「あー!駄目だ!」

 斎はそう叫んだかと思えば、クシャクシャに和紙を丸めて部屋の隅にポイッと投げ捨てた。丸められた和紙の塊は一つどころではなく、もう部屋中に転がっている。

 傘職人の唐々に会いに行ってから、数日が経った。あれから、斎は和傘に描く絵を毎日のように考え続けている。しかし、なかなか納得の行くデザインが決まらないのか、描いては和紙をクシャクシャに丸めて、また描いては丸めてをずっと繰り返しているのだ。

「全然、描けねぇ…」

 苦しそうに呟き、頭を抱えて悩み続ける斎。それを横目に見ながら、茜は和紙が散乱する部屋をてきぱきと片付ける。クシャクシャに丸められた和紙を何枚か広げると、そこには縁起の良い美しい鶴や華麗に舞う蝶々、さらに色とりどりの花が描かれていた。

 「綺麗…!」と素直に呟く茜に、斎は何処か不服そうに眉を潜めて「はぁー」と深く溜め息を吐く。一体、斎はこの絵の何に納得がいっていないのか、茜には全く分からず首を傾げるしかない。絵筆で色鮮やかに描かれている鶴や蝶、花などの絵のデザインは豪華でおめでたい結婚式には相応しいと思うのだけど。

 幽世にやって来て斎の元に置いてもらってから数日経つが、龍一族に旦那様の伝言が届いたという報告は無く、今だ元の世界に戻れる様子は無い。けれど、こうやって斎の描く絵を近くで眺めていられる日々は、学校生活の何倍も充実しているように思えた。

 茜は主に斎の作業部屋の片付けをしたり、画材を買いに行く手伝いをしたりして過ごしている。斎が受けた依頼の絵のデザインに深く携わる事はないけれど、雑用をする傍ら密かに自分でも絵を描いたりしていた。

 数日間斎と共に過ごしているとは言っても、斎は翠の依頼のデザインに相当悩んでいるらしく、唐々に会いに行った日からずっと部屋に籠もりっぱなしだった。会話も本当に必要最低限しかしなく、茜に雑用を頼む時だけ一言二言話す程度だ。

 茜は今まで誰かと親しい関わりを持てたことが無いため、斎とのコミュニケーションが上手く取れないことに悩んでいた。そして、斎も幽世の世界で誰かと深く関わることを避けてきたようだから、お互いにコミュニケーションを取ることは苦手な分野なのだろう。それでも、斎の元で少しでも絵を学べたらと考えている茜にとっては、もう少し斎と親睦を深めることが出来たら良いと思っていた。

 せっかく大好きな絵について分かり合えそうなのに、斎はここ数日絵のデザインが決まらずにピリピリとしていて、とても話しかけれる状況ではなかった。また故意なのか無意識なのか分からないが、斎は少し素っ気ないような態度をとって茜と距離を置こうとしているようにも思えた。まるで見えない壁が、茜と斎の間に張られているようだ。

 やはり茜が此処で過ごす事は斎にとって、多少なりともストレスを感じているのだろうか。旦那様も言っていたが、斎は元来誰かと関わることを極端に嫌がって、一人で部屋に籠もり絵を描いていたようだ。そんな斎の絵を描く環境を、自分が邪魔してしまっているように思えて茜は少し落ち込む。思わず出てしまいそうになった溜め息を、慌ててゴクリと呑み込んだ。

 すると不意に、店先の方から「御免ください。」と声が聞こえてきた。部屋では散乱する和紙の塊の中で、頭を抱えたままの斎が居る。この状況では客の前に出れないだろうと、斎に代わって茜は仕方なく店先に向かった。

 その前に、斎にもらった鬼の面も忘れずに着ける。この面を着けていると、斎の絵に込められた妖力のおかげで、人間だと気付かれずに妖と対話できるのだ。着けることを躊躇するくらいに強烈な鬼の顔でも、幽世で難なく過ごせているので有り難い。

 店先へ向かうと、暖簾を潜りチラリと顔を見せた翠が居た。

「茜様!」

 妖が翠だと分かった瞬間、茜は着けていた鬼の面を素早く取って近寄る。

「翠さん!どうしたんですか?」

「依頼した傘の進行はどうかと思いましてね。ちょっと、無理にお願いしてしまいましたから。」

「…あー、ちょっと行き詰まっているみたいです。」

「…そうですか。」

 翠はそう呟くと、その翡翠色の瞳を伏せた。ふさふさの耳を少し動かして、翠は何か考え込むように黙り込む。そんな翠に、部屋の中で頭を抱え込んでいた斎の姿が思い浮かび、茜は小さい声で聞いた。

