
 
 数分間待ってから、俺は一度に説明をし始めた。
 その死神と接触した際に桜の香りがしたこと。
 その匂いと感触で天音かと問いかけたら、姿が変わり、やや大人びた天音が出てきたこと。
 
「そしてこのままだと天音も死んでしまう。今日倒れたのだってそれだ」

 俺は天音にもっとも言いたくないことを宣言する。
 半分死刑宣告のようなものだ。
 貴女は近い将来人間ではなくなる。
 記憶も自我もなく、ただただ命を奪う装置として生まれ変わる。
 そんな残酷な宣言をしなければならなかった。
 
 これからのために。
 そんな未来を回避するために。
「事情は先生から?」

 天音は俯きながらそう言った。

「ああ。天音が俺のことで、クラスで孤立してきているって」

 俺は正直に話す。
 重苦しい空気が病室に蔓延する。

「そっか……。清水先生って普段は何も言わないけど、見てるところは見てるよね」

 天音は気まずそうな顔で窓の外を見る。
 すっかり日が暮れて夜の時間。
 電気もつけていないから、部屋を照らすのは月明かりぐらいのもの。

 ちょっとの沈黙。
 
「真希人が死ぬ理由は、さっき言ってた世界の呪い? このまま孤独のままだとどんどん衰弱していって、死神が遣わされる」

 沈黙を破ったのは確認だった。
 俺の死因の確認。

「そうなるな。そしてそれは……」

「私の死因でもあるのね」

 天音が言葉を引き継ぐ。
 彼女も自分が弱っていて、俺と同じ状態だと思っていたのだ。

 本当に今のままだと、二人で孤独死という訳の分からない状態になってしまう。
 何とかしなければならないが、どうしていいのか分からない。
 頭では分かっている。
 孤独にならないようにすればいい。

 正解は分かっているが手段が見つからない状態というわけだ。

「そして俺の親父の死因でもある」

 俺はこの流れで、ついでに話しておくことにした。
 実は清水先生と親父は親交があって、親父の最後の時に一緒にいたこと。
 親父がまるで誰かに伝えようとしているかのように、死神や世界の呪いについて説明していたこと。
 そして俺はそれをさっき初めて聞いたこと。

 あの時の清水先生の目は本気だった。
 本気で何かを変えようとしている人の目だった。
 学校は任せろと言っていたけれど、一体どうするつもりなのだろうか?
 
 当事者なのであまり偉そうにするのも違うのだが、俺たち二人と他の生徒たちの関係は修復不可能なほどに壊れていた。
 溝なんていう生半可なものではない。
 特に吹奏楽部の連中とは絶交という段階にまで来ている。
 それに俺にはもう彼らの声は聞こえないのだから。

「そう。やっぱり天才って薄命なのかな?」

 天音はさらっと口にする。
 特に深い意味はなさそうな、何となくの疑問なのだろう。

「どうだかな? 長生きしている天才もいるからなんとも……結局のところ周りの理解があるかどうかじゃないのか? それに……」

「それに?」

「自分と周囲の違いを理解をしようという姿勢とか?」

 俺はそれを口にして自分で笑い出した。
 釣られて天音も笑い出す。
 
 俺の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
 いま一番俺に欠けているもの。
 足りないもの。
 ある意味、俺にとっての死因となる思考。
 生きるために必要な要素だった。

「まさかあの真希人からそんな言葉を聞くなんてね」

 天音はしみじみと語る。
 ずっとそばにいた天音なら、よりいっそうそう思うのかも知れない。
 俺の半生を共にした彼女だからこそ、俺の欠点には当然気がついている。
 
「そうなると私もちゃんとしないとな……。真希人が生き延びてくれるなら、私は死神になんてなっている場合じゃないもんね」

 その通りだ。
 影に囚われた死神の最後の願いは、俺と天音が無事に生き延びる未来を掴むこと。
 だけどどうなるのだろう?
 もしも天音が俺と共に生きる未来があったとしたら、そもそも死神は来ていないわけで、その場合は時間の流れが変わるのだろうか?

「天音はどう思う? もしも天音という死神が来なかった場合の未来。音楽の才能を奪われなかった世界。死神はそっちの世界で俺が死ぬから、未来を変えるために来たと言っていたけれど、もしも死神がきたことで未来が変わって、天音が死神にならなかったら、その未来はどうなるんだろう?」

 自分で話しながら頭が混乱してきた。
 一体どうなるのか?
 死神が言っていたのをまとめると、Aルートでは普通に死神がやって来て命を刈られて終わり。
 Bルートだと死神がそれを嫌がって過去にタイムトラベルをして、未来を変える。
 今のところBのルートの真っ最中な訳だが、このまま上手くいったとしても、Bルートの始まりとなった死神がいなくなる。
 そうなった場合、時間の流れはどうなるのだろうか?
 いま俺たちが歩むルートはどこになる?

「難しいこと言い出すね……」

 天音はそのまま考え出す。
 天真爛漫な彼女だが、意外と何かを考えるのは好きなタイプではある。

 そのまま考え込んでいる様子だったので、俺は立ち上がる。

「どこ行くの?」

「ちょっと自販機」

 不安そうに尋ねる天音は、俺の返事を聞いてホッとしたのか、軽く手を振って再び思考の海に沈んでいった。

 そういうところが不安なんだけどな。

 俺は心の中でそう呟き、病室を後にした。



 病室を抜け出した俺は自販機でカフェオレを二つ買う。
 買ってから気づく。
 流石に人の気配が無さすぎる。

 当然ながら就寝時間などではなく、廊下の電気もしっかりと点いているのだが人の声はもちろんのこと、足音も物音もしない。
 まるで無人のようだ。

 無人の病院など怖すぎるので止めて欲しいのだが、どうにもおかしい。
 どこかの異空間に飛びこんでしまったような感覚。
 それこそ夢の中のような錯覚に陥る。

「ここは病院であっているんだよな?」

 廊下で呟くと俺の声がどこまでも木霊する。
 寒気がする。
 どう考えても普通じゃない。
 何かおかしなことが、それも超常的なことが起こっている。

 足がすくむ。
 だけどここで固まっている場合ではない。
 ここには天音がいるのだから!

