目に視えない私と目が見えない彼


 ♢
 
 最初で最後のデートという名の見守りをすることになった。プランは全て来衣先輩が考えてくれるらしい。「どこに行くんですか?」と聞いても、頑なに教えてくれない。


 黒のスキニーデニムに、真っ白のラフなTシャツ。シンプルなコーディネートが来衣先輩のスタイルの良さを際立たせていた。被っていた帽子は来衣先輩にとても似合っていて、おしゃれ度をアップさせている。素材が良いと何でも似合う。


「来衣先輩、帽子も似合いますね」

「あー、白杖使ってると好奇な目で見られて、視線をたくさん受けるんだ。それが嫌で悩んでる時に『少しでも視線を遮れるように』って杏子がお小遣い貯めてプレゼントしてくれたんだ」

「杏子ちゃん、本当に良い子ですよね」

 照れたのを隠すように帽子を深く被り直した。大好きな妹からもらった帽子を大切にしてると感じて微笑ましくなる。
 
 白杖とアスファルトの打撃音がコツコツと一定のリズムで響く。この音を聞くのが当たり前のように感じて、耳に残る音がが心地よい。

「慣れたつもりでも白杖に集まる視線は感じるし、隣に未蘭がいると安心して歩ける」

 肩を並べてゆっくりと歩いた。周りに人がいないときは堂々とお喋りをしながら、行き先が分からない私は来衣先輩の足に合わせた。

「バスに乗るから。バスでは喋れないね?」

 バスが到着すると、ゆっくりと車内に乗り込んだ。若干のぎこちなさはあるが、目が不自由には見えないほど自然だった。

 あまりにも堂々として見えたのでこっそりと聞くと、病気になる前はバスで通学していたので、手順や場所を身体が覚えているらしい。身体が覚えているのを忘れないように、定期的にバスを使うことも教えてくれた。

 しばらくバスが進んでいく。
 降車ボタンを押したのは、総合病院手前のバス停だった。来衣先輩は何も言わずにバスを降りた。そして総合病院に向けて歩いていく。

 なぜこの場所で降りるのか不思議に思ったが、同じバス停で降りた人が沢山いたのでむやみに話しかけることが出来ない。

 来衣先輩の検診かな。でも、今日は日曜日。外来も休みなはずだ。聞けない答えを探して、頭の中で考えていた。

 初めてではないのか、迷う様子もなく病棟に向かっていく。

「ら、来衣先輩、病院で何するんですか?」

「……」

 返答はない。ヒソヒソ声で話しかけているが、耳元で話しかけたので絶対に聞こえているはず。意図的に無視をしているということだ。それから何度も問いかけるも、完全に無視される。

 もしかして、本当に聞こえていない?
 急に不安が押し寄せる。そのくらい.来衣先輩の顔色が変わらなかった。まさか、私消えてしまった――?

 一気に不安が込み上げて足が止まる。
 すると、やっと来衣先輩は口を開いた。

「……着いたよ」

 病室の前で立ち止まらり、しばらくぶりに声を発した。私は消えていなかった。意図的に無視していたということだ。

「来衣先輩! なんで無視してたんです……か」

 勢いよくまくし立てた声は、後半になり力がなくなる。それはこの病室に何かを感じ取ったからだ。どくんと心臓が跳ねる。

 なんだろう。
 この緊張感は……。
 もしかして――。


 換気をするためか病室のドアが開いていた。中にいる人の声が廊下まで届く。

「未蘭……っ! お母さん、未蘭が誰よりも大切だから。……宝物だからね」

 悲痛の叫びの持ち主は聞き覚えのある声だった。
 事故に遭う朝、喧嘩別れした母の声だ。泣きながら話す声は震えて枯れ果てた声はしゃがれている。
 
 足は勝手に前に進み、病室に踏み入れていた。
 ベッドに眠るのは私。正確いうと私の身体だ。

 どくん、どくん。心臓の音がやけに耳に響く。
 目の前のことは現実なのに、夢のように感じてしまう。

 母はベッドの横でパイプ椅子に座り、眠っている私に話しかける。

 お母さん、こんなに背中小さかった?
 目の下には、くっきりとクマが出来ている。
 
 ねえ、ちゃんと寝てるの?
 数日でやつれたんじゃない?

