この恋には終わりがくることを、
 この想いは消えて忘れられてしまうことも。

 全部知って、それでも恋をした
 7日間限定の記憶。

 視えるはずのない幽霊の私に話しかけてきたのは、
 目が見えない彼でした。

 私は朝に弱い。起床した直後は身体の大半がまだ眠っているように重くて仕方ないのだ。気合ではどうにもできないこの身体の不調は体質としか言いようがない。


「……お、は……よ」

 眠気の残った声で挨拶をすると、罵声が飛んできた。


未蘭(みらん)! またギリギリに起きてきて! はあー、まったく。早くご飯食べないと遅刻するわよ」

「はいはい……」

 母の甲高い声は頭に響く。いつものことなので、聞き流しながらテーブルに目を向ける。
淡いピンク色の茶碗にご飯が盛られて、目玉焼きとウィンナー2本。いつもと変わらないメニューだ。

「朝ごはんいらなーい」

「またそうやって。朝ごはん食べないと1日の元気が……って、聞いてる? こら、未蘭!」

 朝からお母さんの小言なんて聞きたくない。話を最後まで聞かずに、リビングを出て洗面所へと向かった。
 洗面所で歯磨きをしていると、リビングから「まったく、あの子は――」と、お母さんの小言が聞こえてきた。

 あー、うるさいなあ。
 嫌気がさして愚痴の一つも言いたくなったけど、声に出すと朝から喧嘩が始まるので心の中にしまい込んだ。
 

 私と母は2人きりの家族だ。
 私が5歳の頃、父は交通事故で亡くなった。シングルマザーで、育ててくれた母とは親子二人きり。家事を積極的に手伝ったり、二人で仲良く買い物に出かけりと、親子仲は良好だった。家事をすることにも不満など一切なかったし、このまま母と二人で支え合って生きていくのだと思ってた。

 母との仲に亀裂が入ったのは最近のことだ。
 発端は男っ気がなかった母に、彼氏が出来たことだった。

 私にとって、母は「母」という生きモノであって、女という認識は薄い。目の前で普段と違う顔で笑う母を見て、複雑な感情になってしまうのは私の性格が悪いのだろうか。

 それに加えて母の彼氏とは折りが合わない。どうしても人間性を好きになれないのだ。

 17年という長年の絆が突然現れた男によって簡単に崩れてしまった。そのことに無性に腹が立ってしまう。


「……未蘭、今日ね、浅川さんが泊っていくから」

 浅川さんとはお母さんの彼氏のことだ。
 私が嫌っているのを知ってもなお、家に連れてこようとする。

「はあ?! 女子高生がいる家に男泊めるとか、正気?」

「浅川さんは、未蘭が思ってるような人じゃなくて……」

「浅川さん、浅川さんばっかり! 私、浅川さんのことは好きになれないって言ったよね?」

「未蘭はママが幸せになるのを応援してくれないの? 私はいつまで子育てする母でいなくちゃいけないのよ! なんでいつも邪魔ばかりするの! はあ。こんなことなら……」

「……っ。そんなに嫌なら、産まなきゃよかったじゃん。ママなんて……死んじゃえ!」

 それは勢いで出た言葉だった。怒りに任せて言ってはいけない言葉が口から放たれてしまった。
 言った後にハッとしてすぐ後悔した。しかし、今更謝る勇気もなくて勢いのまま玄関ドアを開けて外に出た。


 玄関のドアを開けると同時に、強い日差しが視界に入る。強い日差しに眩しさを感じながら、小走りで通学路に向かった。
 
 歩きながら顔は俯き頭の中で反省する。だけどあの言葉は今日いきなり出たモノではなかった。ここ最近の不満、我慢、様々な感情が混ざり合い、感情をコントロールできずに爆発して出た言葉なのだ。
 
 ドアが閉まる隙間から見えた母の顔は、いつになく強張っていて、脳裏にこびりついて離れない。思い出すと居たたまれない気持ちになり心臓がきゅっと締め付けられる。

 できることなら、言ってしまった言葉を取り消したい。

 ただ、最近家にいるとなんだが息苦しいのも本当だった。自分の家が一番安心する場所だったのに、安らげないような……。私の大好きな居場所がなくなってしまった。

「前みたいにママと二人で仲良く暮らしたいだけなのに――」

 空に向かって投げかけた。母に言ったことのない本音は強い日差しに搔き消される。

 

 後悔しながらもいつもと同じ通学路を通り、学校へと向かう。

 少し先に中学校と高等学校があるため、この道は学生の通学路になっている。道幅が狭く、お喋りに花を咲かせている学生で道を占領するのは日常だ。今日も雑談の声があちこちから飛び交っていた。

 ふと気づくと気になる小さい人影が見えた。
 少し先に小学校低学年くらいの女の子が1人、ポツンと立っていた。瞳いっぱいに涙を溜めて、今にも泣き出しそうな顔をしている。

 キョロキョロと辺りを見回してみたけど、その子の他に同級生らしい子はいなかった。道ゆく人は少女に誰も話しかけようとしない。迷子ではなく、ただその場にいるだけなのかもしれない。

 だけど、私は今にも泣き出しそうな少女をなんだか放っておけず声をかけた。

「どうしたの? 迷子になっちゃった?」


 出来る限りの優しい声で話しかけた。女の子は声を掛けられた事に驚いたのか、肩をビクッと震わせて固まってしまった。瞳には今にも溢れ出てきそうな涙が溜まって、うるうると揺れている。

「大丈夫! 大丈夫! お姉さんは怖くないよ?」

 今にも泣き出しそうなので、あたふたしながらも、さらに優しい口調で声をかけた。女の子は返事をせず小さく頭を振る。

 迷子じゃないってこと?
 うーん、どうしよう。

 頭を悩ませ、少し目を少女から離した。次の瞬間。少女は唐突に走り出した。


「あ、ちょっと! 待って!」

 女の子が走る先は車道に出てしまう。そのままの勢いで走って行ったら危ない。
 考えるよりも先に私の体が動いた。地面を蹴って女の子を追いかけるも、小学生の脚力は想像以上に早い。
 無我夢中で追いかけ、なんとか女の子の腕を掴んだ。

 しかし、足がついた地点はすでに車道だった。

「あっ、危ないっ、からっ……」

 いきなり走って息切れをしていた呼吸を整えた。直ぐに道路から離れようと足を1歩進める。

 ――と、同時にクラクションの音が鼓膜に刺さった。
 音の方を振り向くと、乗用車がすぐ目の前まで来ていた。一瞬のことに身体が動かない。
 
 これダメなやつだ。車に轢かれる。

 きっと今起きていることは1秒の出来事なのに、乗用車がゆっくりと迫ってくるのを目で追えている。頭の中ではゆっくり物事を考えられていた。

 (あ、これ。私死ぬんだ。今は邪魔者な私だけど、天国に行けますか?)

