ぼんやりしている間に火が安定してきた。チキンが持ってきてくれた広葉樹の枝を追加しつつ、焚き火台に網を置く。
「まずはアナグマを焼いて食べてみよう」
「ああ、そうだな」
食事は野菜から食べるようにと習ったが、今日ばかりはマナーに目くじらを立てる教師はいない。監督生であるアドルフも、同意してくれた。そんなわけで、先ほど串打ちしていたアナグマの肉を網の上に置く。
ジュウジュウと音がするのと同時に、肉の焼けるいい匂いが漂ってきた。
脂がたっぷりあるからか、網から滴り落ちていく。そのたびに、薪がボッと音を立てて火が燃え上がった。
両面よく焼いていく。あまり食べ慣れない獣の肉なので、しっかり火を入れておきたい。
焼けていそうな串を手に取り、ナイフで切ってみる。
「うん、いいかな」
アナグマの串焼きが完成した。
初めて自分で仕留めたアナグマである。ドキドキしながら頬張った。
脂がジュワッと溢れ、肉の旨みを感じる。よく噛むと、ほんのり甘さも感じた。
やわらかくて、とてもおいしい肉だ。
アドルフはどうだろうか? ちらりと横目で様子を見る。
「なんだ、この肉は……!」
それだけ零し、もう一口頬張った。目を閉じ、アナグマの串焼きを堪能しているように見える。感想を聞かずとも、おいしいというのがわかった。
それから私たちは、無言でアナグマの串焼きを食べる。
あっという間に完食してしまった。
「アナグマがこんなにもおいしいとは思わなかった」
「本当に」
「正直、ゲテモノ食いと思っていたのだが……」
私も昔、父が狩ってきたアナグマを食べる前は、そういうふうに思っていた。
「貴族の間でおいしさが伝わらないのは、アナグマが夜行性だからだろうな」
「たぶん、そうなんだろうね」
ちなみに父は、知人からアナグマ猟を教えてもらったらしい。
「今日、チキンがしていたみたいに、アナグマ猟は巣穴にフェレットを入れて、地上に追い出すんだって」
「なるほどな」
猟犬ならぬ、猟フェレットがいないと、アナグマにありつけないようだ。
続けて、アナグマのスープの残りを温めつつ、次なる調理に取りかかる。
選んだ食材は、泥抜きしていた大黒貝である。
四つ獲れたので、ひとりにつきふたつずつ。拳ほどの大きさがあるので、食べ応えがありそうだ。
アドルフが魔法で洗浄したあとも、泥を少し吐き出していた。再度よく洗って網の上に置く。
少し火が通ると、殻が開いてきた。さらに時間が経つと、パカッと開く。身の上にバターを置いて焼いていく。
バターが溶け、殻の中でぐつぐつ音を立て始める。そろそろいい頃合いだろう。
身の下にナイフを差し込み、殻と分離させたものをアドルフへ渡した。
「熱いから気を付けてね」
「わかっている」
念のため注意したにもかかわらず、アドルフはあまり冷まさないで頬張ったようだ。
顔を真っ赤にさせつつ食べている。
「熱い!! しかしおいしい!!」
「うん。一口噛んだ瞬間、スープかってくらいの旨みがじゅわっと溢れてきたね」
泥まみれだった貝がこんなにおいしいなんて。丁寧な泥抜きの効果か、まったく泥臭くなかった。
身はプリプリしていて、味わい深く、ほんのり効いた塩っけがいい。
ぺろりと完食してしまう。
続けてアナグマのスープを飲み、少しだけ胃を休める。
その後も、肉や野菜を焼いて食べ、お腹がはち切れそうだった。
こんなにお腹いっぱい食べたのは初めてである。
バルコニーにはデッキチェアが置かれていて、寝転がれるようになっていた。
先にアドルフのほうが横になっており、ぼんやりと夜空を眺めている。私も隣に腰を下ろした。
「君、こういうのしない人かと思っていた」
