翌朝目覚めると、ぐっしょりと汗をかいていた。
「何だったんだ?」
何か夢を見ていた気がするが、憶えていない。
前もこんなことがあったっけ?
その時も何も憶えてはいないけど、こんな感じで汗を異様にかいていた。
きっと悪夢だ。
俺はなんとなくそう思った。
悪夢以外で、寝ている最中にここまで汗をかくというのは不自然だ。
カーテンを開けると、外はあいにくの雨。
軽くシャワーを浴びてから着替え、玄関で靴を履いているとドアが不意に開けられた。
「おはよう真希人。遅刻するよ?」
「急に開けんなよ」
俺は靴を履いて立ち上がり、傘を持って外に出た。
「桜……最近元気ないな」
俺は天音の家とのあいだにある桜の木を見て呟く。
「そうね……確かに最近元気がないかも。ずっと私たちのあいだに生えているから、気になっちゃうよね」
天音も俺と同じことを思っていたらしい。
この桜の木はいつから埋まっていたのか分からないが、少なくとも俺たちの思い出の中に常に映りこんでいる。
「早くいくよ!」
ぼやぼやしている俺に業を煮やした天音が、俺の手を引く。
俺はそんな彼女の背中を見つめる。
握られた手の体温にホッとする。
「ダメだよ。拒絶したら」
天音は顔を見せないまま、唐突にそう言った。
「真希人は昔からそうだけど、人と距離をとりすぎる。ダメだよ。ありきたりな言い方になっちゃうけど、人は独りでは生きていけないんだよ?」
天音は諭すように語る。
面と向かって言うのが気恥ずかしいのか、俺より一歩前を歩きながら……。
「天音、お前何言って……」
俺は自分の心の内を覗かれた気がした。
心の底まで見透かされているような、そんな感覚。
だけど不思議と嫌な気持ちはない。
他の人に言われたら間違いなく聞く耳を持たないのに、彼女に言われると素直に聞いてしまう。
「良いから。真希人は何も答えなくていい。だけどそれだけは心の内に留めておいて」
珍しく天音の声色が固い。
緊張しているのか?
昨日からずっと考えていたことなのだろうか?
昨日の俺の態度が彼女を心配させてしまった。
きっとそうだ。
普段はこんなこと言うタイプじゃない。
俺がどんな考えでどんなことをしようと、黙ってニコニコしながらついてくるタイプだ。
こういうことを言い慣れてるわけじゃない。
「……分かった」
俺は彼女の手を強く握り返す。
強まる雨の中、耳に聞こえるのは雨の音と彼女の息遣いだけだった。
教室について授業を受ける。
そのまま部活には顔を出さずに帰る。
そんな毎日を過ごす。
もちろんテレビの仕事もちょくちょく入っていたが、例のプロデューサーが手がける番組には出ていない。
一度テレビ局の廊下ですれ違ったが、やはり向こうの言葉は届かず、俺はなんとなく口の動きなどで曖昧に返事をしていたが、やがて限界を迎えてその場を去った。
いつのまにやらほとんどの芸能関係者にも、俺のことが広まり始めていた。
あの天才ピアニスト、菅原真希人はよりにもよってピアノの音が聞こえなくなったらしいと。
医師会に相談するとあの医者が言っていた時点で、これは広まると確信していた。
当然マネージャーの黒井さんには話してあるが、彼は驚きはしたが案外静かに受け入れてしまった。
こういう人間が一番強い人だ。
俺は内心そう思った。
俺の耳が治るかどうかを試すために、仕事と学校のあいだにたくさんの名医と会って話や検査をしたが、どれも芳しくない結果だった。
そうなると当然だがピアノ関係の仕事は無くなっていく。
俺がメディアに露出する回数が目に見えて減っていき、それと反比例する形で学校への登校頻度は上がっていた。
天音をはじめとしたクラスの半数ぐらいはそれを素直に喜んでくれたが、他の連中は違う意味で喜んでいたようにも思う。
ひそひそ話というのは、意外と聞こえるものだと知ったのはここ最近だ。
別に聞き耳を立てているわけではない。
聞きたい音は届かないのに、聞きたくない音は拾ってくる。
実に性能の悪い耳だ。
学校のあちこちから聞こえてくるひそひそ話を総括するとこんな感じだ。
”菅原って最近テレビで見ないよな”。
ちゃんと声をひそめて言っているあたり、余計に質が悪い。
相手に聞かれてはマズいということを理解したうえで話している。
それならここで話すなと、俺は言いたい。
別にテレビの出演が減ったことはどうでもいい。
個人的には、少し時間ができてホッとしているぐらいだ。
だがお前たちにとやかく言われる筋合いはない。
いまはそれどころじゃないんだ。
テレビがどうとかじゃない。
あれから二ヶ月経過しようと、この耳は相変わらずピアノの音を拾えない。
母さんは何も言わない。
あえてピアノや仕事の話題には触れない。
なんなら将来の話もしない。
俺に配慮して話そうと思うとそうなるのだろう。
すべてが薄っぺらい会話しかなく、やがて俺は母さんとあまり話さなくなった。
クラスに馴染もうという努力すら俺はやめてしまった。
部活もやめた。
芸能関係の人間関係も疎遠になっていった。
「面白いくらい日常って崩れるんだな」
俺は部屋の外を窓から眺めながら、独り言を発した。
視線の先にはいつもの桜の木。
もう時期がズレているから当然花弁は無いが、それにしたって元気がなさすぎる。
まるで俺の現状を映し出しているようで、見るのをやめた。
「何だったんだ?」
何か夢を見ていた気がするが、憶えていない。
前もこんなことがあったっけ?
