きっかけは、母の死だった。
春、母は病気でこの世を去った。病気が見つかった時点で末期だったし、日に日に弱っていく母を間近で見ていたから、覚悟はしていたつもりだった。
けれど、やはり最愛の人がいなくなってしまった喪失感は大きい。
特に、私には父がいないから。
父は私が五歳のとき事故で亡くなっている。
記憶はほとんどない。
母はよく父の話をしていたけれど、当の私は見ず知らずの他人の話を聞いているという感覚で全然実感は湧かなかった。
だから、興味なんてなかったのだけれど。
ちら、とベッドサイドを見る。テーブルには、古ぼけた日記がある。この日記は、死ぬ間際母が私にくれたものだ。
母と父の馴れ初めが綴られている。
母はたぶん、自分がいなくなった後私が夜ひとりで寂しくするだろうと思ってこれを託してくれたのだと思う。
今の私の日課は、寝る前の十分間この日記を読むことだ。
十分というのは、一日に見ていいのは三ページだけと言うのが母の遺言だったからだ。
最初日記を預かったとき、中になにが書かれているのか知らなかった私は、必ず守ると約束した。
開いてみれば、中身は思っていた以上にくだらないというか、想像のはるか斜め上をいくものだったけれど。
まぁ、話し相手のいない夜の暇つぶし程度にはなる。
ベッドに座り、窓を少しだけ開けて日記を開く。
《白衣の天使、春田先生は今日もかっこいい。待ち伏せしてたことを気付かれないよう、たまたまを装って声をかけると、君は本当にしつこいなと言われた。春田先生は今日もつれない。でも、迷惑そうに顔を歪めたところも好き》
大学病院で脳外科医として働いていた父と、脳外の新人ナースだった母。
母は就職してすぐ父に一目惚れして猛アタックをしていたようだが、女嫌いだった父はガン無視。
日記を読み始めてしばらく経つ今も母はアタックを続けているが、父の態度は素っ気ない。
『仕事でミスをした。すごく怒られた。患者さんは無事だったけれど、少し仕事が怖くなってしまった』
紙をなぞっていた手を止めた。明るさだけが取り柄の母が、珍しく落ち込んでいる。
『屋上にいたら、春田先生が来た。なにも言わず、頭を撫でられた。好き』
うん。母らしいというか、ブレない。
『慰めに来てくれたってことは好きってことですかと聞いたら、今のは引っぱたいただけだと言われた。手は優しかったのに』
思わず笑みが漏れた。
母は母であれだが、父は父で結構可愛い人だったようだ。
続きを読むと、その日以来母はさらに想いが加速したようで、父が帰る時間まで出待ちしたり、仮眠室に入った父の寝顔を眺めていたりとなかなか犯罪チックな愛し方をしていた。
《関係者通用口で春田先生を待っていたら、夜遅い時間に危ないからやめろと怒られた。しゅんとしていたら、一緒に帰りたいなら素直にそう言えばいいと言った。嬉しくて抱きついたら、調子に乗るなと怒られた》
父は母を鬱陶しがりながらも、なんだかんだ絆されている。
可愛らしいカップルの姿が目に浮かぶ。初めて父の姿が脳裏に浮かんだ。
きっちり十分。約束の三ページを読み終え、日記を閉じた。
続きが気になるけれど、もう夜も遅いし、明日は学校だ。そろそろ寝よう。
窓を閉め、電気を消して布団に入った。
*
私は、現在高校三年生。医学部を目指している。
「おはよう、架乃」
「おはよ、零」
通学路を歩いていると、いつもの曲がり角で幼馴染の零と合流した。零は当たり前のように隣に並ぶ。縦にばかり無駄に長い優男だ。
欠伸を隠さずにしていると、零が顔を覗き込むようにして聞いてきた。
「なんだ、眠そうだな」
「前に言ったでしょ。お母さんの日記読んでて寝不足なの」
「そういや前に言ってたな。そのあとどう?」
「もう出会って一年経ってるけど進展なし。相変わらずお母さんの暴走日記」