 心の中で存在するのかわからない神様に訊ねた。
 すぐ目の前には私目掛けて走ってくる乗用車が、危険を知らせるクラクションを鳴らし続ける。

 わかってる。この場から逃げないと、車に轢かれるって。でも、足が動かないの。自分でも感じた。
 ――間に合わないっ!
 

 死を覚悟した瞬間、スローモーションになるって聞いたことがあったけど本当だった。

 脳内では懐かしい記憶が蘇っていく。これが走馬灯なのだろうか。たった1秒のはずなのに、スローモーションで過去から現在までの記憶が頭の中に流れていく。

 まだ恋もしたことないのに。
 ママと喧嘩したまま、死ぬの?
 後悔の念が頭の中で駆け巡る。
 
 でも、これで息苦しい家に帰らなくていい。死にたくないと願う自分とは反対に、死んでもいい。そう思っている自分もいた。

 ただ、心残りがあるとすれば、お母さんに本音を伝えればよかった。
 これが後悔か。無理でしょ、こんないきなり死ぬのに後悔のない人生なんて。

 きっと私はこのまま車に轢かれるだろうけど、この少女は守りたいなぁ。
 ぎゅっと、女の子の体を抱きしめて包み込む。
 痛いの嫌だなあ。怖い、怖い――。
 恐怖でぎゅっと目を瞑って、ぐっと唇を噛み締めた。
 
 目を瞑ると共に、私の人生は幕を閉じた。

 次に目を開けた時、目の前には真っ白な世界が広がっていた。

 見渡す限り真っ白でだいぶ先まで白いもやが掛かっている。目の前に乗用車があって轢かれそうになって……。その後の記憶がない。

 自分の身体をくまなく確認するも、どこも怪我はしていなかった。痛みもない。先ほどの車に轢かれる映像が頭に浮かんでくる。さっきのことは夢?……でも、何かがおかしい。やっぱり、さっきの事故で私は死んでしまったのだろうか。

 今の状況が全く分からなかったけど、その場にいるのもなんだか怖くて足を前に進めた。ゆっくりと進んでいくとある行列が見えてきた。


「皆さーん。こちらに並んでください」

「死んだ人こちらから」というプラカードを手に持つ男性が声を上げていた。

 誰も居ない真っ白な世界が怖くて仕方なかったので、人がいたことに安心して緊張が緩む。状況を聞きたくて小走りで駆け寄った。


「あ、あのっ! ここって……」

「今きたばかりの人?」

「はい……ここはどこですか? 家に帰りたいんですけど……」

「あー、無理ですよ? ここにいるって事は死んでますから」

 プラカードを持つ男は淡々と事務的な口調で答えた。

「この先で、天国行きと地獄行きに選別するので、こちらに並んでください」

 あまりにも淡々と話すので、私の感情が追いついてこない。

「死んでる」その言葉は現実的に聞こえなかった。いや、信じたくなくて心が考えることを拒絶しているのかもしれない。

 行列に並んでいる人をみつめた。ご老人や若い男性、そしてまだ小さな子供まで。様々な年齢の人が並んでいた。年齢はバラバラだが、共通点が一つだけあった。みんなの顔は俯き表情は暗く、覇気が感じられない。

 頭の中で蘇る車が迫ってくる映像が鮮明に浮かび上がる。そして、現実離れした今の状況を踏まえて考えると、どうやら私が死んだことは確定らしい。
 認めたくはないが、ここは死後の世界のようだ。

 頭で理解すると目の奥が熱くなる。込み上げてくる涙が溢れないように、ぎゅっと唇を噛み締めて泣くのを我慢した。

 ここで泣き叫ぶのも違う気がしたので、誘導されるがまま行列に並ぶことにした。

 

 行列はどんどん前に進んでいく。これから私は天国行きか地獄行きかに分けられるようだ。
 こんな状況なのに取り乱すことはなく。死んだことを冷静に受け入れられている自分に驚いた。


 あの子は無事だったのかな?
 死んでしまった自分のことよりも、道路に飛び出た少女のことが気がかりだ。

 行列の先には大きな扉がみえる。大きな扉の前にはスーツを着た男性が立っていた。


「はい、君は天国」
「はい、君は天国」

「はい、君は地獄。ご愁傷様」

 大きな扉の前にいる男性が天国か地獄かを判別しているようだ。並んでいる人達に事務的に淡々と告げていく。

 男性に判別を言い渡された人は、その先の大きな扉を開けて中にスッと入って消えていく。

 あの大きな扉の先は、天国か地獄か――。

 私、邪魔者だったけど、天国に行けるかな……?
 特に悪いことをした事ないから大丈夫かな?
 さっきまでは冷静でいられたのに、ドキドキと心臓の鼓動が早くなる。

 怖くて足が小刻みに震え出した。震える足をなんとか1歩、1歩前に進める。

 不安が心を渦巻いてるうちに、判別を言い渡される順番が回ってきた。スーツの男性の前に立つと、余計に心拍数が跳ね上がる。言い渡される言葉を待つ緊張感が全身を駆け巡った。

 ――天国か、地獄か。
 お願い、天国に行きたい。
 心の中で祈りながら、目をぎゅっと固く瞑る。暗闇の中降りてきた言葉は、思っていたものと違かった。


「……ん? 君、死亡予定者リストにいないよ?」

 死亡予定者リスト?聞き慣れない言葉に、瞑っていた目をぱちっと開けた。

 スーツの男性は、言葉に詰まりながら怪訝そうな顔をしている。

 


「えー、えっと?」

「困るんだよ、君みたいに死亡予定者リストに記載されてないのに、勝手に死なれるとさ……」

「い、いや、私だって、死にたくて死んだわけではないんですよ?」

「……これから死亡手続きするから。はあ、面倒だなあ」

 大きなため息を吐きながら、心底嫌そうな表情を浮かべている。
 死後の世界にも、死亡手続きとかあるの?
 