 聞きたいことが山ほど出てくる。目の前で泣きじゃくる母を抱きしめることが出来ない。母の涙を見たのはいつぶりだろう。

 思わず手を伸ばした。
 だけど、触れてはいけない。伸ばした手を引っ込めると同時に後悔の念が押し寄せた。

 もっと「ありがとう」って伝えればよかった。伝える時間なんて無限にあったのだから。

 明日も明後日も会えることを信じて疑わなかった。別れが訪れるなんて、考えたことなかった。分かっていたら、絶対にあんな酷いこと言わなかったのに――。

 事故に遭った日の朝、私は母に「大っ嫌い、死んじゃえ」そう言い放った。
 本心ではなかった。ただあの時は怒りの矛先がなくて、暴言を吐くことでしか発散できなかったんだ。

 もしかしたら、私はこの身体に戻れないかもしれない。ルール違反をした報いを受けることになるかもしれない。

 ねえ、ママ。
 本当は、誰よりも大好きだよ。

 ただのヤキモチだった。母を男に取られたみたいで悔しかった。だけど素直に言えなくて、暴言ばかり吐いてしまった。隣の男じゃなくて私を見てよ。そう願っていただけ。

 今の私の顔は超絶不細工だ。涙と共に鼻水も垂れ流している。だって、鼻をすすれない。すすった音で気づかれてしまうから。立ち尽くす私の横を、白杖が鳴らす音と共に通り過ぎる。


「あれ、今日も来てくれたの?」

「――はい」

 初対面のはずの母と来衣先輩は、顔見知りらしい。驚いて思わず声が出そうになるのを、口を両手で抑え込み耐えた。

「昨日、言ってましたよね。凄く後悔してるって……」

「そうね。後悔しても……っ、しきれないわ。毎日、愛してると伝えればよかった。未蘭が生まれてきてくれて、ありがとうって。っ、未蘭がいなくなったら……お母さん、どうやって生きていけば、」

 いつになく弱さを感じた。ハンカチで目元を抑えながら、枯れた声で話す母の言葉が心に刺さる。

「伝わると思います」

 彼が泣きじゃくる母にかけた言葉は優しくて、温かい声だった。

「『私はいつまで子育てする母でいなくちゃいけないの?』なんて酷いこと言ってごめん。ずっと未蘭の母でいたいよ。大好きよ。産まれてきてくれてありがとう」

 声を押し殺すために両手で口元を抑え込む。それでも涙と共に声が漏れ出してしまいそうだ。
 存在を悟られるわけにはいかない。これ以上ルール違反をしてしまったら、私は死後の世界に送られてしまう。いよいよ嗚咽が漏れそうになり、その場を急ぎ足で後にした。

 廊下を進みしゃがみこむ。人はいない。声を出して泣いてもいいだろうか。
 いや、ダメだ。誰もいないところから泣き声が聞こえてきてしまったら、それこそ心霊現象だ。

 必死に我慢していると、優しい香りが鼻に着く。来衣先輩だった。彼は私を覆うようにしゃがみこむ。

「いいよ。泣いて」

「え、でも、泣いたらバレちゃう」

「大丈夫。誰かに見られても、俺が泣いているようにしか見えないから」

 彼の言葉が耳に届くと同時に、堰ためていたものが崩れ落ちるように涙腺が崩壊した。

「うっ、……っひっ、ママあっ、っう」


 涙を止めたいという意識に反抗するように、流れる涙を止めることが出来ない。来衣先輩がそばにいてくれる安心感から、隠していた感情が素直になる。周りを確認する余裕がなくて、ひたすら泣きじゃくった。

 どのくらい泣いていただろう。傍から見れば、私の姿は視えていない。長身のでかい身体の男がしゃがみこみ、「ママー」と泣きじゃくっているようにしか見えないのだ。白い目で見られても仕方ない。しかし来衣先輩は急かすこともなく。文句を言うわけでもなく。ただただ、その場にいてくれた。
 

「あのー、大丈夫ですか?」

 さすがに長時間泣いてれば、ここは病院、心配して病棟の看護師さんが駆けつけてくれた。

「大丈夫です」

 しゃがみこんでいた来衣先輩は、ゆっくり立ち上がる。その顔には、涙一粒流れていない。不思議そうに見つめるも、特に追及することなく持ち場に戻っていった。


「ありがとう、ございました。でも、なんで……」

「昨日、憶測が確信に変わった後、病院を回って探したんだ。二件目で見つけられてから良かった」

「……っ、」

 あの日、だから帰ってくるの遅かったんだ。
 私が幽霊だと打ち明けた後、一人で病院を探していたなんて知らなかった。一時引っ込んでいた涙が、また込み上げる。どうして、そんなに優しいの。愛おしくて仕方ない。

「ありがとうございます……ママに会えてよかった」

「未蘭の家族も良い家族だな」

「……うん! 大好きな家族だよ」
 

 病院を後にした私たちは歩いていた。
 帰り道。ゆっくりと歩いた。それはまるで終わりが来てほしくないかのように、ゆっくりと歩いた。
 見覚えのある公園が視界の奥の方に見えた。