「食事のあとに寝たら、教育係に注意されるからな。でも、今日は目くじらを立てる者はいないから」
そうだったと思い、私も寝転がる。
「あ――!」
空には満天の星が広がっている。こんなにたくさんの星をみるのは初めてだ。
「嘘みたいにきれい」
「だろう? 王都は灯りが多い上に、工業が盛んだから、このようにたくさんの星は見えないのだろう」
しばし眺めていたら、星の粒が夜空を流れていく。
「あ、流れ星だ!」
「今日はよく流れているみたいだ。もう、十個も見た」
「そんなに――あ! アドルフ、願い星って知ってる?」
「なんだ、それは?」
「流れ星に願いを込めると、叶えてくれるっていうやつ」
「知らない」
そんな話をしているうちに、また星が流れていった。
「アドルフ、願い星をしてみない?」
「そうだな」
じっと夜空を眺め、流れ星が見えると願いを込める。
一瞬にして、流れ星は消えてなくなった。
「リオル、お前はなんと願った」
「魔法学校を無事、卒業できますように」
「堅実だな」
私の人生でもっとも楽しく、輝かしい時間だ。途中で断念するなんてしたくない。
私のささやかな願いだった。
「アドルフは何をお願いしたの?」
「幸せな家族を築きたい」
その願いは、いったいどういう意味なのか?
たぶん、私と結婚して――という願いではないのだろう。
世継ぎを私に産ませ離縁してから、想いを寄せる相手と結婚する。それが、アドルフの願いなのか。
頭の上から冷や水をかけられたような気持ちになる。
今の今まで、アドルフの想い人について調査することを失念していたのだ。
私はごくごく普通に、宿泊訓練を楽しんでいた。
こんなつもりではなかったのに。
同時に、これまで不確かだった感情に気づく。もうすでに、アドルフに対して気を許していたのだ。
だから、手放しに楽しんでいたのだろう。
どうしてこうなってしまったのだろうか? これまでのいがみ合う関係でいるほうがよかったのに。
希望に満ちた表情でいるアドルフに、言葉を返す。
「……叶うといいね」
「ああ」
その言葉を最後に、アドルフと私は黙って夜空を見上げる。
希望と絶望。
それぞれ別のことを考えているのは明白だった。
その後、協力して後片付けをし、一時間でレポートをまとめる。
それぞれ役割を決めて分担したからか、想定よりも早く終わった。
あとは、風呂である。
「アドルフ、僕は別荘にあるお風呂に入ってくる」
「そうか、わかった。そのまま、別荘で休むといい。教師の点呼には応じておくから」
「いいの?」
「もちろんだ」
小住宅から別荘まで徒歩十五分ほどで、そう遠くもない。けれども、夜は冷えるので湯冷めしてしまう可能性がある。アドルフの申し出はありがたかった。
「代わりに、リオニー嬢に明日の予定を伝えておいてくれ」
「わかった」
「お前は明日、どうするんだ?」
「別荘でゆっくりしておく。読みたかった本を、いくつか持ってきているんだ」
用意していた言い訳を、よどみなく答えられた。アドルフは疑っている様子はないので、ホッと胸をなで下ろす。
「だったら、レポートは俺が提出しておこう」
「ああ、頼むよ」
「次に会うのは明日の夕方だな」
「そうだね」
アドルフとはここで別れる。
明日からはリオニーとして彼に会わなければならない。今日のところはゆっくり休もう。
別荘に戻ると、侍女たちが優しく出迎えてくれた。
彼女らが用意してくれたお風呂に浸かり、一日の疲れを落とす。
ただ、思っていたほど体は疲れていなかった。
力仕事はアドルフが担っていたし、フェンリルがいた安心感からか気を張っていなかったのかもしれない。
