魔法学校に通うワケアリ男装令嬢、ライバルから求婚される「あなたとの結婚なんてお断りです!」

 ロンリンギア公爵家の御者は、我が家の馬車も呼んでくれていたようだ。
 アドルフと別れ、馬車に乗りこむ。
 御者と護衛の慌てようから、アドルフがいなくなったと大騒ぎになっていたのかもしれない。
 アドルフは現在地がバレないように、指輪の機能を封印していたらしい。それを、公爵家の魔法師に解除され、発見されてしまったのだという。
 別れ際のアドルフは、それはもう不機嫌だった。
 けれども、私に声をかけるときは落ち着いていて、「この埋め合わせはいつか必ず」とまで言っていた。
 別に、そろそろ帰る時間だったので、問題はないのだが……。

 帰宅すると、父が待ち構えていた。

「……ただいま帰りました、父上」
「ああ、よくぞ帰った。今日はロンリンギア公爵家のアドルフ君と出かけたようだな」
「ええ、まあ」

 父は私がアドルフの婚約者に選ばれたことに関して、もっとも喜んでいるようだった。
 これから婚約破棄の流れになるので、落胆させてしまうのだが。

「アドルフ君の機嫌をそこねないように、上手く付き合うように」
「なるべく努めます」

 父との会話は適当に流しておく。リオルへのお土産のクッキーは執事に託し、疲れたからと言って部屋に戻った。

 廊下を歩いていると、チキンが飛んでくる。

『お帰りなさいちゅりー』
「ただいま。いい子にしてた?」
『もちろんでちゅり!』

 チキンは私の肩に止まり、頬ずりしてくる。
 年々甘えん坊になっている気がするが、使い魔というのはそんなものなのだろう。

 メイドがお風呂の準備をしてくれたので、浴槽にゆっくり浸かる。
 今日の疲れが、湯に溶けてなくなるような気がした。

 なんというか、婚約破棄はされなかったし疲れてしまった。けれども、なんだか楽しかったような気がする。
 きっと自分が行きたいと思うところに行けて、勝手気ままに振る舞えたからだろう。
 アドルフの怒る以外の表情を見られたのも面白かった。
 思いのほか、彼は女性に対して寛大である。その度量を、普段の学校生活でも見せてくれたらいいのだが。
 それはそうと、アドルフが薔薇の花束と恋文を贈っていたのは誰なのか。
 単なる好奇心だが、相手についての情報も知りたい。
 それらについて情報提供をしてくれたのはランハートだ。今度会ったときにでも、詳しい話を聞いておこう。

 お風呂に入ったら疲れが取れた。夕食後にクッキー作りを行う。
 いつも作っているのは、シンプルなシュガークッキーだ。
 素朴な味わいで、紅茶やミルクとよく合う。
 私が作るクッキーの中で、リオルが唯一おいしいと認めるものでもあった。

 髪が邪魔にならないように纏め、三角巾を当てて結ぶ。エプロンをかけ、腰部分でリボンを結んだ。
 材料は小麦粉、バター、顆粒糖に卵、バニラビーンズ。
 まずはバターを室温にし、なめらかになるまでホイップする。クリーム状になったバターに顆粒糖を加え、さらに混ぜた。これにバニラビーンズ、小麦粉を入れ、生地がまとまるまで練っていく。
 生地がなめらかになったら布に包み、保冷庫の中で一時間休ませる。
 一時間後――棒状に伸ばした生地に顆粒糖を軽く振るう。次にクッキーの形を整えるのだが、私は型抜きではなく、クッキースタンプと呼ばれるものを使う。
 クッキースタンプというのは、模様が刻まれた型である。生地に押し当てると、美しい模様が移しだされるのだ。
 今、お気に入りなのは、マーガレットに似たクッキースタンプである。これを生地に押し当てると、マーガレット型のクッキーに仕上がるのだ。
 生地を一口大にカットしたものに、クッキースタンプを押し当てる。可愛らしいマーガレット型のクッキー生地を、油を薄く塗った鉄板に並べていった。
 生地の形が整ったら、最後に熱していた窯で焼いていくのだ。
 十五分ほどで、おいしそうに焼き上がった。
 粗熱が取れるのを待っていると、厨房にリオルがやってきた。

「クッキー、また焼いたんだ。ルミに頼まれたの?」
「いいえ、これはアドルフに差し上げるものです」
「本気?」
「嘘を言ってどうするのですか」

 リオルはズンズン接近し、焼きたてのクッキーを摘まむとそのままパクリと食べる。

「熱っ……!」
「できたてほやほやですので、当たり前です」

 勝手に食べたのに、抗議するような視線を向けていた。文句を言うと思っていたが、想定外の言葉を彼は口にする。

「修道院のクッキーより、姉上のクッキーのほうがおいしいな」
「それは当たり前です。あなたの好みに合うように、改良したのがこちらのクッキーですから」
「そうだったんだ。だったら、姉上が作るクッキーはすべて僕の物なんじゃないの?」
「何をどう考えたら、そういう思考に至るのか」