 全く状況が飲み込めない。聞きたいことは山ほどあったが、話しかけてはいけないような雰囲気が漂っていたので質問を飲み込んだ。

 スーツの男性は考え込むような険しい表情でなにかを操作している。質問する勇気がない私は、仕方なく黙って待つことした。

 もう一度ちらりと彼を見ると、現世でいうスマホのような機械でなにか調べているようだった。


「……君、本当に死んでる?」

 再び口を開くと、探るような目つきで私を見ている。不可解そうに足の先から頭のてっぺんまで視線で撫でた。

「え、ここは死後の世界ですよね? ここにいるってことは死んでるんじゃ……?」

「そのはずなんだけど……探してもいないんだよなあ」


 いない? どういうことだろう。
 疑問符が頭の中にたくさん浮かんでくる。と同時に異変が起きた。
 
 ――ビービー
 警報音のような頭に響く音が鳴り響く。その音は決して耳障りのいい音とは言えず、耳を塞ぎたくなるような音だった。その音を聞いたであろう目の前のスーツの男性は、今まで以上に怪訝そうな視線を私に向ける。その表情が怖くて背筋がぞっとした。

「……君、不法侵入者か?」

 不法侵入?理解できない言葉に返事をすることができない。
 
「まだ死んでねえのに、こっちにくんなよ……! えー、不法侵入者の手続きは……めんどくせえな、いっその事死亡手続きしちまうか……」

 独り言のようにぶつぶつと呟いている。今起きていることが理解できてないけれど、いまだに鳴り響く警告と、目の前のスーツの男性の怪訝そうな表情を見ると、私がここにいることが良くないということだけは分かった。

 
 どうしよう。どうすればいいのだろう。
 良くないことと分かっていても、この場から動けずどうすることもできない。

 
「君……ねえ、そこの君、死亡予定者リストにいないの?」

 動揺している私の目の前に、今度は違うスーツ姿の男性がひょこっと現れた。目がくりっとしていて、男性だけど可愛さを感じた。歳は同い年くらいに見える。


「……そう、なのかな? 分からないんです」

「ふーん。門番さーん! この子うちで引き取っていい?」

 目の前に現れた男性は軽い口調で言葉を投げかけた。ずっと怪訝そうにしていた男はどうやら門番らしい。大きな扉の前で死後の世界に案内するのだから、門番という名前がピッタリだった。

「……引き取るって言っても、そいつ不法侵入者だぞ?」

「わーお、ってことは、現世に戻す手続きするってこと? あの手続き大変なんだよなー」

「……」

「引き渡してくれるなら、面倒な手続きこっちでやっとくけど?」

「あー、まあ、いっか。面倒ごとが減ってよかったよ」

 当事者の私はそっちのけで繰り広げられる会話をただ聞いていた。
 二人の会話の内容を聞いていると、私の扱いで揉めていることだけは分かる。

 話し合いが終わったのか、軽い口調で話すスーツの男がこっちに向かってきた。


「……っということで、僕についてきてくれる?」

「あ、あの! どうしたらいいのか分からないんです。あ、あなたは良い人なんですか? どうしたらいいのか正解が分からなくて……」

 私は正直に不安を口に出して伝えることにした。男は一瞬きょとんとすると、すぐに口を開いた。

「ははっ、『良い人ですか?』なんて初めて聞かれたなあ、うーん、難しい質問だけど、あの怪訝そうな対応の門番についていくか、目の前の笑顔の俺についていくか、それは君自身で決めなよ」
 
 目尻を下げて、わざとらしさを感じてしまうくらいの満面の笑みを浮かべている。

 もしかすると、この選択が私の人生を決めかねない。そう思うとすぐに決断することができなかった。決めきれない私に彼は言葉を続ける。

「あっちについていってもいいけど、死亡手続きされちゃうけどいいの?」

「え、だって……私死んでるんですよね?」

「死んでないかもしれない」

「……え、じゃあ、元の生活に戻れるんですか?」

「答えが知りたければついてきて?」

 ずっと怪訝そう顔をしていた門番さんより、数十秒前に現れた彼を信用したいと思った。その理由は直感でしかない。それに、死んでいないのかもしれない。この場に及んで小さな期待が生まれた。


「あ、あなたについていきます」

「よし、とりあえずついてきて? この場から離れよう」

 先を歩く彼に着いていくことにした。後ろを振り返ると、大きな扉と、その前に立つ門番さんが怪訝そうな視線を私に向けている。嫌な感じがしてすぐに前を向き足を進めた。
 
「君、名前は?」

「……早川未蘭です」

「えーと、早川未蘭ね」

 私の名前を復唱しながら、資料らしきものを手に取りじっと眺めている。

「……君、確かに死亡予定者リストにはいないなあ」

「あ、あの、死亡予定者リストってなんですか?」

「名前の通り、死亡予定の人間のリストだよ。このリストを元に俺たち死後の世界の住人が手続きを進めるんだ」

「……へえ、」

「死亡予定者リストにいなくても、稀に死んじゃう人もいるんだけどね……事故で突然死とか、殺されちゃうとか……」

「私、たぶん車に轢かれて……それで……」

 私の言葉を聞いて頷きながらも、手元のスマホのような機械で熱心に調べている。


「……少女を助けて、車に轢かれたみたいだね」

 車に轢かれた。
 やっぱりあの車に轢かれて、それで……。


「どうやら、死んでない……ね」

「え! 死んでないって、まだ生きてるってことですか?」

 「死んでない」その言葉に反応して彼に詰め寄った。勢いよく詰め寄ったので、距離が近くなり彼は後ずさりする。
 
「待って待って! 俺もまだちゃんと把握できてないんだ。期待させといて悪いけど、ここにいるってことは、限りなく死に近いってことは確実だよ?」

「結局、死んじゃうってこと?」

「うーん、死後の世界に迷い込んでしまってるからね……その可能性の方が高いかな?」

 淡い期待を抱いてしまったせいで、死を告げられた時よりも、深い絶望感に見舞われる。


「調べるから少し時間をちょうだい。あ、自己紹介してなかったな。俺の名前は(しゅう)。よろしくね」

「……宜しくお願いします」

 頭が理解するのに追いついてなかったけど、とりあえず軽い会釈をしながら挨拶をした。

「とりあえず……今から行くところは天国でも地獄でもなくて、また別なところなんだ。僕と一緒に来てくれる? これからのこと説明するから」

 柊はそう言うと私が返事をする前に、手を引っ張り、いつのまにか現れたエレベーターのような乗り物に足を踏み入れる。一瞬の出来事で、拒否することも拒むことも出来なかった。

 突然手を引っ張られて戸惑いつつ、辺り一面真っ暗で何も見えない。視界が視えないのに手を振りほどく勇気なんてあるはずもなく、柊に手を引かれたままだ。

 扉が開くと同時に淡い光が差し込む。真っ暗で何も見えない世界に差し込んだ淡い光のおかげで、辺りを確認出来た。
 目の前には先程の真っ白な世界とは程遠いテーブルに椅子がズラーッと並べてあり、オフィスのような光景が広がっていた。それはまるで普通の会社のようだった。

