俺はとっとと教室を飛び出して、下駄箱に向かう。
部活もやめたし、特に親しい友達もいない。
授業さえ終わればこんなところに用はない。
「まったく、ハイエナのような奴らだな」
これはクラスメイトに向けた言葉ではなく、マスコミに向けた言葉だ。
どこから漏れたかは、この際気にしない。
各関係者のあいだで、静かに共有されていた話だ。
どこかで裏切って、儲けてやろうという奴が現れても不思議じゃない。
さっきちらっと見た時でさえ、えげつないほど閲覧数が回っていた。
今頃あの記事を仕上げた何者かは、笑いが止まらないだろうな。
「クソが!」
俺は昂った感情を抑えられず、下駄箱に軽く蹴りを入れる。
物に当たるなんて、天音にバレたら怒られるな……。
だけどこのどうしようもないイライラを解消する術を、俺はピアノ以外に知らない。
ただでさえ腫れ物扱いが板についてきたというのに、こんなニュースが事実として出まわったらいよいよ俺の学校生活は終わる。
そんな気がしてならない。
下手したらマスコミの取材が、この学校の生徒にまで及ぶかもしれない。
「はぁ……」
考えただけで頭が痛い。
もう考えるのをやめようかな?
この病気だってそうだ。
この前の健診の時も、やはり原因が分からないの一点張りだった。
仕方がないことだとは思う。
だって病気ではなく、死神の呪い説が濃厚なのだから。
そうだ。
医者は悪くない。
クラスのみんなも悪気があるわけではない。
触れられないだけで、イジメられているわけではない。
これは俺の問題だ。
全て俺が悪いのだ。
「なあ菅原、あれは本当なのか?」
いま一番会いたくない人物に出会った。
「なにがだ? 楽辺」
楽辺聡志。
最近は一切会わなくて済んでいたのに、このタイミングで会うということは、俺のことを探していやがったな。
なんのために部活をやめたと思ってるのやら。
「しらばっくれるなよ。あのネット記事さ」
「それがどうした」
「ピアノの音が聞こえなくなったって話さ」
よくもまあ本人を前にしてそこに触れられるな。
「だったらなんなんだ?」
俺は強がる。
素直に認めたくなかった。
「いや、憐れだなと思ってな」
「なんだと!」
語気が荒くなる。
自分が熱くなっているのを感じる。
「だってそうだろ? 散々俺たちのことを見下してきたお前が、よりにもよってその拠り所にしていたピアノを奪われたんだぜ? これを憐れと言わずになんと言うんだ?」
楽辺聡志は今までに見たことがないほどに饒舌だった。
おそらくコイツは、ずっと俺に復讐する機会を探っていたのだろう。
一般人のコイツからしたら、俺の存在は気に食わなかっただろう。
あらゆる面で特別扱いされ、それは部活でも同じだった。
大して練習も来ないくせに、有名というだけで、才能に恵まれているというだけで、予定さえあえば常にコンクールには出れるポジション。
嫉妬……なのだろうな。
俺には確認する術は無いけれど。
「ちょっと、何よいまの」
冷たい声がした。
今までに聞いた中でもっとも冷たく、恐ろしいほどに冷静な声。
目の前の楽辺が固まっているあたり、本気で怒っているのだろうな。
俺の背後にいる彼女は……。
「天音か」
俺は振り返る。
天音が仁王立ちしていた。
そして過去一番といっていいほどキレている。
どうも彼女は怒ると静かになるタイプらしい。
「もう、我慢しない」
そう言って天音は俺の横を通り過ぎ、楽辺の目の前まで移動する。
「な、なんだよ」
楽辺の声はすでに震えている。
いくらコイツでも、天音が怒っていることぐらいは分かるらしい。
”パチン”
そんな乾いた音が響いた。
楽辺にしてみればまさかだっただろう。
俺からしてもまさかだった。
天音が楽辺の頬を思いっきりビンタしたのだ。
ビンタされた楽辺は、ショックのあまり言葉が出ない。
いままでも何度か楽辺は、俺に対して嫌な態度をとったことがあるが、ここまで天音が怒ることはなかった。
「アンタ最低ね」
氷よりも冷たい声が楽辺を襲う。
夏の暑さはどこへやら、彼女の怒りが下駄箱全体の温度を下げているかのようだった。
「楽辺聡志。アンタは人に対して言っていいことと、悪いことの判断も出来ないわけ? 高校生にもなってそんなことすら分からないの?」
語気は激しくない。
言葉も別に怖くはない。
だけど恐ろしいほどの怒り。
間違いなくいまの天音は本気で怒っている。
こんな彼女は今まで見たことがない。