 まあ、いい。たくさん作ったので、三分の一はリオルに分けてあげる。
 ランハートにもあげよう。情報料として渡すのだ。
 リオルは満足したのか、クッキーを持っていなくなった。
 粗熱が取れたクッキーは缶に詰め、アドルフ宛てに書いたカードを添えておく。
 包装してからロンリンギア公爵家のアドルフに送るようにと、侍女にお願いしておいた。
 なんとか労働責任量(ノルマ)を達成できたので、ひと息つく。
 今日はゆっくり眠れそうだ。 

 ◇◇◇

 実家から魔法学校に戻ると、日常が帰ってきたと思ってしまう。
 いつの間にか、貴族令嬢としての私は非日常になっていたようだ。
 制服に身を包み、朝から冷え込むので特待生のガウンを着込む。
 これを着る栄光を得られたのも三年目。
 結局、このガウンを着用できたのは私とアドルフだけだった。
 つまり、まるまる二年もの間、アドルフとお揃いのガウンを着続けたというわけである。
 一時期は恥ずかしくて、アロガンツ寮のガウンを着て学校に通っていたときもあった。
 けれども、特待生のガウンは保温及び保冷魔法がかけられていて、快適に過ごせるのだ。一方で、寮のガウンはただの上衣である。圧倒的に、特待生のガウンが過ごしやすい。
 私の恥ずかしいという気持ちは、寒さと暑さを前にするとあっさり負けてしまうのだ。

 朝――食堂に行くと、新入生が大勢押しかけていた。
 パンやチーズを大盛りに取り分け、時間が許す限り食べている。
 そういう食べ方ができるのは、今だけだ。
 三学年となった者たちは、パンはひとつ、チーズは一切れと、皿の上は慎ましい量しかない。
 二年間の寮生活で、食べたいだけガツガツ食べるというのは品がない、と厳しく躾けられた証である。

 食事量に制限はない。けれどもお腹いっぱい食べられるという環境は贅沢なものだ。
 自分たちは恵まれた者たちだと自覚し、必要最低限の食事を取る。
 それこそ、|高貴なる(ノブレス)|存在の務め(オブリージュ)なのだと、卒業していったかつての監督生が語っていた。
 ちなみにこれらの指導は、朝食時のみである。昼食や夕食は好きなだけ食べられるのだ。

 少々厳しすぎるのではないか、育ち盛りの子どもに食事を制限するなんて酷い行為だ、などという声を上げる保護者もいる。
 けれども朝からお腹いっぱい食べ、満腹感から授業中に眠ってしまう子どももいたため、この決まりは伝統と化してしまったようだ。

 魔法学校が貴顕紳士を作り出す場所だというのは、上手く言ったものだと思う。
 その言葉のとおり、野生育ちのようでわんぱくな生徒も、三学年ともなれば立派な紳士然となるのだ。 

 入学して一週間くらいは、大人しく席について食べていたら厳しく注意されない。
 けれどもそれを過ぎたら、厳しい食事マナーの指導が始まるのだ。
 今のうちにたくさんお食べ、と心の中で新入生たちに声をかけた。
 ジリジリとけたたましいチャイムの音が鳴る。
 新入生たちに朝食の時間が終了したと告げる音だ。食堂の混雑を避けるために、各学年、時間をずらすようにしているのだ。
 急いでベーコンを食べる者、パンを制服のポケットに忍ばせる者、食事を残して足早に去る者と、さまざまだった。

 食堂はあっという間に、静けさを取り戻す。
 一学年のあとは、三学年の時間となっている。ほとんどの生徒が校外学習にでかけているため、食堂へやってくる生徒は少なかった。
 さて、今日は何を食べようか、と考えていたら、背後より声がかけられる。

「リオル・フォン・ヴァイグブルグ! ぼんやり立ち止まらない!」

 振り返った先にいたのは、特待生のガウンに監督生の腕章を合わせた姿のアドルフだった。
 注意したあと、してやったりとばかりに笑っていた。
 私に恥をかかせようと、わざと言ったのだろう。腹立たしい気持ちになる。
 昨日、リオニーだった私には、恥をかかせまいと泥を被ってくれたというのに。
 女性を敬い、尊重するという姿勢は、魔法学校に通って身に着けた紳士教育の一環だ。きちんと身についているではないか、と内心賞賛する。