「現世のみんなが働くオフィスみたいだろ?」

 見透かされたかのように、私の考えていたことをいうので驚いた。


「普通の会社みたいでびっくりした。ここは本当に、死後の世界なのか疑っちゃうくらい」

「ここは、僕ら守護霊代行が働いている事務所です」

「しゅ、守護霊代行? ここで働く? 働くって? 私はどうなるの?」

 柊の言っていることが分からないことばかりで、不安な気持ちが押し寄せてきた。気づけば質問責めをしている。焦りが表情に思いっきり出ている私を見て、何が面白いのかハハッと笑いながら話し続ける。

「まず、今の状況を整理したい。死後の世界には『死亡予定者リスト』というものが存在するんだ。リストを確認しながら、門番が天国行か地獄行きかを選別するってわけ」

「……私は死亡予定者リストに載ってなかったんですよね?」

「そう、君のことを調べたけど、まだ確実に死亡はしていない。生死を彷徨っているのかもしれないね」

「そんなことあるんですか?」

「まず、聞いたことないな……。ただ、死後の世界に足を踏み入れてしまったということは、死亡手続きをして、無事に死者となる。あ、死ぬってことね? 手続きが終わったらさっき会った門番に選別されて、天国か地獄にいく……。これが普通の流れだね」

「……」

「死後の世界に迷い込んでしまった君に、ここで提案! 俺らの仕事を手伝ってみない?」

「え! し、仕事って……?」

 唐突に「仕事を手伝ってみない?」と言われたら私は、驚きと戸惑いで声が裏返る。分からないことだらけで戸惑う私に、柊は柔らかな微笑みを向けた。そして言葉を放つ。


「僕らの仕事は守護霊代行! ようこそ、守護霊代行の事務所へ」

「……」

 柊の声が合図のように、事務所の灯りがパッと灯った。私が柊についてきた選択は正しかったのか、間違いだったのか、この時の私は不安で胸が押しつぶされそうだった。


「そんなに深く考えずに高校生のアルバイトみたいな感覚でさ! どう? やってみない?」

「高校生でもアルバイトを決めるときは深く考えると思いますよ?」

 お気楽な口調で、日雇いバイトの話を持ち込むくらい軽い感じで言うので、今の置かれている状況とマッチしなくて、頭が混乱してしまう。

「分かった! 未蘭は結構真面目ちゃんだ!」

「……あの、まだ完全に死んでないなら、早く戻りたいです……」

「まあ、まあ、そう言わずに……人出が足りないんだよ、不法侵入したのも、何かの縁だし、気軽な気持ちで手伝ってよ」

 得体の知れない仕事を、気軽な気持ちで手伝おうと思えるメンタルは持ち合わせていない。目の前で両手を合わせてお願いされても、すぐに頷ける申し出ではなかった。一刻も早く元の自分に戻りたい。そう思うほかない。

「死んでないなら……戻れるっていうことですよね?」

「うーん、戻れるかは分からないんだ。死後の世界に不法侵入するって稀だからさ、正直、今後どういう待遇されるか分からないんだよな。その点、守護霊代行の仕事を手伝ってくれたら、安全は保障するよ? 勝手に死亡手続きをされる心配もない!」

 この仕事を手伝わなかったら、今後どうなるかは保証出来ず、元の自分に戻れるか分からないってことか。半分脅しのようにも感じる。

「……守護霊代行の仕事って、どんな仕事なんですか?」

「守護霊代行の仕事は、その名の通り、守護霊がいない人を守護霊の代わりに守る仕事だよ」

「守護霊の代わり? 守護霊って、本当にいるんだ……」

 生前に守護霊のことは知っていたけれど、本当に存在するのか深く考えたこともなかった。私は霊感がなかったし、幽霊が視えたこともなければ、心霊現象も信じないタイプだった。どちらかといえば、守護霊の存在も都市伝説だと思っていた。
 
 「ほとんどの人に守護霊(しゅごれい)が憑いていて、その守護霊が災害や危険に遭わ()ないように守ってくれてるんだ」

 非科学的な守護霊存在を肯定されると、自分にもいるのかな?と、気になりちらっと後ろを振り向いた。


「あはっ、未蘭にはもう守護霊はいないよ。一応、死後の世界だから」

 柊の言葉が、ぐさりと心に突き刺さる。死後の世界。改めて聞くと自分が置かれている立場に背筋が寒くなるようだった。


「話を戻すよ? 守護霊が間違いで除霊されてしまった人や、稀に守護霊が元々いない人もいるんだ。守護霊代行の仕事は、守護霊が憑いていない人を危険から守ること」

「……危険から守る?」

「わかりやすく言うと、道を歩いていたらモノが目の前に落ちてきて、あと1秒早かったら頭に当たってた! なんてヒヤッとした経験はない?」

「あ、ある、かも」


 少し考え込んだ後、思い当たる古い記憶がいくつかあった。


「そういう危機から守護霊か守護霊代行が守ってるんだ。小さい危機って身近にたくさんあるから」

「人を助けるのが仕事ってこと?」
 
「簡単に言うとそうだね」


 柊から守護霊代行の説明を聞いて、懐かしい記憶を思い出した。


「子供の頃に、軒下を歩いていたら頭の後ろにつららが落ちてきたことあった。……後1秒遅かったら、頭を氷の大きい塊が直撃して、大怪我するところだったの。もしかして、それも守護霊が守ってくれたってこと?」


 私の話を聞いた柊は、肯定するかのように頷いた。


「それはきっと守護霊か守護霊代行が助けてくれたんだと思うよ。現世の人はみんな守護霊に守られてるんだ。僕たちがやってる事はそういう手助けだよ」

 柊は優しい口調で説明してくれるので、守護霊代行の仕事のことが理解できた気がする。少しだけだけど。


「ちなみに……労働時間は?」

「労働時間? 仕事期間が終わるまでずっとだよ」

「ず、ずっと?」

「俺らは肉体があるわけではない。未蘭だって、肉体から飛び出てきてしまった魂なんだよ。要は現世を彷徨っている幽霊と一緒。肉体もないから疲労もしない。現世の労働基準法なんて適用されないよ?」