「…やっぱり、私は此処に居てもいいのでしょうか。」

「え?」

「なんだか、私が居ることで斎の仕事を邪魔してしまっているように思えて…」

「そんな事、ありません!」

 お面を両手で抱えて肩を落とす茜に、翠はきっぱりと言い放った。そして、苦笑するように翡翠色の瞳を柔らかく細める。

「斎殿はずっと一人で絵を描いて来たので、きっと誰かと共に居ることに戸惑っているのだと思います。」

 開けっ放しの店先の入口から緩やかな風が入り込み、翠の背後の暖簾がゆらりと揺れる。

「斎殿の母上は妖で、しかも龍一族の方でした。」

「え?」

 翠の口から出てきた『龍一族』の言葉に、茜は驚きを隠せなかった。以前、旦那様から『龍一族』の話を聞いた時に、驚いたように目を見開いていた斎の姿を思い出す。

「斎殿は半妖とは言っても、右手以外は殆ど人間に近い存在です。妖力も普通の妖は身体全体に流れていますが、斎殿は極僅かな妖力しか流れておらず、その妖力の大半があの右手に集中しています。斎殿の右手だけは、龍一族の血を強く引き継いだのでしょう。」

 肌は青黒く淀み、硬い鱗のような破片が所々にへばり付いた斎の右手。その右手から生まれる斎にしか描けない、唯一無二の絵を茜は知っている。

「そんな斎殿を龍一族は妖とはお認めにならず、斎殿の母上は故郷を遠く離れたこの地で一人で斎殿をお育てになったのです。ずっと親子二人きりで生活をしていらっしゃったのですが、もう何十年も前に斎殿の母上は亡くなってしまいましてね。斎殿はそれっきり、お一人で絵師を営みながら暮らしています。やはり半妖ということもあってか、昔から周りの妖達に対して斎殿は無意識に距離を置いてしまうようで…。斎殿の母上が亡くなってしまった今では、斎殿と軽口を叩ける仲なのは私くらいなのですよ。」

 話しながら少し寂しげに微笑む翠に、茜は以前自分は『半端者』だと言っていた斎の気持ちが少しだけ分かったような気がした。それは、斎だけじゃなくて茜にも通じるものがあったからだ。

 現世に居た頃の茜は、斎と同じように『半端者』だった。同じ人でありながらも、何処か浮いていて常に自分だけが上手く世界に馴染めていないような気がしていた。クラスメイトとは仲良く出来ず、人の輪に加わることの出来ない自分を情けなく思った。普通のことが出来なくて、それが当たり前に出来る普通の人間になりたかった。斎も茜もただ生きているだけなのに、何故こんなに自分を不完全な者だと思ってしまうのだろう。それは酷く悲しいことのように思えた。

「これから先、きっと誰かと関わる時が来るのでしょう。これは、いつか向き合わなければいけない斎殿の問題なのです。ですから、茜様が気にすることはありませんよ。」

 透けるような翡翠色の瞳は、相変わらず穏やかだ。翠のスゥーッと心に染みるような優しさに、茜は幽世に来てから随分助けられている。

 そして、翠の言葉は茜自身にも言われているように感じた。学校生活で馴染めないと嘆き、無意識に他者から距離を取りながら過ごす日々。気を遣わせて嫌な思いをさせるくらいなら、一人で居る方が気楽で良かった。だからこそ茜は、ずっと一人で絵を描き続けたのだ。

 でも、ふとした瞬間にそれは少し寂しいものだと何処かで気付いていた。だから、同じように絵を描いている斎に心が惹かれたのかもしれない。斎の絵を見た時に、彼の元で彼と共に学びたいと強く思ったのだ。斎も、そして茜も戸惑いながらも、必死に変わろうとしている。

「…翠さん、ありがとうございます。」

「いえいえ!私が少々強引に、斎殿に依頼を頼んでしまいましたからね。茜様にも、負担をお掛けします。」 

「そんな事ありません!私、翠さんの依頼の傘の完成が凄く楽しみなんです。斎の描く絵を早く見たいですし、私も斎みたいに誰かの心を動かすような絵が描きたい。」

 そう話す茜の真剣な眼差しに翠は少し目を見開いてから、嬉しそうに微笑んだ。

「茜様なら、きっと良い作品が出来ます。」

 それから暫く会話をしていた後、翠は「そろそろ休憩時間が終わってしまうので、私はこれで失礼させて頂きます。」と軽く会釈して店先の暖簾を潜る。その背中に「また、来てください!」と笑って応えれば、ふさふさとした尻尾を揺らして「はい、また!」と優しげに翡翠色の瞳を細めてくれた。