「それに、真希人がアンタを見下してたですって? アンタなんか眼中に無かっただけよ! 見下してすらいない。相手にしていなかっただけ。真希人がどれだけ苦しんでいたのかも知らないくせに、勝手なこと言わないで!」
冷静だった彼女のボルテージはさらに上がっていく。
楽辺の胸倉に掴みかかる勢い。
俺はそんな彼女の後ろ姿を、ただ見守ることしかできなかった。
加勢するわけでもなく、彼女を止めるわけでもなく、ただ思考を失い棒立ちになるしかなかった。
楽辺に言われたことがショックだったのかも知れない。
今までだって散々ネットの書き込みで同じような文言は見てきたけど、面と向かって顔と名前が一致している奴に言われたのは初めてだった。
俺が他者を見下していると。
何様のつもりだと。
いい気味だと……。
半分本当で半分嘘。
心のどこかで、俺はみんなより優れていると考えていた。
それは間違いないが、特別見下しているという感覚はなかった。
ただ興味が無かっただけだ。
「なんとか言ったらどうなの? それとも弱っている相手にしか言えないわけ!?」
天音はさらに詰め寄る。
そろそろ止めないと。
そう思った瞬間、別の声がした。
「早坂さん。何をしているの?」
その声の主も怒っていた。
もう誰かは分かっている。
今一番来てほしくない人物がやって来てしまった。
「西条先輩……」
楽辺は助けを求めるように、彼女の名前を呼ぶ。
西条先輩は二人に近寄って行き、胸倉を掴んでいた天音の手を引き剥がす。
「何があったかは知らないけど、やり過ぎよ」
「放して」
天音は西条先輩にすら牙をむく。
「どうしたの早坂さん、らしくないわね。菅原君の件で、楽辺君に八つ当たりするのは違うんじゃない?」
事の顛末は知らないくせに、俺のネット記事は見たらしい。
というよりこれでは、一方的に天音が悪者みたいじゃないか。
「先輩。そうではありません」
やっと体が動くようになった俺は、天音を掴んでいる西条先輩の腕を掴み、強引に引き剥がす。
「菅原君……」
「天音は何も悪くない。本当は俺がお前に言い返すべきだったもんな? 楽辺」
俺は楽辺を睨む。
「いや、俺は……」
俺が反撃してこないと思っていたのか、楽辺は視線を逸らす。
「とりあえず天音は無関係です。これは楽辺と俺の問題。何も知らないくせに、勝手に決めつけて、勝手に結論付けるのはどうなんですかね?」
ああ、俺も怒っている。
実感する。
心のどこかで、俺とコイツらは違うと考えていた。
そうすることで争わなくていいと、そう思っていた。
だけどこれはそうじゃない。
俺だけなら構わない。
いくら言われても我慢できる。
しかしもしも俺への発言によって天音が傷つくのなら、天音の立場が悪くなるのなら、これは対応しなくちゃいけない。
対処しなくちゃいけない。
天音には、俺とは別の人生を歩んでほしいから。
俺なんかに引きずられないでいて欲しいから。
「もう金輪際俺には関わるな。天音に手を出すな。もしも俺が原因で天音に不利益が生じた場合、俺はどんな手段を用いてでもお前らを追い込むからな」
俺はそこまで言い切った。
初めて言葉にした、絶縁宣言。
お前らとはもう関わらないという意思表示。
しかしそれを口にした瞬間、背筋が凍るような違和感を覚えた。
そしてその感覚が何を意味するのか理解できた。
すぐに実感できた。
「…………!」
「…………」
目の前の二人が何かを言っているが、俺にその声は届かなくなった。
部活もやめたし、特に親しい友達もいない。
授業さえ終わればこんなところに用はない。
「まったく、ハイエナのような奴らだな」
これはクラスメイトに向けた言葉ではなく、マスコミに向けた言葉だ。
どこから漏れたかは、この際気にしない。
各関係者のあいだで、静かに共有されていた話だ。
どこかで裏切って、儲けてやろうという奴が現れても不思議じゃない。
さっきちらっと見た時でさえ、えげつないほど閲覧数が回っていた。
今頃あの記事を仕上げた何者かは、笑いが止まらないだろうな。
「クソが!」
俺は昂った感情を抑えられず、下駄箱に軽く蹴りを入れる。
物に当たるなんて、天音にバレたら怒られるな……。
だけどこのどうしようもないイライラを解消する術を、俺はピアノ以外に知らない。
ただでさえ腫れ物扱いが板についてきたというのに、こんなニュースが事実として出まわったらいよいよ俺の学校生活は終わる。
そんな気がしてならない。
下手したらマスコミの取材が、この学校の生徒にまで及ぶかもしれない。
「はぁ……」
考えただけで頭が痛い。
もう考えるのをやめようかな?
