「ヨネさん?」
「あ、ええ、はい。なんでしょう」
「糠床はかき混ぜておいたから。今日はもうしなくて大丈夫よ」
「あらまあ。ありがとうございます。ふふ、由乃様はもう漬物作りにおいては、私より達人ですものね」

 由乃の目尻が下がった。漬物の話になると、固い由乃の表情はすぐ柔らかくなる。幼い頃、ヨネの手伝いと称して台所に入り、見よう見まねで糠漬けを作った。それを父と母に美味しいと褒められたことが、由乃が漬物作りに目覚めたきっかけだ。もともと、生活能力を付けさせようと思っていた母の美幸は、由乃が厨房に出入りすることを好ましく思っていた。そういう経緯もあり、由乃はいつでもヨネの周りで、料理や家事全般に関わってきたのだ。この家で、表情を無くした由乃の唯一の楽しみが漬物作りだと言っても過言ではない。
 冷やした布で患部を冷やすと、由乃の背中の赤味は幾分か和らいだ。でも、まだ痛々しい。ヨネは医者に見せたほうがいいと提案したが、由乃はそれを断った。華絵に帯を部屋に届けておけ、と言われていたのだ。彼女が部屋に戻って帯がなかったら、また、余計な文句を言われる。
「面倒臭いから、さっさと済ましておくわ」そう言って、虫食いのある粗末な着物を着て出て行った由乃を、ヨネは涙をこらえて見送った。 
 華絵の届けろといった「金糸の氷割に四季草花」の帯は、元々由乃のものだった。とても高価な一点物の帯で、両親が十三の誕生日に送ってくれたもの。亡くなるほんの一か月前の出来事を、由乃はぼんやりと思い返していた。