学校が終わり守護対象者の若菜さんが下校中の帰り道でのことだった。
ちょうど路地に入り道幅が狭い道を歩き始めると、前から走ってきた自転車が、バランスを崩したようでガタガタと左右に揺れ出した。
バランスを取りながら立て直そうとしている様子だけど、揺れは収まらず、今にも倒れそうだ。
ちょうど近くを歩いていた若菜さんは、携帯を触って俯いているので、前が見えていない。
このままだと、自転車とぶつかってしまう。
迷ってる時間はなかった。
危険がすぐ目の前まできている。
「――危ないっ!」
咄嗟のことで思わず声を出してしまった。若菜さんは私の声が聞こえたようで、驚いて進めていた足を止めて立ち止まった。俯いていた顔を上げる。
――ガタンッ、
辺りにアスファルトと金属音の衝撃の音が鳴り響く。
立ち止まったおかげで、2人が衝突する時間がずれた。若菜さんのすぐ目の前でバランスを崩した自転車は倒れた。立ち止まらなかったら、完全にぶつかって怪我をしていた。立ち止まったおかげで、衝突することをギリギリで回避できたのだ。
安堵と共に、深いため息が漏れる。
若菜さんが怪我をしなくてよかった。
声を出すのはルール違反だが、助けられたことには変わりはない。
怪我の危険を助けられたから、感謝とかされたりするかなあ。「誰だかわからないけど、教えてくれてありがとう」とか、言われたりするのかな。
若菜さんを助けられたことが嬉しくて、淡い期待に胸を膨らませる。
「え、なに? 誰もいないところから声が聞こえた? こわっ、怖いんですけどっ!」
感謝されるどころか、思いきり怖がられている。若菜さんは、私が声を上げた方向に視線を向けたが、誰もいないので顔は引き攣り、恐怖が表われていた。
若菜さんには、私の姿が視えていない。彼女からすれば、誰もいるはずのないところから声だけが聞こえた、ということだ。
怖がるのも無理はない。
瞳を揺らして、今にも泣き出しそうな顔をしてるので、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
怖がらせてごめんなさい。
怖がらせるつもりなんてなくて、ただ助けたかっただけ。声を出して伝えられないので、心の中で問いかけた。
「やっちゃったね……」
柊は後ろから気まずそうな顔でポツリと呟いた。焦ってて彼が近くにいることを忘れていた。あの場合はどうすればいいか、柊に聞けばよかった。
「声出しちゃった。これってまずいよね?」
「ああ、でも、今回は担当に未蘭の存在がバレたわけじゃないから。今回はセーフだと思うよ」
「……それって誰が判断するの?」
「それは俺も知らないんだけど、ルールを破ったことが上層部にバレるとスマホに警告がくるらしい」
「……警告かあ」
「そしたら、本当にまずい」
「……気をつけます」
「守護霊の仕事に慣れるまでは、生きてる時の癖で声を出しちゃうのは、よくあることだから気にしすぎないで! ただ、今後は注意すること!」
「うん」
「上層部は、いつ俺らのことを監視してる分からないから、気をつけろよ」
「……気をつけます」
「まあ、結果的には担当も怪我せずに済んで良かったけどな」
担当に私達の存在がバレてはいけない。
話しかけることも、もちろんルール違反。
若菜さんに危険が迫っていたとはいえ、声をあげてしまったことは反省点だった。自分の行いにしっかりと反省しつつ、なんとか守護霊代行1日目が終わろうとしていた。
「さっきはミスしちゃったけど、他は今日の感じで大丈夫だよ。明日からは1人で頑張れよ」
「えー、まだ全然わからないことだらけだよ?」
明日から柊が側にいないと分かると不安が襲ってくる。なんとか引き留めたくて、縋る思いで視線を向けた。
「不安なのはわかるけど、今日の感じで大丈夫だから、自信持って!」
不安を拭うように、いつも以上に優しい声だった。その優しい声に感化されて、私はゆっくり頷いた。
「う、うん、頑張ってみる」
守護霊代行。
神様みたいな力はないけれど、ちょっとだけ小さな危険を助けて、人の手助けをする。
若菜さんの危険を助けることができて、達成感のような、満ち足りた気持ちになった。
事故に遭う前、私の存在は母にとって邪魔者だっただろう。私がいなければ彼氏と新しい家族を築けるのだから。
邪魔だと思われるのは、やはり悲しかった。
こうして、少しでも人の役に立てたことで、荒んでいた心が少し和らいだ。
この仕事をしているうちに、もっと私にできることないかな。空を見上げならそんなことを思っていた。
一通り説明を終えた柊は、自分の担当エリアに戻って行った。
「ありがとう」明日から1人だと思うと不安で、弱々しい声で呟いた。
担当の森本若菜さんは学校から帰宅後、自宅で家族とご飯を食べ、お風呂に入り、特になにごともなく今は自室で眠りについていた。呼び出し通知がくるまでは、守護霊代行としての仕事を続けなければならない。それは、担当が眠っている時もだ。
ふと、窓の外を見ると暗闇が覆っていた。見える光は人工的な光だけ。窓越しの空には星なんて見えなかった。夜空でさえも、懐かしさが込み上げてきて、嬉しさと悲しさが混じり合う。
夜の街、歩いてみたいなあ。
生前は夜道を1人で散歩するなんて、危険なのでしたことがなかった。
今は幽霊で人視えないから、犯罪に巻き込まれる心配もない。
堂々と夜道を散歩できちゃうんじゃない?
好奇心が心の中で疼く。
窓から見える夜空があまりにも真っ暗で、吸い込まれそうになる。まるで外に誘われているような錯覚に陥る。
少し、少しだけなら……許してもらえるかな?
本当は、眠ってる時も仕事を続けなければいけないのに、好奇心を我慢することができなかった。
ごめんなさい。
少しだけ。本当に少しだけ行ってきます。
好奇心に勝てなかった私は、家の壁を通り抜けて外へ出た。スッと壁を通り抜けるだけで、こんなに簡単に外に出れるなんて、幽霊って便利だ。
一歩踏み出すと外は、車のライトやビルの灯りが街を明るく照らしていた。
夜に一人で歩くなんて、なんだか悪いことをしているみたいで、ちょっとだけわくわくしてしまう。軽い足取りのまま、人通りの多い大通りを抜けて路地に入る。
1本小道に入るだけで、大通りの煌びやかな街とは違い、あまりに静かで違う街に来たようだった。街灯がポツポツと照らしてる道を私はゆっくり歩いていた。
こうやって街を歩いていると、自分が幽霊だなんて思えないなあ。
――彼と出会ったのは、そんな静かな夜だった。
誰もいない暗い夜道。住宅の照明の灯りや、街灯の光を浴びながらゆっくりと歩いた。
幽霊じゃなかったら、こんな夜道を怖くて一人では歩けない。なんだか不思議な気持ちになる。
しばらく歩いていると、暗闇の中で一際光を放つコンビニが、ポツンと一軒佇んでいた。
コンビニのドアが開くと鳴る入店音が耳に届く。つい昨日まで聞いてた音のはずなのに、遠い昔のように感じた。
〜♬
入店音と共に、コンビニから出てきた人影が見えた。
身長は高くてしっかりした体つきは、その後ろ姿の人物が男性だと瞬時にわかった。しばらく見ていると、心の中に現れた違和感の正体がわかった。彼はすごくゆっくりと歩いている。
コツンコツンと、アスファルトを叩くような金属音が一定のリズムで鳴り響く。
この音はなんだろう。あの彼の方から音が聞こえてくる。気になって、じっと見つめているとチラリと、白い白杖が見えた。
――あれは白杖?
白杖って視覚に障害のある人が歩行するときに使うものだよね?彼は目が見えないのかな?
なんとなく気になってしまい、コンビニから出てきた彼の後をついて行く。
街の光が小さくなっていく。暗闇に覆われ、光は残された街灯の小さな光だけだった。そんな闇の中に向かって彼はゆっくり進んでいく。
「……痛っ」
発せられた声と共に彼の大きな体は一瞬、私の視界から消えた。なにかにつまずいて、膝をついて転んでしまったようだ。
転んじゃった?彼は目が見えないかもしれないのに。大丈夫かな。
気づくと身体は動いていて、私は自分の仕事のことを忘れて急いで駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
衝動的に話しかけてしまった。声をかけた後に自分の失態にようやく気づく。
人に話しかけて存在がバレてはいけないのに、思わず話しかけてしまった。
人に私の姿は視えないので、誰もいないところから声がしたら、今日担当の若菜さんのように驚いてしまうだろう。
気づいたころにはもう手遅れだった。気が動転してあたふたするしかできない。
しかし、慌てている私の耳に届いたのは、予想をしていない言葉だった。
「あー。大丈夫」
彼は私に向かって軽く会釈をしながら、ボソッと呟いた。
――え、私に話しかけてる?
「……わ、私のこと、視えてるんですか?」
「はあ?」
姿が見えない私に言葉を返されたことに驚いて、思わずまた声を掛けてしまった。
そんな私の問いかけに、怪訝な顔をして不思議そうに首を傾げている。
彼をよく見ると視線は私の方に向けられているけど、視点は私の瞳と合ってない。彼は私の方を向いて話しているというより、声がする方を向いて話してるだけだ。
もしかして、私が幽霊だとわからずに、話掛けてるってこと?
「あー。白杖使ってるから目が見えないことわかるのか。……見えないけど、そこにいるのはわかるから」
「見える」じゃなくて「視える」の意味だったんだけど、彼は違う解釈として受け取ったようだ。
彼は"目が見えない"から、"私の姿が人には視えていない"ということが分からないんだ。
声を掛けられたから、そこに人が存在していると思っている。
どうしよう。なんて返せばいいんだろう。
目を伏せて俯く彼の表情が見えなくて、感情が読めない。余計になんて返せばいいのかわからなくなった。
「えっと、お怪我は本当に……大丈夫でいらっしゃいますか?」
なんて返せばいいのか迷った挙句に出てきた言葉は、焦りすぎて変な日本語になってしまった。
「別に? 慣れてるから」
ボソッと呟くと表情一つ変えずに、ゆっくりと自分の力だけで立ち上がった。幽霊になってから声を掛けられることなんてなかったので、会話が成り立つことに嬉しさを感じて胸の奥があたたかくなる。
「君……やっぱりなんでもない」
彼は何かを言いかけて止めた。言葉を飲み込むように、ごくんと喉を鳴らした。顔を上げているけど、やはり視点が合っていない。私に向かって言葉を投げかけるけど、視線は違う方向を向いていた。
自分でゆっくり立ち上がり、暗闇の街の方へ消えていった。彼の背中を見送る間、私の中でなにかが引っ掛かっていた。
あれ、なんだろう。頭の中の記憶のカケラが疼くような気がする。
あの綺麗な顔。彼とどこかで会ったような……。
「……も、最上、来衣先輩?」
今、はっきりと思い出した。同じ高校の最上来衣先輩だ。
すぐに気づけなかったのには、理由がある。私の記憶の中にいる来衣先輩は、白杖を使っていない。目もしっかり見えていたはずだ。
――なんで、白杖を使っていたの?