 とんだブラック企業だ。労働基準法が適用されないなんて、ブラック企業以外の何者でもない。高校生の私にだってわかる。

「労働した分、とびきりの報酬はあるよ?」

「報酬?……とてつもなく給料が良いとか?」

「なんと! 現金では買えないものでーす」

 現金では買えないもの。そのワードは、好奇心を刺激されるワードだった。


「……それって?」

「一般的な死者のいく先は天国か地獄しかない……。俺たちは無事仕事を終えたら、その二つ以外の道が用意されるんだ」

「別の道?」

守護霊代行(しゅごれいだいこう)の仕事をこなした者は、仕事の任期を終えると、労働の報酬として来世は勝ち組の人生を選べるんだ」

「か、勝ち組の人生って?」

「芸能人や野球選手、エリート会社員とか世間から勝ち組と言われる親の子供に生まれ変わることを確約される。誰に生まれ変われるか選べるから、1番人気は芸能人や政治家の子供に生まれ変わるのが人気だね」

 確かに、芸能人や政治家の子供に生まれ変われたら、お金に困ることは生涯なさそうだ。それだけで勝ち組ルート確定だということも頷ける。


「余計なお世話かもしれないけど……未蘭のことを調べた時にわかったんだけど。家のことで悩んでたんだろ? もし、自分の人生に不満があるなら、勝ち組の人生に生まれ変わるのも、アリだと思わない?」

「……」

 
 柊に言われて胸の奥がぎゅっと痛かった。確かに、私は最近の生活に不満だらけだった。シングルマザーで決して裕福ではない。買いたい服も我慢してるし、化粧品だってプチプラでさえ買うのを躊躇する。今の環境を、勝ち組か負け組かで表すなら、完全に負け組だろう。

 いっそのこと勝ち組の人生に生まれ変わったほうが得策かもしれない。そう思っている自分がいることも確かだ。

「答えはすぐにださなくていいよ? ただ、これは僕の仮説だけど、未蘭が死後の世界に迷い込んでしまった理由は、意識的なものが関係してたりするのかなって……死ぬ間際、死んでもいいやって、人生を諦めたりしなかった?」

「あ、」

 柊の言葉に、身に覚えがあった。車に轢かれる寸前、生きたいと思う気持ちと、環境の辛さにこのまま死んだ方がいいかもしれないと思ったのも事実だ。考え込む私を気遣って、柊は何も言わず、目尻を下げて優しく微笑んだ。幼い笑顔から私と年齢が変わらないんじゃないかな、と感じる。

「柊って何歳? あ、違うか、死んでるから……何歳だった?」

「俺は19歳! 大学生でしたー」

 思っていた年齢よりだいぶ年上だった。童顔で笑うと幼くなるから、高校生かと思った。同い年くらいかと思って、途中からタメ口になっていた。


「ごめんなさい。同い年くらいかと思ってた。あっ、思ってました」

「ははっ、今更、敬語使わなくていいよ。生前もよく若く見られたなあ」

「うん、じゃあタメ口で話すね?」


 柊の緩い喋り方は、年齢差を感じないので気を使うことなく話せる。



「まあ、さっきのは俺の仮説だからさ。未蘭のことを調べてもらってるから、どういう状況なのか確認してから決めるといいよ。……現世でいうと俺たちの上司がそろそろくるから、ちょっと待ってて」

「じょ、上司?」

「僕の指導係みたいな人。未蘭も守護霊代行の仕事を引き受けるなら上司になる人」

「上司……」

「大丈夫だって。楓さん、優しいから」

  働いたことがない私には、上司という響きが少し怖かった。怯えている私を感じ取ったのか、優しい言葉で励ましてくれた。




「あなたが、柊が連れてきた子?」


 背後からいきなり声が聞こえてきたので、びくっと体が震えた。驚きながらも振り向くと、さっきまで誰もいなかったはずの場所に、女性が一人立っていた。

 50代くらいに見えるショートカットで小柄な女性だった。彼女はスーツを着ていて、身なりがきちんとしている。
 女性の威圧感にたじろいでいると「この人が上司だよ」と横にいる柊がコソコソと小声で教えてくれた。
 この人が、上司。表情は険しく、眉間に皺が寄っていて第一印象は怖いと思った。


「は、はい」

「あらあら、まだ子供じゃないの! 事情は把握しているわ。私の方でも調べてみたの。……どうやら仮死状態のようね」

「か、仮死状態? それは、死んでるってことですか?」

「仮死状態は、正式にはまだ身体は生きている。だけど、魂が彷徨って、三途の川を渡って死後の世界に迷い込んでしまったみたいね。ここは死後の世界と呼ばれているけど、厳密に言うと、現世と死後の世界の境界線なの。未蘭ちゃんも見たと思うけど、大きな扉の先が本当の死後の世界よ」

「私の身体は仮死状態で、魂が足を踏み入れてしまったってことですか?」

「かなり珍しいことだけど……」

「そ、それって、やっぱり……そのうち、死ぬってことですか?」

「そうね、今は生きてるけど。魂がこっちに迷い込んでしまってる以上、死はすぐそこまできてるわ」
 
「……」
 
「死」その言葉がズンと心に錘のようにのしかかる。死後の世界にいることで、覚悟を決めたはずだったが、生きているかもしれないという期待が生まれて、戻りたいという気持ちが強く主張していた。その願いを打ち砕かれて、死というものが怖くてたまらない。


「未蘭ちゃんは……どうしたい?」

「え、」

「このまま死亡手続きを進めていいの?」

「確かに、車に轢かれるときは、このまま死んでもいいって、思ったんですけど……戻れるなら、死にたくないです」 
 
 心臓がバクバクしながら、自分の気持ちを精一杯、言葉にした。緊張で震えた声で伝えた言葉たちは、上手く伝えられたかは分からない。


「実はね、上層部と話してきたの。死亡する予定ではなく、死亡予定者リストに載っていなかったこと。少女を助けて善意に溢れていること。守護霊代行の人出が足りていないこと。さまざまな要因が奇跡的に重なった結果……守護霊代行の仕事を遂行後、未蘭ちゃんは現世に戻れることになったわ」

「ほ、ほ、ほんとうですか?」

「ええ。特例中の特例ね。自分の命をかえりみず、少女を助けた功績が大きかったみたい。柊に聞いたと思うけど、守護霊代行の仕事を終えると、勝ち組の人生が約束されている道を選ぶこともできるわよ? もしも生前の自分の人生に嫌気がさしていたならば、新しい人生という選択肢もあるってことよ?」

「……その話を聞いて、新しい人生もいいのかなあ、なんて思ったりもしました。もっといい環境に産まれたかった。正直、何度も思ったことあります。でも……あの、こんなこと言うのおかしいかもしれないんですけど、分からないんです。どっちを選ぶのが正しいのか」

「おかしいことじゃないわよ? 悩むのも当然。生前の自分に戻るのか、勝ち組と呼ばれる環境で新しい人生を選ぶのか、誰でも悩むわよ! 普通は親を選べないから、まあ、凄い報酬ではあるのよ? ただ、世間的に勝ち組と呼ばれる環境を選んでも、自分が幸せと思うかはまた違ってくるし……思う存分悩めばいいわ」

