私は朝に弱い。起床した直後は身体の大半がまだ眠っているように重くて仕方ないのだ。気合ではどうにもできないこの身体の不調は体質としか言いようがない。


「……お、は……よ」

 眠気の残った声で挨拶をすると、罵声が飛んできた。


未蘭(みらん)! またギリギリに起きてきて! はあー、まったく。早くご飯食べないと遅刻するわよ」

「はいはい……」

 母の甲高い声は頭に響く。いつものことなので、聞き流しながらテーブルに目を向ける。
淡いピンク色の茶碗にご飯が盛られて、目玉焼きとウィンナー2本。いつもと変わらないメニューだ。

「朝ごはんいらなーい」

「またそうやって。朝ごはん食べないと1日の元気が……って、聞いてる? こら、未蘭!」

 朝からお母さんの小言なんて聞きたくない。話を最後まで聞かずに、リビングを出て洗面所へと向かった。
 洗面所で歯磨きをしていると、リビングから「まったく、あの子は――」と、お母さんの小言が聞こえてきた。

 あー、うるさいなあ。
 嫌気がさして愚痴の一つも言いたくなったけど、声に出すと朝から喧嘩が始まるので心の中にしまい込んだ。
 

 私と母は2人きりの家族だ。
 私が5歳の頃、父は交通事故で亡くなった。シングルマザーで、育ててくれた母とは親子二人きり。家事を積極的に手伝ったり、二人で仲良く買い物に出かけりと、親子仲は良好だった。家事をすることにも不満など一切なかったし、このまま母と二人で支え合って生きていくのだと思ってた。

 母との仲に亀裂が入ったのは最近のことだ。
 発端は男っ気がなかった母に、彼氏が出来たことだった。

 私にとって、母は「母」という生きモノであって、女という認識は薄い。目の前で普段と違う顔で笑う母を見て、複雑な感情になってしまうのは私の性格が悪いのだろうか。

 それに加えて母の彼氏とは折りが合わない。どうしても人間性を好きになれないのだ。

 17年という長年の絆が突然現れた男によって簡単に崩れてしまった。そのことに無性に腹が立ってしまう。


「……未蘭、今日ね、浅川さんが泊っていくから」

 浅川さんとはお母さんの彼氏のことだ。
 私が嫌っているのを知ってもなお、家に連れてこようとする。

「はあ?! 女子高生がいる家に男泊めるとか、正気?」

「浅川さんは、未蘭が思ってるような人じゃなくて……」

「浅川さん、浅川さんばっかり! 私、浅川さんのことは好きになれないって言ったよね?」

「未蘭はママが幸せになるのを応援してくれないの? 私はいつまで子育てする母でいなくちゃいけないのよ! なんでいつも邪魔ばかりするの! はあ。こんなことなら……」

「……っ。そんなに嫌なら、産まなきゃよかったじゃん。ママなんて……死んじゃえ!」

 それは勢いで出た言葉だった。怒りに任せて言ってはいけない言葉が口から放たれてしまった。
 言った後にハッとしてすぐ後悔した。しかし、今更謝る勇気もなくて勢いのまま玄関ドアを開けて外に出た。


 玄関のドアを開けると同時に、強い日差しが視界に入る。強い日差しに眩しさを感じながら、小走りで通学路に向かった。
 
 歩きながら顔は俯き頭の中で反省する。だけどあの言葉は今日いきなり出たモノではなかった。ここ最近の不満、我慢、様々な感情が混ざり合い、感情をコントロールできずに爆発して出た言葉なのだ。
 
 ドアが閉まる隙間から見えた母の顔は、いつになく強張っていて、脳裏にこびりついて離れない。思い出すと居たたまれない気持ちになり心臓がきゅっと締め付けられる。

 できることなら、言ってしまった言葉を取り消したい。

 ただ、最近家にいるとなんだが息苦しいのも本当だった。自分の家が一番安心する場所だったのに、安らげないような……。私の大好きな居場所がなくなってしまった。

「前みたいにママと二人で仲良く暮らしたいだけなのに――」

 空に向かって投げかけた。母に言ったことのない本音は強い日差しに搔き消される。

 