最上来衣先輩になにが起きたのか、なんで白状を使っているのかわからなかったんだ。白杖をもった彼が、最上来衣先輩だとわかると、古い記憶を思い出した。
―― 遡ること数ヶ月前。
「……スマホがない!」
ある日の放課後、スマホがないことに気づいた私は心当たりのある場所を探していた。いくら探しても見つからなくて、仲良しと呼べる友達がいない私は、たいして仲良くないクラスメイトにお願いをするしかなかった。勇気を出して声をかけて、私のスマホの番号にかけてもらう。
「……呼び出し音は鳴ってるけど、誰もでないよ」
私のスマホに電話をかけてくれたクラスメイトは面倒そうな表情を浮かべている。たいして仲良くないのに、たまたま近くにいるから、お願いされてしまったのだ。ただ迷惑だっただろう。迷惑をかけるのが申し訳なくて、なくしたスマホを諦めようとした時だった。
「……あっ、えっ、もしもし? はい、はい、あっ、はい」
突然、携帯に耳を当てて喋り出した。誰かが私のスマホを拾ってくれたみたいだ。期待の眼差しを向けると、肯定するように、うんうんと頷いてくれた。
「早川さんのスマホ、美術室にあるって。誰かはわからないけど、見つけてくれたみたいだよ」
「あ、あ、ありがとうございます」
クラスメイトと馴染めていないので、お礼の言葉がどもってしまう。美術の授業で落としちゃったのかな? 見つかってよかった。電話に出てくれた人にお礼を言わないと。
携帯が見つかった安堵感から足取りは軽くなり、小走りで美術室に向かった。
走ってきた勢いそのままに、美術室の扉を開けた。美術室に足を踏み入れると同時に、インクと紙の匂いが入れ混じった匂いが鼻を刺激する。美術館の空気は走ってきた校舎とは違う、なんだか、ピリッと身が引き締まる空気感だった。
美術室内を見渡すと、イーゼルに立て掛けられたキャンバスの前に座り、ただひたすらに筆を動かしている人物がいた。うちの学校の制服なので、生徒ということは後ろ姿でわかった。
「……し、失礼します。あの……」
私が美術室に入ってきても、微塵も反応を見せず、キャンバスに向かい続けている背中に向かって投げかけた。声は届いているのか、届いていないのかわからない。振り向こうとする気配もないし、手を止める様子も見られなかった。
「……あの!」
さっきよりも張り上げた声は美術室内に響き渡る。ビクッと肩を震わせて、手の動きを止めた。そして、ゆっくりと振り返った。目が合うと同時に、一瞬時が止まったような錯覚に陥る。
振り返った彼の顔が彫刻のように綺麗で、思わず息を呑んだ。
――この人知ってる。
少し癖のある黒髪にハーフのような顔立ちで、誰が見てもイケメンだと思うだろう。
学校でカッコいいと有名な
最上 来衣先輩。
カッコいいと騒がれる理由が、今わかった。
近くで見ても遠くから見ても、目立つ容姿は、イケメンだと認めざるを得ない。
「――なに?」
低く耳障りの良い声はやけに耳に残る。声を投げかけられて、ハッと我に返り、そして見惚れていたことにやっと気がついた。
「えっと、スマホ……」
「あー、そこ」
奥のテーブルを指さして、ポツリと呟くと、また前を向いて作業を始めた。
「……あっ、私のスマホだ。ありがとうございました」
スマホが自分の手に戻ってきたことが嬉しくて、声が自然と高らかになる。その声も彼には届いているのかわからない。返事がなくて、早く出ていけと背中から伝わってくるようだった。
大人しく教室に戻ろうと廊下に向かって歩き出す途中で、キャンバスに目が止まった。
絵画の世界に吸い込まれて、足が動かない。絵画に吸い込まれた。そう表現するのが1番しっくりくる。
その絵は、黒く、暗い。一筋の光さえないその絵は、不気味さと綺麗さが混ざり合っていて、絵画の世界の懐の深さが見て取れる。
絵に詳しいわけではない、好きなわけでもないのに、目が離せなくなった。
「……なに?」
立ち止まる私に投げかけられたその言葉からは、不機嫌さをすぐに感じ取れた。
「え、絵が素敵だなって」
「これが? 光なんて見えないのに?」
「えっ?」
ボソッと呟いたその声は耳に届いていたけど、言葉の意味は理解できなかった。
どういう意味だろう?気になったけど、先輩の雰囲気が少し怖くて聞けなかった。
話したのはこの時が初めてで、最後だった。
それ以降は、女の子たちに騒がられてるのよく見かけた。
「来衣くん、放課後遊ぼうよ」
「行かない」
「来衣くん、メールアドレス教えてよ」
「教えない」
そのそっけない返事に、女の子たちが「はあ」と落胆の声を上げる光景を何度も目撃した。
「本当に人気者だなあ」と心の中で思ったくらいだ。
人気者の来衣先輩と、地味な私。生きる世界が違いすぎて、交わることはなかった。
だから知らなかったんだ。来衣先輩の身に、何が起きている状況なのかを。
コツコツと白杖とアスファルトが衝突する音が、どんどん小さくなっていく。暗闇に溶け込んでいく来衣先輩の背中をずっと見ていた。
きっと、来衣先輩は目が見えていない。
白杖を使ってゆっくりとぎこちなく歩く来衣先輩の姿を見て確信に変わる。
どうして、白杖を使ってるの?
なんで、目が見えなくなってしまったの?
聞きたかったけど、聞くことのできない質問は、広がる夜の街へと消えていった。
目が見えない来衣先輩は、私が幽霊だとは気づかずに、生きてる人だと思って私に話かけてきた。
生きてる頃のように怖がられることなく人と会話が出来た。の事実が、胸の奥をじんわりとあたたかくさせる。
学校で会ったりするかな。会ったとしても、人と話すことはルール違反だから、もう関わることはないだろうなあ。
――この時はそう思っていた。
私は来衣先輩の背中を見送ってから、担当する若菜さんの元へ帰ろうと夜道を歩いていた。
前の方から自転車に乗ったお爺さんが走ってくるのが見えた。微かに聞こえてくる鼻歌。鼻歌を歌いながら、自転車を漕いでいるようだ。
私は人には視えない存在なので、お爺さんにも目の前に私が歩いていることが視えていない。
お爺さんと自転車は私を目掛けて直進してくるだろう。
私って仮死状態で本当に幽霊なのかな?
来衣先輩と会話をした余韻が、私の思考を迷わせた。
私、死んでないんじゃないかな?願いのような、そんな期待が僅かに残っている。
確かめてみよう。 自転車を避けないことに決めた。恐怖心がなかったわけじゃない。自転車とぶつかったら痛いし嫌だけど、確かめたい気持ちが大きかった。
お爺さんの鼻歌の音量が大きくなり、自転車はすぐ目の前まできていた。
いざ、目の前にくると怖い。反射的に目を瞑る。
――痛く、ない。
耳に届く鼻歌がどんどん消え入りそうに小さくなっていく。おそるおそる目を開けると、目の前には誰もいなかった。
急いで後ろを振り返ると、鼻歌を歌って自転車を漕ぐお爺さんの姿がどんどん遠くなって行くのが見えた。ぶつかることなく私の中を通り抜けていったみたいだ。
改めて実感させられる。
私の存在は人には視えていない。
私がここにいることに、誰も気づいてはくれない。その事実は胸がぎゅっと締め付けられたように痛かった。
来衣先輩は私の存在に気づいてくれた。
私が幽霊だとは知らずに、普通に話しかけてくれた。
転んだ時の傷は大丈夫だったのだろうか。
なんで白状を使っていたんだろう。
来衣先輩の目は見えなくなってしまったのかな。
あんなに素敵な絵を描いていたのに。
頭の中は来衣先輩のことばかり浮かんでいた。
明日、また学校で会えるだろうか。
そんなことを考えながら夜道を歩いた。
「未蘭さあ、仕事放棄はよくないよ?」
歩いていると、いきなり背後から声がしたので、肩がビクッと震えた。心臓もどくん、と跳ねた。
「い、いきなり現れるの……やめてほしい」
柊といい、楓さんといい、みんないきなり背後に現れるのが好きなのかな。
逃げ出して散歩していたことがバレてしまったので、怒られるかな、と緊張感が全身を駆け巡った。
「……怒らないの?」
「あー、仕事放棄の件?」
「う、うん」
「俺もやったからなあ」
怒られると覚悟していたので、あっけらかんとしている柊に驚かされた。
「そうなの?」
「そう、俺は言えないようなところも行ったよ?」
「どこに行ったの?」と口を開きそうになったけど、良くない予感がしたので聞くのをやめた。柊のしたり顔を見る限り、その選択肢は正解だと感じる。
「……あのさ、柊はなんで守護霊代行の仕事やってるの?」
「俺は、生前真面目だけが取り柄のように生きてきたからな。スーパーエリート優良人間だったから、守護霊代行に選ばれたってわけ」
「柊はあと何日で生まれ変わるの?」
「あと、4日だな」
「……そっか。生前の自分に戻りたいと思ったことは?」
「あったよ、死んですぐなんかは、戻りたいと思ってた。でも、勝ち組が約束された元に生まれ変われるなら、来世を頑張りたいと思ったんだよ。俺は芸能人夫婦の赤ちゃんに生まれ変わって、金に困ることのない、容姿も美形が約束されてる。親ガチャに成功するんだ」
「芸能人か、」
「芸能人じゃなくても、一流企業の社長の子供に生まれ変わって、お金に困らない贅沢な生活。スポーツ選手の子供に生まれ変わって、運動神経抜群の遺伝子を持つ子供。……夢みたいな話だけど、親を選べるっていうチャンスが、俺たちの目の前にあるんだぜ?」
「……そうだね」
「悩んでまで生前の自分がいいの? 辛そうに見えたけどな」
右手で頭をくしゃっと、かく仕草をして、ポツリと呟いた。何かを考えているような顔をして私の顔色を伺っているように見える。
「……もう少し考えてみる」
「そうだな、まだ時間はあるから」
生まれ変わることも悪くないのかな。
私は特別かわいいわけではないし、特別頭が良いわけでもない。アイドルみたいな可愛い顔に生まれたかったなあ、と鏡を見ながら思ったし。
芸能人の子供に生まれたら最高だろうなあ、と何度も妄想したこともある。
勝ち組の人生を選べるなんて、ラッキーなのかな。柊の話を聞いて、素直にそう思った。
꙳
一人目の仕事が終わり、少し自信がついた。
今日からは柊はいない。独り立ちだ。
〜♬
スマホの着信音が鳴る。
――
本日の担当。
田口 大和たぐち やまと 28歳 男性
職業:桜ヶ丘高校 教師
――
今日担当する人物の詳細がスマホに送られてきた。表示された名前には見覚えがある。
「まじか。うわー、」
自然と不満の声が漏れた。
担当する田口大和は桜ヶ丘高校の教師だ。仏頂面で無愛想で元気がない。それに加えていつも眉間に皺を寄せているので、怖いという印象しかない先生だった。
田口先生は三年生の受け持ちなので、直接関わりはない。それでも生徒からは驚くほど人気がないことは噂で知っていた。
正直少し気が重かい。田口先生の良くない噂を知っていたし、なにより不愛想で怖くて近寄りたくなかった。心に重苦しいものが広がっていく。嫌だと思っても担当するしかないので、なんとか自分の気持ちを奮い立たせた。
まだ早朝。街は眠ってるように静かだった。大きく深呼吸をして、風と匂いを目一杯吸い込んだ。
田口先生の元へ向かうため歩いていると、心地良い風が頬を撫でる。
死後の世界は匂いも風も感じなかったので、頬を撫でる風が現世にいる証拠だった。そよりと吹く風が心地よい。
しばらくすると、担当する田口先生の元に辿り着いた。
「情報によると、この部屋に田口先生は一人暮らしか。……お邪魔します」
先生には視えてないので、挨拶をする必要はないけれど習慣のせいで自然と零す。ドアは通り抜けられるので、難なく部屋に入ることが出来る。便利なものだ。
「……うっ、臭っ!」
スッとドアを通り抜けて部屋へ入った瞬間、悪臭が鼻の奥をついた。慌てて辺りを見渡すと、原因はすぐに見つかった。
辺りに複数のゴミ袋があちこちに積み上げてある。明らかに、散らばるゴミ袋から悪臭が漏れ出している。
どうやら、田口先生の部屋は汚部屋と認定してよさそうだ。どちらかというと、綺麗好きな私には辛すぎる環境だ。
今すぐこのゴミの山を片付けたい衝動に駆られる。しかし、ゴミを捨ててくるわけにもいかないので心の中で葛藤していた。
「ぐぐっぐ、が、ぐごおおおおお」
まるで猛獣の鳴き声のような声が耳に届く。声のする方に視線を向けると、この悪臭の犯人。田口先生は豪快にいびきをかいて眠っていた。
「……はあ、」
今日の担当は田口先生なので、1日そばにいなければならない。先生の家が汚部屋だったなんて、大きな溜息も出てしまう。