「天音!」

 俺は何故か軽やかに動く足で病室に向かって走りだした。


「天音!」

 俺は息も絶え絶えに、勢いよく病室の扉を開ける。
 
「真希人!」

 帰ってきた返事は天音の声。
 しかし視界には二人いる。
 人が二人。
 俺も含めれば三人か。

 俺と天音と……死神?

「なんでここに……」

 俺は呼吸を整えながら尋ねた。
 今朝夢で会ったばかりだ。
 間違いない。
 いまここにいる死神は、俺を救おうとした死神。
 天音の未来。
 変えて消さなくてはならない未来。

「ここは夢の中。私の最後の我儘で二人にはこっちに来てもらったの」

 死神はそう微笑んだ。
 確かに寒くも暑くもない。
 俺が走れるということはそういうこと。

 ここが夢の中だからだろうか?
 さっきまでは無かった椅子が増えていて、そこに死神が座り、やや怯えた様子の天音がベッドに座っている。
 俺はトボトボと天音の横に座る。

「いま現実の俺と天音はどうしてる?」

 夢の中に引きずられたとはいっても、それは精神だけだろう。

「大丈夫よ。君たち二人はいま同じベッドで一緒に眠っているわ」

 死神は安心させるように教えてくれたが、全然大丈夫ではない。
 もしも途中で誰か来たらどうしてくれる。
 病院で盛り上がっていると思われるではないか。

「ま、まあ良いか。それより天音に何もしてないだろうな?」

 俺は一応警戒する。
 今朝の様子だと天音に危害を加えるとは思えないが、一応だ。

「やっぱりこの人だよ。私が演奏会で見た死神は」

 天音はそこまで驚きもせずに指摘する。
 彼女は一度本物を見ているだけあって、すんなり受け入れている。
 
「それにしても本当に桜の香りがするんだね」

 天音が呑気にそんな感想を述べる。
 確かにいまも桜の香りが漂っている。

「ええ、この香りは君たちの家の間に生えている桜の香りよ。きっとうつってしまったんだね」

 死神が答える。
 ちょっと説明になっていない気がするが。

「分かりにくかった? これは未来の真希人のベッド脇にずっと活けられていたんだ」

 そう言う彼女の顔は愛おしそうに微笑んでいた。
 今も俺の病室のベッドの横には、桜の木の枝が活けられている。
 この頃からずっとなんだな。
 あんまり桜の木の枝をお見舞いで持ってくる人はいないと思うが、これが天音のセンスだろう。

「でもそのお陰で、俺は君が天音だと気がついたんだ」

 俺と天音の家のあいだにそびえ立つ桜の木。
 種類はヤマザクラ……。

「ヤマザクラだよね」

 天音も俺と同じことを考えていたらしい。
 
「ヤマザクラの花言葉は”あなたに微笑む”。実に二人にお似合いの花言葉ね」

 死神はクスクスと笑う。
 反面、天音は顔を真っ赤にして俯いている。
 初めて死神が笑っているのを見た。
 過去の自分をからかうという遊びを覚えたらしい。

 しかしそうか。
 花言葉なんて気にもしていなかった。
 天音が照れているところを見ると、花言葉を知ってて持ってきていたようだ。

「良いから! 本題に入ろうよ!」

 天音は顔を真っ赤にしながら話題を変える。
 今の本題は確実に花言葉だったのだが、ここは大人しく従っておこう。

「それで、なんでまたこっちに引っ張りこんだんだ?」

 単純に疑問だ。
 今朝話したばっかりだというのに、一体何なのだろう。

「ちょっと我儘かなと思ったんだけど、最後にもう一度だけ会っておきたかったんだよね」

 死神は不穏な言葉を口にする。
 最後と言ったか?
 つまり死神はもう影の中にすらいられなくなってきたと?

「真希人の予想通りだよ。私はもうじき消える。その前にもう一度二人の顔を見ておきたかった。まあ天音の方は知っている顔だけどね」

 死神は最後とは思えない雰囲気で陽気に喋りだす。
 まるで失っていた時間を取り戻すかのようだった。

「そういえばここに引きずられる前に話していたことがあるじゃない?」

 天音が切り出す。
 そうだ未来の話。
 この先どうなるのかの仮定の話。
 この死神がこないルートを進んだ場合の未来。

「それもあって二人には来てもらったの。話はなんとなく聞いていたから、しっかりと自分の耳で聞きたいの」

 死神は覚悟の決まった顔で天音を見る。

「じゃあ私の考えというか想像なんだけど、貴女には耳の痛い話になるかもしれないけどそれでも聞く?」

 天音はそう前置きする。
 死神は黙ってうなずき、話の続きを促した。

「私の考えだと、貴女の勘違いなんじゃないかって思うの。というよりそういう可能性が無ければ、未来が絶望的なのよね」

 つまり今から天音が話す内容は、可能性の一つであると同時に希望的観測であり、それが死神にとってはあまり好ましくない話であるという。
 一体何だろうか?

「事実かもしれないけれど、実際は分からない話ってことか」

「そうよ」

 天音が答える。
 でもそれで良いと思う。
 どうせ未来のことなんて分かりやしないのだ。
 唯一知っているのはこの死神だけ。

 そこまで考えて思い当たった。
 天音が語ろうとしているもう一つの可能性。
 AルートでもBルートでもない、三番目のルート。
 このルートを進むことができれば、全てが丸く収まる。

 なるほどこれは希望的観測をだいぶ含んでいるうえに、死神にはあまり聞かせたくない話ではある。

「じゃあ教えてくれ天音」

 俺はそれらもろもろを覚悟のうえで、話を進めた。
 話を促された天音は一度大きく深呼吸をする。
 今から語るのは理想だ。
 酷い現実だ。
 特に死神にとってみれば、酷い話に聞こえるだろう。

「いろいろ話しながら、いろいろ考えて到達したもう一つの可能性。死神が過去に干渉せずそのまま世界の呪いで死んでいく未来。死神が過去に干渉した結果、本来の未来よりも早くにその命を落とす未来。今まではこの二つのどちらかで考えていたし、実際私もそうに違いないと踏んでいた。だけどさっき気がついた。可能性はそれだけじゃないって」