「なかなか手強かったんだな、雪乃のお父さん。ふつう、あんな美人にアタックされたら好きじゃなくても付き合うけどな」
「ふぅん。零のふつうって最低ね」
じろりと睨むように零を見て、足を早める。置いていかれた零は慌てたように小走りで追いかけてきた。
「いや、俺のじゃなくて世間一般のふつう。俺は真面目で一途です」
「あっそ」
慌てる幼馴染は放っておいて、私はさっさと校舎に入った。
*
それは、放課後のことだった。
帰り道、見知らぬ男の子に声をかけられた。べつの高校の制服を着た子だ。
立ち止まると、男の子は頬を染めてもじもじし始めた。
「あの、俺、岸井っていいます。その……朝いつもここで見かけて、綺麗だなって思ってて……よかったら連絡ください」
そう言いながら、その男の子は私に手紙を差し出してきた。
「あ、ありがとう」
受け取りながら、小さく頭を下げる。
これ、ラブレターだ。始めてもらうけど……嬉しいなぁ。
どきどきした。学校も違う、全然知らない子から手紙をもらうのは、初めてだ。
すると、零が私の手を掴んだ。見上げると、零はなぜか不機嫌そうに眉を寄せていた。
「……ダメだから」
「は? ちょっと、零?」
「架乃は俺のだから。悪いけど、ほか当たって」
「えっ!? ちょっと……!?」
零は私の手を掴んだまま、ずんずん歩き出す。角を曲がり、男の子が見えなくなってからようやく手を離した。
「ちょ、ちょっと、零! なに邪魔してくれるのさ!」
「なんだよ。あんなじゃがいもと話したかったのか?」
むすっとした顔で、トゲトゲした言葉が返ってくる。
……というか。
「じゃが……いや、どちらかといえばブロッコリーっぽくなかった?」
「どうでもいいわ、アホ」
アホだと? せっかく乗ってやったのに。
ムッとする。
「零こそなによ、俺のって! いつから私はあんたの所有物か!」
「知らね」
カチンときた。
「帰る」
「帰るって、おい。そっち逆方向。どこ行くんだよ」
放っとけ、と内心思うが、
「図書館!」
*
図書館につき、バッグから参考書を取り出す。と同時に参考書の間に挟まっていた日記が落ちた。取り上げ、ぼんやりとする。
私はまだ、恋をしたことがない。
医学部を目指して勉強漬けの毎日だ。それに、高校に入ってすぐ母が病気になったからバタバタしていて、それどころではなかった。
日記を広げ、母の文字をなぞる。
懐かしいな、と思った瞬間、瞼が熱くなった。今はまだ、ふとしたときに寂しさで胸が詰まる。
気を紛らわすつもりで、続きを読んだ。
《春田先生にお見合いの話がきた。北海道の有名な教授の娘さんらしい。とてもいい話だと聞いた》
文字に覇気がない。
母なら、お見合い話なんて勢いで吹っ飛ばすかと思ったが。
《出会って一年。そろそろ前を向かなきゃいけないのかもしれない。こんなことなら出会わなきゃよかったなぁ》
「え、うそ、諦めるの?」
はらはらしながら続きを読む。
母は、父にお見合いの話が持ち上がったことを知ると、付きまとうのをやめた。
ちょうど同じ頃、母も別の男性からのアプローチがあったようだ。同じ病院の事務の人だったらしい。
デートのお誘いに承諾の返事をしたとある。あんなに父だけだった人なのに、他の人とデートなんて絶対無理だろうと思うけれど。
仕事が終わり、関係者通用口から帰宅しようとドアに手をかけると、外に一人の青年が立っていた。父だ。
出てきた母を見て、「ストーカーは卒業したのですか」と父は言った。
「見合いについて、君に問い詰められるかと思って待っていたんだが」
「春田先生のお見合いの邪魔をする権利はありません」
いつも全力でぶつかってくる母のしょぼくれた顔がおかしかったのか、父はちょっと笑って「君は本当にバカだな」と笑った。