この汚い部屋でずっと前に待ってるのは苦行すぎた。居ても立っても居られずに、床に落ちてるゴミを試しに指でつまみ上げて拾ってみる。
本当はダメなことは、わかってるけど……。
「ゴミも触れる。これって片付けられちゃうじゃん……」
ゴミを触れられることが確認できると、手は勝手に片づけ出していた。守護霊代行のルールで「私たちから触るものには触れれる」というルールが存在する。
そのルールのおかげで、ゴミも片づけることが出来る。
ただしバレてはいけない。
ルールと汚部屋の悪臭の狭間で迷っていた私は、少しだけならばれないだろうと考えて片づけを行うことにした。
最初は、一つ、二つ。ゴミを片付けるだけで我慢するつもりだった。いざ掃除を始めると、ゴミを捨てる手が止まってはくれない。
無我夢中で掃除をした。気づいた頃には、汚部屋はゴミが無くなり綺麗な部屋に変わっていた。
完全にやらかした。綺麗にしすぎてしまった。
ちらりと田口先生に視線を向けて確認すると、豪快ないびきをかいて、まだ寝ている。この様子は、しばらく起きそうにない。
時間を持て余したので、部屋を見渡しながら歩いていた。本がたくさんあり、部屋の壁には受け持ちクラスの集合写真が飾られていた。
意外だった。田口先生のイメージだとクラス写真なんて絶対飾らなそうなのに。
普段の田口先生の印象とは違って、クラス写真が飾られていたことに驚いた。写真をじっと見つめると見覚えのある顔が真っ先に目に入る。
「……来衣、先輩だ……」
写真の中の彼は、楽し気に笑顔を浮かべていた。
来衣先輩の担任って田口先生だったんだ。
私の中の記憶の来衣先輩は、無表情で仏頂面だ。写真の中の笑顔と結びつかない。思わず驚いて見入ってしまった。
「来衣先輩ってこんな風に笑うんだ。こんな綺麗な顔で笑うんだもん……そりゃ、モテるはずだ」
――ピピピ、ピピピピ。
大音量のアラーム音が鳴り響く。
突然の音と、その音量のでかさに身体がビクッと反応した。
けたたましく鳴るアラーム音に、さすがに起きただろうと田口先生に視線を向けた。大音量のアラーム音が鳴り響く中、予想に反してまだいびきをかいて眠っている。
起きないことを見越して設定していたのか、鳴り響くアラームはさらに大音量に変わっていく。
「……アラーム音、うるさっ」
部屋中に鳴り響く音に、私の耳が最初に悲鳴を上げた。ようやく爆音のアラーム音に目が覚めた田口先生は、むくりと布団から起き上がった。
結局、田口先生が眠りから覚めたのは7時半だった。通勤に間に合うのかこっちが心配になるほどだ。
朝に弱いのか、普段以上に眉間に皺を寄せていて顔が怖い。絶対関わりたくないタイプの人種だ。
「……今日もだりいな、」
吐き出した声はしゃがれていて、口調も荒く言葉遣いは悪い。期待を裏切らない様子を見ると、関わりは薄いけど思った通りの人間性のようだ。
「あ? なんか部屋綺麗になってね?」
まずい。部屋が綺麗になってることにすぐ気づかれた。
私の存在がバレてしまうかもしれないという焦りで、心臓がバクバク波打つ。
「俺、昨日掃除したっけな? 偉いじゃん。俺」
自分の都合の良いように勘違いしてくれたおかげでバレずに済んだ。ため息を吐き出せないので心の中で安堵した。
田口先生は、ご飯を済ませると着替えをして身なりを整えて家を出た。それはあっという間の出来事で準備は驚くほどに早かった。
学校に近づくと登校してくる生徒たちで賑やかになり活気がみなぎっている。昨日も経験した光景なのに幽霊の姿で通っていた学校にくるのは、なんとも不思議な気分だった。
田口先生は教員用玄関から校舎へと入る。
教員用玄関は初めて覗いたので、知らない場所を知れて少し心が弾んだ。
校内に入り、田口先生は職員室に向かっていく。私も後を追いかけようとしたときだった。コツ、コツ、と小さい金属音が耳に届いた。それは聞き覚えのある音だった。
音のする方に視線を向けると、やはり思っていた通りだった。来衣先輩が白杖を使ってゆっくりと歩いている。
昨日のは見間違いじゃなかった。今日も白杖を使ってる。
白杖を使って不慣れに歩くその姿に、目が離せなくなった。そのぎこちなさに、ハラハラして見てる方が思わず慌ててしまう。
そう、放っておけないんだ。近くにいると、彼から目が離せなくなる。
ゴツッ、と辺りに鈍い音が響き渡る。
「痛っ」
悲痛の声と同時に来衣先輩が足を押さえてしゃがみ込んだ。どうやら足をどこかにぶつけたようだ。
悲痛な叫びは痛みを物語っていた。来衣先輩が怪我をしたのを目撃するのは二度目なので、心配でたまらない。
今すぐ駆け寄りたいけど、ここで声を掛けてしまったら、周りにいる生徒たちに私の声が聞こえてしまう。
助けたいのに助けられない。手を伸ばせば直ぐに助けられる距離にいるのに届かない。それが凄くもどかしい。
そうだ、田口先生。
田口先生に目の見えない来衣先輩を助けて欲しい。そう思い、辺りを見渡すが田口先生の姿はなかった。来衣先輩を助けてくれそうな人は見当たらない。
「ぎゃはは」
「お前、馬鹿じゃね?」
他の生徒たちの声より、遥かに大きい2人男子生徒の笑い声が響き渡る。制服を着崩してアクセサリーをジャラジャラと付けている。2人のうちの片方の男子生徒が、来衣先輩をジーッと見つめている。
そして連れの男にヒソヒソと何かを話し始めた。ニヤリと口角を上げて、人を馬鹿にしたような薄笑いをしていた。その様子を見ていると不快感が募った。
なんか嫌な感じだな。
2人組に良い印象は全く持てなかった。
2人組の男に意識を奪われていると、来衣先輩は白杖を使って自分の位置を確かめながらゆっくりと歩き出した。
ホッとしたと同時に、さっきの2人組の先輩の行動が目に留まる。わざと来衣先輩の近くをゆっくり歩きながらニヤニヤしていたからだ。
「くくっ」
「本当に、見えないんだな」
「『いったっ』だってさ、くくっ」
「天下の王子様も、目が見えないんじゃ、もう終わりだな」
「今までいい気になってたからバチが当たったんじゃね?」
天下の王子様とは来衣先輩のことだ。女子生徒の間でつかられた裏のあだ名だった。
彼らの吐き捨てた言葉は悪意に満ちていた耳を疑う言葉を平気で吐き捨てて、ニヤニヤとそれを楽しんでいるように見える。そんな彼らに嫌悪感しか抱けない。
なにか言い返したい衝動に駆られて、身体が自然と動いていた。反論の言葉を言おうと口を開きかけた時だった。冷静沈着な声が降りてくる。
「……俺のことか?」
聞こえないふりをすると思ったのに、来衣先輩は足を止めて淡々と言いのけた。
「あっ、あー。大人気だった最上も、目が見えなきゃただの人。……いや、ただの人以下ってわけだ」
「お前、大河だろ? ださい真似はよせよ」
「なっ、んでわかった?」
ニヤニヤと酷いことを言った先輩は来衣先輩の知り合いだったようだ。名前を当てられて、わかりやすく動揺している。
「……昼間は少し見えるんだよ」
「じゃ、じゃあ……っ、なんで白杖なんて使ってんだよ。同情を引くためか?」
「お前に言う必要はない」
来衣先輩は、はっきりと言い捨てるとまたゆっくりと歩き出した。
2人から嫌なこと言われても、全く取り乱すことなく、淡々とした口調で返すのでどっちがあたふたしてるかわからない。
来衣先輩はすごいなあ。
何を言われても負ける気がしない。
来衣先輩の強気な姿勢に感心していると、なんだか嫌な空気が漂ってきた。
態度が気に食わなかったのか、ヒソヒソと嘲笑いながら来衣先輩の背中を睨みつけている。嫌な予感しかしない。
嫌な予感は的中する。
1人が先回りをして、足を掛けようと、わざと足を伸ばしているのが見える。その表情は悪意に満ちていて、最悪の状況が頭に浮かんだ。このままだと足をかけられてバランスを崩して転んでしまう。大きな怪我をする危険だってある。
相手が目が見えないからって、こんな嫌がらせをするなんて信じられない!
怒りが一気に込み上げてくる。
でも、私がここで何かアクションを起こしたら私の存在がバレてしまう可能性が高い。助けたいけれど、担当ではない人を助けるのはルール違反になってしまう。
助けを求めて辺りを見渡すが、生徒たちもまばらで少なからず見ている生徒は関わりたくないように決まりの悪い顔をしている。俯き加減に視線を逸らし、この場から立ち去っていく。
どうして誰も助けようとしないのだろう。
込み上げてくる怒りで、感情のコントロールが出来ず怒りを抑えることができない。
私は、ルールを破ろうとしていた。
その時ゴミ箱からこぼれ落ちているペットボトルが視界に入る。
これだ!そう閃くと同時に、気づくと体が勝手に動いていた。落ちていたペットボトルを拝借して力一杯思いっきり投げつけた。
「……痛ってーな!」
私が投げつけたペットボトルは、見事に男の頭にヒットした。当たった箇所を抑えて屈みこんだ。
「はあ?! 何もないところからペットボトル飛んできたんだけど!」
痛みの次にやってきた感情は驚きのようで、男は目を見開いたまま辺りをキョロキョロと見回している。誰もいないところからペットボトルが飛んできたのだから、驚くのも無理はない。
やばい。やってしまった!
完全にやらかした。床にコロコロと転がるペットボトルが証拠だ。
嫌がらせをしようとした男たちは、なぜペットボトルが飛んできたのか分からず、犯人を探すように辺りを見渡してあたふたしていた。
それ以上にルール違反した私も焦っていた。あの2人が悪いとはいえ、ペットボトルを投げてしまった。
これは……まずい。まずいよね?
こうなったら。
半場やけくそ状態の私は男2人の元へと歩み寄る。
「……っ。また、嫌がらせしたら、もっと痛い目に合いますよ?」
自分自身で思う渾身の怖い声を絞り出して、耳元でボソッと囁いた。
「ぎ、ぎゃあああ! な、なんか、聞こえたっ、やばい、行こうぜ」
さっきまで凄んでいた男の声とは思えないほどの奇怪な叫び声が轟いだ。
私の姿が視えない先輩たちは心霊現象だと思ったのだろう。叫び声と共に一目散に駆け足でその場から去っていった。
来衣先輩が怪我せずに済んでよかった。
ルール違反をした罪悪感よりも、来衣先輩が無事で安心する気持ちの方が大きかった。
「あいつらになにしたんだよ」
「……」
すぐ近くで聞こえたその言葉が、誰に投げかけられているのかすぐにはわからなかった。なぜなら私は幽霊で話しかけられる存在ではないからだ。
「……君、昨日会ったよな?」
私は幽霊で姿が視えない。話しかけられるはずがないのに、来衣先輩は私がいる方向に向かって言葉を投げかける。
もしかして、私に言ってる?
辺りを見渡してみたけど、私以外に誰もいない。
今日は声を出していないのに、何故分かったのだろう。
本当に私が視えている?
いや、そんなはずはない。私は幽霊で人には視えていない。それに来衣先輩は目が見えないはずなのに。
ダメだとわかっている。
それでも、またルール違反をした。
「わ、私は、なにもしてませんよ。……さっき、転んでたけど大丈夫ですか?」
他の生徒に聞こえないようにコソコソと小声で話しかけた。
「なんで、小声で喋ってんだよ? 君、昨日コンビニの外で会ったよな?」
な、なんで、わかるんだろう。
来衣先輩が昨日も今日も私だと判断出来ている事実が不思議で仕方なかった。
「な、なんで……」
「俺は、ほとんど見えないんだけど、なんて言えばいいのかわかんねぇけど……君は見えるんだ」
「え」
「君は他の奴らにはない……お、オーラみたいなのが見えるんだ」
「お、お、オーラ?」
だめだ。理解したいけれど、来衣先輩の言ってる意味が全くわからない。オーラと言った張本人も頭をポリポリとかいて、少し困ったような表情を浮かべていた。
「ははっ、伝わんねえよな」
「……」
空笑いを浮かべる来衣先輩に、なんて返せばいいのかわからず言葉が出ない。そして来衣先輩は話を続ける。
「俺は病気で目がほとんど見えてない。特に夜は何も見えなくて、目の前はすべて暗闇なんだ。ただ……昨日、君の周りには色がついて見えたんだ」
来衣先輩の話を聞いて思い当たる節があった。
もしかして、来衣先輩に霊感があるから、幽霊としての私が視えている?
守護霊代の仕事の説明を受けた際、幽霊と同じなので霊感のある人に感じ取られることがある。という話を聞いた。その話と今目の前で起きている現状が繋がった気がした。
目が見えないから、幽霊だと気づいてない、っていうこと?