 いくら悩んでも決めきれない私に優しい言葉をかけてくれた。その言葉に、焦っていた気持ちが少し落ち着く。

「ただね、守護霊代行の仕事ができるのは限られた人たちだけなの」

「限られた人たち?」

「生前に、徳を積んだ人、なにか功績を残した人、その中でも、選ばれた人しかなれないのよ。だから、未蘭ちゃんもその権利があるというのは、とても誇らしいことなのよ。生前の行いがよかったのね」

「あ、ありがとうございます。……わ、私、あんあり褒められたことないから、なんだか嬉しいです」
 
「……うっ、本当に良い子じゃないの……」

 楓さんは目を真っ赤に染めて目頭を押さえている。話し出すと最初の怖いという印象が崩れ去った。感情豊かに話すので、本当に私を気にかけてくれているのが伝わってきてなんだか心地よい。
 
 

「守護霊代行の仕事内容は、だいたい柊から聞いた?」

「はい。少しは理解できたと思います。あ、あの! 一つ聞いてもいいですか? 守護霊代行の仕事って、期限とかはないんですか? 私はいつまでやるんでしょうか? 仮死状態の自分の身体が心配で……」

「守護霊代行の仕事は7日間。仮死状態の身体のことは7日間は仮死状態のままを保証される。死ぬことはないから安心して?」

「よ、良かったあ」

「改めて聞くけど、守護霊代行の仕事引き受けてみる? 生前の自分に戻るか、勝ち組の人生を選んで生まれ変わるかは、7日間ゆっくり考えたらいいわ」

「……はい、よろしくお願いします」
 
 悩む時間はなかった。しかし、今の私にやらない選択肢もなかった。頷きながらやってみようと決意する。

「未蘭ちゃんは、まだ高校生よね? 私の権限を使って、担当場所を通ってた学校にしてあげる」

「えっ、担当って?」

「守護霊代行の仕事は担当制で1人の人を守ってもらうことになってるの。毎日、担当は変わって任務期間は7日間。7人のひとを担当することになるわ」

「……なるほど」
 
「未蘭ちゃん、通っていた学校の名前は?」

「桜ヶ丘高校です」

「じゃあ、桜ヶ丘高校に担当を割り振るわね」

「ありがとう、ございます」


 楓さんはパソコンのような機械にカタカタと打ち込んでいく。まだ全部把握できたわけではないけれど、物事は進み始めているようだ。



「仕事の注意点だけど、『私たちの存在が人にバレてはいけない』これが基本的ルールだから気をつけてね。守護霊代行の姿は、人には視えないんだけど、声は人にも聞こえてしまうの。だから、任務の時は発語しないように気をつけて?」

「……はい」
 
「簡単に言うと肉体がない魂だから、幽霊みたいなモノだから。人には視えないけど、そこに確かに存在する。現世の言葉で言うと幽霊でしょ? 姿は視えないのに、声がしたらみんな心霊現象だと怖がって騒ぎになるから、見つからないように気をつけてね?」

「幽霊か……」

 守護霊代行の私たちの存在が人に見つかってはいけない。存在がバレないように担当のひとを危険から助けなければいけないのか。


「過去にも声を出して存在がバレた子がいたんだけど、担当する人間が幽霊がいると思ったんだろうね。霊媒師を呼んできて、消されちゃった守護霊代行もいるのよ。まあ、近づきすぎなければ基本バレないから大丈夫」

「け、消された?」

「所詮、魂だからね、霊媒師に除霊されて魂ごと消されたってこと」

「こ、怖すぎるのですが……」

「ははっ、大丈夫、大丈夫。今までに10回くらいないから」

「じゅ、10回もあるんですか……」

 楓さんは少しも気にする様子はなく、口を開けて笑顔を浮かべている。
 消された。なんて聞いてしまった私は平然と出来るわけもなく、自分も消されるのでは……?という恐怖で全身に身震いがした。

 

「あと、もう一つの注意点! 『担当以外の人を助けてはいけない』これも守ってね」

「担当以外の人を助けてはいけない? 目の前で危険な目に遭いそうでもですか?」

「残念ながら……目の前で担当以外の人が危険な状況でも、助けてしまうことはタブーよ」

「なんでダメなんですか?」

「ルールだから。ここは細かい理由なんて考えないで、"ルールだから"と割り切ってちょうだい」

「担当じゃない他の誰かが、死にそうな危険な目にあってても助けてはダメって事ですか?」

「残念ながら、そういうこと」

「もし、ルールを破ってしまったら?」

「私が知ってる中では、ルールを破った人は見た事ないわね。守護霊代行(しゅごれいだいこう)に入る人は、生前に善人で優等生ばっかりだから。みんなルール守って破った人は出てきてないのかな」

「……そっか」

 担当以外の人は危険な目にあっても見過ごせってことか。ルールだとわかっても、なんだかやるせない気持ちになってしまう。


「他の人を助けたくなる場面は、出てきてしまうと思うけど全員助けてたらキリがないのよ。そこは、割り切って、としか言えないわ」

 腑に落ちないといった表情で、小さく頭を振った。その表情から楓さんも私と同じ気持ちなんだとわかった。


「……私にできるでしょうか?」

「自分の命を顧みず、人助けをするんだもん。未蘭ちゃんにぴったりな仕事だと思うよ?」


 守護霊代行。
 言葉だけでは信じられないけど、仕事内容を説明されて、目の前で起こっている出来事が、紛れもない事実なのだと感じた。

 少し離れたところで、楓さんとの会話を見守っていた柊が、ひょこっと再び現れた。
 
 
「さっそくだけど、今日の担当のところ行こうか。俺が未蘭のお世話係だから、仕事を覚えるまでは着いてくことになってるんだ」

「柊も一緒にいてくれるんだ……よかった。よろしくお願いします」

 柊がお世話係をしてくれるらしい。
 説明を聞いただけでは、正直不安だったので、仕事を覚えるまでついてきてくれることに安心を覚えた。


 気づけば死後の世界にいて、守護霊代行の仕事をすることになった。展開がドラマのように、早過ぎてついていくのがやっとだ。こんな状況でも、丁寧に説明してくれた柊と楓さんには好感が持てた。

