未来の死神、過去に哭く

 家に帰ってベッドに寝転がる。
 人生が音を立てて崩れていく気がした。
 
 ただピアノの音が聞こえなくなっただけ。
 普段ピアノを弾かない人からしたら大した問題にはならない。
 だけど俺は違う。
 俺にとってピアノは全てだった。
 この才能が全てだった。
 
 あらためて思う。
 ピアノを失っただけで、俺には何も残らないのだと。
 しかも怖いのは、ピアノの音だけとも限らないところだ。
 実際、先日一人のプロデューサーの声が聞こえなくなったばかりだ。

「本当に何かの呪いか……」

 俺は仰向けになったまま右手を天井にかざす。
 窓から差し込む夕日を横目に、自身の手のひらを凝視する。
 ずっとピアノを弾き続けた手。
 それ以外を知らない手。
 
 手にしていたものを静かに奪われた気分。
 一度に劇的に失ったわけではない。
 遅効性の毒のように、じわじわとこの身を蝕む呪い。

 そんな時、ドンドンと部屋のドアを叩く音が聞こえる。
 一体何者だ?
 母さんはそういうタイプではないし、マネージャーの黒井さんを家に上げたこともない。
 そうなると思い当たるのは一人しかいない。
 しかも理由まで心当たりがある。

「真希人開けなさい!」

 まあまあ怒った天音の声がした。



「一体何の用だ?」

 俺はしらばっくれながらドアを開ける。
 開けたドアの向こうでは、両腕を胸の前で組んでご立腹の天音が立っている。

「入れて」

「はい」

 俺は素直に従う。
 いままでの経験上、俺に非があるときは何を言っても敵わない。
 抗うだけ無駄というものだ。

「隣に座って」

 天音は肩口で切り揃えられた茶色の髪を弾ませながら、当たり前のように俺のベッドに座り、隣りのスペースを手で叩く。

「分かったよ」

 俺は言われるがままに、そそくさと天音の隣に座り俯く。
 いつものやり取り、このポーズは俺がいつも怒られる時の姿勢。
 言ってくださいの合図。

「あの後こっちに来るって言ったよね? どうして帰っちゃったのかな?」

 ややピリッとした口調でこっちを見る。
 その圧に押されて俺の首の角度は、ますます下へ。

「いやその……忘れちゃって、勢いで……」

 俺は自分の部屋にいるはずなのに、信じられないほどの居心地の悪さを感じながら、言い訳をする。
 というよりも言い訳にすらなっていない。
 ただの説明だ。

「へぇ〜忘れちゃうんだ。こんな可愛い幼馴染みを? こんなに心配している可愛い幼馴染みを?」

 やっぱり忘れられたことにご立腹だった。
 男からするとそんなに怒らなくても良くない? って気もするが、いまそれを口にすると本気で蹴られかねないので黙っていよう。

「あんまり自分で可愛いとか言わない方が良いと思いますよ?」

 俺はついつい指摘してしまう。
 一応申し訳程度だが敬語で指摘する。
 
「そういうことは今はどうでも良いでしょ!」

 天音には敬語の配慮は通じず、むしろ火に油を注いでしまったようだ。

「それよりも、結果はどうなったのよ」

 天音は話を変えた。
 元々本題はこっちなのだろう。 
 
「もう俺は部活には顔を出さないと宣言してきた。退部の件は先生に言うと西条先輩は言っていたけど、実際に退部できようができまいがどうでもいい。俺は部活には参加しない」

 それだけは顔を上げて言い切った。
 ここは誰になんと言われようと変わらない。

「それはピアノの音が聞こえないから?」

「それもある」

 嘘は言っていない。
 でもそれだけじゃない。

「あとはなにがあるの?」
 
 天音のさっきまでの怒るような態度は吹っ飛び、今度は心配そうに尋ねる。
 横から俺の顔を覗き込むように、こちらをじっと見ている。
 
 天音の方を向くと、自然と目が合う。
 俺は迷う。
 正直に答えるか迷う。
 
 俺は怖かった。
 俺がやめる本当の理由を話したら、嫌われるんじゃないか? 
 それとも呆れられて見捨てられるのではないか?

 他の連中にどう思われても構わない。
 そもそも学校の連中や、メディアの連中、俺を応援してくれるファンの人たち。
 どれもが、俺が作り上げた架空のキャラクターを好きだと言っているだけだ。
 メディアが創作したストーリー込みで知ってくれているだけだ。

 天音とは違う。
 根本から違う。
 
 だから俺は、天音に本心を知られるのが怖い。
 俺が他の連中をうざったく思っていることも、うっすらとは分かっているとは思う。

 だけどそんな程度じゃない。
 俺は心のどこかで、学校の人たちを下に見ているところがある。
 それは紛れもない事実で、変え難い俺の醜さだ。
 自覚はしている。
 俺は自身の才能にうぬぼれて、音楽の才能にうぬぼれて、勝手に周囲を下に見ている。

 そんな醜い俺を天音に知られるのが怖かった。
 よりどころが無くなるのが怖かった。

 長い長い沈黙。
 お互いの目を見つめあったまま何分経っただろう?
 徐々に部屋が暗くなるのを感じる。

「ふふ、このままキスしそうな雰囲気だね」

 天音は沈黙に耐えきれず笑い出す。
 笑ってくれた。
 笑ってこの部屋の雰囲気を変える。

「茶化すなよ」

「そう思うんなら、とっとと答えとくんだったね」

 天音は微笑みながら立ち上がる。

「どこに行くんだよ」

「何言ってんの? 帰るのよ!」

 天音はそう言ってドアを開ける。
 そして半身を部屋の外に出した状態で停止する。

「今は深く聞かないでおくから、言えるタイミングが来たら必ず教えてね」

 背中を向けたまま天音は口にした。
 どんな表情で言ったのかは分からない。
 背中と声だけでは、彼女が何を考えているのか分からなかった。

「ああ、必ず」

 俺はなんとかそれだけ絞りだす。

 すると天音は振り返って笑顔を見せ、階段を下りて行った。