この病気だってそうだ。
この前の健診の時も、やはり原因が分からないの一点張りだった。
仕方がないことだとは思う。
だって病気ではなく、死神の呪い説が濃厚なのだから。
そうだ。
医者は悪くない。
クラスのみんなも悪気があるわけではない。
触れられないだけで、イジメられているわけではない。
これは俺の問題だ。
全て俺が悪いのだ。
「なあ菅原、あれは本当なのか?」
いま一番会いたくない人物に出会った。
「なにがだ? 楽辺」
楽辺聡志。
最近は一切会わなくて済んでいたのに、このタイミングで会うということは、俺のことを探していやがったな。
なんのために部活をやめたと思ってるのやら。
「しらばっくれるなよ。あのネット記事さ」
「それがどうした」
「ピアノの音が聞こえなくなったって話さ」
よくもまあ本人を前にしてそこに触れられるな。
「だったらなんなんだ?」
俺は強がる。
素直に認めたくなかった。
「いや、憐れだなと思ってな」
「なんだと!」
語気が荒くなる。
自分が熱くなっているのを感じる。
「だってそうだろ? 散々俺たちのことを見下してきたお前が、よりにもよってその拠り所にしていたピアノを奪われたんだぜ? これを憐れと言わずになんと言うんだ?」
楽辺聡志は今までに見たことがないほどに饒舌だった。
おそらくコイツは、ずっと俺に復讐する機会を探っていたのだろう。
一般人のコイツからしたら、俺の存在は気に食わなかっただろう。
あらゆる面で特別扱いされ、それは部活でも同じだった。
大して練習も来ないくせに、有名というだけで、才能に恵まれているというだけで、予定さえあえば常にコンクールには出れるポジション。
嫉妬……なのだろうな。
俺には確認する術は無いけれど。
「ちょっと、何よいまの」
冷たい声がした。
今までに聞いた中でもっとも冷たく、恐ろしいほどに冷静な声。
目の前の楽辺が固まっているあたり、本気で怒っているのだろうな。
俺の背後にいる彼女は……。
「天音か」
俺は振り返る。
天音が仁王立ちしていた。
そして過去一番といっていいほどキレている。
どうも彼女は怒ると静かになるタイプらしい。
「もう、我慢しない」
そう言って天音は俺の横を通り過ぎ、楽辺の目の前まで移動する。
「な、なんだよ」
楽辺の声はすでに震えている。
いくらコイツでも、天音が怒っていることぐらいは分かるらしい。
”パチン”
そんな乾いた音が響いた。
楽辺にしてみればまさかだっただろう。
俺からしてもまさかだった。
天音が楽辺の頬を思いっきりビンタしたのだ。
ビンタされた楽辺は、ショックのあまり言葉が出ない。
いままでも何度か楽辺は、俺に対して嫌な態度をとったことがあるが、ここまで天音が怒ることはなかった。
「アンタ最低ね」
氷よりも冷たい声が楽辺を襲う。
夏の暑さはどこへやら、彼女の怒りが下駄箱全体の温度を下げているかのようだった。
「楽辺聡志。アンタは人に対して言っていいことと、悪いことの判断も出来ないわけ? 高校生にもなってそんなことすら分からないの?」
語気は激しくない。
言葉も別に怖くはない。
だけど恐ろしいほどの怒り。
間違いなくいまの天音は本気で怒っている。
こんな彼女は今まで見たことがない。