「来衣先輩、公園で話しませんか?」

 提案したのは私だった。なんとなく、なんとなくだが、私でいられる時間が迫ってきている。そう感じていた。

 風が強くなってきて、胸がざわついた。嫌な胸騒ぎがするのだ。胸騒ぎが確信に変わるように強い風が吹く。

「あっ、」ふわりと来衣先輩が被っていた帽子が風と共に舞い上がる。場所を少し移動した帽子は、静かに道路に落ちた。風は強く吹く。また飛ばされるかもしれない。

 杏子ちゃんからプレゼントされた大切な帽子。
 車に轢かれでもしたら、汚れてしまう。考えるよりも先に私の足は動いていた。

「未蘭!」

「私は平気ですから! 私、幽霊なので車が来ても轢かれません! だから、来衣先輩は、そこにいて!」

 帽子に向かって走りながら声を上げた。そう、私は幽霊なので車に轢かれることはない。自転車にぶつかることなく、通り抜けたことで実証されていた。来衣先輩の心配する声を背中に、帽子が落ちた道路へと向かっていく。

 車が来ようとも、私のことは通り抜ける。焦る必要はない。ゆっくりと帽子を拾った。飛ばされた帽子を手に取り、戻ろうと振り返る。

 この時の私は、来衣先輩と一緒に過ごしすぎて、初歩的なことを忘れていた。
 来衣先輩は、常に危険が隣り合わせだということを――。

 来衣先輩が立っていた場所は狭い歩道だ。
 並列で並んで走る自転車が視界に入る。車道の横に自動車専用レーンがある。なのに、自転車は歩道を走り続ける。

 歩道には来衣先輩がいる。自転車が直前で来衣先輩に気づき、よけようとするも、軽く接触してしまう。

「あー、すいません」

 自転車に乗っていた人は軽く謝り、すぐその場を去った。
 健常者なら、問題はないかもしれない。
 ただ、来衣先輩は目が見えない。
 
 そうだ。自死だと勝手に決めつけて、事故死の可能性を見落としていた。
 目の不自由な人が、健常者よりも、危険が多いことを身をもってわかっていたはずなのに。

 自転車と接触した来衣先輩が、一歩足を踏み出した先は道路だ。点字ブロックはない。杖をコツコツと鳴らし、辺りを探るも、方向を見失った彼はまだ歩道には戻れていない。

 車が迫ってくる。
 走っても間に合わない。

 近くの人は、危険に気づいていない。
 気づいている人もいるが、助けに動こうとはしない。心配そうな表情で見ている。見ていても、いくら視線を送っても、助けることはできないのに。

 必死に走った。走ったけど遠い。視界の中にいて近くなのに、手を貸して助けるにはあまりにも遠い。私の走るスピードの無力さ。

 次に誰かに私の存在がバレたら、私の魂は、自分の身体に戻ることも、来世に生まれ変わることも出来ずに、死後の世界へ消えていく。
 楓さんの忠告が頭を過る。

 声を上げたら、ルール違反だ。今度こそ私は死後の世界に強制連行。全て分かったうえで、大きく息を吸い込んだ。


「誰か! 助けてください。彼は目が見えません! 歩道まで手を引いてください」
 
 声を張り上げた。もちろんルール違反だ。それを承知で、あたり一面に響き渡るほどの大声で叫んだ。
 どこからか聞こえてくる大声に、反応した人が数人。
 ハッとしたように、みんな道路に取り残された来衣先輩に向かう。

 近くの人々が駆け寄ってくれたおかげで、来衣先輩の命は助かった。
 これは完全に油断していた私のせいだ。
 彼はいつも危険と隣り合わせなのだ。
 

「来衣先輩、大丈夫ですか?」

「……未蘭、声出して平気か?」

 命の危険があったというのに、私の心配をしてくれる。
 どうしようもない愛しさが込み上げる。


 幸いなことに来衣先輩は尻餅をついたくらいで、怪我はないようだった。目の先にまで来ていた公園のベンチに腰掛けた。

「病院行かなくて大丈夫ですか?」

「……大丈夫だって。心配すんな」

 よかった。来衣先輩が車に轢かれなくて。
 まだ心臓がバクバクと鳴っている。
 
 もうすぐ早川未蘭としての時間が終わる。そう感じるのだ。

 最後にルール違反を犯した。ただ、そのおかげで来衣先輩の命が救えた。後悔はない。後悔はないけど、未練はある。
 また来衣先輩とこうして楽しく過ごしたい。楽しくて、幸せだと、人は欲が止まらない。
 伝えたい気持ちはたくさんあるけど、口を開けば我慢している感情が爆発しそうで怖かった。