そして目が見えない来衣先輩が、普通に話かけてくる理由も、一説浮かんだけれど「人間に見えてます? 幽霊に視えてます?」なんて聞けるはずがなかった。
「君って、なんなの?」
「えっ?」
「……なんで君の周りだけ、光が灯っているように見えんの?」
「な、なんで、でしょう?」
私にもその原因がわからなかった。
考えられるのは、幽霊の姿を感じ取られているということ。そんなことを来衣先輩に言えるはずもないので口を噤む。
「俺は……君のことが知りたい」
どくん、と心臓が跳ねた。綺麗な顔で真剣な眼差しを向けられ、不覚にもドキドキしてしまう。
「それは……難しいかも、です」
「なんで? 君は俺の……」
「おーい、最上、大丈夫か?」
来衣先輩がなにか言い掛けた途中で、言葉を遮ったのは田口先生の声だった。ゆっくりと私達の方に向かって歩いてくる。
『俺の・・・・・・』
来衣先輩が言いかけた言葉が気になったけど、今は気にしている場合ではなかった。私がいることを話されたら、田口先生に存在がバレてしまう。焦る気持ちでいっぱいになる。
「ら、ら、来衣先輩、田口先生に私がいることは内緒にしてください」
そう言い残して、私は来衣先輩のそばから離れた。その場にとどまると、存在がバレてしまう危険が高まると思ったからだ。
「あっ、おい……」
「どうした? 最上、ん?……誰と話してたんだ?」
来衣先輩が離れる私に向けて言葉を投げたので、田口先生は誰もいない辺りをキョロキョロ見回して不思議そうに首を傾げている。
「……いや、なんでもないです」
少し離れた場所から見守っていると、来衣先輩は私のお願いを聞いてくれたようで、田口先生には秘密にしてくれた。
よかった。田口先生に存在がバレる心配はなくなり安堵のため息が自然と漏れた。
なんで目が見えなくなってしまったんだろう?何か力になれることはないかな……。そんなことを思いながら、遠くから来衣先輩を見つめた。そして、柊に言われた事を思い出した。
『担当以外を助けることはルール違反』
来衣先輩を守るためとはいえ、ペットボトル投げたことは、きっと、いや、絶対にルール違反だ。
これからはもっと気をつけなきゃ。
来衣先輩にもこれ以上、関わらないようにしないと……。
そう、自分に言い聞かせるが、目の前にいる彼を目で追ってしまう。
なんでだろう?
――この時は、この気持ちの正体に気付いてもいなかった。
離れた場所から2人を見守っていると、なにやらよくない空気に変わった気がする。嫌な胸騒ぎがしたので、会話がはっきり聞こえる場所まで近づいた。
「先生、大事な話あるんです」
「どうした? 改めて放課後とかに聞くか?」
「……いえ、すぐ終わるのでここで大丈夫っす。俺、学校辞めます、退学します」
来衣先輩の言葉に驚いて思わず声が出そうになるのを両手で口を押えて飲み込んだ。
先輩は三年生で、あと数ヶ月しかないのに辞めるなんて……さっきの嫌がらせと関係あるのかな?
脳裏には来衣先輩に嫌がらせをしようとした人たちや、それを見て見ぬふりをする傍観者の生徒たちの姿が鮮明に浮かんだ。私が想像する以上に、大変な学校生活を送っているのかもしれない。そう思ったけど、率直に辞めてほしくない。そう思ったんだ。
心の中でモヤモヤが広がっていく。「やっぱり、辞めてほしくない」そう心の中で叫んだ。気づくと心の声があふれ出していた。
「――だめですっ!」
「え?」
「えっ?」
「(あー! 言っちゃった!)」
心の中で叫んだはずの私の声は、思いっきり大きな声で解き放たれた。
突発的に出た言葉で口に出してしまったことに、後から気づいて急いで両手で口を覆った。今更覆ったところで何の意味もないのに。
田口先生には私が視えてないので、声を出したら不審がられてしまう。
自分でも驚くほど、盛大に解き放たれた声は田口先生にも聞こえているだろう。
おそるおそる田口先生に視線を向けた。すると、想像を遥かに上回るほど恐怖が顔に現れていた。口をぱくぱくさせて、心なしか顔が青ざめた気さえする。いつもの強面の悪人顔の面影が微塵も感じられない。
これはダメだ。完全に聞こえてる。怯えている姿を見ると、意外にも幽霊を怖がるタイプだったようだ。
「……も、最上、今のこ、こ、声って……お、お前か? お、お、俺だけに・・・・聞こえたのか?お、女?しょ、少女の声が、聞こえた……」
田口先生は声が裏返っていて焦りの色が伝わってくる。それは誰が聞いても心配するくらいだった。
「先生何言ってんの? 今喋ったのは……」
来衣先輩は私のことが視えてるから、声の主は私だと分かっている。田口先生がなぜ怯えているのかわからない、といった様子で不思議そうにしている。
私の姿が視えず怯えている田口先生。怯える田口先生を不審に思う来衣先輩。私が声を上げたことにより、今の状況が生まれてしまった。解決方法が思い浮かばず、焦りが頂点に到達した私は頭を抱え込む。
「あっ、いたいた。田口先生、ちょっといいですか?」
助け舟の声をあげてくれたのは、校長先生だった。少し先の方から手招きで田口先生を呼んでいる。
「最上、ちょっと待っててな」
校長先生に呼び出された田口先生は、小走りで校長先生の元へと向かっていく。予期せぬ助け船に、心の底から感謝をした。
とりあえず、助かった。本気で私の存在がバレてしまうところだった。
校長先生がこなかったらどうなっていたのか。考えただけで身震いがする。
校長先生のおかげで命拾いをした。朝礼の挨拶とか長く、けっして好きではなかったが、初めて校長先生に好感をもち感謝した。
「……なんで、そんなところにいるんだよ」
「え、」
やっぱり来衣先輩には、私が視えている。ただ返す言葉が見当たらない。なんでと聞かれても……「田口先生の守護霊代行だからです」とは言えるはずもないので返答に困って口を噤んだ。言葉を発しない私を見かねて、来衣先輩は小さくため息と言葉を吐き出す。
「まあ、言いたくないならいいけど」
「……先輩、学校やめるんですか?」
「ああ」
「なんで……その、辞めちゃうんですか?」
「さっきみたいに、毎日文句言ってくる奴が数人いんだよ。毎日毎日、飽きずにな……。平気なふりしてっけど、流石にしんどい」
その声は今まで聞いた中で一番弱々しくて、私まで苦しくなる。
「や、辞めないでください」
「なんで、そんなこと言うんだよ。……関係ねえだろ」
来衣先輩の言うことはごもっともで、太刀打ちできない。私と来衣先輩はなんの繋がりもないのだから。
自分でもなんで引き留めたいのかわからない。きっと私にはわからない辛いことや苦しいことを経験した上での決断なんだと思う。
それでも、引き留めたくなってしまう。
「先輩は本当に辞めたいんですか?」
「健常者には……わからねぇよ」
「分からないです。わからないけど、わかりたいです。……わからなくて苦しいです」
「なんで君が苦しいんだよ」
「……っだって、来衣先輩は悪くないのにっ・・・・・うっ、こ、これからの人生長いのに、ここで辞めてしまったらっ……」
目の奥が熱くなるのがわかった。涙がすぐそこまで来ている。自分が幽霊という立場で、もう学校に通えないかもしれないという苦しさと重ねて、涙が込み上げてきた。
「君が泣くことないだろ」
「……っ、泣いてっ、ないです」
「思いっきり泣いてんじゃん」
涙を必死に堪えて鼻を啜ったので、目が見えない来衣先輩にも音でバレてしまった。
「はあ……なんだよ。なんなんだよ」
「うっ、ぐっ……」
「少し話せるか?」
泣き止まない私に呆れ顔を向けて、場所を移動した。
屋上入り口の前。屋上は出入りが禁止されているため、この場所は普段誰も来ない。
「大丈夫かよ」
「っ、……ずみまぜん」
鼻を啜りながらなんとか声を絞り出すと、そんな様子を見て、ため息を零す。
「君が泣く意味が分からない」
その通りだ。友達でも恋人でもない女に、突然泣かれては困るだけだ。さらには、泣いた理由も言えない。なんて理解に苦しむだろう。しかし、来衣先輩と事故に遭った自分を重ね合わせて泣いた。とは言えるはずがない。
「……あ、あの、聞いていいのかわからないんですけど……」
「……なんで白杖使っているか聞きたいんだろう? 俺、網膜色素変性症っていう病気なんだ」
「も、もう、もうまく?」
私の聞きたいことを、すんなりと教えてくれた。聞きなれない単語に一度聞いただけでは病名を覚えることが出来なかった。それは私の知識にその病気の詳細が載っていないからだろう。
「網膜色素変性症。知らなくて普通だよ。指定難病に指定されていて、珍しい病気だから」
「あの、昼間は少し見えるって言ってましたよね?」
「聞いてたんだ。ああ。見えるって言っても、見える視野がとにかく狭い。病気が発覚した時は見えてたけど、段々視野が欠けていった。最近は……昼間も誰だか視覚だけで判断するのは難しい」
「……」
なんて返せばいいのか分からなかった。「大変でしたね」「辛かったですね」浮かんでくる言葉はどれも安っぽく感じてしまう。もっと違う言葉で表現したいのに、ぴったり合う言葉が見つからないんだ。
「こんな重い話なんて聞きたくないよな」
黙り込む私に優しい言葉を届けてくれた。私が心配されてどうするんだろう。
「そ、そんなことないです……えっと、病気がわかったのって最近ですか?」
「病気が発覚したのは高校一年の時。見えにくいなあって思って、なんとなく病院に行ったら、精密検査されて……それで診断を受けた」
「そんな前から……戦ってたんですか」
「進行性の病気で、発症してすぐに失明する訳じゃないんだ。ただ、俺は若いからなのか、進行がかなり早いらしい」
「……」
病気のことを何一つ知らない。自分の無知さを痛感して顔が歪む。
「……」
「……」
「あの、もっと、もっと詳しく病気のこと教えもらえないですか? あ、もちろん、来衣先輩が嫌じゃなければ……」
「別にいいけど……聞いても面白くねえけど?」
「知りたいんです。来衣先輩のこと」
「……」
意を決して申し出た私の要求に、彼はゆっくりと話し出す。
「網膜色素変性症」
4,000人から8,000人に一人発症すると言われていて、進行すると視力が低下し、全く見えなくなってしまうという難病。この病気に罹っている親族はおらず、原因はわかっていない。
暗いところでの見え方が悪くなる(夜盲)
視野が狭くなっている(視野 狭窄 )
どちらの症状も出ている来衣先輩は、夜はすべて暗闇に包まれて何も見えない。一筋の光さえ見えない。
昼間は視野が狭くなる中、かろうじて少し見えるくらい。全体が白っぽく感じて、人の顔はほとんど認識できない。彼の病魔の進行は特に早いらしく、発症から数年で、視力のほとんどを失っていた。
私の相槌を確認しながら、ゆっくり教えてくれた。私は当事者じゃない。来衣先輩の見えてる世界が全く想像できない。そんな私に、彼はこう伝えた。
夜を迎えると俺の世界は黒一色に包まれる。
見えなくなった世界は、孤独で、闇で、これが夢ならいいのに。
そう毎日願い続けている。未来に一筋の光でさえ、見えない。少しの希望さえない。
今まで目が見えるのが、当たり前だった。これから先、いつ失明してするのかわからない。
「絶望」俺を表すのにぴったりな言葉だ。
私は浅はかだった。病気のことを聞けば、少し力になれることがあるのではないかと。とんだ勘違いをしていた。
彼にまた色彩のある世界を見せることは、私には出来ない。
彼を励ます綺麗な言葉は思いつかない。
なにもできない。そんな自分は無力だと実感する。
「なっ? 面白くない話だっただろ?」
来衣先輩は病気のことを話し終えると、へらっと笑った。わざと笑顔を浮かべたように感じる。
言葉を探して返答に詰まってしまった私を、気遣ってくれたんだと思う。
自分から聞いておいて、相手に気を遣わせるなんて、私はなにをやっているんだ。
「病気になってから、初めて光がみえたんだ」
「え、どんな光ですか?」
「君、」
「え」
「俺、目が見えないのに、君だけは見つけられるんだ」
「……私のこと視えてるんですか?」
「見えてるというより、存在を感じるっていう感じだな。見えないけど……確かにそこにいるだろ? 君の周りには光が視える」
胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛かった。それと同時に心の奥があたたかくなるのを感じた。
存在していない私を見つけてくれる。
その事実が途轍もなく嬉しいんだ。
「俺は今日、退学届を制服の内ポケットに忍ばせていた。退学しようと――」
「来衣先輩が、辞める必要ないと思います」
「綺麗ごというなよ。『なにか力になれることがあったら言ってね』『これからもずっと変わらず友達だ』上っ面の同情の言葉だけ残して、親しかった人もみんな離れていった。俺はこの学校にいたら、お荷物なんだよ」
「私、考えたんです。昨日の夜、なんで夜にコンビニにわざわざ行ったんだろうって。夜は視力が見えなくて危険なのに。きっと、コンビニまでの道を忘れないために危険を犯してまでコンビニに行ったのかなって」
「……」
「今日も来衣先輩を見てたら、学校の柱とか手すりとか必要以上に確認してて、記憶の中の視力を忘れないようにしてるのかなって――」
「そうだよ。学校もよく行ってたコンビニも。記憶の中にその景色があるから、それを忘れたくなくて……。まあ、そんなことしたところで……」
「病気の環境に馴染むように、努力している来衣先輩が、他人のせいでやめるのは違うと思うんです」
「健常者の君に何言われても、響かねえよ。所詮きれいごとだ」
「私も、事故で――」
思わず自分の置かれている状況を口にしそうになり口を押えた。
仮死状態の私は誰よりも、命の儚さ、当たり前の日常の尊さを知っている。