 後悔しながらもいつもと同じ通学路を通り、学校へと向かう。

 少し先に中学校と高等学校があるため、この道は学生の通学路になっている。道幅が狭く、お喋りに花を咲かせている学生で道を占領するのは日常だ。今日も雑談の声があちこちから飛び交っていた。

 ふと気づくと気になる小さい人影が見えた。
 少し先に小学校低学年くらいの女の子が1人、ポツンと立っていた。瞳いっぱいに涙を溜めて、今にも泣き出しそうな顔をしている。

 キョロキョロと辺りを見回してみたけど、その子の他に同級生らしい子はいなかった。道ゆく人は少女に誰も話しかけようとしない。迷子ではなく、ただその場にいるだけなのかもしれない。

 だけど、私は今にも泣き出しそうな少女をなんだか放っておけず声をかけた。

「どうしたの? 迷子になっちゃった?」


 出来る限りの優しい声で話しかけた。女の子は声を掛けられた事に驚いたのか、肩をビクッと震わせて固まってしまった。瞳には今にも溢れ出てきそうな涙が溜まって、うるうると揺れている。

「大丈夫! 大丈夫! お姉さんは怖くないよ?」

 今にも泣き出しそうなので、あたふたしながらも、さらに優しい口調で声をかけた。女の子は返事をせず小さく頭を振る。

 迷子じゃないってこと?
 うーん、どうしよう。

 頭を悩ませ、少し目を少女から離した。次の瞬間。少女は唐突に走り出した。


「あ、ちょっと! 待って!」

 女の子が走る先は車道に出てしまう。そのままの勢いで走って行ったら危ない。
 考えるよりも先に私の体が動いた。地面を蹴って女の子を追いかけるも、小学生の脚力は想像以上に早い。
 無我夢中で追いかけ、なんとか女の子の腕を掴んだ。

 しかし、足がついた地点はすでに車道だった。

「あっ、危ないっ、からっ……」

 いきなり走って息切れをしていた呼吸を整えた。直ぐに道路から離れようと足を1歩進める。

 ――と、同時にクラクションの音が鼓膜に刺さった。
 音の方を振り向くと、乗用車がすぐ目の前まで来ていた。一瞬のことに身体が動かない。
 
 これダメなやつだ。車に轢かれる。

 きっと今起きていることは1秒の出来事なのに、乗用車がゆっくりと迫ってくるのを目で追えている。頭の中ではゆっくり物事を考えられていた。

 (あ、これ。私死ぬんだ。今は邪魔者な私だけど、天国に行けますか?)

 心の中で存在するのかわからない神様に訊ねた。
 すぐ目の前には私目掛けて走ってくる乗用車が、危険を知らせるクラクションを鳴らし続ける。

 わかってる。この場から逃げないと、車に轢かれるって。でも、足が動かないの。自分でも感じた。
 ――間に合わないっ!
 

 死を覚悟した瞬間、スローモーションになるって聞いたことがあったけど本当だった。

 脳内では懐かしい記憶が蘇っていく。これが走馬灯なのだろうか。たった1秒のはずなのに、スローモーションで過去から現在までの記憶が頭の中に流れていく。

 まだ恋もしたことないのに。
 ママと喧嘩したまま、死ぬの?
 後悔の念が頭の中で駆け巡る。
 
 でも、これで息苦しい家に帰らなくていい。死にたくないと願う自分とは反対に、死んでもいい。そう思っている自分もいた。

 ただ、心残りがあるとすれば、お母さんに本音を伝えればよかった。
 これが後悔か。無理でしょ、こんないきなり死ぬのに後悔のない人生なんて。

 きっと私はこのまま車に轢かれるだろうけど、この少女は守りたいなぁ。
 ぎゅっと、女の子の体を抱きしめて包み込む。
 痛いの嫌だなあ。怖い、怖い――。
 恐怖でぎゅっと目を瞑って、ぐっと唇を噛み締めた。
 
 目を瞑ると共に、私の人生は幕を閉じた。