 冷静を装いつつもずっと不安だったので、仕事を覚えるまで着いてきてくれることにホッとして自然と小さなため息が漏れた。




「俺たち、眠気とか疲れとか感じないから仕事の任期終えるまで働き詰めになるよ! 覚悟して!」

 そう言った柊は不敵な笑みを浮かべている。確かに言われてみれば、身体に疲れや眠さは感じない。空腹感も感じない。

 まだ全然実感が湧かないけど
 本当に死後の世界に足を踏み入れているんだ。

 一気に寂しさと切なさが込み上げてきて、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。と同時に経験したことのない未知の未来に、少しだけ、ほんの少しだけわくわくしている自分がいた。
 


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守護霊代行(しゅごれいだいこう)の仕事内容

守護霊が憑いてない人を守護霊の代わりに
危険から守る手助けをする。

----- 報酬 -----

任期を終えると来世で勝ち組の人生が選べる。


----- 注意事項 -----

人に守護霊代行の存在がばれてはいけない。
人に接触しすぎない。声をかけてはいけない。

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 〜♬
 (しゅう)が手に持っていたスマホから音楽が鳴る。

「このスマホに自分が担当する守護対象者の詳細が送信されてくるよ。未蘭のスマホは、えっと……これね」


 そう言って渡されたのは現世で使っていたスマホと、なんら変わらないように見えた。



 ――
 本日の担当。
 松本若菜(まつもとわかな)さん 16歳 
 桜ヶ丘高校一年生
 ――


渡されたスマホの画面を見ると、そう表示されていた。


「未蘭が初めて担当する1人目は森本若菜さん」

「……は、はい」

「担当は1日で入れ替わり制だから、変なやつでも1日だけだから、我慢な」

「え、そんな……」

 不吉なことを言われると、これから始まる初任務が途轍もなく不安になってきた。顔に出やすい私は、引き攣っていたかもしれない。


「まあ、今日は俺と一緒だから問題ないよ。口で説明しても、わからない事ばかりだと思うから、実践あるのみ!」

「そ、そうだね。頑張ります」


 素直に頷く私を見て、柊は柔らかい微笑みを浮かべる。まさか私が死んでしまって、守護霊代行として人を助ける手伝いをすることになるとは……。
 頭の中はごちゃごちゃで情報を整理しきれていないけど、なんとか理解しようと努力した。

 ꙳
 これから森本 若菜(もりもと わかな)さんの担当として、見守っていかなければならない。
 これが私の初仕事となる。

 守護霊代行の事務所から現世に戻ってきた。
 現世に戻ってくると、見るもの感じるもの全て感慨深い。自分でもわからない感情が込み上げてきた。

 悲しいのか嬉しいのか苦しいのかわからない。だけど、心はあたたかいような。

 空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。毎日のように見上げていた空なのに、その青さの尊さに心を揺さぶられる。


 森本若菜さんは、私が生前に通っていた桜ヶ丘高校の1年生。サラサラの黒髪のロングヘアが似合う、可愛らしい女の子だ。
 私は2年だったので後輩にあたる。同じ学校の後輩といっても面識のない子だった。

 若菜さんは学校に向かうため、通学路を一人で歩いているようだ。耳にはイヤホンをして、外にまで漏れ出す音楽が大音量で聴いていることを教えてくれた。

 先輩となる柊と一緒に担当の若菜さんの近くに待機している。
 私たちは人からは視えていないので、こっそりする必要はないけれど、存在をばれてはいけないと言われると、衝動的に物陰にこっそり隠れてしてしまう。


「未蘭、隠れる必要はないんだよ?俺たちは、人には視えてないんだから」

「分かってるんだけど……なんか、ね。バレてはいけないと聞くたら隠れちゃうよね」

「まあ、距離が近過ぎると、驚いた時とかに思わず声が漏れて、それが聞こえちゃう時があるから、近づきすぎも要注意だね」

「……声は聞こえちゃうんだっけ?」

「あれ? 言わなかったっけ?」

 情報量が多すぎて、頭がパンクしそうだった。事前に教えられていても全てを覚えきれていない。

 記憶を思い返すと、最初に言われた気もする。
 ちゃんと覚えておこう。そう心で反省した。

 若菜さんと私たちの距離は10mほど距離がある。離れてるように感じるが、何か危険があればスッと手を伸ばせる距離でもある。


「カーッカーッ」

 空から甲高い鳴き声が降ってきた。空を見上げるとカラスの群れが私達のちょうど真上を飛び交っている。


「これは……まずいな。来るぞ!」

「なっ、なにが?」


 来るって、一体なにが?!
 柊の言ってる意味が少しも理解できなくて、ひたすらに戸惑っていた。


「――来た! 走って! 手で掴むんだ!!」

 俊は言葉を発したと同時に、私の背中を力強く押した。私は押された反動で足が前に出る。
「手で掴むんだ!」柊の言葉が頭の中に浮かんできて、気付くと手を高く伸ばしていた。



 ――ボトッ。
 鈍い音と共に、何かが手のひらに落ちた感触がした。手のひらには生ぬるい感触。……嫌な予感しかしない。見たくなかったが、勇気を振り絞って、チラッと視線を手のひらに向けた。


 ああ、やっぱり、カラスの糞だ。うわあ……最悪だ。
 守護対象者の森本若菜さんの頭に落ちるはずだったカラスの糞は、今私の手の中にある。つまり、私が森本さんの危険を救ったということだ。



「私たちの仕事って……こういうこと?」

「そういうこと!」

 柊は口角を上げて満面の笑みを浮かべる。その笑顔とは反対に、私の心はげんなりしていた。


 守護霊代行の初仕事を遂行できて嬉しいはずなのに、手の中に残るカラスの糞の温もりが、私を意気消沈させる。生前、カラスの糞が落ちてきた人を見たことは何度もあったけど、自分に落ちたことはなかったな。私にカラスの糞が落ちないように、守護霊が守ってくれてたのかな?ありがとう。

 ――って。 
 なんか、思ってた仕事と違うんだけど!
 心の中で悪態をついた。


 不満を引き摺る私をよそに、登校時間の通学路はたくさんの生徒たちが溢れかえっている。

 見覚えのある校舎にたどり着くと、思わず足が止まった。見慣れたはずの学校は、最近まで通っていた学校のはずなのに懐かしく感じて心の奥がぎゅっと締め付けられる。

 後者に1歩足を踏み入れると熱気と生徒の笑い声に包まれ、エネルギーが爆発してるようだ。

 事故に遭うまでは、ここに通っていたはずなのにすごく久しぶりに来たような……変な気持ちが込み上げた。

 私は今人には視えていない。誰よりも死に近い存在だ。この学校に通うことはないかもしれない。そう考えると、途轍もない寂しさが襲ってくる。


 生前はなんとなく通っていた。別に好き好んで行くわけではない。ただ毎日当たり前のように通っていた。

 今の立場になって寂しくて仕方ない。あちこちから飛び交う笑い声も、楽しそうな雑談の声も。入り込むことができないその空間は、外から見ると尊いものだと身に沁みて思う。
 何気ない日常は小さな幸せの積み重ねだとはじめて感じた。