お風呂から上がると、侍女が包装された丸い箱を運んできた。
「それは何?」
「アドルフ・フォン・ロンリンギア様からの贈り物が届いておりました」
リボンを解いて中身を見ると、美しい帽子が収められていた。
添えてあったカードには、〝グリンゼルの昼間は日差しが強いので、よろしかったら〟と書かれてある。
「すてきな贈り物ですわね」
「ええ」
相手がアドルフでなければ、そう思っていただろう。
どうせ、この贈り物も私の機嫌を損ねないために用意したに違いない。
「ねえ、手が空いている従僕はいる?」
「はい、おりますが」
アドルフに感謝の気持ちを記したカードと、焼き菓子、そしてホットミルクでも運んでほしいと頼んでおく。
「ミルクにはたっぷり蜂蜜を溶かして作るようにお願いして」
「承知しました」
きっと、硬いベッドで眠れないと思っている頃だろう。ホットミルクの力で、じっくり眠ってほしい。
私も眠ろう。たくさん動き回ったので、深く眠れそうな気がした。
◇◇◇
翌日――私は別荘で驚きの人物と出会うことになる。
「姉上、暇だから来た」
「なっ――!?」
引きこもりのリオルが、突然グリンゼルにやってきたのだ。
「リオル、どうしてここにいらっしゃったの!?」
「姉上が一人二役をするって聞いて、面白そうだから見に来た」
「あ、あなたという子は……!」
しかしまあ、これでリオルが別荘にいるという証拠はできたというか、なんというか。
「同級生が訪ねてきても、出てはいけません。わかりましたか?」
「どうして?」
「名前もわからないような相手と会って、不審がられたら困るからです!」
「ふうん」
一日中、家で大人しく本を読んでほしい。そう言い聞かせ、玄関に向かう。
心配でしかなかった。
チキンが当然のごとく、私の肩に乗って同行しようとした。
「ごめんなさい。あなたは連れて行けないの」
『どうしてちゅりかー!』
「今日はリオルではなく、リオニーとしてアドルフと会わないといけないから」
『ちゅりー! ちゅりとアドルフ、どっちが大事ちゅり』
「それは、時と場合によるから」
侍女が持っていたベルベットの小袋に、チキンを突っ込む。これの中に入れると、数秒でぐっすり眠るのだ。
「リオニーお嬢様、チキン様はお眠りになりました」
「そう。たぶん目覚めないと思うけれど、うるさくしたら口を閉じていいから」
「承知しました」
なんとかチキンを侍女に託し、外に出た。
本日は晴天。昨日よりも日差しが強い。アドルフが贈ってくれた帽子は、美しいだけではなく軽い。
道行く人たちが振り返り、お喋り好きのご婦人はどこで買ったのかと声をかけてきた。
「こちらは贈り物ですの」
「まあ! すてき」
この会話を再度することになろうとは……。
待ち合わせに指定されたのは、喫茶店だった。五分前に到着したのだが、アドルフはすでに待っていた。
魔法学校の制服ではなく、フロックコートを着ている。眼鏡をかけているので、いつもと違った雰囲気に見えた。
「アドルフ、お待たせしました」
「リオニー嬢――!」
アドルフは胸に手を当てて、紳士の挨拶を返してくれた。
「帽子、ありがとうございました」
「よく似合っている」
淡く微笑みかけられ、なんだか恥ずかしくなってしまう。
こんなの私らしくない。話題を変えよう。
「今日は、魔法学校の制服を見られるのかと思っていましたのに」
「同級生に見つかったらからかわれるから、私服にした」
「もしかして、眼鏡も変装ですの?」
「まあ、そうだな」
私が自慢の婚約者であれば同級生にからかわれるのも、やぶさかではないのだろう。入念に変装しているということは、きっと私を見られたくないから。
