午前六時半、陸軍本部、中佐室。
 大きなソファーに体を横たえて、響は仮眠を取っている。溜まっていた報告書に目を通したあと、本部近くの料亭で軽く食事を済ませ、帰ってくると午前零時を回っていた。響は滅多に多聞家に帰らない。仕事が忙しいという理由もあるが、それとは別に、彼の心を悩ます問題があったからだ。
 昨夜も、由乃のことが若干気になりつつも、家に帰るという選択肢はなかった。
 陸軍の下士官宿舎から、起床のラッパの音がして、響は目を覚ます。すると、ソファーの前に置かれた応接机に一匹の猫がいる。首に赤いリボンを巻いた、三毛猫だ。

「おはようございまする」
「ああ、おはよう。夜叉」
「……響様! 何度言えばわかるのじゃ! その名は可愛くない、蜜豆じゃ、蜜豆!」

 ふんっと鼻息を荒くした蜜豆を見て、響は軽く笑った。鬼神の神使、夜叉は、恐ろしい自分の姿を隠すために、愛らしい猫に変化し可愛い名前を付けている。別に素のままでもいいと思うが、本人にとってはそうではないらしい。

「すまんな、蜜豆。それで、どうした。なにかあったか? 由乃のことか?」
「そう、由乃。あの娘に朝餉をこしらえてもらいましたぞ。絶品の糠漬けを堪能し、我も白玉も大満足じゃ! あのように優秀な使用人を、よく見付けてきてくれましたな」
「たまたまだがな」

 呟きつつ、響は蜷川家での一件を思い出していた。
 掃き溜めの中に、神々しく輝く一輪の蓮。凛と立つ初々しい蕾を救い出せて本当によかった。

「それはそうと、響様。我と白玉は先ほど蜷川家に行ったのじゃ」
「ん? ああ、それで?」
「邪気が渦巻いておった……由乃には言わなんだが、一応気を配っておいたほうがよいと思い、伝えにきた」
「ふうん、時間の問題だと思っていたが、早いな」