「来衣先輩と過ごせて幸せでした」

 自分を守るために、必要以上に底抜けに明るい声を出した。空笑いをしながら無理やり下手くそに笑うことで、平然を装い続けた。

 そんな私の顔は視えなくても、全てお見通しのように優しく微笑む。

 
「俺さ、未蘭と出会えて幸せを知った。未蘭に出会えたから、見えない世界にも希望や未来が見えた。この気持ちが消えない限り、俺は頑張れる気がする。病気にも今まで以上に向き合うよ」

「私も、来衣先輩と出会えて初めて恋を知れた」

 来衣先輩の言葉に、蓋をした感情も涙も溢れ出しそうだった。




「――好きだ」

 唐突に放たれたずっと聞きたかった言葉は、強がりの仮面を溶かしていく。終わりが来ることを感じたのは彼も同じだったようで、瞳には涙が滲んでいた。



「ごめん、私はルール違反をしたから……消えてしまう、の」

「なんで……俺のせいか?」

「違う。私自身がしてきたルール違反のせい」

「な、んで、未蘭なんだよ。幽霊のままでいいから、消えるなよっ」

 今まで我慢してた想いが零れた。一度零れてしまった想いは、とめどなく溢れてくる。
 必死に我慢していた想いが、溢れて止まらない。



「……っ来衣先輩と、もっと、うっ……一緒にいたかったっ、」

「俺だって、未蘭と出会えたから、また生きていけるんだ。絶望の暗闇にいた俺を救い出してくれたんだ……消えないでくれよっ」

「消えっ、たくない。私、消えたく、うっ、ないよ……」

「俺、目が見えなくても、未蘭がいてくれればそれだけで……光なんだよ」

 こらえていた涙が零れると、あとはボロボロと止まらない。溢れ出る涙を抑えることはできなかった。

「来衣先輩を……好きになったことも、この思い出も、全部忘れたくない」

「俺は忘れない! 俺の中では絶対に消えない。7日間の未蘭は俺の中で生き続けるよ」


 この気持ちを忘れたくないよ。
 こんな幸せであたたかくて、苦しい気持ちが消えてしまうなんて。
 やだよ、消えたくない。


「俺が見つけ出すよ。生まれ変わった未蘭を、必ず見つけ出すよ」

「そ、そんなっ……無理ですよ。誰に生まれ変わるかなんてわからない」

「見えないけど、きっと見つけ出すから」

 幽霊で誰にも見えなくなった私を来衣先輩は見つけてくれた。
 無理だとわかっているのに、心のどこかで期待をしてしまう。

「来衣先輩、もし、早川未蘭に戻れたら……7日間の記憶がなくなった私でも見つけてくれますか?」

「……必ず見つけるよ」

「でも、私の中の来衣先輩への気持ちは消えてるんですよ?」

「もう一度、俺に惚れさせればいいだけの話だろ?」

 来衣先輩は消えゆく私に向かって手を伸ばした。透けていく私の体を通り抜ける。
 その手に触れようと手を伸ばした。

 私からは触れられるはずなのにスッと通り抜けた。目の前の事実が、もうすぐ私が消えてしまうサインだと感じる。


「また出会えたなら……私と、もう一度、恋してくれますか?」

「あたりまえだろ」

「……ぐすっ、7日間の私のこと、忘れないでいてくれますか?」

「忘れない、忘れられるわけねえだろ」

「忘れてもいいです。ただ、来衣先輩の灯りになりたかった……。どうか、生きてください……」

「死に際の挨拶みたいなこと言うなよ、」

「……私、来衣先輩のことが、す、…」



 最後になる予感がして、急いで言葉を放つ。
 瞬きする0.1秒の間に、私の目の前は眩い光に包まれた。

 



 
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 来衣先輩、

 誰にも見えない私に気付いてくれて、ありがとう。

 みんな、私を通り抜けていく。
 人も、自転車も、車も。

 そんな私を見つけてくれてありがとう。
 私の声が聞こえた人は、怪奇現象だと怖がった。
 そんな私の声を、見つけてくれてありがとう。

 突然事故に遭い、後悔が残る私の人生だったけど、来衣先輩と出会えた、この7日間のおかげで、早川未蘭に生まれてよかった。そう思えたよ。
 どうか、来衣先輩のこれからの人生に光がありますように。
 誰よりも、希望溢れる未来でありますように。

 私の中に芽生えたこの気持ちは、
 恋でした。

 恋を教えてくれてありがとう。
 伝えられなかったこの想い、いつか、また会えたなら伝えられるかな?