 これはほとんどトリックのようなものだと思う。
 人間、提示された条件下で物事を考えて判断しようとしてしまう。
 それを鵜呑みにしてしまう。
 信じてしまう。
 そしてそれは実際に未来を見てきた死神にも当てはまる。
 死神は自分が実際に見た分、その罠に陥りやすい。

「そして私が見つけたもう一つの可能性、もう一つの未来。希望的観測も含めながらも、現実的にあり得ない話ではない未来。それはね……」

 天音はここで一瞬止まる。
 目を見開いて、一度だけ俺を見た。

 俺は無言のまま首を縦に振る。
 死神には申し訳ないが、この未来しかない。

「それは……死神が未来で見た衰弱している真希人が勘違いだったという未来」

「……か、勘違い?」

 流石に死神も狼狽える。
 自分の両手を見つめたまま声を震わせ、やがて口を開く。

「勘違いも何も、どっからどう見たって真希人は……」

「違うわ! そうじゃないの」

 死神の言葉を天音が遮る。

「貴女が見たベッドの上で横たわっている真希人は正しい。それ自体は何も間違っていないと思うし、実際に世界の呪いにかかっていたからこそ、死神である貴女が派遣されたのだろうからそこは正しい。だけど……」

 死神は説明を続ける天音を見つめる。
 何を言われるのか、皆目見当もつかない様子だ。

「だけど、貴女が弱っている真希人を見た未来が問題なの」

「未来が問題?」

 死神は意味が分からないと、首を何度も横に振る。
 
「ここで問題なのは、貴女が観測した真希人が一体どの未来の真希人なのかってこと」

 いよいよ天音の言いたいことが見えてくる。
 そうなのだ。
 死神は何も間違っていない。
 世界の呪いは発動していたし、その結果死神が呼ばれて俺と彼女は対面している。
 その未来は正しくてどこも間違っていない。
 だけど問題は、その未来がどの未来なのかということだけだ。

「私たちは思い込んでたの。貴女が見た未来の真希人の話が、貴女という死神が過去に干渉しなかった未来の結果だと、無意識にそう思いこんでいた」

 死神の言い分では、未来で死ぬ運命にある俺を見て、その運命を変えようと過去にやって来た。
 そして俺から音楽の才能を奪い、俺自身の生き方を変化させようとした。
 未来を変えようとした。
 しかし今朝夢の中で懺悔していたように、実際は上手くいかなかった。
 俺から音楽の才能を奪ったせいで、俺はより孤独を強め、死神が干渉する前の俺よりも早くに死を迎えるかもしれない。
 そう言っていた。

 確かに死神から見たらそう見えるのだろうし、そう考えるしかないのも分かる。

 だけどもしその前提が間違っていたとしたら?

 もしもその考え自体が、見たものの解釈が、すべて勘違いだったとしたら?

「つまり貴女が最初に見た真希人の姿が、すでに”死神が過去に干渉した結果”なのだとしたら?」

 天音が口にする第三の可能性。
 起きている状況自体は正しい。
 何も間違っていない。
 しかし、その見ている状態が一体どの結果の未来なのかは誰にも分からない。
 知りようがない。
 だからこれはあくまで可能性の話。
 俺と天音からしたら、未来に対して前向きになれる話だが、死神からしたら残酷な話だ。

 なにせ死神が、彼女が、何もしなければ”菅原真希人は死ぬことは無かった”のだから。
 これはそういう話だ。

「……う、嘘。そんなの信じられるわけ」

 死神は取り乱す。
 両手で頭を抱え、その美しい顔を歪ませる。

「だって私が見た未来が違ったら、そんな、でも……」

 死神はなんとか否定の材料を探すが、何も見つからないので焦る。
 だってこれはあくまで仮定の話。
 否定の材料なんて転がっているはずがない。

「だからあまり貴女の前では言いたくなかった。貴女の行動がまるっきり無駄なことだったなんて言いたくなかった。実際にそうかは分からない。確証はない。未来のことなんて誰にも分かりはしないから」

 天音は、狼狽える死神に言葉を投げかける。
 死神はそのまま床に突っ伏して涙を流す。

「それじゃあ、私のしたことって……。というよりも、私が真希人を殺したことになる。音楽の才能を奪うというもっとも残酷な殺し方。かつて好きだった人を死に追いやった。追いやってしまった……」

 彼女は大粒の涙を流しながら悲痛な胸の内を吐露したが、それ以上喋れなかった。
 言葉を失った。
 俺も天音も何も口に出さない。
 この場に響くのは死神の悲痛な号哭(ごうこく)だけ。
 
 俺はひたすら泣き叫び続ける死神の背中をさする。
 流石に可哀想に思えてくる。
 彼女は死に際の俺を見て、なんとかしようとした結果、いまこの場にいる。
 だけどそれ自体が間違いだった可能性が見つかってしまった。
 それも確率の高い可能性だ。

「……私が、真希人を……こ、ころし……」

「え?」

 掠れそうな死神の声に俺は聞き返す。
 しかし返事の代わりに、死神は自責の呪いを発し始めた……。

「私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が真希人を殺した……私が……」

 死神は壊れたカセットのように、同じ言葉を繰り返す。
 一言ごとに床を叩き、自分を傷つける。

「ごめんなさい」

 壊れたように繰り返す死神の言葉を遮ったのは、天音だった。
 天音も目尻に涙を浮かべながら、そっと死神を抱きしめる。

 ただそれだけ。
 天音は万感(ばんかん)の思いを込めて、ただその一言だけを、死神に手向(たむ)けた。
 天音は死神を優しく抱きしめ、背中をさする。
 壊れたように言葉を繰り返していた死神は、徐々に言葉がなくなる。
 まだ嗚咽は聞こえるが、自分を責め立てるような呟きはなくなっていた。

 俺は胸が苦しくなって目を背けた。
 とても見ていられなくなったのだ。

 死神の行動や想いを、全て踏みにじるような未来の可能性。
 それを聞かされた死神の気持ちも痛いほど分かるし、それを示唆するしかなかった天音の気持ちも理解できる。
 よりにもよって、俺たち三人の期待する未来に進むためには、死神が絶望する未来を選択するしかない。
 