 翠が帰ってから、茜は斎との接し方についてよく考えてみた。苦手なコミュニケーションはともかく、せめて斎が悩んでいる和傘のデザインについて何か力に成れることは無いのだろうか。いつ元の世界に戻れるか分からないけど、この和傘の完成はやっぱり見届けたいと茜は強く思った。

 あれやこれやと悩みながら、日が少し傾いた空の下、店の側に佇む桜の木を部屋の窓から眺める。斎は相変わらず作業部屋に籠もりっきりで、茜は雑用仕事を終えて特にやることもなく時間を持て余していた。

 そんな時はやっぱり絵を描くことに限るなと、茜は修学旅行の時から背負っていたリュックの中から、スケッチブックと水彩色鉛筆を取り出した。茜と共に雲龍図の龍に呑み込まれて幽世にやって来たのは、この背負っていたリュックと修学旅行のしおりだけだ。

 修学旅行とは言っても、やっぱり気分転換に絵が描きたくなるだろうと、リュックにスケッチブックや水彩色鉛筆を忍ばせて置いて良かったなと今では思う。本来、修学旅行先の旅館での空き時間なんかにこっそり絵を描こうと思っていたのだが、幽世に来てから斎が作業部屋に籠もりっきりなので暇な時間が多くこの画材は大活躍をしていた。

 グラデーションを作るように、綺麗に並んだ水彩色鉛筆をそっと撫でる。この水彩色鉛筆は、何年か前に茜が画材屋で一目惚れしたもので、当時お小遣いを頑張って貯めて購入した思い出深いものだった。すらすらと描きやすくて、色鮮やかで使い勝手の良い水彩色鉛筆は今でも茜のお気に入りだ。

 パラリとスケッチブックを捲って、何を描こうかと思いながら視線を彷徨わせれば、目の前に咲き誇る桜に目が止まる。いつまでも散る気配の無いそれは、生命力に満ち溢れていてとても美しい。題材は即決した。

 綺麗に並んだ水彩色鉛筆の中から、薄いピンク色を一本選び丁寧に色を塗る。花の濃淡を意識するように、濃さの違うピンク色を重ねて目の前で咲き誇る桜を描いていく。色々ゴチャゴチャと考えていた頭の中が、絵を描いていると徐々に落ち着いていくようで心地良い。

 水彩色鉛筆であらかた塗り終えると、茜は筆箱の中から一本の筆を取り出した。その筆は便利なことに、持ち手の部分がスポイト状になっていて水を入れられるようになっている。軽く持ち手のスポイト部分を押すと、筆先から水が出てきて何処でも筆を使うことが出来る優れものなのだ。

 便利な筆先を水で濡らし、スケッチブックに描いた桜を塗っていく。筆先で薄いピンクを塗るとどんどんと色が溶けていき、まるで透明水彩のような仕上がりになるのだ。桜の濃いピンクと薄いピンクの濃淡の境が溶けて混ざり、より綺麗なグラデーションになる。夢中になって筆先を走らせれば、あっという間にスケッチブックの中では美しい桜が咲いていた。

 水彩色鉛筆は普通に色鉛筆としても使えるが、水彩画のような仕上がりも両方楽しめるところが面白くて、茜の好きな画材の一つだ。

「おい、それ…」

 窓の外の桜を眺めながら、ひっそりと絵を描いていれば、突然声を掛けられた。その声に顔を上げれば、ずっと作業部屋に籠もっていた筈の斎が、絵を描く茜のすぐ近くに居た。いつの間に、この部屋にやって来たのだろうか。絵を描くことに集中していた茜は、開けっ放しの襖から部屋の中へと入って来た斎の存在に全く気付かなかったようだ。

 斎は少し乱れた黒髪をそのままに、静かに近寄って来ると茜の手元を覗き込む。その様子に茜は驚いて、思わず斎の横顔を凝視した。長いまつ毛が囲む澄んだ瞳が茜の絵を見た瞬間、光を得たように瞬く。