 好きです、と。
 誰よりも大切なあなたに。


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 景色は白い世界に包まれていた。見覚えのある場所。初めて死後の世界に来た時に見た景色だった。

 ここは、死後の世界。
 どうやら来衣先輩と話の途中で、早川未蘭としての時間に終わりがきたようだ。

 来衣先輩に好きと伝えることができなかった。この消えてしまう気持ちを伝えたかったのに。誰にも伝わることなく消えてしまう。

 私はその場に力なくしゃがみ込んだ。
 もう会うことのできない来衣先輩。脳裏に棲みついて離れない。



「未蘭ちゃん、7日間の仕事お疲れさまでした」

 泣き崩れる私をそっと包み込んでくれたのは楓さんだった。
 顔を上げると、心配そうに眉を八の字に下げる柊も待っていてくれた。二人の顔を見たらなぜか、また泣きたくなった。

「あれ、柊の仕事の7日間はとっくに終わってるはずだよね?」

「まー、あれだ。気にすんな」

 俯き加減に視線を逸らす。柊は視線を合わそうとしない。


 私はルール違反をたくさんしてしまった。
 仮死状態の自分に戻ることも、勝ち組に生まれ変わることも、もうできないだろう。

 でも、自分のしてきたことに後悔は何一つしていない。覚悟もできていた。


「楓さん、あの! 来衣先輩は死亡予定者リストから消えていますか?」

「ええ、消えたわよ」

「よ、よかったあ。私のせいで死んでしまうところでした」

「それは違うわよ。最上来衣くんは、交通事故で死ぬ確率があの日、あの時間に高かった。未蘭ちゃんがいなければ違う場所で事故に遭っていたということ。つまり、未蘭ちゃんが最上来衣くんを助けたっていうこと」

「……それなら、よかった」

 力なく呟いた。
 私でも、人の役に立てた。大好きな人を助けることが出来た。そう思うと不思議と決意も固まった。頬を伝う涙を拭って顔を上げる。


「コホン、ここからは形式的になっちゃうけど、早川未蘭さん、無事に仕事を成し遂げました。勝ち組の人生を選ぶことができます」

「……え」

「誰に生まれ変わりますか? 今だと、女優と俳優の子供。政治家の子供も選べるわよ?」

「待ってください。私はたくさんのルール違反をしました。だから、死後の世界に強制連行されるんですよね?」

「確かに、こんなにルール違反をする守護霊代行はいなかったわ。でも、こんなに誰かをたくさん助ける守護霊代行もいなかった」

「……」

「こんなに良い子でたくさんの人を助けたのよ? 神様だって許してくれるでしょ。ルール違反についてはお咎めなしよ?」

「ほ、本当に……? ありがとうございます」

「もう一度聞くね。誰に生まれ変わりたい?」

「わ、私、勝ち組の人生じゃなくて、早川未蘭に戻りたいです!」

「……今なら総理大臣の孫も選べるわよ? あと、人気アイドル夫婦の子供も! 容姿端麗、勝ち組確定の人生になるわよ。このタイミングに遭遇するなんて何十年にあるかないかの幸運よ?」

「……私にとっては、早川未蘭の人生がなにより勝ち組なんです」

 今の気持ちを精一杯込めて伝えた。その言葉を肯定してくれるかのように、楓さんはゆっくり頷いた。

「そう言うと思ってたの。上層部に許可済みよ」

「えっと? つまり……?」

「早川未蘭ちゃんの人生に戻れるってこと」

「ほ、本当ですか?!」

 自然と溢れ出た涙はあたたかい。頬を伝うこの涙は嬉し涙だ。

「よかったな、未蘭」

「うん、……ありがとう」

 私の背中をポンっと叩いたのは柊だった。


「お礼は楓さんに言えよ? 何も言わないけど、上層部に頭下げて頼んでくれたんだぜ? 本当はルール違反の罰で死後の世界に強制連行されるはずだったんだから」

「柊! 言わない約束でしょ?」

 柊の言葉に被せるように楓さんは投げかけた。
 やっぱり、死後の世界に連れていかれるはずだったんだ。

「別に、悪いことじゃないんだから、隠す必要ないじゃん」

「柊もでしょ? ルール違反の罰がないのはね、柊がその罰の代わりに守護霊代行の仕事を1ヵ月延長したからなのよ」

「あー! 俺のことは内緒って言っただろ!」

 私のために二人が犠牲になったってこと?