 生徒たちの笑い声が耳に届くたびに、今の私には心に錘がのしかかったように辛かった。



 はじめての感情に戸惑いながら校舎を歩いていると、ある人物の名前が何度も聞こえてきた。

最上来衣(もがみらい)先輩ってさ……」
「最上が今日も来るらしいよ」
「最上来衣先輩、大丈夫なのかな」


 校舎に入ってからというもの、生徒たちの雑談の中から、やたらと同じ名前が耳に届く。

 最上来衣先輩。
 生前に何度も聞いたことのある名前だった。


 来衣先輩は他校にファンクラブがあると噂されるほどの有名人だった。高身長に整った顔立ち、パーツの配置も完璧で、そこにただいるだけで目立ってしまうような人だった。目立たなくて地味な私とは生きてる世界が違うような人だった。

 来衣先輩の名前が上がるのは生前もよくあることだったので、特に不思議には思わなかった。
 この時は、来衣先輩の名前が至る所から聞こえてくるのは、本当に人気なんだな……。くらいにしか思っていなかった。

 ――来衣先輩の身に起きていることに、この時は気づきもしなかった。


 校舎には走り回る生徒たちもいて、ガヤガヤと賑わいをみせていた。

「……っ! 凄い勢いで走ってくる人がいる」

 目の先にいる男子生徒が猛烈な速さで、私の方に走ってきた。
 どうしよう!こわい、こわい、こわい!

 勢いを落とさずに走ってくる男子生徒はすぐ目の前まで来ていた。


 ぶつかるっ!!
 衝突するのが怖くて思わず目をぎゅっと瞑った。


「ギャハハ――」

 豪快な笑い声はどんどん遠のいていく。
 衝撃も痛みもないので、瞑っていた瞳をおそるおそる開けた。すると、さっき私めがけて全速力で走っていた男子生徒はだいぶ先の方にいた。

 身体のどこも痛くない。追突されると思って身構えていたのに拍子抜けだった。

 不思議に思っていると、ハッと自分の置かれている現実を思い出した。
 私は魂だけの幽霊だから肉体がない。ゆえに、人とぶつかることはないのだ。

 自分が幽霊なことを忘れて、ぶつかると思ってヒヤヒヤしてしまった。チラッと柊に視線を向けると「くくっ」と肩を揺らして笑っていた。その様子を見ると、全部知っていたのに柊は教えずに観察していたみたいだ。


「……ちょっと! わかってたなら教えてよ」

 まだ笑っている柊に、わざとらしくむくれてギっと精一杯の睨みをぶつけた。

「どうするのかなーって面白くて見てた。ははっ、めっちゃ怖がってたな」

 私の睨みなんて気にもしてくれなくて、まだ笑っている。そんな彼に精一杯怒りの印に膨れっ面で反抗を示すしかできない。

「ははっ。俺らは魂で幽霊だから、人は通り抜けられるんだよ」

「今ので、わかりましたよ! ふんっ」

 
 みんなには私の姿が視えていないので、追突してくるのはもちろん悪気なんてない。そのつもりもない。

 ただ、私が勝手に追突される。と勝手に怯えていただけだった。


 私だって一度経験してしまえば現状を把握できる。
 それからは、廊下の真ん中を堂々と歩いてみせた。
 先ほどと同様に、走り回る生徒たちや、歩いている生徒はみんなスッと私の中を通り抜けていく。なんとも不思議な感覚だった。

 最初は通り抜けられる時がどうしても怖くて、目を瞑ってしまっていた。だが、慣れって怖い。
 数分後には目を瞑ることなく、スッと通り抜けられることが普通になっていた。


 さも慣れたかのように平然と歩き回っていると、柊は思い出したかのように言葉をこぼす。


「あっ、言うの忘れてたけど、助けるのは小さな危険だけだよ。大きい危険を助けてしまうと、俺たちの存在がバレる可能性がある。命を助ける行動も禁止事項な!」

「小さな危険って?」

「俺らが助けても、助けたことを誰にも気付かれないような危険のこと」

「存在がバレないために?」

「そう、派手に助けたりしたら、不審がられるだろ?」

「……なるほど」

 線引きが難しいな、と思った。
 私達の存在がバレないように、そこは注意していこう。

 若菜さんが教室移動で廊下を歩いていると、制服のポケットから、ひらりとハンカチが落ちた。音もせずに落ちたハンカチには気付かずに、先に進んでいく。

 周りには誰もいなくて、ハンカチは廊下に落ちたままだ。

 落ちたハンカチを見つめた。
 これは拾えるのだろうか。
 人は通り抜けられるけど、カラスの糞は触れることができたな……。記憶を思い出して考えた。
 答え合わせするように柊に視線を向けると、返事の代わりにゆっくりと頷いた。

 柊の反応を見て、ハンカチに()れられると確信した私はおそるおそるハンカチに触れた。指で持ちあげると、手の中に収まる。
 拾えた。そのままばれないように、そーっと若菜さんのポケットにそっと戻した。


「人は通り抜けられるのに、モノは触れるの?」
 
「ちょっと解釈が違うかな。俺たちから触るものは、触れるよ」

「……モノじゃなくても、私たち自ら触ると、触れれるってこと?」

「そう。触れられないと危険を助けることが出来ないだろう? だから、俺たちから()れるモノは(さわ)れるんだ」

「人からは私たちに触れることはないけど、私から人に触れようとしたら……触れるってこと?」

「その通り! 触れるものには『人』も含まれる。だから担当の身体に触れたりするなよ? 視えてないのに、肌に触れたら心霊現象だと思われて大変なことになるよ」
 
 私たちの姿は人に視えていないから、なにもないところから、腕を掴まれでもしたら……それは怖いだろうな。気をつけよう。心の中で決意する。
 

 ꙳
 
 私が担当の若菜さんを助けたことといえば、
 道路に落ちていたガムを踏みそうになってた。
 ガムを拾って回避。

 授業中に眠ってたのが先生にばれそう。
 頭をこづいて起こして回避。

 ……そのくらいだった。
 初めての仕事は、小さな危険は意外と少なくて、手持ち無沙汰になるくらいだ。そんな中でも、起きた小さな危険は救うことにさ成功していた。

 思ったより簡単かも……。
 安心してどこか気を抜いてしまったのかもしれない。

 ――この後、
 予期せぬ事件が起きてしまった。