しかし、来衣先輩に伝えることはできない。言いたくても、言えない言葉を飲み込んだ。
「え、事故?」
「ま、ま、間違えました! ただ、この学校で一番、命の尊さを知ってる自信があります! 後悔する辛さも身に染みて知ってます! だから、来衣先輩に後悔して欲しくないんです」
彼はきょとんと固まっている。その表情を見て、おかしなことを口走ってしまったと知る。気づいたころにはもう訂正はできない。次の言葉を探して頭をフル回転させる。
「ははっ、なんで、そんなに言い切れんの? どんな人生歩んできたんだよ」
くくっと肩を揺らして笑った。目を細めて笑う彼の表情に、私の心は惹きつけられる。
~♪
「えー、最上来衣くん、職員室まで来てください」
校内放送が流れた。ぶっきらぼうに聞こえる声は田口先生だ。
退学の話の途中で、校長先生に呼ばれてしまった田口先生は来衣先輩のことを気にかけてくれたのだろう。
「あー、田口先生だ」
「……来衣先輩っ」
「俺、辞めるわ」
「……」
「退学すんのを辞める。なんか、君と話してたら辞めたくないって思ってる自分に気づいた」
「本当ですか! よかった……よかったです」
安堵のため息が漏れる。
「……ありがとうな」
「いや、私は、お礼を言われるようなことは……」
そうだ、私は励ます言葉。ひとつも言えていない。病気のことも知らず、無知で不甲斐なくて落ち込んだくらいだ。
「誰かに病気のこと話したの初めてだ。聞かれても、なんか言いたくなくてさ、なんでだろう。君には話せた」
柔らかく笑った瞳と視線が重なる。厳密にいえば、来衣先輩は目が見えていないので、視線は重なっていない。それでも吸い込まれるように彼の瞳から目が離せない。
「田口先生に退学しないって言わないと。退学手続きされっちまうな」
「そ、それは……笑えないですね。早く行きましょう」
「ふっ、君もついてくるの? 心配してくれてるなら大丈夫だから」
当たり前のように彼に着いていこうとしていた。今日の担当は田口先生だ。田口先生のそばにいないといけない。
今から向かう目的人物は一緒なのだ。しかし、守護霊代行の仕事のことを言えないので、ただのストーカーみたくなってしまう。
「あー、あはっ、それでは。いってらっしゃい」
後で時間差で田口先生のところへ行こう。
白杖を使ってゆっくり歩いていく来衣先輩の背中を見送った。しばらく歩いてぴたりと止まる。どうしたのか不思議に見ていると、振り返り私に向けて言い放つ。
「名前は?」
「え?」
「君の名前!」
「は、早川未蘭です」
「未蘭!……昨日会ったコンビニの前で待ってる」
「へ? え? なんて?」
「昨日会ったコンビニの前で18時に待ってる」
「え、なんでですか?」
「もっと、未蘭のことを知りたいから」
「……」
なんて返事をすればいいのか分からなくて、言葉に詰まる。私は来衣先輩に会う権利を持ち合わせていない。ゆえに、これ以上関わってはいけない。
「い……けません」
「まあ、俺は行くから……。未蘭が来るまで待ってる」
一方的に告げるとまた前を向いて歩き始めた。来衣先輩の言葉を受けてまた話したいと思っている自分がいた。しかしそれはルール違反だ。理解しているはずなのに断る言葉が出てこない。歩く足を止めない来衣先輩の背中がどんどん遠ざかる。
「わ、私、い……いけませんから!」
背中に投げた私の声は聞こえていたのだろうか。立ち止まることなく歩いていくので、声が届いていないのか、意図的に無視しているのか。どちらなのか分からなかった。
職員室に入ってくる窓からの日差しが、赤みを帯びたあたたかい光に変わってきた。
デスクに座って、なにやら仕事をしている田口先生を少し離れたところから見守りをしている。
デスク周りを整理して帰りの支度をする先生も見受けられ、退勤時間が近づいてきていることが分かった。
「田口先生、お疲れ様です。名簿を見ながら、熱心ですね。……あー、最上ですか?」
「ええ、担任なのでね。何か力になれないかと」
名簿を見つめている田口先生に声を掛けてきたのは、生徒から人気のある椎名先生だった。椎名先生は勤務二年目で他の先生と比べても若い。年齢が生徒に近いのもあって、フレンドリーで優しく、人気のある先生だった。
「正直、ろう学校とか考えた方がいいんじゃないですか?」
「……それはなぜです?」
「だって……普通の生徒と同じ生活は無理でしょう? 他の生徒の迷惑になりでもしたら、ねえ」
鼻で笑いながら零す言葉は棘のある言葉だった。椎名先生の表の印象と違って、半笑いで生徒のことを話す目の前の彼には嫌悪感を抱いてしまう。
「……その時は俺がなんとかしますから。担任なのでね、このまま卒業させてやりたいんですよ」
「そ、そうですか……まあ、田口先生が、そう言うなら何も言いませんよ?」
田口先生は淡々と告げた言葉には強さも感じられた。椎名先生は言い返すことなく、少し気まずそうに空笑いを浮かべて離れていく。私は今まで田口先生を誤解していたかもしれない。怖い印象で生徒に寄り添わない先生だと思い込んでいたが、田口先生は他の先生よりも、来衣先輩のことを考えて寄り添おうとしてくれている。
今日一日、守護霊代行の仕事を通して近くで見ていたから知れた真実だった。
職員室の窓から空を見ると、夕焼けと夜空が譲り合い、空の様子が1日を終えようとしていた。
田口先生の就業時間も終わりを過ぎていた。就業時間を過ぎてもデスクで仕事をする田口先生を、後ろから見つめた。朝感じた田口先生への不信感は完全に消えていた。
外に出ると、薄っすらと暗くなり始めた街には明かりが灯り始めている。覗き込むように田口先生の腕時計を確認すると、時計の針は17時45分を指していた。もうすぐ、来衣先輩との約束の時間だ。
私には、約束の場所へ行く権利なんてない。
本当は来衣先輩と話すことも禁止事項なのだ。それなのに、幽霊だと知られず生きてる頃と同じように接してもらえることが嬉しくて心地良くて。禁止られている会話をしてしまった。私はすでにたくさんんのルール違反を犯している。
ダメなことは分かっている。ルール違反だと自覚している。
分かっているのに、今日は朝からずっと来衣先輩のことが脳裏に浮かんでくる。今も来衣先輩のことばかり考えてしまう。どうやら頭の中から離れてはくれないようだ。
ダメ。会いに行ってはダメ。
頭では分かっていても、心は分かってくれない。
「……ルール違反します。ごめんなさい」
気づくと地面を蹴っていた。
約束の場所へ向かわずにはいられなかった。あの日、来衣先輩に会ってから、頭の片隅にずっと来衣先輩がいて離れてはくれない。
どうしてこんなに来衣先輩のことばかりを考えてしまうのか、この気持ちの正体はなんなのか。
分からなくて、自分で考えても分かりそうもないので会いにいく。
担当の田口先生のそばを離れて、足が向かっていくのは、目の見えない来衣先輩と初めて会ったあの場所だ。薄ら暗くなった景色に、一際目立つ光が放たれている。背中に照明の光を浴びて、コンビニの前に来衣先輩が立っていた。
遠目から見ても目を惹くスタイル。カッコいいと感じずにはいられなかった。高鳴る心臓を落ち着かせながら、ゆっくりと来衣先輩のいるところへ歩いていく。近くまで来ると、彼は下を向いていた顔をぱっとあげた。
人には視えない私のことを見つけてくれたような錯覚に陥って、ドクドクと心臓の音がうるさくなる。
「……やっぱり、未蘭だけは見つけられる」
「えっ?」
「少し話さない?」
コンビニには人が集まる。人には私の姿は視えないので、ここで来衣先輩と話しをしたら、はたから見れば、来衣先輩が一人で話しているように見えてしまう。それは避けなければならない事態だ。少し考えて、視界の片隅に公園が映った。
「あ、あの……公園で話しませんか?」
私の提案を快く受け入れてくれた来衣先輩と公園へと向かう。コツコツとアスファルトとぶつかる白杖の音が耳に心地よい。肩を並べて歩いているけれど、傍から見たら来衣先輩が一人で歩いているようにしか見えない。その証拠に私のところに影は現れていない。
広い公園の中、学校帰りの小学生がボールを蹴ったり、走り回って賑やかな声が聞こえる。夜がすぐそこまで来ているので、人の数はまばらだった。きっと、ここなら来衣先輩が一人で話しているようにみえても大丈夫だろう。そう判断して人気のないベンチに腰を下ろした。
♪~
公園内に音楽が流れはじめた。一瞬驚いたのは、ありふれたよくある夕方の音楽ではなく、少し前に流行ったラブソングだったからだ。
「この公園は、18時になると音楽が流れるんだよ」
耳を澄ませて音楽を聞き入る来衣先輩が教えてくれた。
「普通、こういうのってもっと簡易的な音楽だったりしますよね?」
「俺はこっちの方が好きだけど。脳は音楽を聴いていたときに見えるものや、感じるものを同時に記憶しようとするんだって」
「音楽と共に、昔の出来事を思い出すってことですか?」
「そうらしいよ? 少なくとも、俺は思い出すだろうな」
そう言い残した来衣先輩の横顔があまりにも綺麗でしばらく見入っていた。視線を送り続けてもバレないことを知っていて、ずっと見つめた。
なんだか来衣先輩といると調子が狂うな。
彼の表情や言葉は、恋愛経験値がない私には刺激が強過ぎて、簡単に胸が高鳴ってしまう。
私の鼓動はうるさくて、来衣先輩にも聞こえてしまわないか心配になるほどだ。
「きてくれてよかった」
「だって……来るまで待つって言うから」
「あーでも言わないと、来てくれないと思って」
来衣先輩の策略にまんまと乗せられた。だけど、したり顔で笑う表情に怒りは少しも湧いてこない。
私も会いたかったんだ。来衣先輩に。
「見つけられるか少し不安だったけど、やっぱり未蘭は見つけられた」
その言葉に、本当に私のことを見つけてくれたような錯覚に陥る。私は人には視えない存在なのに。
「それに、未蘭の声は表情がついてるみたいなんだ」
「声に表情?」
来衣先輩の言っている意味が全く理解できなかった。いくら考えても、理解できないままだ。
「目が見えないから俺の情報源は耳が多い。声だけだと本当は何を思っているのかわからなくて、変に勘繰ってしまう」
「……うん」
「未蘭の声は感情が豊かで、俺の目にも表情が映し出されるみたいなんだ」
目尻に皺を作ってくしゃっと笑った。私は何故か泣きそうになってしまった。感情が豊かだなんて、いつぶりに言われたのだろう。
というのも、母が彼氏を頻繁に家に連れてくるようになってからの私は感情を知らず知らずのうちに捨てていた。それは傷つかないようにと自己防衛だったのかもしれない。
来衣先輩の言葉を受けて少し考えてみた。
守護霊代行の仕事をしてから焦ったり危ない場面ばかりに出くわして、いつの間にか感情的になっていた気がする。生きていたころより、仮死状態の今の方が感情が豊かになったなんてなんだかとてもおかしい。
「ふっ、」
「え、なんかおかしかった?」
「ご、ごめんなさい。感情が豊だなんて、久しぶりに言われたので……」
思わず笑ってしまった私に優しい眼差しを向ける。
「俺さ……正直、この病気になって、暗闇が広がるたびに、視力がどんどん失われていくことが怖くて、この先の絶望していた。目が見えるのなんて、当たり前だと思うだろ? 爺さんになるまで見えることが当たり前だと、誰だって思うよな……」
「……」
「失った視力の中で、未蘭だけは見つけられるんだ」
私の記憶の中の来衣先輩は、気だるげそうに話しかけられてもぶっきらぼうに返すばかりで笑顔なんて見せなかった。今目の前にいる先輩は穏やかで、笑顔も浮かべている。
返す言葉が見つからず黙り込む私に、優しいまなざしを向け続ける。そんな彼に私の心は簡単に惑わされる。ドキドキと鼓動が速くなる。
早く会話を終わらせて、担当の元に戻らなくては。
そう頭が理解しているのに、楽しくて、あたたかくて。この時間がずっと続けばいいのに――。そう思ってしまうんだ。
「また、会える?」
「そ、それは、ダメなんです。私は……だめなんです」
「なんで?」
「え、えっと」
私は今、普通の人間ではないんです。だから会う約束をしてはいけないんです。そう言いたいのに、存在がバレてはいけないという守護霊代行のルールが邪魔をする。
「……彼氏いんの?」
「か、彼氏? 彼氏なんて、いるはずないです!」
「じゃあ、友達から……ならいいだろ?」
断るべきだ。頭ではそう理解しているけれど、心はそれを拒否する。生前なら、迷うことなく返事が出来るのに。今の私には様々な壁が邪魔をする。考え込み俯いていた顔を上げた。視線の先には、寂しげな瞳が揺れていた。
「……友達なら」
「よかった。……よろしくな、未蘭」
断れる勇気もなかった。ただ目の前で嬉しそうに笑う来衣先輩を見ると、私の中の罪悪感が消えていくのが分かった。
「明日も学校で会いにきてよ」
「そ、それは約束できないです」
「えー、俺、周りから見放されて独りなのに?」
そんなこと言われたら断れない。落胆するように眉を八の字にする来衣先輩の表情が追い打ちをかける。
「す、少しだけなら……」
ちらりと来衣先輩を見上げると、満足そうな笑みを浮かべていた。笑顔を見ると同時に胸が高鳴ってしまう。
顔を上げると、一瞬来衣先輩と視線が重なったような気がした。重なるはずがない視線は私に向けられていて、どくんと心臓が跳ねた。
来衣先輩は目が見えてないので、目が合うことはない。……合うはずがないのに、重なった瞳に吸い込まれるように目が離せなかった。
この感情が恋だなんて
恋愛経験がない私にはわからなかったんだ。
頭の中は、来衣先輩のことでいっぱいで、彼の笑顔は私の感情を大きく揺さぶる。私の中で彼の存在が大きくなっている。その事実だけは分かった。