 暫く間、斎の視線は茜の手元にあるスケッチブックから離れなかった。どれくらいの時が過ぎただろうか。数分間にも、一瞬にも思えたような何とも不思議な時間だった。

 そして、斎は何か確信を得たように口を開く。

「これだ。」

「え?」

 斎の言葉の意味が分からずに思わず聞き返せば、斎はずっとスケッチブックに向けていた視線を茜に向ける。

「和傘のデザイン、これにしたい。」

「えっ!?」

 想像もしていなかった発言に驚く。いきなりどうゆうことだと混乱していると、斎は畳の上に置かれている綺麗に並んだ水彩色鉛筆を、その青黒く鱗が張り付いた異形の右手で指差した。

「これは、一体なんだ?」

「この画材の事?『水彩色鉛筆』って言うんだよ。」

「水彩?」

「見た目は普通の色鉛筆なんだけど、これは紙に塗ると水に溶けて水彩絵の具みたいに描けるの。」

「こんなの幽世じゃ見たことねぇな。」

 物珍しそうに「もっと見ても良いか?」という斎に、茜は喜んで水彩色鉛筆とスケッチブックを手渡した。

「幽世に、こんな透明感の出る絵の具はねぇよ。元の紙の素材を隠すような、もっと濃くて強い発色になる。」

 斎の言葉に茜はふと、斎の部屋に散らばった色とりどりの小瓶を思い出す。幽世に存在する鉱石を砕いた粉状のそれは、現世でいう『岩絵具』というものに似ているが素材は全く違うもので、確かに水で薄めても少し強い発色のする不思議な絵の具だった。

「あの、和傘のデザインでずっと悩んでたことって…?」

「和傘の彩雨紙の質が良いものだから、どうしても生かしたかった。しかも今回の依頼は和傘で、あくまでも白無垢の花嫁を際立たせるものじゃねぇとな。」

 斎は持っていたスケッチブックをそっと置いて茜を見る。分厚く丈夫な彩雨紙と斎の普段使ってる紙では、また違った絵の表現になるのだろう。作業部屋にたくさん転がっていた和紙の塊は、斎が翠の依頼に一切妥協することなく取り組んでいた証拠なんだと改めて知った。

 けれど、茜の中で水彩画に対する一つの不安が生まれる。

「でも、水彩画は『絵の具で塗る』っていうよりも『色水で塗る』っていう感じだから、傘に描いたら絵が雨で滲んで全部落ちちゃうかも…」

「それは大丈夫だ。傘職人の唐々に詳しく聞いたが、俺が絵を描いた後に特殊な油を塗るそうだ。特殊な油は、おそらく妖から作られている。その油を塗ればどれだけ雨が降ろうが傘は破れないし、絶対に水を通さないから絵を傷付けることは無いらしい。」

「そうなんだ、凄い!」

 幽世にそんな便利なものが存在するとは、普通に驚いた。きっと、現世での常識では考えられない特別なものが、幽世にはたくさんあるのだろう。何はともあれ、そんな油があるなら傘に水彩画を描いても安心だ。

「俺の作品はいつも絵が主役だ。でも、今回は違う。それでも花嫁を目立たせながら、雨が降ってる中でも輝きを消さないものが良い。」

 そう言った斎の真っ直ぐな瞳は、まるで水彩画のように透き通るような輝きを秘めていた。やっぱり、此処に置いてもらえて良かったと茜は思う。こんなに真摯に絵に向き合っている斎に、出逢えて良かったと。

「じゃあ、水彩絵の具を買いに行かないとね!」

 茜は元気よく声を上げた。突然の茜の提案に斎はパチパチとゆっくり瞬きをして、不思議そうな表情をする。

「この水彩色鉛筆じゃあ、あの大きな和傘は塗りきれないから。幽世の画材屋さんを回って、水彩絵の具を見つけに行こう!」

「俺だって長年絵を描いてるけど、こんな画材見たことねぇんだ。…正直見つかるか、分かんねぇぞ?」

「私は此処で、斎の仕事を手伝いたいって本気で思ってる。何でもするって宣言したしね。それに何より、斎が本気で描いた絵が見てみたい。」

「っ!」

「翠さんの依頼を成功させる為にも探そうよ!きっと水彩絵の具じゃなきゃ、斎の思い描いた絵は生まれない!」

 茜の言葉に斎は目を見開く。そして、覚悟を決めるように強く頷いた。

「よし、今からその水彩絵の具ってやつを探しに行くぞ!」

「うん…!」

 緩く口角を上げて颯爽と歩き出した斎の背中を、茜は素早く立ち上がって追いかける。ようやく斎の力に成れそうなのが嬉しくて、じんわりと胸が熱を持つ。翠の依頼と共に、斎と茜の関係も少しずつ進み始めていた。