 死神だって俺の無事を祈ってくれている。
 だから天音が話した未来が理想的なことなのは分かっているはずだ。
 だけど、それでも死神は絶望してしまった。

 自分の行動が俺を殺すことになってしまう。
 自分の勘違いで俺を、最愛の人を殺すことになってしまう。
 そんな理想の未来の可能性に、彼女の心は耐えられなかった。
 
 こうして泣き続けている彼女の表情を、俺は直視できなかった。
 なぜならこれは俺が撒いた種だから。
 俺がもっと上手く立ち回り、それこそ孤独にならなければこんなことにはなっていない。
 
 俺がしっかりしていれば、天音は死なずに済んでいた。
 死神になんてならなくて済んでいた。
 
 これから挽回するといっても、それで今ここで泣いている死神の想いが無かったことになるわけではない。
 仮に未来が変わるにせよ、天音を生かす未来を選択でき、ここで泣いている死神が存在しない事になったとしても、いまここで俺のために奮闘した一人の可憐な死神は無かったことにはならない。
 
「俺の方こそ悪いな」

 俺は二人に謝る。
 
 俺の言葉を聞いて、二人は俺を見る。
 天音は驚いた顔を、死神は泣き顔を俺に向ける。

「しっかりすべきだったんだ。俺が自分をコントロールできてさえいれば、こんなことにはならなかった。大好きな天音を死なせてしまう未来なんて来なかったはずなんだ。俺と違って他人とも上手くやれる天音は、俺に関わってさえいなければ世界の呪いに囚われることも無かったのに……」

 俺は自分の罪を告白する。
 ずっと俺の中に渦巻いていた正体。
 罪の存在。
 
 俺が天音を巻き込んでしまった。
 その想いだけはずっと心の底から離れない。
 俺には微笑んでもらう価値なんてなかったのだ。

 音楽の才能に溺れ、他人を見下し、被害者意識全開で周りを振り回してきた小心者。
 それが俺の正体。
 天才ピアニスト菅原真希人という少年の実態。

 そんな俺だからこそ、天音を巻き込んで間接的に殺してしまい、世界の呪いに囚われ、死神に転生させてまで天音を巻き込んでしまった。
 いまの悲劇を生んだ。
 この状況を作りだした。

「真希人、何を言って……」

 天音は困惑する。
 今まで俺が心の内を本当の意味で打ち明けたことなど無かったから……。

「でも実際そうだろう? いまの状況を直接作りだしてしまったのは死神かもしれない。だけどその原因は俺だ。全ての始まりは俺の振る舞いにあった。俺が真っ当に生きることができていたら、こんなことには……」

 俺は言葉が詰まる。
 涙腺が熱くなり、視界がにじむ。
 頬に伝う滴は涙か?

「だから誰も悪くない。俺を必死に救おうとして行動してくれた死神も、そんな彼女の行動を無駄だったと言うことになってしまった天音も、何も誰も悪くない。全ての問題は俺にあったんだから!」
 
 今まで俺は責任から逃げてきただけだ。
 全てを環境や周りのせいにして、俺は自分から心を開く努力をしてこなかった。
 才能に溺れ、周囲を勝手に醜悪なものと判断し切り捨て、そうして進んだ未来の成れの果てがこれだ。

「真希人……」

「だからこれからだ。これから挽回する! 俺は天音を救って自分を救って、死神の、彼女の行動が報われるように、彼女の願いを実現させるために行動する!」

 俺は力強く宣言した。
 決意表明とも言うべきか。
 俺たちが生き抜くために、理想の未来を描くために、俺たちは考えて行動しなければならない。
 
 ほんのちょっとした運命の悪戯だったろう。
 世界からしたらそうだろう。
 ただ一組の男女が死んでしまうだけのことだろう。
 だけど視点を変えれば、そんな簡単な話ではない。
 
 そこにはいくつもの想いが交差し、いくつもの願いが込められていたんだ。

 俺たちは”才能”という曖昧なものに踊らされてしまった。
 ”才能”という甘い果実にうつつを抜かして生きてきた。
 こうなるのは必然だった。

 だからここからは挽回だ。
 才能を失った俺が、甘い果実を捨てて人間らしく生きるための挑戦だ。
 俺は不幸ではない。
 むしろ恵まれている。
 死神にまで生存を望まれる人間などいやしない。
 
 俺は自分の未来の一部を知っている状態で、理想の未来を選択できる。
 これを不幸などと言ったら、全世界の人間に呪われてしまうだろう。

 幸福や不幸とは偶然やって来るものではないと思う。
 それらはその人間の生き方によってもたらされるものであり、生き方によって選び選択していくものだ。
 
 一つの事実にしたって、見る人によって不幸か幸福かのジャッジは変わる。
 そんな曖昧なものに一喜一憂するなんていうのは時間の無駄なのだ。
 全ては行動次第で変わる。

 俺は今回の一件で、それを強く実感した。

 世界を思い通りに動かせるだなんていうのは傲慢だが、天音を含めたたった二人の命運ぐらいはコントロールして見せる!

 目指すは理想の未来へ!

 俺は心の中でそう決意し、二人を抱きしめる。
 暖かい天音と冷たい死神。
 対照的な二人だが、仄かに香る桜の匂いは同じもの。
 ヤマザクラ……あなたに微笑む。
 二人が俺に向ける表情はいつも同じだった。
「やっと言えたよ、琴雅」

 僕はいま職員室の自分の席に座って、ホームルームの時間を待つ。
 昨日のことを思い出す。
 
 昨日、早坂さんが倒れたのを見て、僕はようやく確信したんだ。
 琴雅の最後の言葉が遺言だったのだと。
 それまで半信半疑ではあった。
 最後に琴雅が死神やら呪いやらを言い出したときは、遂におかしくなってしまったのだと思っていたが、天才である君が、ずっとそばにいた僕に対して、最後の最後でそんな意味不明なことを口走るはずがないし、そもそも君はそういう奴じゃなかった。

 君が死んだ直後の真希人君の表情が忘れられない。
 なんて声をかけて良いか分からなかった。
 すぐにメディアのマイクが向けられ、徐々に瞳から光を失っていくあの子を見て、君と同じ運命を歩むだろうとぼんやり思っていた。

「ちょっと……緊張するな」

 僕は今日のホームルームで、クラスのみんなに説明するつもりだ。
 無論、死神やら呪いやらを話すつもりはない。
 流石に信じないし、それを話してしまえば本当に伝えたいことまで伝わらなくなってしまう。
 