「それに、真希人がアンタを見下してたですって? アンタなんか眼中に無かっただけよ! 見下してすらいない。相手にしていなかっただけ。真希人がどれだけ苦しんでいたのかも知らないくせに、勝手なこと言わないで!」
冷静だった彼女のボルテージはさらに上がっていく。
楽辺の胸倉に掴みかかる勢い。
俺はそんな彼女の後ろ姿を、ただ見守ることしかできなかった。
加勢するわけでもなく、彼女を止めるわけでもなく、ただ思考を失い棒立ちになるしかなかった。
楽辺に言われたことがショックだったのかも知れない。
今までだって散々ネットの書き込みで同じような文言は見てきたけど、面と向かって顔と名前が一致している奴に言われたのは初めてだった。
俺が他者を見下していると。
何様のつもりだと。
いい気味だと……。
半分本当で半分嘘。
心のどこかで、俺はみんなより優れていると考えていた。
それは間違いないが、特別見下しているという感覚はなかった。
ただ興味が無かっただけだ。
「なんとか言ったらどうなの? それとも弱っている相手にしか言えないわけ!?」
天音はさらに詰め寄る。
そろそろ止めないと。
そう思った瞬間、別の声がした。
「早坂さん。何をしているの?」
その声の主も怒っていた。
もう誰かは分かっている。
今一番来てほしくない人物がやって来てしまった。
「西条先輩……」
楽辺は助けを求めるように、彼女の名前を呼ぶ。
西条先輩は二人に近寄って行き、胸倉を掴んでいた天音の手を引き剥がす。
「何があったかは知らないけど、やり過ぎよ」
「放して」
天音は西条先輩にすら牙をむく。
「どうしたの早坂さん、らしくないわね。菅原君の件で、楽辺君に八つ当たりするのは違うんじゃない?」
事の顛末は知らないくせに、俺のネット記事は見たらしい。
というよりこれでは、一方的に天音が悪者みたいじゃないか。
「先輩。そうではありません」
やっと体が動くようになった俺は、天音を掴んでいる西条先輩の腕を掴み、強引に引き剥がす。
「菅原君……」
「天音は何も悪くない。本当は俺がお前に言い返すべきだったもんな? 楽辺」
俺は楽辺を睨む。
「いや、俺は……」
俺が反撃してこないと思っていたのか、楽辺は視線を逸らす。
「とりあえず天音は無関係です。これは楽辺と俺の問題。何も知らないくせに、勝手に決めつけて、勝手に結論付けるのはどうなんですかね?」
ああ、俺も怒っている。
実感する。
心のどこかで、俺とコイツらは違うと考えていた。
そうすることで争わなくていいと、そう思っていた。
だけどこれはそうじゃない。
俺だけなら構わない。
いくら言われても我慢できる。
しかしもしも俺への発言によって天音が傷つくのなら、天音の立場が悪くなるのなら、これは対応しなくちゃいけない。
対処しなくちゃいけない。
天音には、俺とは別の人生を歩んでほしいから。
俺なんかに引きずられないでいて欲しいから。
「もう金輪際俺には関わるな。天音に手を出すな。もしも俺が原因で天音に不利益が生じた場合、俺はどんな手段を用いてでもお前らを追い込むからな」
俺はそこまで言い切った。
初めて言葉にした、絶縁宣言。
お前らとはもう関わらないという意思表示。
しかしそれを口にした瞬間、背筋が凍るような違和感を覚えた。
そしてその感覚が何を意味するのか理解できた。
すぐに実感できた。
「…………!」
「…………」
目の前の二人が何かを言っているが、俺にその声は届かなくなった。