来衣先輩としばらく話して、公園内にある時計を見ると、あっという間に時間が過ぎていたことに気づいた。ハッと自分の立場を思い出した。
「あ、やばっ……。ら、来衣先輩。さようなら」
返事を待たずに一方的にさよならを残して来衣先輩の元から走り去った。
そばから離れたはずなのに、ドキドキと鼓動の音が収まる気配がない。
邪な気持ちを掻き消すように、ひたすらに走っていた時だった。
「おーい、仕事を放棄して男と密会か? 放任主義の俺でも、流石に見過ごせないぞ?」
背後からまた前触れもなく柊が現れた。
「わわっ、びっ、くりした……いきなり現れるのやめてよ、心臓に悪いよ」
「仕事放棄はダメだって言ったろ?」
「ち、違うよ?」
「へえ? どういうこと?」
顔を大きく横に振って否定するが、柊は納得していないような表情を見せる。その表情からすべてお見通しだと分かった。それでも否定し続ける私に、眉をひそめて疑わしそうな目を私に向けたままだ。
「え、えっとね、来衣先輩が辞めたいっていうから、それを止めてね、辞めないでくれて、来衣先輩は目が見えなくて、でも私は視えてて……」
「……」
「……どうしよう! 私幽霊なのに、来衣先輩と友達になっちゃったよ……」
柊に説明しているうちに自分がした過ちを改めて思い知った。そして罪悪感があふれ出す。私の頭はもういっぱいいっぱいで、泣きべそをかきながら、柊に助けを求めるしかなかった。
「全然、話が見えないんだが?」
「っ、えっと、えっとね……」
今日一日で起きたこと。今の現状を説明した。すべて話終えると、柊は「うーん」と、うなだれながら考え込んでいる。私一人では答えが出せそうにないので、柊の答えを待つことにした。
「俺もわかんねえや! ただ……」
「……ただ?」
「よくないってことはわかる」
「で、ですよね……」
「まあ、この件は俺の中で留めといてやるよ」
「いいの?」
「ああ、無茶すんなよ?」
「う、うん!」
たくさん怒られることを覚悟していたけど、柊は怒らずに話を聞いてくれた。その優しさが嬉しくて心地よかった。
「もう、そろそろ仕事も終わりの時間だな」
「え、もうそんな時間なの?」
どうやら来衣先輩と話し込んでいたら、思っていたよりだいぶ時間が経過していたようだ。
「体感的には数分くらいの感じだったのになあ」
「それほど楽しかったってことだろ?」
「そ、そうなの、かな」
「楽しいことほど、時間が過ぎるの早いって言うしな」
来衣先輩と話す時間は、ドキドキしたり感情が忙しくて、時間が過ぎるのがあっという間だった。
現世の夜道をゆっくりと歩きながら、今日一日の出来事を振り返っていた。
今日担当の田口先生は、今まで抱いていたイメージと違って生徒想いで良い先生だった。それは勝手に悪いイメージを抱いて、本当の田口先生を知ろうともしていなかったんだ。
今日一日のことを振り返り、田口先生のことを考えていたはずなのに、いつのまにか頭に浮かんでいるのは来衣先輩の笑顔だった。
その理由がわからず、ひたすら考えているうちに、2人目の守護霊代行の仕事が終わろうとしていた。
――
本日担当する担当。
水瀬 大河 18歳 男性
桜ヶ丘高校三年生
――
支給されたスマホに、三人目となる次の担当の詳細が送られてきた。
画面を確認すると、上級生のようで少し不安な気持ちが芽生える。名前を見ても知り合いではなかったので、今回の担当が良い人でありますように。と心の中でひっそりと願った。
♢
情報をもとに、大河先輩の元へと向かっていく。どうやら一軒家に住んでいるらしい。
モダンな雰囲気にお洒落な外観の家だった。インターホンを鳴らすことなく家の中に通り抜ける。家の中は家族であろう人の話し声が飛び交っていた。
私はそろりと家の中を見回って大河先輩を探した。階段を登って2階に到達すると、1番奥の部屋のドアに『大河』と書かれたネームプレートが飾られていた。思いがけず示してくれたおかげで探す手間が省けて助かった。
スッとドアを通り抜けると、まず初めにインクの匂いが鼻についた。学校の美術室で嗅いだことのある匂いに似ていた。
部屋を見渡すと絵画がたくさん飾られている。
「……絵がいっぱい飾られてる」
部屋の中心にあるテーブルに置かれてたのは油彩道具。たくさんの筆や絵の具が乱雑に置かれていた。この部屋を見る限り、大河先輩も美術部なのかなと感じる。
部屋に飾られた絵画に見入っていると、目の前の綺麗な絵の感想よりも頭を過ったのは初めて喋った時に見た来衣先輩の絵画だった。目の前の絵も綺麗なはずなのに、来衣先輩の描いた絵の衝撃と比べると、どうしても劣ってしまう。あの時の衝撃は、時間が経った今も忘れられない。
担当の大河先輩本人はというと、布団にくるまってまだ眠っているようだった。カーテンの隙間から差し込む太陽の光で部屋は明るいけれど、彼は起きる気配は全くない。「うーん」と寝言を呟いて、くるりと寝返りを打った。顔の正面がこちらを向いて、初めて顔を拝むことができた。
「げ! この先輩、来衣先輩に嫌がらせしようとしてた人だ」
背中を向けられていてわからなかったけど、昨日、来衣先輩に足を引っ掛けようと嫌がらせをした先輩だった。顔を見た瞬間に来衣先輩に嫌がらせした時のことを思い出した。今思い出しても腹が立ってくる。
今日は嫌いな先輩の担当か。まったく気が乗らない。すやすやと幸せそうな顔で眠る彼に嫌悪感しか抱けない。そんなマイナスな気持ちを押し込んで、仕事を遂行するために自分を奮い立たせた。
大河先輩の生活は、なんというか普通だった。朝食を食べて、着替えをし、歯磨きをして髪の毛をセットする。母が作ったお弁当を受け取り、お礼と行ってきます。と挨拶をして家を出た。来衣先輩に嫌がらせをした人なので、生活が荒れているかと思えば、家族とは仲がよさそうだし、今のところ悪行をする気配もない。
「おはー」
「おいっす」
「大河、おはよ」
校内ですれ違うたびに挨拶される。大河先輩は意外と友達多いのかも知れない。
談笑しながら校内を歩いていく彼は普通の男子高校生だ。しかし来衣先輩に嫌がらせをした悪行が頭の片隅に居座り続ける。いくら笑顔を振りまこうとも、来衣先輩に嫌がらせした嫌な奴っていう認識は消えそうにない。
思い出すと怒りが込み上げてきたので、横にいる大河先輩にキッと睨みをきかせた。誰にも分からない、私なりの精一杯の反発心である。
教室では男友達と漫画の話やよくわからない話で盛り上がり「ガハハッ」と笑い合っている。男の子の会話は、正直よくわからなくてちょっと苦手だ。
暇を持て余したので、来衣先輩の病気のことを考えていた。
「網膜色素変性症」
医療知識のない私には、その病名を聞いても全く結び付かなかった。頭の中にある知識は来衣先輩が教えてくれた情報しかない。もっと深く知りたいが、幽霊の私には知るすべがない。
普通なら携帯ですぐ調べられるのに。
今のネット社会は素晴らしい。検索すれば大抵のことは知ることが出来るのだから。
しばらく考えていると、ある一つの方法が頭に浮かんだ。しかしその調べる方法は仕事を放棄しなければならない。ダメなことだと理解している。
悩んだふりをしたけど本当は決まっていたのかもしれない。
アホ面で笑い続ける大河先輩に、心の中で精一杯の謝罪をしてその場から離れた。
向かった先はパソコン室だ。パソコン室内をガラス窓から確認すると、この時間はどのクラスもパソコンの授業がないようで誰もいなかった。人影もなくシンと静まり返っている。
パソコン室の前で、これから侵入する申し訳なさから「お邪魔します」と律儀に一礼をする。
顔をあげて壁をスッと通り抜けた。難なくパソコン室に侵入する。通り抜けることを悪いことだと思う認識はとうに薄れていた。
「このパソコン、借りますね」
電源ボタンを押すと、黒い画面にパァッと光が灯る。電気がついていない真っ暗なパソコン室にパソコン画面の光だけが灯ってるので、異様な雰囲気が漂い出した。
「……誰か来る前に調べないと」
私はどちらかというと、真面目に生きてきた。誰もいないパソコン室に無断で侵入などしたことがない。いけないことをしている実感はあるので、心臓はバクバクと鳴り続ける。
「網膜色素変性症」
検索欄に入力してエンターキーを押す。検索結果がずらりと画面に表示された。
「網膜色素変性症……指定難病……」
難しい言葉がたくさん出てきた。「指定難病」その言葉を詳しくは知らなくても、難しい病気だということが理解できた。
「……徐々に視野が狭くなり、視力を失うこともある遺伝性の病気で、治療法は確立されていない……」
病気の説明を読むたびに、胸が締め付けられるように痛かった。
来衣先輩は、この病気と戦ってる。そう思うと涙が込み上げてきた。ぐっと、唇を噛み締めて涙が出てきそうになるのを堪える。
「夜や薄暗い屋内でものが見えにくくなる」
その文字を読むと来衣先輩の言っていたことと結びついた。表示された長い文字を見落とさないように一生懸命に読んだ。一語一句、見逃さないように頭に叩き込む。
「網膜色素変性症 治療法 」
希望の光が欲しい。治る方法、治療方法はなにかあるはず。
だって、そうじゃないと来衣先輩が……。零れ落ちそうになる涙を堪えながら、希望を探して何度も何度も、カタカタとキーボードを打ち検索をかける。
どのくらい時間が過ぎただろう。
検索に集中していると、ガチャっと扉が開く音が室内に響いた。その音を耳が拾うとびくっと肩が震えた。
誰かが入ってきたようだ。ゆっくり足音が聞こえてくる。
バレてしまう。焦りが一気に押し寄せる。
「あれ、パソコンの電源がついてる」
暗闇の中で一つのパソコンだけ光を放っていたので、検索をしていたパソコンにすぐに気づかれてしまった。
ゆっくり歩く足音がどんどん近くなってくる。焦りでドキドキする胸の音が強くなる中、急いで[Delete]キーを長押しして、検索履歴を消去した。
「……あれ? 誰もいない。誰かが消し忘れかしら?」
パソコン室に入ってきたのは見回りの先生だった。背後から先生を見下ろして、ペコリと頭を下げてパソコン室を後にする。生前だったら絶対に捕まっていたシチュエーションでも、幽霊の今の私は捕まることはない。
「思わずドキドキしちゃったけど、私の姿は視えてないんだから、捕まることはないんだよね」
廊下を歩きながら、焦る心を落ち着かせた。授業の時間なので、誰もおらずシンと静まり返った廊下を歩きながら、来衣先輩の病気のことを考えていた。
仕事放棄してしまい担当の大河先輩を見失った。教室にはいなかったので、校内を急いで探したけど、なかなか見つからない。探し回りやっと見つけた場所は美術部だった。やはり大河先輩も美術部なのだろうか。彼の部屋にあった絵画が頭に浮かぶ。
「……くそっ」
声を荒げたのは大河先輩だ。ガシャン、と大きな衝撃音と共に投げ出されたのは白いキャンバスだった。
「描けない。病気のあいつより、俺は描けないのかよ」
言葉を悲し気に投げ出して、ギリっと歯を食いしばっている。その様子から悔しさを堪えているのが見て取れる。
彼の言葉から推測すると、絵が描けなくて悩んでるみたいだ。大河先輩が悩んでいるのを知っても、今の私にできることはなかった。なんだか居たたまれない気持ちになる。
「病気のあいつ」その言葉が示す人物が来衣先輩ではないかと思った。大河先輩が来衣先輩に酷いことをした理由も隠されているのかもしれない。
「俺は……俺だって、頑張ってるのに」
傍から見れば、大河先輩が1人で美術室で佇んでいる。孤独に言葉を吐き捨てて自分と格闘しているのだと感じた。
今にも泣きそうな顔で思い詰める大河先輩なか対して、嫌な胸騒ぎがすると共に素直に心配になる。
美術室の中を見渡すと、床にはビリビリに破かれたスケッチブックが落ちていた。「taiga」ローマ字でのサインが書いてあり、この破かれたモノは大河先輩の絵だということがわかった。
きっと自分で破いたのだろう。拳は赤くなるほど強く握らていて、やり場のない怒りを拳にぶつけているようだった。大河先輩からは、怖くて嫌な空気が放たれている。
私は声をかけることも励ますこともできない。
どうすればいいのか考え込んでいると、美術室のドアが開く音がした。音がする方に視線を向けるとそこには来衣先輩が立っていた。
どうしたのかと思えば、来衣先輩の表情はパァッと明るくなり視線は私の方を向いている。嬉しそうな表情は私に向けられているように感じる。真っ直ぐ私のいる方向を見つめて、白杖のコツコツという金属音と共に足を進める。
「いた。……やっと見つけた。探したんだよ?」
「……なんだよっ、何の用だよ?」
来衣先輩は私に向かって言葉を投げかける。
その問いに答えたのは、もちろん私ではない。
大河先輩だ。
大河先輩に私の姿は視えないため、来衣先輩の言葉が自分に投げかけられたと思っている。
「探したよ。約束したのに、会いにこないから――。会えて良かった」
胸の奥がきゅっと疼いた。整った顔がくしゃっとなる笑顔は反則級に心臓に悪い。私のトキメキ数値は上昇する。
「な、なっ、なんだよ。いきなり……な、なに言ってんだよ?」
大河先輩は頬を赤らめた。私の姿が視えない大河先輩は美術室に来衣先輩と二人きりだと思っている。
そしてなぜか大河先輩の声は、来衣先輩に届いていない。瞳は私の方だけを見つめている。おそらく大河先輩の存在に気づいていない。奇跡が重なり、このややこしい三角関係の会話が生まれてしまっている。
ただこれ以上私に話かけられたら、さすがの大河先輩も不審に思うだろう。
私が声を出すわけにはいかないので、この危険な状況から逃げる方法を考えていた。
「……昨日の話、覚えてる?」
困っている私の願いも虚しく、ひたすらに私の方に視線を向けて、言葉を投げかけ続ける。
来衣先輩、すぐ近くに大河先輩もいるよ?