「じゃあいいの? 見合いして」
父も父で、意地悪な聞き方をするものだ。素直になればいいのに。
「いいですよ。私も、別の方と出かける予定がありますので」と母が返すと、父の顔色が変わった。
父はなかなか曲者だと思っていたが、ここからの父は面白かった。
「デート? 誰と? 君は僕が好きだったんじゃないのか」
「教授のご令嬢と私では、とても勝ち目がありませんし、いつまでも引きずっては先生に迷惑がかかります」
「勝手が過ぎる。散々人を振り回しておいて」
父は怒った様子で母の手を掴む。母は相当戸惑ったのだろう。文字に現れている。
「今さら、飽きたは聞きません。他の男に見向きするなんて、許しません」
「え……」
父は、母をまっすぐに見て言った。
「君は僕が好きなんでしょう? 言ってください、見合いなんか行くなと」
日記を閉じ、胸に抱く。甘い香りがする。
まるで、ドラマのようだと思った。
父はいつから母を好きになったのだろう。母のアプローチで? それとも、最初からか。
読み返してみれば、父は割と最初から母に甘い。きっと、まっすぐ愛を伝えてくる母が可愛かったに違いない。
私もいつか、母のように恋をする日が来るだろうか。相手はどんな人だろう。両親のように、胸を焦がせる人であればいい。
ポケットから手紙を取り出す。中にはあの男の子の連絡先が書かれている。ぼんやり眺めていると、手に持っていた紙がすっと消えた。顔を上げると、不機嫌な顔をした零がいる。
「零。なんでいんの?」
「俺の幼馴染はバカだから放っておけねぇんだわ」
ときめきもなにもあったもんじゃないな、と思いながらも、ちょっと嬉しいと思っている自分がいた。
しばらくして、向かいに座っていた零がぽつりと言った。
「……連絡すんなよ」
「ん?」
「あの男」
頬杖をついたまま横を向く不機嫌そうなその顔は、なんとなく日記の父を連想させた。
もしかして、と思う――が。いや、ないな。日記を読んだ直後だったから、ちょっと恋愛脳になっていただけだ。
「大丈夫。私、医者になるので忙しいから」
がくっと零が崩れた。
「……お前って勉強以外ほんとバカ。天国のふたりが泣くぞ。ついでに俺も泣けてきたわ」
眉を寄せる。
「はぁ? なんでよ」
「まぁいいわ」
零は私を見て、ため息混じりに言った。
「そのうち言うわ」
首を傾げると、零はカリカリと頭を掻いた。
しばらく零の真意を掴みかねたまま勉強し、ひと段落したところで参考書を閉じる。
「帰る?」
「うん」
「送る」
私はまだ恋を知らない。
しばらくは夜寝る前の十分間、大好きなふたりの恋物語で胸を満たそうと思う。
*
「くしゅんっ!」
帰り道、肌寒さを感じてくしゃみをすると、零が脇に抱えていたパーカーを差し出してきた。
「これ着ろよ」
「ありがと」
大人しく袖を通して、
「うわ、でか」
思ったよりでかいことに驚く。
「……零、いつのまにこんなに大きくなったの?」
「さぁな。いつも一緒にいるから気付かないんだろ」
「そんなもんかなぁ」
「…………」
ふわっと冷たい風が吹いた。
「うぅ、さむ」
ぶるっと震えると、手を取られた。
「えっ……」
驚いて顔を上げると、零はほんのり頬を赤くして、そっぽを向いた。
「……もしかして、照れてる?」
握られていない方の手で、ぺっとおでこを弾かれた。
「……寒いからだし。風邪引くとおまえいつも拗らせるから」
「ははっ。だよねー。零の手、あったかいね。赤ちゃんみたい」
零は無言で私の手を引いていく。
そして、しばらくしてぽろりと言った。
「……あとで覚えてろよ」
「……えっ? なんで?」
うーん。日記見てても思ったけど。
男の子って、なに考えてるか全然分からないな。
ま、いっか。