ショックを受けている自分に、驚いてしまった。
別に、婚約破棄したい相手がどう思おうかなんて、関係ないはずなのに。
「中に入ろう。個室を予約している」
ここでも同級生に私を見られたくないからか、しっかり個室を確保していたようだ。
田舎風に作られた内装はどこか素朴で、ホッとするような空間である。窓から見えるグリンゼルの湖畔は、絵画のように美しい。出された紅茶がとてもおいしく、焼き菓子は持ち帰りたいくらいだった。
「わたくし、ここのお店を気に入りました」
「それはよかった。以前、ここに住む――知り合いが、紅茶や茶菓子が最高だった、と話していたから」
ドクン! と胸が大きく脈打つ。
ここに住む知り合いというのは、アドルフの想い人ではないのか。
説明する前に、少しだけ言いよどんだのも彼らしくなかった。
このチャンスは逃さない。詳しい話を聞き出す。
「そのお方は、きっとたくさんの素晴らしいお店をご存じなのでしょうね?」
アドルフは困惑が滲んでいるような、なんとも言えない表情を浮かべている。
私に突かれたくない話なのだろう。
「とても、すてきなお方なのでしょうね」
「それは、どうだろう?」
話を逸らしたいのか、アドルフは感情がこもっていない声で返す。
「社交場に出入りしているお方なのですか? お会いしたら、挨拶をしたいと思っておりまして」
「いや、彼女は――」
知り合いは女性だ。粘ってみるものだと、内心思う。
「彼女はここで療養していて、人に会える状態ではないと、思う」
「ご病気、なのですか?」
「似たようなものだ。長い間ずっとここにいて、誰とも会っていない」
これまでアドルフを責めるつもりで質問攻めをしていたのに、もう何も聞けなくなってしまう。
アドルフの想い人は、グリンゼルの地で誰とも会わずに、療養しているという。
きっと、アドルフから贈られる薔薇と恋文を楽しみに、過ごしていたに違いない。
胸がズキズキと痛む。
なぜ? どうして? 意味がわからない。
「あの、ごめんなさい。込み入った話を聞いてしまって」
「いいや、気にしないでくれ。いずれリオニー嬢にも、話すつもりだったから」
けれども、話すタイミングは今ではないらしい。
「明日、ゆっくり話してくる。そのあと、打ち明けるから」
アドルフは最初から、隠すつもりはなく、頃合いを見て私に話してくれるつもりだったらしい。
それなのに、裏切られたと思い込んで、婚約破棄を目論んでしまった。
自分で自分が恥ずかしい。
心の中で深く反省した。
「まずはアナグマを焼いて食べてみよう」
「ああ、そうだな」
食事は野菜から食べるようにと習ったが、今日ばかりはマナーに目くじらを立てる教師はいない。監督生であるアドルフも、同意してくれた。そんなわけで、先ほど串打ちしていたアナグマの肉を網の上に置く。
ジュウジュウと音がするのと同時に、肉の焼けるいい匂いが漂ってきた。
脂がたっぷりあるからか、網から滴り落ちていく。そのたびに、薪がボッと音を立てて火が燃え上がった。
両面よく焼いていく。あまり食べ慣れない獣の肉なので、しっかり火を入れておきたい。
焼けていそうな串を手に取り、ナイフで切ってみる。
「うん、いいかな」
アナグマの串焼きが完成した。
初めて自分で仕留めたアナグマである。ドキドキしながら頬張った。
脂がジュワッと溢れ、肉の旨みを感じる。よく噛むと、ほんのり甘さも感じた。
やわらかくて、とてもおいしい肉だ。
アドルフはどうだろうか? ちらりと横目で様子を見る。
「なんだ、この肉は……!」
それだけ零し、もう一口頬張った。目を閉じ、アナグマの串焼きを堪能しているように見える。感想を聞かずとも、おいしいというのがわかった。