「そ、そんな、私のために二人が犠牲になるなんて。私が悪いんだもん、私が延長します!」

 私の申し出を断るように、顔を大きく左右に振った。

「だめよ。仮死状態の未蘭ちゃんの身体の期限は7日間。延長したら、二度と早川未蘭ちゃんの身体には戻れない」

「……そ、んな」

「まあ、気にすんなよ、俺も楓さんも自ら申し出て好きでやったことだから」

「でも……」

「それに犠牲だなんて思ってないよ? 未蘭ちゃんを助けたいと思った。ただそれだけ。未蘭ちゃんだって、最上来衣くんを助けたのは、見返りを求めて助けてたわけじゃないでしょ?」

「それは、もちろん! ただ、助けたかったからです」

「私たちも同じ。ただ、未蘭ちゃんを助けたいの。未蘭ちゃんの身体に戻ったら、この記憶も忘れてしまうけど、今の未蘭ちゃんなら大丈夫。現世でもたくさんの幸せが待ってるよ」


 私の背中をポンっと押した。背中を押されて前に出た私の目の前には、見覚えのある大きな扉があった。
 初めて死後の世界に来た時に見たものだ。
 楓さんと柊との別れが目の前まできている。

 泣きたくなる気持ちを、拳をぎゅっと握ってしまいこんだ。
 笑顔でさよならしたい。そう思ったんだ。

「楓さん、柊! 本当にありがとうございました。……二人に出会えてよかったです」

 私の投げかけた言葉に返事をするように、大きく頷いて微笑んだ。
 その笑顔に背中を押され、足を進める。深呼吸をして大きな扉の中に、自分の足で踏み込んだ。

 目を開けると白い世界が広がる。
 ありがとう。出会えてよかった。
 


 瞳にぼやけて映る白い世界は、時間が経つにつれて薄れていく。
 ――これは、天井?

 私の視界に広がるものは白い天井だった。頭を左右にゆっくり動かすと、飾り付けも何もない白い壁が広がっていた。

 深く深呼吸をすると鼻に残るのは独特な匂い。
 ここは、病院?

 回らない頭でゆっくり考えた。
 なんで、病院のベッドで寝てるんだろう。
 全身痛みが強くて動かせない。

 そうだ、女の子を助けようと道路に飛び出して……。
 それから……その後の記憶がない。
 あれ、思い出したいはずなのに、なにも思い出せない。

 目が覚めた後、駆けつけた母は私を見るなり、泣き叫んだ。起き上がれない身体に抱き着かれて、痛みが走り、身体のあちこちが悲鳴を上げた。

 その後、主治医の先生から、入院の経緯を説明してもらった。女の子を守って車に轢かれた私は、7日間眠り続けて目を覚まさなかったらしい。

 7日ぶりに目を覚ましたのでお母さんは、喜びながらも泣き崩れていた。
 その後はたくさんの検査をした。リハビリも並行で行い、先生も驚く回復力を見せた。

 7日間、目を覚まさなかった私は数週間の入院生活を余儀なくされた。
 二週間後、今日の検査で異常が見つからなければ晴れて退院となる予定だ。



 ――コンコン。静まり返る病室にドアがノックされる音が響く。ドアがゆっくりと開いて「やっと、見つけた」現れた人はそう呟いた。

 

「早川未蘭さんですよね? この度はうちの子を助けていただいて本当にありがとうございました。意識が戻るまで警察の方から面会できないといわれたので……やっとお会いできて嬉しいです。なんとお礼を言っていいか……」


 頭を何度も低く下げながら、お礼を繰り返す人たちは、私が助けた女の子とそのご両親だった。

「そ、そんな、頭をあげてください!」

「……お姉さん、助けてくれて、ありがとうっございます」

 瞳が揺らしながら弱々しい声からは申し訳なさが伝わってくるようだった。

「あなたが無事でよかったよ。怪我はなかった?」

「……は、っはい。私のせいで、ごめんなさい」

 私が助けた女の子もしっかり目を見てお礼を伝えてくれた。声を少し震わせて、服の袖をぎゅっと握りながら言葉を発する女の子は、精一杯伝えてくれているのがわかる。


 その後も、何度も何度もお礼を言うご両親をなだめるのに時間がかかった。こんなに感謝されることは人生で、もうなさそうだ。そのくらい感謝をしてもらった。

 検査の結果、どこにも異常は見当たらず、無事に退院できることとなった。車に轢かれたのに、命に別状はなくて先生たちも驚いていた。

 退院した私は「あと数日は学校休みなさい」と言う心配性のお母さんの言われるがまま、学校にはまだ登校していなかった。

 退院後、数日学校を休んで来週から学校へ行く予定だ。

 気分転換にいつもと違うスーパーにお母さんと買い物に来ていた。空は思わず見入ってしまうほど綺麗な夕焼けが広がっていた。

「買い忘れちゃった! 未蘭、もう一回スーパーに戻っていい?」

「えー、仕方ないなあ」


 再びスーパーへと向かう。お母さんとしばらく歩いていると、少し先に公園が見えてきた。どくん、と心臓が跳ねた。吸い寄せられるようにその公園から目が離せない。
 

「……ねえ、あの公園で待ってていい?」

「え、でも、危なくないかしら?」

「もう、ママは心配しすぎ! なにかあったら、この防犯ベルを鳴らすから大丈夫だって」

 まだ納得しないような顔で考えているお母さん。私が事故に遭ってから、過敏に心配性になってしまった「もう高校生なのにな」自然と吐く息も深くなる。

「過干渉はうざいよ……」そう文句を言おうと口を開いたはずなのに、出てきた言葉は違うものだった。



「ママ、パパが死んでから1人で育ててくれて、ありがとう。大好きだよ」

 脈絡のない言葉は自分の意識とは関係なく出てきた言葉だった。「え?」今の状況に全く関係のない感謝の言葉が自分の口から出てきて、私が一番驚いた。意識とは関係なく、勝手に口が動いた。そう表現するのがしっくりくる。