「清水先生、おはようございます」

「ああ、おはよう」

 同僚の青木先生が入ってきた。
 挨拶をして自分の席に荷物を置いた彼女は、すぐにこちらに視線を向ける。

「今日は随分早いんですね。いつもはもうちょっとゆっくりじゃないですか?」

 青木先生はまだ去年ここにやって来た教師だ。
 まだ歳も二十四と若い。
 見た目も整っているため、男子からの人気はなかなかのものだ。

「そうですかね? 特に意味は無いですよ?」

 僕は嘘をつく。
 本当はいつもより早く来て、なんと言おうか考えているところだった。

「清水先生、嘘はいけませんよ。顔にお悩み中って書いてあります」

 青木先生はクスクスと笑う。
 いつになく楽しそうだ。

「僕はそんなに分かりやすいかい?」

 僕は青木先生に尋ねた。
 顔に出ているのであれば、早急にどうにかしないと生徒たちに伝わってしまう。

「意外と分かりやすいですよね。清水先生が何を考えているのか初めて分かりました。普段の清水先生って、いつも気持ちが一定というか、何にも動じない人だと思っていたので新鮮です」

 青木先生は新鮮と言った。
 なるほど普段の僕は一定で変化がない。
 そういうタイプではあったが、もしかしたら感情を殺していたのかもしれない。

 教師という仕事は、心をある程度殺さないと長続きしないものだ。
 僕も若かったころは、もっとしっかりと感情を表に出していたような気もする。
 だけどいつの間にか、感情を表に出すことをしなくなっていたのだ。
 何かのトラブルが起きるたびに、淡々と冷静に対処する。
 必要以上に生徒たちの事情には首を突っ込まず、何か問題が起きた時に静かに対処する。

 そういう癖がついていたのだと思う。
 今まではそれでやってこれた。
 今年に入るまではそれでよかった。

 だけど今年は彼がクラスにいた。
 菅原真希人。
 僕の親友だった菅原琴雅の忘れ形見。

 彼と同じく天才ピアニストとして、世間で話題のスーパー高校生。
 琴雅が死んでからは、悲劇の天才ピアニストとして脚光を浴びていた。
 
 正直、規格外の存在だった。
 教師としてどう扱うのが正解か、まるで分からなかった。
 クラスの担当になって相当悩んだ末、僕は距離をとる選択をした。
 今まで通りのやり方で挑む覚悟をした。
 琴雅と僕の関係も伝えず、ただの一教師として乗り切る。

 しかしそんな僕の方針は確実に裏目に出てしまった。

 真希人は予想よりも学校に来なかった。
 それは彼の仕事の忙しさが、当初の想定を大きく上回っていることを意味するので喜ばしいことではあるのだが、あまりにも姿を見せない同級生をクラスのみんなはどう思っていたのだろうか。

 僕はそれに対して明確な答えを持っているわけではないが、想像は容易だろう。

 ”同い年なのにあんなに有名になって凄いけど、僕たち私たちには関係ないよね?”

 クラスの大半の考えはこんなだろう。
 月に数回しか登校しない彼を、周囲はクラスメートとして扱わなかった。
 当然、表面上は同じクラスの一員として扱うが、内心はとてもそんな雰囲気ではなかったと思う。
 それでも彼がそこまでのけ者にならないでいられたのは、早坂さんの存在が大きかった。

 早坂天音。
 彼女には天性の明るさがあり、周囲にうまく溶け込んで馴染む能力が高かった。
 あれは一種の才能と言っていい。
 彼女が真希人君と仲が良いことを公言し続けたことで、真希人君が登校した際もなんとかクラスとの関係を続けることができていた。

 僕はそれに甘えていた。
 その小康状態ともいえる状態に甘えてしまっていた。
 僕が何もしなくてもこのまま一年間凌げると、そう安易に考えてしまっていた。
 しかしそのバランスが崩れた。
 しかも思ったよりも早い段階で。

 真希人君の耳の問題。
 テレビ出演の激減。
 学校に来る頻度が上がった彼を、周囲は受け入れることができなかった。
 ”落ちぶれた天才”
 クラスの中には、彼をそう揶揄する者もいた。
 自分と真希人君を比べて、劣等感から攻撃的になる生徒もそれなりにいた。

 彼は彼で、そんなクラスメートを相手にしなかった。
 今の彼を見ていれば分かる。
 そんな有象無象を相手にしている余裕が無かったのだ。
 死神の存在と孤独。
 そんなものを一身に受けている状態で、周囲の嫉妬や憧憬など、相手にしている余裕などあるはずがない。

 そんな周囲との軋轢に耐えかね、いろいろ手を尽くしたのが早坂さんだ。
 彼女は真希人君と付き合っていることを公言したうえで、彼を庇い続けた。
 しかしそれによって彼女までもが、クラスからはじき出されるようになってしまった。
 それだけ嫉妬の気持ちや、落ちていく人間を見たいという思春期の感情は強かった。
 早坂天音という少女が持つ、場に溶け込む才能さえも凌駕してしまった。

「これは僕の罪だ」

 僕は覚悟を決めて立ち上がる。
 真希人君や早坂さんを追いつめてしまったのは、確実に僕の不手際だ。
 そしてクラスのみんなを、ある種悪者にしてしまったのも僕のせい。
 静観を決め込んだ僕の臆病さが原因だ。

「もうホームルームに行かれるのですか?」

 青木先生は怪訝な顔で僕に問いかける。
 時計を見ると、確かにいつもより一〇分ほど早い。

「僕はこれから大事な話をしなくてはいけないからね。青木先生も、教師を長く続けているといろいろあるから頑張るんだよ」

 僕は柄にもなくどの口が言うのか、アドバイスらしき言葉を残し、職員室を後にする。
 今の僕にできることは、過ちの修正をすることだ。
 後始末を、この場にいる大人として、彼らのためにやれることをやるだけだ。