それから私たちは、無言でアナグマの串焼きを食べる。
あっという間に完食してしまった。
「アナグマがこんなにもおいしいとは思わなかった」
「本当に」
「正直、ゲテモノ食いと思っていたのだが……」
私も昔、父が狩ってきたアナグマを食べる前は、そういうふうに思っていた。
「貴族の間でおいしさが伝わらないのは、アナグマが夜行性だからだろうな」
「たぶん、そうなんだろうね」
ちなみに父は、知人からアナグマ猟を教えてもらったらしい。
「今日、チキンがしていたみたいに、アナグマ猟は巣穴にフェレットを入れて、地上に追い出すんだって」
「なるほどな」
猟犬ならぬ、猟フェレットがいないと、アナグマにありつけないようだ。
続けて、アナグマのスープの残りを温めつつ、次なる調理に取りかかる。
選んだ食材は、泥抜きしていた大黒貝である。
四つ獲れたので、ひとりにつきふたつずつ。拳ほどの大きさがあるので、食べ応えがありそうだ。
アドルフが魔法で洗浄したあとも、泥を少し吐き出していた。再度よく洗って網の上に置く。
少し火が通ると、殻が開いてきた。さらに時間が経つと、パカッと開く。身の上にバターを置いて焼いていく。
バターが溶け、殻の中でぐつぐつ音を立て始める。そろそろいい頃合いだろう。
身の下にナイフを差し込み、殻と分離させたものをアドルフへ渡した。
「熱いから気を付けてね」
「わかっている」
念のため注意したにもかかわらず、アドルフはあまり冷まさないで頬張ったようだ。
顔を真っ赤にさせつつ食べている。
「熱い!! しかしおいしい!!」
「うん。一口噛んだ瞬間、スープかってくらいの旨みがじゅわっと溢れてきたね」
泥まみれだった貝がこんなにおいしいなんて。丁寧な泥抜きの効果か、まったく泥臭くなかった。
身はプリプリしていて、味わい深く、ほんのり効いた塩っけがいい。
ぺろりと完食してしまう。
続けてアナグマのスープを飲み、少しだけ胃を休める。
その後も、肉や野菜を焼いて食べ、お腹がはち切れそうだった。
こんなにお腹いっぱい食べたのは初めてである。
バルコニーにはデッキチェアが置かれていて、寝転がれるようになっていた。
先にアドルフのほうが横になっており、ぼんやりと夜空を眺めている。私も隣に腰を下ろした。
「君、こういうのしない人かと思っていた」
「食事のあとに寝たら、教育係に注意されるからな。でも、今日は目くじらを立てる者はいないから」
そうだったと思い、私も寝転がる。
「あ――!」
空には満天の星が広がっている。こんなにたくさんの星をみるのは初めてだ。
「嘘みたいにきれい」
「だろう? 王都は灯りが多い上に、工業が盛んだから、このようにたくさんの星は見えないのだろう」
しばし眺めていたら、星の粒が夜空を流れていく。
「あ、流れ星だ!」
「今日はよく流れているみたいだ。もう、十個も見た」
「そんなに――あ! アドルフ、願い星って知ってる?」
「なんだ、それは?」
「流れ星に願いを込めると、叶えてくれるっていうやつ」
「知らない」
そんな話をしているうちに、また星が流れていった。
「アドルフ、願い星をしてみない?」
「そうだな」
じっと夜空を眺め、流れ星が見えると願いを込める。
一瞬にして、流れ星は消えてなくなった。
「リオル、お前はなんと願った」
「魔法学校を無事、卒業できますように」
「堅実だな」
私の人生でもっとも楽しく、輝かしい時間だ。途中で断念するなんてしたくない。
私のささやかな願いだった。
「アドルフは何をお願いしたの?」
「幸せな家族を築きたい」
その願いは、いったいどういう意味なのか?