気づいてあげてよ。
大河先輩はいよいよ、来衣先輩の行動を不審がって、視線の先の方を不思議そうに見つめている。
その視線の先は私だ。その瞳からは怪しんでる様子が伺える。
「聞いてる? 未蘭」
ついに恐れていたことが起きる。
そこにいないはずの、私の名前を口にしてしまった。
大河先輩の反応が、怖くて全身から変な汗が吹き出しそうだ。
「……誰だよ。未蘭って」
「ああ?」
やっと大河先輩の声が来衣先輩に届いた。この空間にもう一人いると気づいた来衣先輩は、さっきまでの甘い声から一変して、低く素っ気ない声に変わった。
「……お前、大河か? なんだよ、いたのかよ」
「ずっといただろうが! 俺しかいないだろ」
そうなんですよ。大河先輩は最初からいたんです。
心の中で同調する。
「……いつからいたんだ?」
「何言ってんだよ、最初からいたわ」
「最初から……? なんで2人きりなんだよ」
「ああ? そんなに俺と2人きりが嫌かよ?」
「当たり前だろ、俺のなんだから」
当の本人たちは気づいていないが、すれ違いの会話が繰り広げられている。
来衣先輩が怒っているように見えるのは、もしかして……私が大河先輩と2人きりだったことにヤキモチを妬いている?
自意識過剰ながらにそう思ってしまったのは、来衣先輩が不機嫌丸出しの表情をしていたからだ。
今にも喧嘩に発展しそうな2人を目の前にして、声が出せない私はオロオロすることしかできなかった。事態を収集できなくて、パニックになった私は、何をおもったのか、来衣先輩の手を握ってその場から連れ出した。
いきなり手を引かれた来衣先輩は、体制を崩しながらも私に連れられて行く。誰もいない廊下までたどり着くと、とりあえず、危険な状況からは抜け出せたのでホッとため息が自然と漏れた。
「あ、来衣先輩、いきなりすみません」
「ずっとシカトされてたから、嫌われたのかと思った」
「き、嫌ってなんてないですよ?」
「よかった、それ聞けたからもう言うことないや、嬉しい」
感情をストレートに伝えてくれる来衣先輩の言葉に、心は素直に喜んでしまう。
「来衣先輩と大河先輩って仲悪いんですか?」
「……いや、仲良い方だと思ってたんだけどな」
先ほどの二人のやり取りと雰囲気が気になり尋ねると、来衣先輩は少し目を伏せながら話を続けた。
「目が見えなくて、絵が描けなくなった俺のことは、もう見たくないんだってよ」
「そんな酷いこと言ったんですか?」
「……ああ」
大河先輩に再び嫌悪感が募る。
「……本当はわかってるんだ。大河は俺以上に、俺が描けなくなったことが悔しいんだよ」
来衣先輩は、大河先輩との間に起きたことを丁寧に教えてくれた。
病気がわかって、最初はとても心配してくれていた大河先輩。しかし来衣先輩が美術部を辞めると言い出すと、態度が豹変したらしい。
「俺も辞めたくなかったけど……目が見えないから諦めざるを得なくて。仕方なかったんだ」
「……」
「俺が辞めたあたりから、大河も美術部に顔を出さなくなったって、人伝に聞いた」
「……そう、だったんだ」
「俺もあの時、もっとしっかり大河と話せばよかったと思ってる。ただ、病気だとわかった頃は、もう精神的にいっぱいいっぱいで……大河のことまで考える余裕がなかったんだよな」
悲しげに弱々しくなる声が、後悔してることを伝えてくれるようだった。
きっと、それぞれに思うことがあって、上手く伝わらずに、少しすれ違っちゃったのかな。
言葉を伝えることって大切だ。友達だった二人が言葉が足りないばかりに、仲がこじれてしまうなんて……。なんだか悲しい気持ちが込み上げてくる。
こうして来衣先輩とずっと話しているわけにはいかない。仕事を放棄していることになってしまう。ハッと気づいた私は、まだ来衣先輩の話を聞きたかったけど、大河先輩の元に戻ることにした。
「来衣先輩、私、ちょっと……」
「え、未蘭?」
名残惜しくなってしまうので、顔は見ないで言葉だけ残してその場を後にした。
美術室に戻ってくると、大河先輩はぶつぶつと独り言を呟いていた。顔をしかめて怒りに歪んだ表情はぞっとするほどだった。
「……なんだよっ、あいつ。すかしやがって。くそっ、見えないくせに、こんな絵を残しやがって……見えないなら、この絵を俺の作品として出しても……バレないんじゃね?」
それは耳を疑う言葉だった。にわかには信じられないことを言っているが、大河先輩の歪んだ表情が恐怖を引き立たさせる。
「いつもっ!あいつばっかり……俺だって……っ」
大河先輩はまるで自分と格闘するように頭を抱えた。そしてゆっくり顔をあげる。
その表情に身体が震えあがった。怒りと憎しみに支配されてまるで悪魔のような形相だったからだ。
物凄い勢いでイーゼルに立てかけてあったキャンバスに手を伸ばす。
彼が何を考えているか最悪のシナリオが頭に浮かんだ。おそろしい予感が瞬時に私の体を動かした。
なんとか同時にキャンバスを掴んだ。
固く掴んで絶対に離さないと決め込んだ。
「な、なんだこれ、このキャンバス、お、重い。う、動かない……」
大河先輩が持ち去ろうとしているキャンバスは来衣先輩描いたものだ。何をされるか分からないので、必死で掴んで抵抗した。
不吉な予感で胸騒ぎがする。それに今の自我を失っている大河先輩には絶対に渡したくない。
「……っ、なんでこんなに……重いんだよっ!……くそっ!」
持ち去られないように必死に抵抗するが、男性の力には敵わない。あっという間に力で負けてしまった。
グイっと引っ張られた拍子に、私の手からキャンバスが離れた。
「何かに引っ掛かってたのか? まあ、いい! 俺の描いた絵としてコンテストに出してやる」
やはり嫌な予感が当たってしまった。ニヤリと笑った顔は悪意に満ち溢れている。
このままでは来衣先輩の絵を無断で横取りされてしまう。名前を偽って提出されても、来衣先輩は目が見えないから盗られてしまったことに自分で気づくことが出来ない。
このことを知ってるのは私だけ。
私がなんとかしないと。
大河先輩は急ぎ足でどこかへ向かっていく。彼の腕の中には来衣先輩の絵が描かれたキャンバスが抱えこまれている。
一度は食い止めることに失敗したが、負けじと必死に追いかけた。
「……な、なんだ。またキャンバスが重くなってきた。……だ、誰かに引っ張られているような……」
大河先輩が持ち去るキャンバスを再び掴んだ。持ち去られないように必死に抵抗する。
私にできることは少なすぎて、こうするしか方法が見つからなかった。そんな私の抵抗など虚しく、力の強い大河先輩は手を離そうとしない私ごと引っ張って進んでいく。
「……なんだ、よ。なんで、こんなに重いんだよ」
ずるずると私はキャンバスと共に引きずられていく。傍から見れば相当重いキャンバスを引きづっている大河先輩の姿が奇妙に見えることだろう。私の頑張りは報われず、職員室が目の先に見えてきた。
だめだよ!いいわけないよ、こんなこと。
伝えることのできない言葉を、心の中で必死に叫んだ。
このままだと、大河先輩も後戻りできなくなってしまう。
「おっ、大河、その絵どうしたんだ?」
視えないところで攻防を繰り広げる私たちの前に、ちょうど1人の人物が現れた。
この先生は確か……。
記憶の中を探り出し思い出した。と同時に落胆する。
よりにもよって美術部顧問の中尾先生だったからだ。今一番現れて欲しくない人だ。
なぜなら大河先輩は美術部顧問の先生に、来衣先輩の作品を自分の作品だと偽り提出しようとしているのだ。
「中尾先生、あ、お、俺……」
まだ少し迷いがあるのか、大河先輩の表情は曇っていて強張っている。
そうだよ、だめだよ!大河先輩がしようとしていることは盗用でダメなことなんだよ。
本当は直接怒りたいし説得したい。しかしそれは今の私には不可能だ。やるせなくて苦しい。
「おお、それ、コンテストに出すやつか? 提出期限は明日までだぞ? どれ、見せてみろ、」
中尾先生は迷いがある大河先輩の手から、半ば強引にキャンバスを奪い絵を眺めた。
何度も深く頷きながら見入っているその絵は、来衣先輩が描いたものだ。
今思えば私が来衣先輩と初めて会ったとき、描いていたこの絵は来衣先輩の暗闇を表現していたのかもしれない。今もう一度見ても引き込まれる。まるで絵に飲まれてしまいそうな、そんな魅力のある絵だった。
「闇の感じのコントラストは、凄くいいんだけどな、高校生が描く絵には暗すぎるなあ……。コンテストのテーマは『日常にある幸せ』だろ?」
「……そうすか」
「少し手を加えたらどうだ? 明日までまだ時間はあるぞ?」
「それは、ダメっす、手を加えられないっすよ」
「そうなのか? 少し手を加えたらいい線行くと思うんだけどな」
「……いい線?」
「コンテストに出さないのはもったいない。賞を狙える絵だぞ」
やっぱり顧問の先生から観ても来衣先輩の絵は凄いんだ。
だって、素人の私でも引き込まれた。
って関心している場合ではなかった。
大河先輩に視線を向けると、なにか考えているように難しい顔をしている。
「……この絵、コンテスト狙えますか?」
「ああ、絶対出したほうがいいぞ?」
「……そう、すか」
「ああ、この絵なら、大河! 初めての受賞も狙えるぞ?」
「……俺が、受賞?」
「この絵だったら、いい線いくと思うぞ」
「そうっすね。出します。この絵」
中尾先生に後押しされた大河先輩は、コンテストに出すことを了承してしまった。
想像していた最悪の展開だ。
こうなったら、私の存在がバレてもいいから阻止しよう!