 僕は廊下を進み、教室のドアの前に立つ。
 いつも足を運んでいる場所なのに、どうにも気持ちが落ち着かない。
 緊張しているのか足が震えている。
 
 思い返せば、あんまりこうして真っ正面からクラスの問題に向き合ったことは無かったな。

「席について」

 僕は教室のドアを開き、いつもと同じ調子で教壇に立つ。
 生徒たちは大人しく席に座るが、いつもより早い時間だったので首をかしげている生徒もいた。

「今日は大事な話をしようと思う。いまこの場にいない菅原君と早坂さんについてだ」

 僕が二人の名前を出した途端、クラスはざわめき始める。
 想像よりも反応が大きく、僕は動揺した。
 するとクラス委員を努めていて、早坂さんと仲の良い遠野絵美が立ち上がった。

「先生、その……二人は大丈夫なんですか?」

 最初に上がったのが心配する声で安心する。
 それだけでも救われた気持ちだ。
 彼女が僕に尋ねたと同時に、クラスは静まり返った。

「二人は大丈夫だといえばそうだし、大丈夫じゃないとも言える。少なくとも命の心配はない」

「良かった~」

 僕が答えた途端、遠野さんは安堵したのか机に突っ伏す。
 クラスのみんなも安堵から笑顔が戻っている。
 これで何も憂うことがないと言いたげに……。

「命に別状がないだけだ。それ以外の面においては大いに問題がある。このままでは彼らはきっと学校には来ない。それは君たちが一番分かっていることだろう?」

 僕の言葉に再びクラスは静まり返る。
 皆の目線が僕に注がれる。
 いつもの授業の時の視線ではない。
 どこか気まずそうな、そんな視線。

「僕はずっと静観していた。クラスのみんなのことを、彼らのことを。君たちと彼らの間でのやり取りも、ある程度は聞いているし知っている。知っていて放置した。これは僕の責任だ。だからいま全て話そうと思う。このままでは君たちが悪者になってしまうからね」

 僕は宣言した。
 全てを話す時が来た。
 お互いがお互いをどう思っているのか、その内容の全てを。
 ここからはぶっつけ本番。
 話の道筋も特に考えてはいない。
 話せるところまで話そう。

「まずは君たちが彼ら、特に菅原君に対して抱いている気持ちを聞かせてくれないか? 僕はこの話合いにおいて、この空間、この時間においては君たちが何を言っても怒る気はないし、今後に影響しないことを約束しよう。この空間においての一番の罪は、嘘をつくことのみだ」

 僕は誓う。
 全てを不問にすると誓う。
 なぜならその責任は僕が負うべきものだから。
 
「いまの捻じれたクラスの状態を僕は正常に戻したいと思う。清く正しい学園生活なんて、そんな夢みたいな話をするつもりは無いけれど、もう少し正常な関係に戻したい。いまの状態をいまここで解決したい。だから協力して欲しい」

 僕はそう言って頭を下げる。
 クラスのみんなの驚いた様子が見て取れる。
 息を飲む生徒もいた。
 僕がここまで熱く何かを話すのは初めてだから、みんな驚いているのだ。

「せ、先生。良いですか?」

 最初に手を挙げたのは案の定遠野さんだ。
 彼女が先日早坂さんと廊下で言い争いをしているのを知っている。

「どうぞ」

「あの、私、この前天音に酷いことを言いました。菅原君とは距離をとった方が良いって。しかもその時、彼を貶めるようなことを言ってしまってそれで……」

 途中で遠野さんは泣き出してしまった。
 早坂さんが倒れた時、もっとも気が動転していたのが彼女だった。

「彼女と喧嘩したまま、そのまま天音が倒れちゃって……謝れなくて」

「もし話せるのなら教えてくれないかな? 菅原君と距離をとった方が良いという遠野さんの意見は、どういう考えで至ったのかを。それこそが全てのような気がするんだ」

 僕はできる限りやさしく話しかける。
 遠野さんは泣きながら微かに頷いてくれた。
 
 クラスのみんなはそんな彼女の様子を黙ってみている。
 気まずいのは全員同じだろう。
 遠野さん一人の意見なはずがない。
 菅原君と早坂さんが距離をとった方が良いなんて、彼女一人の判断で言えるはずもない。
 直接的に言うように指示されたりはしていないにしろ、クラスにそういう雰囲気が蔓延していたのは間違いないのだ。
 遠野さんは遠野さんなりに、早坂さんを心配しての行動に違いない。

「……はい」

 しばしの沈黙のあと、嗚咽が収まった遠野さんは静かに一度返事をした。
 
「クラス内での菅原君は、正直言って評判は良くありませんでした。たまに学校に来ても私たちに話しかける事もないし、クラスに溶け込もうとしない。いつも壁を作っている感じがして、近づきがたい雰囲気でした。仕事が忙しいんだろうなと思いつつも、どこか見下されている感じがして、正直あまり好きにはなれなかったです。クラス全体的にそんな感じだったと思います」

 遠野さんは堂々と口にした。
 
 話を聞いて分かった。
 ああ、それだと思った。
 大きな勘違い。
 真希人君と関わった人間が全員抱く勘違い。
 ”見下されている”という盛大な勘違い。

「それでも彼が学校に来る頻度は少なかったので、あまり気にしていませんでした。だけどニュースなどで出た通り、彼の耳の病気のことが発覚してから、当然ですが彼が前よりもクラスにいる時間が増えてきたあたりで、いろいろと狂ってしまったと思います」

 遠野さんは詳細に説明してくれた。
 彼女も別に悪気があるわけではない。
 彼女も解決したいと思っていると、そう感じた。
 本気でなければ、クラスの汚点をさらけ出すようなマネは出来ないだろうから。

「ありがとう遠野さん。座っていいよ。ごめんね、言いづらいことを話させてしまって」

「いえ……」

 遠野さんは遠慮がちに俯き、そのまま着席する。
 今度はこちらのターン。
 話は分かったし経緯も、ほとんど予想通りだった。

「今度は僕の番かな? 今からする話をよく聞いていて欲しい。勉強なんかよりも大事な話だ」

 僕はそう言ってクラスのみんなを見渡した。
「まず今回の件にあって、君たちの決定的な誤解を解かなければいけない」

「誤解ってなんですか?」

 遠野さんが恐る恐る尋ねる。

「それは君たちがしきりに口にする”菅原君が君たちを見下している”という言説だ。これは大きな誤解で、この誤解こそが全ての問題の引き金となっている」

「で、でも実際……」

 遠野さんは納得していない様子だ。
 クラスのみんなも同様の反応。

「何か具体的に言われたりされたりしたのかい?」

「い、いえ……そうではないですけど……」

 遠野さんの主張は声とともに小さくなっていく。
 当然だと思う。
 真希人君は周囲を見下すような態度をとるはずがない。
 仮に心のどこかで()ぎることがあったとしても、それを表に出さない術を彼は心得ている。
 そうでなければ、芸能界などというプライドと欺瞞に満ちた世界を生き抜くことなど出来ないからだ。