たぶん、私と結婚して――という願いではないのだろう。
世継ぎを私に産ませ離縁してから、想いを寄せる相手と結婚する。それが、アドルフの願いなのか。
頭の上から冷や水をかけられたような気持ちになる。
今の今まで、アドルフの想い人について調査することを失念していたのだ。
私はごくごく普通に、宿泊訓練を楽しんでいた。
こんなつもりではなかったのに。
同時に、これまで不確かだった感情に気づく。もうすでに、アドルフに対して気を許していたのだ。
だから、手放しに楽しんでいたのだろう。
どうしてこうなってしまったのだろうか? これまでのいがみ合う関係でいるほうがよかったのに。
希望に満ちた表情でいるアドルフに、言葉を返す。
「……叶うといいね」
「ああ」
その言葉を最後に、アドルフと私は黙って夜空を見上げる。
希望と絶望。
それぞれ別のことを考えているのは明白だった。
その後、協力して後片付けをし、一時間でレポートをまとめる。
それぞれ役割を決めて分担したからか、想定よりも早く終わった。
あとは、風呂である。
「アドルフ、僕は別荘にあるお風呂に入ってくる」
「そうか、わかった。そのまま、別荘で休むといい。教師の点呼には応じておくから」
「いいの?」
「もちろんだ」
小住宅から別荘まで徒歩十五分ほどで、そう遠くもない。けれども、夜は冷えるので湯冷めしてしまう可能性がある。アドルフの申し出はありがたかった。
「代わりに、リオニー嬢に明日の予定を伝えておいてくれ」
「わかった」
「お前は明日、どうするんだ?」
「別荘でゆっくりしておく。読みたかった本を、いくつか持ってきているんだ」
用意していた言い訳を、よどみなく答えられた。アドルフは疑っている様子はないので、ホッと胸をなで下ろす。
「だったら、レポートは俺が提出しておこう」
「ああ、頼むよ」
「次に会うのは明日の夕方だな」
「そうだね」
アドルフとはここで別れる。
明日からはリオニーとして彼に会わなければならない。今日のところはゆっくり休もう。
別荘に戻ると、侍女たちが優しく出迎えてくれた。
彼女らが用意してくれたお風呂に浸かり、一日の疲れを落とす。
ただ、思っていたほど体は疲れていなかった。
力仕事はアドルフが担っていたし、フェンリルがいた安心感からか気を張っていなかったのかもしれない。
お風呂から上がると、侍女が包装された丸い箱を運んできた。
「それは何?」
「アドルフ・フォン・ロンリンギア様からの贈り物が届いておりました」
リボンを解いて中身を見ると、美しい帽子が収められていた。
添えてあったカードには、〝グリンゼルの昼間は日差しが強いので、よろしかったら〟と書かれてある。
「すてきな贈り物ですわね」
「ええ」
相手がアドルフでなければ、そう思っていただろう。
どうせ、この贈り物も私の機嫌を損ねないために用意したに違いない。
「ねえ、手が空いている従僕はいる?」
「はい、おりますが」
アドルフに感謝の気持ちを記したカードと、焼き菓子、そしてホットミルクでも運んでほしいと頼んでおく。
「ミルクにはたっぷり蜂蜜を溶かして作るようにお願いして」
「承知しました」
きっと、硬いベッドで眠れないと思っている頃だろう。ホットミルクの力で、じっくり眠ってほしい。
私も眠ろう。たくさん動き回ったので、深く眠れそうな気がした。
◇◇◇
翌日――私は別荘で驚きの人物と出会うことになる。
「姉上、暇だから来た」
「なっ――!?」
引きこもりのリオルが、突然グリンゼルにやってきたのだ。
「リオル、どうしてここにいらっしゃったの!?」
「姉上が一人二役をするって聞いて、面白そうだから見に来た」
「あ、あなたという子は……!」
しかしまあ、これでリオルが別荘にいるという証拠はできたというか、なんというか。
「同級生が訪ねてきても、出てはいけません。わかりましたか?」
「どうして?」
「名前もわからないような相手と会って、不審がられたら困るからです!」
「ふうん」
一日中、家で大人しく本を読んでほしい。そう言い聞かせ、玄関に向かう。
心配でしかなかった。
チキンが当然のごとく、私の肩に乗って同行しようとした。
「ごめんなさい。あなたは連れて行けないの」
『どうしてちゅりかー!』