その時も何も憶えてはいないけど、こんな感じで汗を異様にかいていた。
きっと悪夢だ。
俺はなんとなくそう思った。
悪夢以外で、寝ている最中にここまで汗をかくというのは不自然だ。
カーテンを開けると、外はあいにくの雨。
軽くシャワーを浴びてから着替え、玄関で靴を履いているとドアが不意に開けられた。
「おはよう真希人。遅刻するよ?」
「急に開けんなよ」
俺は靴を履いて立ち上がり、傘を持って外に出た。
「桜……最近元気ないな」
俺は天音の家とのあいだにある桜の木を見て呟く。
「そうね……確かに最近元気がないかも。ずっと私たちのあいだに生えているから、気になっちゃうよね」
天音も俺と同じことを思っていたらしい。
この桜の木はいつから埋まっていたのか分からないが、少なくとも俺たちの思い出の中に常に映りこんでいる。
「早くいくよ!」
ぼやぼやしている俺に業を煮やした天音が、俺の手を引く。
俺はそんな彼女の背中を見つめる。
握られた手の体温にホッとする。
「ダメだよ。拒絶したら」
天音は顔を見せないまま、唐突にそう言った。
「真希人は昔からそうだけど、人と距離をとりすぎる。ダメだよ。ありきたりな言い方になっちゃうけど、人は独りでは生きていけないんだよ?」
天音は諭すように語る。
面と向かって言うのが気恥ずかしいのか、俺より一歩前を歩きながら……。
「天音、お前何言って……」
俺は自分の心の内を覗かれた気がした。
心の底まで見透かされているような、そんな感覚。
だけど不思議と嫌な気持ちはない。
他の人に言われたら間違いなく聞く耳を持たないのに、彼女に言われると素直に聞いてしまう。
「良いから。真希人は何も答えなくていい。だけどそれだけは心の内に留めておいて」
珍しく天音の声色が固い。
緊張しているのか?
昨日からずっと考えていたことなのだろうか?
昨日の俺の態度が彼女を心配させてしまった。
きっとそうだ。
普段はこんなこと言うタイプじゃない。
俺がどんな考えでどんなことをしようと、黙ってニコニコしながらついてくるタイプだ。
こういうことを言い慣れてるわけじゃない。
「……分かった」
俺は彼女の手を強く握り返す。
強まる雨の中、耳に聞こえるのは雨の音と彼女の息遣いだけだった。
教室について授業を受ける。
そのまま部活には顔を出さずに帰る。
そんな毎日を過ごす。
もちろんテレビの仕事もちょくちょく入っていたが、例のプロデューサーが手がける番組には出ていない。
一度テレビ局の廊下ですれ違ったが、やはり向こうの言葉は届かず、俺はなんとなく口の動きなどで曖昧に返事をしていたが、やがて限界を迎えてその場を去った。
いつのまにやらほとんどの芸能関係者にも、俺のことが広まり始めていた。
あの天才ピアニスト、菅原真希人はよりにもよってピアノの音が聞こえなくなったらしいと。
医師会に相談するとあの医者が言っていた時点で、これは広まると確信していた。
当然マネージャーの黒井さんには話してあるが、彼は驚きはしたが案外静かに受け入れてしまった。
こういう人間が一番強い人だ。
俺は内心そう思った。
俺の耳が治るかどうかを試すために、仕事と学校のあいだにたくさんの名医と会って話や検査をしたが、どれも芳しくない結果だった。
そうなると当然だがピアノ関係の仕事は無くなっていく。
俺がメディアに露出する回数が目に見えて減っていき、それと反比例する形で学校への登校頻度は上がっていた。
天音をはじめとしたクラスの半数ぐらいはそれを素直に喜んでくれたが、他の連中は違う意味で喜んでいたようにも思う。
ひそひそ話というのは、意外と聞こえるものだと知ったのはここ最近だ。
別に聞き耳を立てているわけではない。
聞きたい音は届かないのに、聞きたくない音は拾ってくる。
実に性能の悪い耳だ。
学校のあちこちから聞こえてくるひそひそ話を総括するとこんな感じだ。
”菅原って最近テレビで見ないよな”。
ちゃんと声をひそめて言っているあたり、余計に質が悪い。
相手に聞かれてはマズいということを理解したうえで話している。
それならここで話すなと、俺は言いたい。
別にテレビの出演が減ったことはどうでもいい。
個人的には、少し時間ができてホッとしているぐらいだ。
だがお前たちにとやかく言われる筋合いはない。
いまはそれどころじゃないんだ。
テレビがどうとかじゃない。
あれから二ヶ月経過しようと、この耳は相変わらずピアノの音を拾えない。
母さんは何も言わない。
あえてピアノや仕事の話題には触れない。
なんなら将来の話もしない。
俺に配慮して話そうと思うとそうなるのだろう。
すべてが薄っぺらい会話しかなく、やがて俺は母さんとあまり話さなくなった。
クラスに馴染もうという努力すら俺はやめてしまった。
部活もやめた。
芸能関係の人間関係も疎遠になっていった。
「面白いくらい日常って崩れるんだな」
俺は部屋の外を窓から眺めながら、独り言を発した。
視線の先にはいつもの桜の木。
もう時期がズレているから当然花弁は無いが、それにしたって元気がなさすぎる。
まるで俺の現状を映し出しているようで、見るのをやめた。