「ほかのみんなはどうかな? 何か具体的なエピソードはあるかな?」

 僕の問いかけにクラス中が静まり返る。
 これといった反論はない。
 
「なさそうだね? つまりなんとなく雰囲気で、彼が君たち皆を見下していると思っていたと?」

 僕の再度の問いかけにもだんまりのまま。
 これが集団の怖いところだと感じた。
 どうせクラスの中で発言力のある生徒が、勝手に解釈して広めたのだ。
 確たる証拠はないけれど、みんながそう言っているのだからきっとそうに違いない。

 ”菅原真希人は、自分たちを見下している鼻持ちならない奴だ”

 そんな風潮がクラス全体に蔓延し、反対意見を言える空気ではなくなったのだ。
 放置していた僕が言うのも違う気がするが、なんとも情けない。
 単純にそう思った。

「ここでは君たちを責めるつもりはない。だから今後のアドバイスのために言っておく。いまのこのクラスの状況は”イジメ”だ。れっきとしたイジメだ。何の証拠もないのに、多数で個人を追い立てるのはある種のイジメ。だから金輪際やめることだ。今回の件は僕が回収する。上手く収めて見せる。確かに彼にも落ち度はある。それは間違いない。だけれど彼の事情も分かって欲しい。ここからは君たちに黙っていた彼の事情を説明しよう。今から話すことが正しいかどうかは分からない。人によっては言うべきではないと、声をあげる人もいるかもしれない。だけどここまで話が拗れてしまった以上、何かを隠したまま話すのでは無理があると判断した。だから……もうこれ以上聞きたくないという者は、いますぐ教室を出て行って構わない。お咎めはない。ここからは君たちの選択の問題だ」

 僕はそう言って出口を指さす。
 あくまで聞くかどうかは彼らの意思で決定させたい。
 教師が押しつけたところで何の意味もない。

「先生、私たち全員が聞きたいと思っています」

 クラスのどこかから、そんな声が聞こえてきた。
 誰も席を立たないし、誰も笑っていない、誰もがこちらに熱い視線を送っている。

 ああ、なんだ。君たちは……ただ知りたかったのか。

 知りたかっただけなのか。
 よくわかった。
 知らないから怖いのだ。
 怖いから遠ざけるのだ。
 安全に知るチャンスがあるのなら、知って安心したい。
 それが彼らの本心なのかもしれない。

「それでは話そう」

 僕はそう言って語ることにした。
 菅原真希人という存在を。
 彼がどのように成長し、どれだけのプレッシャーの中で生きてきたのかを。

「まず前提条件として、菅原君は昨日まで気づいていなかったみたいだけど、僕は彼が生まれた時から知っている」

「どういうことですか?」

 遠野さんが驚きの表情を浮かべる。

「彼のお父さん。世界的な音楽家である菅原琴雅と僕は同じ大学で学んでいた。同級生だった。当時から彼は天才と言われていたから、君たちの立場はすごくよく分かる。なんとなく劣っている気がして、劣等感に苛まれた時もあった。だけど彼の側にい続けるうちに、それが傲慢な考えだと変わっていった」

「傲慢ですか?」

「そうだよ。傲慢さ。だって彼が僕に見せていた側面なんて、本来の一〇パーセントにも過ぎなかったからね。それで全てを知った気になって、勝手に劣等感を抱いて距離を取ろうとした。これを傲慢と言わずに何と言う?」

 クラス全体が黙ってしまった。
 これは全員に通じることだ。
 一を知って、全てを知った気になる。

「たまたま見た一部分で全てを知った気になって決めつける。非常に浅はかで愚かで情けないことだが、安心して欲しい。これは何も若い人だけではない。大人だってするし、誰だってする。人間なんて結局こんなもんさ。僕はそれを大学生の時に痛感した」

 耳の痛い話だったろう。
 でもこれは必要なことだ。
 人間一人を理解しようというのなら、ちゃんと正面から向き合わなければならない。

「そして琴雅が結婚して生まれたのが、みんなのよく知る菅原真希人君だ。彼も幼いころから天才の片鱗を見せていた。父親の血を受け継いでいたのと、琴雅の厳しい英才教育を受け続けてきた結果だ。そうして彼は天才ピアニストとしてメディアに取り上げられ始めた。みんなからしたら、彼は何もかもを手に入れていたように映っただろう。お金、名声、人気……。だけど彼は満足しなかった」

「どうしてですか?」

 他の生徒たちから疑問の声が上がる。
 仕方ないだろう。
 彼らからしたら、自分たちが欲しくても得られないものを全て持っているのが菅原真希人だ。
  
「何故なら彼は、君たちが当たり前に享受していたものを持っていないからだ。親からの愛情、学校生活、誰かとどこかに行く自由、プライベート等々……。そのどれもを手にできなかったのが、菅原真希人という少年のここまでの人生だ」

「英才教育されていたのなら愛されていたのではないのですか?」

 遠野さんは指摘する。
 でも違うのだ。
 あれは愛情ではない。

「愛情と英才教育はイコールじゃない。彼に課された英才教育はハッキリ言って異常だった。常にピアノピアノピアノ……指を痛めても、どんなにぐずっても、幼いころに叩きこまれた教育は、彼をピアニストにするために琴雅が強行したものだ。物心つく前から、彼の人生は琴雅によって決定されていた。これは愛ではない。琴雅が自分の子供を天才ピアニストにしたいというエゴだ」

 僕はそれを影でずっと見ていた。
 何度か琴雅を宥めたこともある。
 母親から相談されたこともある。
 だけど僕には変えられなかった。
 あくまで他所の家庭の事情、そこに僕の入る余地はなかったのだ。
 僕の話をクラスのみんなは静かに、そして真剣に聞いていた。
 知られざる天才の生い立ちに興味があったのだろう。