私のこの先に待ち受けることなど、どうでも良かった。今は来衣先輩の絵を守りたい。
次に口を開いたのは、決意した私ではなく大河先輩だった。
「……最上の奴探して、手直しさせるんで、明日まで待ってもらっていいっすか?」
「お? なんで最上なんだ?」
「……この絵、最上が描いたんすよ」
大河先輩は、引き攣った笑顔を浮かべた。
来衣先輩の絵を自分の絵としてコンテストに出すと息巻いていたのに、真実を公表したのだ。思わず呆気に取られてしまう。
でも、ほんとうによかった。
安心すると共に全身の力が抜けた。力をなくした足からその場にしゃがみ込んだ。
なぜ思いとどまったのかわからない。だけど本当に大河先輩が盗用しなくてよかった。
「俺、最上探してきます!」
中尾先生に軽く会釈をしてその場から小走りで去っていく。大河先輩の足取りは軽く見える。表情もさっきまでの毒気は抜けているように見えた。
校内をを探しながら、美術室を訪れると来衣先輩は美術室に戻ってきていた。
走り回って探していた大河先輩は、肩を揺らして呼吸が苦しそうだ。勢いよく美術室のドアを開けると、勢いこままに言葉を投げつけた。
「お、お前、探したんだぞ?」
「……」
「最上、あ、あのさ……」
「出せよ、その絵」
「は?」
大河先輩の言葉を待たずに、来衣来衣先輩は言葉を被せた。
その言葉からは、キャンバスを大河先輩が持ち去ったことはお見通しのようだった。
「そんな絵でいいならお前の作品として出せよ」
「……っ」
やはり来衣先輩にはお見通しだった。大河先輩は返す言葉がなく黙り込む
「ただ、そんな絵じゃ、賞なんて取れねえよ? まだ、完成してねえし。でも、俺には描けねえから」
「そんな絵って……すげえだろ。この絵は! 最初見たときにすげえ悔しかった。なんでこんな惹きつけられる絵を描けるんだって。俺、悔しくてさ……まじでこの絵を自分の絵として出すつもりだったんだよ」
「……なんで、やめたんだよ」
「正直、出す気満々だったんだ。けど。この絵を持つと、めっちゃ重くてよ……後ろから誰かに引っ張られてるみたいに全然進まねえの! それが怖くて……やっぱ、悪いことはできねえわ」
その原因は、完全に私のせいだった。持ち去れれないように渾身の力をふり絞り、キャンバスを掴んでいたからだ。なんだか居たたまれない気持ちになって心の中で謝罪する。
「未遂だから、罰当たらねえよな?」
「いや、もう、バチあたれよ」
「ははっ、悪いことは出来ねぇな、って実感した」
「……大河、お前はさ、これからも絵描けよ? 俺と違って、お前は描けるだろ」
「お前とずっと一緒に描いてきたんだ! 俺だけ描くなんて……嫌なんだよ」
「悪かったな、俺は病気で描けない。……俺の分まで描いてくれよ」
「来衣、お前の方が俺よりも才能があるのに……なんでっ、なんで、目が見えなくなるのがお前なんだよ……」
大河先輩の声は震えていた。涙が潤んで瞳が揺れている。潤んだ瞳からは今にも涙が零れそうだった。
「お前が泣いてどうすんだよ」
「うっ、な、泣いて、うっ、泣いてねえし」
零れ落ちる涙を制服の袖で乱雑に拭いた。しかし聴覚だけでも泣いているが分かるくらい、嗚咽が聞こえてくる。私はまた担当の表の一部分しか見ていなかった。声を上げて泣く大河先輩を見たら、彼も苦悩していたのだと感じる。
「描いたら見せてくれよ、お前の絵。……見えねえけど」
「お、おい、ブラックジョーク過ぎて笑えねえよ!」
淡々と発する言葉はぶっきらぼうに聞こえるが、それが来衣先輩の優しさだとわかった。
二人が元の関係に戻ってほしいな。そう、心の中で願った。そんな私の願いなど必要なかったかのように2人は笑い合っていた。
「よし、俺が手伝ってやるから、この絵、明日までに仕上げんぞ?」
「いきなり体育会系だしてくんなよ。だりい」
苦言を言いながらも、顔は笑っていて嬉しそうだ。来衣先輩の絵をコンテストに出せると思うと、私も嬉しくなり心が弾む。
「……っと、わるい、最上、進路のことで担任に呼び出しされてんだった」
「ああ、行けよ」
「終わったら、すぐ戻ってくっからさ! 明日までに完成させようぜ」
そう言い残して大河先輩は美術室を後にした。担当の大河先輩を私も追いかけた。しかし途中で足が止まる。美術室を振り返ると、来衣先輩は一人。目が見えない来衣先輩は、きっと一人では描けない。
行かなくてはいけないとわかってるのに、来衣先輩のことが気掛かりで足が動いてはくれない。
「わ、私、力になれませんか? 絵の知識なんて全くないけど……来衣先輩の……目でも手でも……なんでもなります!」
私の足は美術室に戻ってきていた。だめだと分かっていても、やっぱり放っておけなかった。
「……やっぱり描けない」
「来衣先輩……」
「大河には悪いけど、よく考えてみろよ。昼間でもほとんど見えてない。ほんの少し、本当に僅かしか見えてないのに、描けるわけないじゃん」
「……」
声をかけれなかったのは、来衣先輩の声が震えていたからだ。私には計り知れない苦しみを抱えている。
筆がガタっと音を立てて、床に落ちた音が教室に響く。
「はっ、だって俺、落ちた筆も拾えないんだ。どこにあるか……見えないんだ」
来衣先輩は、涙を堪えるように天井を見上げた。彼の代わりに床にポツンと佇む筆をゆっくり拾う。来衣先輩の右手を取り、筆を手の中に収めた。
「私が拾います」
「……色だって作れない」
「私がつくります」
「だったら、俺じゃなくていいだろ! 他の誰かだって……」
「私は筆を拾えるし、絵の具を混ぜることも出来ます。でも、このキャンバスの続きは描けません。描けるのは、来衣先輩しかいません」
「でも……」
「もし、もしもですよ? うまくいかなくても、それを含めて来衣先輩の作品にしませんか?」
「……」
黙り込む来衣先輩に、要らぬことを言ってしまったかもしれないと焦りが一気に押し寄せる。
「……未蘭には、色を作って欲しい。手伝ってくれる?」
「は、はい! 色ですね! だ、大丈夫かな」
色は作ると言い切ったくせに、いざとなると不安が襲ってくる。
絵心は昔からないし、こんな本格的な絵のお手伝いなんて経験がない。目の前のキャンバスに少したじろいでしまう。
「大丈夫。未蘭なら出来る。白8、黄色2、くらいの割合で混ぜてもらえる?」
「……しろ、8、……きいろが、2」
言われた数字を頭の中で何度も唱えながら、パッレットで色をつくる。
美術部でもないし、絵具なんて美術の授業で数回使う程度だった。コンテストに出す絵画に使うような色を私が作れるとは思えない。パレットの中で生み出された色を見つめながら考えていた。
しかしその不安はすぐに消し去られる。
落ち込む私が持つパレットから絵具を筆にとると、キャンバスに描かれた暗闇の世界に私の作った色で描く。その筆さばきは見とれてしまうほど綺麗で、本当に見えてないのだろうか。と疑問に思ってしまう。
「……き、きれい」
お世辞でもなく自然と漏れた。その世界観に見入っていた。
「だろ?」
「す、素敵です。めっちゃ、素敵です!」
「この光は、未蘭のおかげでできた」
「私が作った色じゃなくて、大河先輩が作った色の方がよかったんじゃないかなって思っちゃいます」
「この絵は、病気が発覚してから描いたんだ。だから、この暗闇は俺そのものを表してる。この光は未蘭。だから未蘭に色を作ってもらいたかった」
「わ、わたし?」
「未蘭がいなければ、俺は学校を退学してたし、この絵も描けてない。俺の光は未蘭。未蘭が俺の暗闇に光をくれたんだ」
そんな嬉しい言葉をもらう資格なんて、私にはないのに。嬉しいはずの言葉が、胸に噛みつくように痛かった。
「コンテストのテーマは"日常の幸せ"なんだって。未蘭にとって、日常の幸せってなに?」
「……生きてるだけで、幸せだと思う」
事故に遭い、仮死状態の私にとってはそれが本音で、それしかなかった。
「生きてる」それは1つの幸せなのだ。
生きていると、辛いことも悲しいこともあった。死んでしまったらそれが全てなくなってしまう。
「生きてるだけで……か」
「1日のうちに『これ、美味しい』『このテレビ面白い』そう心が安らぐ時が1度でもあればそれが幸せなんだと思う。だって死んでしまったら……(すべて消えてしまうから」
最後に言おうとした言葉は飲み込んだ。
「俺の日常の小さな幸せは、未蘭」
「……えっと」
「俺は病気になってから、いつ死んでもいいと思ってた。未蘭に出会って、暗闇だった俺の世界にまた未来が見えた気がしたんだ」
「で、でも、私は……」
今、私はなにを言おうとしてるんだろう。
「私は幽霊なんです」とでも言おうとしてたのか。言えるはずもない言葉は飲み込むしかなかった。ただ、来衣先輩の真っすぐな気持ちが、幽霊の私にはもったいない言葉で居たたまれなくなった。
私が幽霊だと知らない来衣先輩と時を共に過ごすのは、騙しているような気がする。心にどんどん罪悪感が募っていく。
頭を悩ませる私の耳に地鳴りのような音が耳に届く。
ドドドドと、その音はどんどん近づいてきて、何かがこっちに向かってくる音がする。猛獣が全速力で向かってくるような、そんな激しい音が鳴り響く。
「っち」
来衣先輩にも鳴り響く音は届いていたようで、小さく舌打ちをした。この音の正体を知っているようで、大きなため息を吐いた。
「最上!……はあ、待たせた、な。はあ」
肩を上下揺らして、息を切らして美術室のドアを開けたのは、大河先輩だった。呼吸はまだ乱れていて、急いできてくれたのがすぐに分かった。
「待ってない。今、いいところだったのに」
「いいところだったのか、どれどれ、おお、いい感じじゃねえか!」
「お前、戻ってくんなよ……良い雰囲気、邪魔すんな」
「確かに、いい雰囲気だなあ。うん、うん。って、邪魔ってひでえな。手伝うために全速力で走ってきたんだぜ?」
それぞれの意味する言葉は、おそらく違うのに会話が成り立っていてなんとも不思議だった。
来衣先輩は、私との会話を邪魔されたと思っている。
大河先輩は、私のことは視えていないので、絵を覗きながら目の前の絵のことだと思って話している。
すれ違いながらも成立している会話に、私は会話に参加できないので気配を消して見守った。
「いいじゃん! お世辞抜きに、いい絵だな」
「だろ?」
「それにしてもよく一人で描けたな」
「いや、一人じゃなくて……あれ?」
「どうした?」
「……いや、なんでもねえ」
絶対に来衣先輩は私の話題をすると思い、見えない死角に移動した。吉と出て私の話題が上がることはなかった。
来衣先輩に、気配を感じ取られないように遠目の死角から2人を見守った。
完成された絵の前で笑顔を見せる2人に釣られて、私も笑顔になるのだった。
校舎を出ると辺りは真っ暗で、夜はなにも見えなくなる来衣先輩のことが心配になった。
「最上、夜は見えねえんだよな」
「ああ」
「仕方ねえから、送ってやるよ」
照れ隠しをするように、頭をポリポリかいた。大河先輩は本当は優しいのに、きっと不器用だ。
「お前の世話にはなりたくねえよ」
大河先輩の前では昔のままのつんけんした態度の来衣先輩。
私の前でみたく、素直に思ってること伝えればいいのに。
「っだから! お前はいつもそう! こっちはもっと、頼ってほしいんだよ。なんで、頼ってくれないんだよ。壁作んなよ」
大河先輩の瞳は揺れていた。きっと来衣先輩には見えていない。見えていたら解決することも、目が見えないせいで難しいと改めて感じる。もともと仲が良かった二人。これ以上すれ違うことなく過ごしてほしい。そう思わずにはいられなかった。
「……じゃあ、頼むわ」
いつも以上にボソッとつぶやいた。夜の闇に隠れていたけど、来衣先輩の顔が少し照れているように見えた。