「未蘭、急にどうしたの? ありがとう、なんて言ったことないじゃない」

「あ、うん。自分でも分からないけど……伝えたいな、伝えられるときにありがとうって言いたかったんだ」

「……未蘭、お母さんもごめんね。未蘭が一番大切だから。かけがえのない家族だから。大好きよ」

「あのね、彼氏を作ることは構わない。……だけど、まだ、ママと二人で暮らしていきたい」

 ずっと言えなかった気持ちを、ありったけの勇気と共に言葉に託した。

「うん、ごめん。急ぎ過ぎたみたい。お母さんも、未蘭と二人で暮らしたい」

 言いづらい本音を言った手前、顔を見られない。おそ?おそる俯いていた顔をあげると、笑顔を浮かべた母がいた。
 それは昔からずっと大好きな母の笑顔だ。
 嬉しくてとびつくように抱きついた。小さい子供のように、ぎゅっと抱きしめて、母のぬくもりを感じた。
 
「お母さん、買い物行ってくるから、待ってて。何かあったら防犯ベル鳴らすのよ?」

「うん、大丈夫だから。心配しないで」
 
 理由はわからないけど気になって仕方がない公園へと足が向かっていく。初めてきた公園なのに、来たことがあるような、不思議な感覚に陥る。


 なんだか、見覚えのあるような――。
 初めてのはずなのに。

 まあ、似たような公園なんてどこにでもあるもんね。


 〜♬

 公園に歌が流れている。どこかで聞いたことのあるようなラブソングだった。


「この公園は歌が流れるんかい? 珍しいね」

 耳を澄まして流れる歌に聞き入っていると、犬の散歩をしている老人夫婦に声を掛けられてた。


「この公園は17時に歌が流れるんです。流れる歌は毎月変わるんですよ」

 ――あれ。
 喋っている自分に驚いた。初めてきたはずの公園なのに、すらすらと口から説明が出てきた。
 なんで知ってるんだっけ?
 誰かから聞いたのかな。……誰だっけ。


 




 君は暗闇の中を照らす俺にとって灯りだった。
 君の光はあたたかくて、心地よくて。


 ある時、少しの違和感に気付いた。過ごす時間が増えるにつれて、違和感の正体がわかった。
 未蘭が幽霊だから俺の目に視えているとしたら……。不思議と怖いと言う感情はなかった。
 それで出会うことができたのなら、その出会いに感謝をしたい。そう思ったんだ。


「私の7日間の記憶はなくなる」

 彼女は震えた声でそう告げた。
 その言葉の意味は、俺にもわかる。

 俺と過ごした日々の記憶は忘れてしまうということ。
 楽しい思い出も、交わした会話も、芽生えたかけがえのないこの想いもすべて。


 7日間限定の彼女と約束をした。
 視えなくなっても、君をみつける、と。

 そう約束した途端、君は俺の前からいなくなった。未蘭が今どこでなにをしているのかわからない。

 もしかしたら、早川未蘭という魂はこの世にいないかもしれない。
 叶うならば、素敵な来世に生まれ変わってほしい。
 存在するのかわからない神様に願った。

 いつもと変わらない学校。騒がしい生徒の笑い声や話し声。
 いないと頭ではわかっていても、白杖の音をコツコツと響かせながら、校舎を探し回った。いくら歩いても、未蘭の光が視えることはなかった。

 行かない方がいいと、頭で分かっていても、勝手に足が向いてしまう。
 それは、仮死状態の未蘭が入院していた病院だ。

 
 廊下から病室を覗き込むも、ベッドは空だった。
 最悪のシナリオが頭に浮かぶ。

 ナースステーションに行き、看護師さんに確認する。カルテを見に行くとその場を離れた。待つ時間がやけに長く感じる。

 戻ってきた看護師は「うーん」言葉を詰まらせながら、言いにくそうに感じる。答えを聞くのが怖かった。やっぱり、未蘭は、もう……。想像する最悪の想定が頭に浮かんだ。言葉と言葉の間が、果てしなく長く感じる。