「彼が物心ついたころ、琴雅の英才教育の甲斐もあり、彼は今の地位を手に入れていた。世界に誇る天才ピアニストの誕生だ。二世代にわたって天才とされた人間はそう多くない。ハッキリ言ってメディアの菅原君に対する期待と反応は異常だった。実力以上に騒がれていた」

 僕は当時あまり琴雅と連絡を取り合ってはいなかったが、第三者目線で見てみると菅原家は、メディアと才能によって潰された家という印象だった。
 菅原家には普通の幸せは無く、ある意味名家としての振る舞いを求められていた。

「じゃあさっき言ってた享受できなかったものって……」

 遠野さんが声を上げる。
 いい加減彼女たちにも分かってきたようだ。
 
「そう。彼には普通の生活など望めない。どこに行くにもカメラがついて回り、何かないかと常に嗅ぎまわられる。それが思春期の彼にとってどれほどのストレスだったか、僕には想像することしかできない」

 僕はそう結論付ける。
 彼の気持ちが分かるなどと言うつもりはない。
 こんなものは当事者になってみないと分からないからだ。

「彼の小学生までの生活はそんな感じだ。さらに小学六年生の時に、彼の父親であり僕の友人だった琴雅が病死した」

 僕は病死と言い切る。
 本当の死因については言わない。
 とても受け入れられそうに無かったから。

「その当時のことは鮮明に憶えているよ。もちろん僕も悲しかったが、一番ダメージを受けたのは菅原君のお母さんと、菅原君本人だ。母親の方は琴雅が亡くなって以降、菅原君への態度がややおかしくなった。自分の子供に琴雅の才能を感じていたのか、彼女は菅原君を自分の子供としてではなく、天才ピアニストとしての側面を愛でるようになっていった。その違和感は今も消えていない」

 クラス中が静まり返っている。
 まさかクラスメートが、それも煙たがっていた生徒の半生が、ここまで壮絶だとは考えてもみなかっただろう。

「そしてもっとも菅原君に負担をかけたのはメディアだ。いま思い返してみても、本当に胸糞悪い光景だった。彼はまだ十二歳。父親を亡くした十二歳の少年に対し、十数人の大人が一斉にマイクを向けて、今の心境は? などと尋ねている場面。異常だと感じたし、それは当時の彼もそう思っただろう。まだ琴雅が死んですぐだったこともあり、心の整理が出来ていない状態で尋ねられた彼はどうしたと思う?」

 僕は一度ここで言葉を切った。
 話しながら泣きそうになる。
 当時の彼の心境を思うとやるせない。

「”ちょっとまだ実感が無いですね”と答えたんだ。それもにっこり笑って、笑顔を作って……。これがどれだけ異常なことか分かるかい? どれだけおかしな光景か分かるかい? まだ弱冠十二歳の少年が、親が死んだ直後にマイクを向けられ、心境を答えさせられる。しかもそれがそのままニュースになって世界を回る。そんな状況、そんな場面で笑顔を浮かべられてしまった彼は、もうどこかおかしくなってしまったのだと、僕は心の底からそう思った」

 僕は一息に話し終える。
 彼の父親が亡くなるまでの話を。
 すでにクラスのみんなは沈黙の中だが、まだまだ話は続く。
 
「そうして父親を亡くした彼を、メディアはこぞって悲劇の主人公として取り扱った。天才ピアニストに悲劇の主人公というキャラ付けまでされてしまった。そこからは君たちの知っている通りの彼だろう。だけど知っていることの裏には、彼の並々ならぬ努力があることを忘れてはいけないよ? 彼にかかる世間からの期待は常軌を逸していた。日本が世界に誇る天才音楽家であった、琴雅が亡くなってしまったことも拍車をかけた。菅原君にかかる期待と重圧は異常なものだっただろう。一番身近で味方であったはずの彼の母親でさえ、その重圧に耐えきれず、菅原君を子供としてよりも天才ピアニストとして扱いだした」

 それだけの重圧の中、それでも耐えていけていたのは皮肉にも琴雅による英才教育の結果だろう。
 彼に施された英才教育の中には、ピアノのことだけではなく、精神的な部分も多分に含まれていたという。
 そうでなければ、世間からの重圧に潰されてしまうと琴雅は知っていたのだろう。 

「そんな重圧の中で起きた事件が彼の耳の件だ。これはよく知っているだろう?」

 僕はようやく本題に入る。
 ここまで聞けばみんなも分かったはずだ。
 彼が失ったものがどれだけ多いか。

「……私たちが間違っていました」

 しばしの沈黙の後、遠野さんの声だけが静かに響く。
 流石にわかっただろう。
 自分たちがどれだけ狭い視野で人を判断していたのか。
 どれだけひどい仕打ちを彼にしてきたのかを。

「最初に言ったように、別に君たちを一方的に悪者にするつもりはない。彼も彼で人との付き合い方には問題があった。だけどそうならざるを得なかったということだけは分かって欲しい。彼には人を見下す余裕などなかった。相手にするだけの精神的余裕がなかっただけだ」

 結論はそこに行きつく。
 長々と話したが結局はそこだ。
 菅原真希人には、誰かに愛想良くしたりするだけの余裕が無かっただけなのだ。

「……私、本当に最低なことを天音に言ってしまった」

 遠野さんは後悔の言葉を口にする。
 クラス中の視線が彼女に注がれる。
 
「早坂さんは一人暮らし。詳しくは僕も知らないが、父親はずっと海外でお仕事をなさっていて、母親は彼女が幼いころに事故で亡くなっている。お隣さんだったのもあり、彼女はずっと菅原君たちと一緒にいた。僕も何度かは見たことがある。壮絶な人生を歩む彼を一番側で見て、支えてきたのはおそらく彼女だろう。菅原君にとって、また早坂さんにとって、一番の理解者は周りの大人や家族ではなかった。彼ら二人はお互いに依存しあっている関係だったのかもしれない」

 僕の言葉に遠野さんは思いっきり泣き出してしまった。
 無理もない。
 知らなかったとはいえ、早坂さんに対して相当言ってはいけないことを言ってしまったのだから。

「……謝りたい。先生、謝りたいです!」

 遠野さんは涙をぬぐってそう言った。