「今日はリオルではなく、リオニーとしてアドルフと会わないといけないから」
『ちゅりー! ちゅりとアドルフ、どっちが大事ちゅり』
「それは、時と場合によるから」
侍女が持っていたベルベットの小袋に、チキンを突っ込む。これの中に入れると、数秒でぐっすり眠るのだ。
「リオニーお嬢様、チキン様はお眠りになりました」
「そう。たぶん目覚めないと思うけれど、うるさくしたら口を閉じていいから」
「承知しました」
なんとかチキンを侍女に託し、外に出た。
本日は晴天。昨日よりも日差しが強い。アドルフが贈ってくれた帽子は、美しいだけではなく軽い。
道行く人たちが振り返り、お喋り好きのご婦人はどこで買ったのかと声をかけてきた。
「こちらは贈り物ですの」
「まあ! すてき」
この会話を再度することになろうとは……。
待ち合わせに指定されたのは、喫茶店だった。五分前に到着したのだが、アドルフはすでに待っていた。
魔法学校の制服ではなく、フロックコートを着ている。眼鏡をかけているので、いつもと違った雰囲気に見えた。
「アドルフ、お待たせしました」
「リオニー嬢――!」
アドルフは胸に手を当てて、紳士の挨拶を返してくれた。
「帽子、ありがとうございました」
「よく似合っている」
淡く微笑みかけられ、なんだか恥ずかしくなってしまう。
こんなの私らしくない。話題を変えよう。
「今日は、魔法学校の制服を見られるのかと思っていましたのに」
「同級生に見つかったらからかわれるから、私服にした」
「もしかして、眼鏡も変装ですの?」
「まあ、そうだな」
私が自慢の婚約者であれば同級生にからかわれるのも、やぶさかではないのだろう。入念に変装しているということは、きっと私を見られたくないから。
ショックを受けている自分に、驚いてしまった。
別に、婚約破棄したい相手がどう思おうかなんて、関係ないはずなのに。
「中に入ろう。個室を予約している」
ここでも同級生に私を見られたくないからか、しっかり個室を確保していたようだ。
田舎風に作られた内装はどこか素朴で、ホッとするような空間である。窓から見えるグリンゼルの湖畔は、絵画のように美しい。出された紅茶がとてもおいしく、焼き菓子は持ち帰りたいくらいだった。
「わたくし、ここのお店を気に入りました」
「それはよかった。以前、ここに住む――知り合いが、紅茶や茶菓子が最高だった、と話していたから」
ドクン! と胸が大きく脈打つ。
ここに住む知り合いというのは、アドルフの想い人ではないのか。
説明する前に、少しだけ言いよどんだのも彼らしくなかった。
このチャンスは逃さない。詳しい話を聞き出す。
「そのお方は、きっとたくさんの素晴らしいお店をご存じなのでしょうね?」
アドルフは困惑が滲んでいるような、なんとも言えない表情を浮かべている。
私に突かれたくない話なのだろう。
「とても、すてきなお方なのでしょうね」
「それは、どうだろう?」
話を逸らしたいのか、アドルフは感情がこもっていない声で返す。
「社交場に出入りしているお方なのですか? お会いしたら、挨拶をしたいと思っておりまして」
「いや、彼女は――」
知り合いは女性だ。粘ってみるものだと、内心思う。
「彼女はここで療養していて、人に会える状態ではないと、思う」
「ご病気、なのですか?」
「似たようなものだ。長い間ずっとここにいて、誰とも会っていない」
これまでアドルフを責めるつもりで質問攻めをしていたのに、もう何も聞けなくなってしまう。
アドルフの想い人は、グリンゼルの地で誰とも会わずに、療養しているという。
きっと、アドルフから贈られる薔薇と恋文を楽しみに、過ごしていたに違いない。
胸がズキズキと痛む。
なぜ? どうして? 意味がわからない。
「あの、ごめんなさい。込み入った話を聞いてしまって」
「いいや、気にしないでくれ。いずれリオニー嬢にも、話すつもりだったから」
けれども、話すタイミングは今ではないらしい。
「明日、ゆっくり話してくる。そのあと、打ち明けるから」
アドルフは最初から、隠すつもりはなく、頃合いを見て私に話してくれるつもりだったらしい。
それなのに、裏切られたと思い込んで、婚約破棄を目論んでしまった。
自分で自分が恥ずかしい。
心の中で深く反省した。