「早川さんは、病棟を移動したの。今のご時世、個人情報だから……どこの病棟かは言えないの。ごめんなさい」

 申し訳なさそうに告げると仕事に戻って行った。

 ――未蘭が生きてる。
 その事実が嬉しくて、張り詰めていた緊張が解けた俺は、その場にしゃがみこんだ。


「ははっ、こんなに嬉しいことはない」

 自然と顔も緩んでしまう。やばい、嬉しくて泣きそうだ。人前で泣くなんて出来なくて唇をぎゅっと噛んだ。

 いつ会えるだろう。

 きっと、俺との記憶は消えてしまっただろう。
 7日間の記憶が消えても、未蘭が生きている。その事実だけで十分だった。

 幸運なことに、俺の7日間の記憶は残った。
 病気になっても前向きに生きてる俺に神様からのご褒美か?そんなお花畑のようなことを考えてしまう。

 また会えたなら、なんて声をかけよう。
 顔が見えない愛しい彼女に。


 期待に心弾ませていた。病棟を教えてもらえないので、学校にくる日を待つ他ない。しかし、待てども待てども美蘭は学校には来なかった。

 何度か二年生の教室に行き、未蘭の状況を聞いてみたけど、分かる者はいなかった。

 時が過ぎるにつれて不安が募っていく。その不安を拭うように、未蘭と話した公園へと向かった。

 未蘭が消えてしまった後も、この公園によく来ていた。7日間限定の彼女に会える気がして、足が自然と公園へ向いてしまうんだ。

 公園では、ラブソングが流れ始めた。
 この歌が流れることで、視覚に障害があり時計が見えない俺にも、18時になったと聴覚で教えてくれる音楽はありがたい。



「この公園は歌が流れるんかい? 珍しいね」

 背後から、年配と思われる人の声が聞こえた。誰かに尋ねてるようだった。


「この公園は18時に歌が流れるんですよ」

 ――聞き覚えのある声がした。
 忘れるはずのない愛しい人の声だった。

 振り返ると、昼間だけかすかに残る視力で、女性のように見える。彼女が笑うと顔のパーツが光って見えた。

 
「未蘭、」

 本当は少し不安だったんだ。目の見えない俺が、本当に君を見つけられるのか。

 不安になる必要なんてなかった。
 いつだって君は、俺にとっての光だった。
 見つけられないわけがない。


 未蘭はきっと俺のことを覚えていない。
 だけど、約束したんだ。もう一度、恋をする。と
 もう一度君を好きになるし、俺を好きにさせると。


 

「……未蘭?」

「え?」


 突然話しかけられた未蘭は、驚いた声を上げた。昼間に残された微かな視力で彼女の姿を目に焼き付けた。


「え? えっと……3年の来衣先輩ですよね? なんで私の名前を……あ、私同じ学校の二年で。あっ、来衣先輩は有名人だから知ってました」

「俺も知ってる」

 待ち望んでいた愛しい未蘭に出会えて、堪らなく嬉しくて、堪らなく愛おしい。

 今すぐに抱きつきたかった。必死に我慢をして俺は平然を装い続ける。

「え、もしかして事故って入院してたこと噂になってます?」

「7日間の記憶は――?」

「なんか、7日間眠り続けてたみたいです。なので、浦島太郎状態です。ははっ」

 7日間の記憶はないみたいだ。
 分かっていたことだが、記憶が消えてしまったことに、心臓辺りがひどく痛む。

「でも――とても目覚めがよかった、です」

「え?」

「なんていうんだろう。満ち足りたような気持ちで目覚めたというか……訳わからないですね」

「7日間の君は幸せだったんだよ」

 そう伝えると、戸惑っている様子が伝わってくる。
 我慢してたはずなのに、腕が勝手に愛しい彼女の顔へと伸びていく。

 ふわっと温かい頬に触れる。未蘭に触れれることが嬉しくて涙が込み上げてくる。


「俺と、もう一度、恋しませんか?」


 もう一度ここから始める。
 俺と君の物語。

 7日間の彼女の記憶はないけれど、俺の胸には色褪せることなく、残り続けることだろう。

 もう一度、好きになるし、
 もう一度、俺を好きにさせる。


 複雑に絡み合い、たくさんの人に出会う中で最愛の人に出会えた。
 同じ世界で、同じ時間に、同じ空間で、一緒に時を過ごせることは奇跡なんだ。

 その奇跡が今目の前にある。
 こんなに幸せことはない。

 7日間の彼女の記憶はなくなってしまったけど、あの時の彼女の想いは、今も俺の心の中に生き続けている。


 偶然が重なって、7日間の君と恋をした。
 今度は必然に、君と恋をする。



 今はまだ伝えられないけれど、
 いつか伝えよう。

 好きです、と。
 大切なあなたに。



          fin

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