「静かにしていろ。そうしたらなにもしねえよ。少なくともワシはな」
「……ひとりじゃないのね。犯行に関わっているのは複数人なの?」
「さあね。ああ、見えてきた」

 男は老朽化した工場の中に、人力車を走らせる。崩れかけた工場は暗く、不気味で陰湿な空気が渦巻いていた。小さな倉庫や、大きな建物が混在し、規模はかなり大きい。由乃は激しく動揺していたが、それを表に出さないように努力した。泣き叫んでもどうにもならない。なら、冷静に相手の出方を見て対処するのが得策だ。帰りが遅くなれば、きっと多聞家の誰かが、気付いてくれるだろう。匂いを辿れる蜜豆がいるのだから、響がきっと助けに来てくれる。それに由乃は、動揺を顔に出さないのが得意だ。華絵に屈したくないと心を殺した経験が、今になって生きるとは。なんとも皮肉なものね、と思いつつ、由乃は覚悟を決めた。

「もういいぞ、降りろ!」

 工場の奥まで行くと、男は由乃を無理矢理引きずり下ろした。目の前には二階建ての大きな木造建築物がある。その建物の汚れた木製の門扉を開け、男は由乃を中に突き飛ばす。躓いた由乃は派手に転げ、額と鼻先を地面に打ち付けてしまった。

「痛っ」
「ワシの仕事はここまでだ。悪く思うなよ」

 由乃の後方で扉は閉まり、鍵を掛ける音がした。男の足音は徐々に遠くなり、あとには怖いくらいの静けさが残った。由乃はゆっくりと立ち上がり、周りに目を凝らす。電灯もなく、薄暗い。もう数分もすれば、真っ暗になるだろう。足元に注意しながら歩くと、なにかに触れた。感覚からすると、長い木材のようだ。材木所の跡地だろうか、と考えながら、注意深く前に進む。扉は閉じられてしまったから、違う場所を探して脱出しなくてはならない。