 肩に止まっていたチキンが、物騒な提案を耳元で囁く。

『ご主人さま、あいつの頭に、羽根をぶっ刺してきましょうか? ちゅり?』
「絶対に止めて」

 チキンが自主的に私を守る行動を取る前に、アドルフの前から立ち去らなければ。
 そう思っていたのに、引き留められる。

「おい、お前」

 お前だけでは多くの人が当てはまる。そのまま立ち去ろうとしたのに、腕を取られてしまった。

「何?」
「昨日、リオニー嬢……お前の姉さんは、なんか言っていたか?」
「なんかって?」
「その、怒っていなかったか?」

 ロンリンギア公爵家の者たちの介入により、外出が強制的に終了してしまった件に関して、憤慨していたのではないか心配だったらしい。

「別に、なんとも」
「そうか」

 明らかにホッとしたような表情を浮かべる。私の気分を害していないか、気がかりだったようだ。
 結婚のために、天下のアドルフ・フォン・ロンリンギアがご機嫌伺いをするなんて。愛人を迎えるにあたり、格下の家柄の娘との結婚を確実に成立させたいのだろう。
 彼がそこまで情熱を傾ける相手とは、いったい誰なのか。気になって仕方がない。

「リオル」

 初めて名前を呼ばれ、驚いてしまう。リオルは弟の名前だが、二年間呼ばれ続けると、自分のもののように思えるから不思議だ。

 アドルフはこれまでにないくらい、真剣な眼差しで私を見つめている。そして、想定外の言葉を口にした。

「今後、お前の姉さんを悲しませるようなことはしない。約束する」

 昨日の出来事を受けての誓いなのだろう。
 けれども、本当にそれが遂行できるのだろうか?
 妻以外の愛する女性を傍に置き、悲しい思いをさせないなんて、ありえないだろう。

 私もまっすぐアドルフを見つめ、言葉を返した。

「姉の結婚相手が、君でなくてもいいんじゃないかって、僕は思っているよ」

 何か言い返すのではないか、と思ったが、アドルフは雨の中に捨てられた子犬のような表情でいた。

 そんな彼を無視して、食事が並んだテーブルのほうへ向かう。今度は引き留められなかった。

 ◇◇◇

 放課後――誰もいない談話室に、ランハートの姿があった。難しい表情で、参考書とにらめっこしている。

「やあ、ランハート」
「ああ、リオル! ちょうどいいところにきた」

 魔法騎士隊の従騎士となったランハートは、レポートの作成に苦労していたらしい。
 どういうふうに書けばいいのかわからず、頭を抱えていたようだ。

「自習室じゃなくて、どうしてここでやっていたの?」
「ここにいたら、リオルが通りかかるんじゃないかって思って」

 神さま、天使さま、リオルさま、と言い、手と手を合わせる。仕方がないと思い、レポート作りを手伝ってあげた。

 一時間後――ランハートは満足げな表情で背伸びする。

「いやはや、助かったよ。さすがリオルだ。感謝の印として、今度購買部でお菓子を奢ってやるよ」
「それよりも、教えてほしい情報がある」
「ん?」

 周囲に人がいないことを確認し、ランハートに耳打ちをする。

「以前聞いた、アドルフが薔薇と恋文を送っていた相手について知りたい」 
 これまでへらへらしていたランハートの表情が、一気に引き締まる。

「いきなりどうしたんだ?」
「アドルフは見合いの席で、薔薇と恋文を渡していた相手について、言わなかったらしい。そういう相手がいるならば、きちんと事前に伝えておくのが礼儀だろう?」
「まあ、それはそうかもしれないけれど」

 貴族にとって結婚は、政略的な意味合いが強い。そのため、結婚相手との生活を義務とし、爵位を継承する子どもが生まれたら、愛人を迎える者も多い。
 平和な暮らしを送るために、愛人を傍に置くときは、配偶者に理解を得るのが普通だ。
 夫となった者に愛人がいる場合、その女性をしっかり管理するのも妻の務めなのである。
 いろいろおかしいけれど、これが貴族のやり方なのだ。

「なあ、薔薇と恋文を贈っていた相手は、リオルのお姉さんじゃないのか?」
「それはない」

 アドルフから薔薇と恋文が届いたことなんて、一度もなかった。

「頻繁に薔薇や恋文を受け取ったのが恥ずかしくて、家族に隠していた、なんて可能性は?」
「絶対にない」
「届いていたけれど、父親が処分していたというのは?」
「それもない。父はアドルフとの結婚に賛成だったから」
「そうか」

 リオルが処分していたというのも考えにくい。あの子は他人への干渉を面倒に思うようなところがあるから。

 ランハートは後頭部をガシガシ掻き、大きなため息をつく。

「いや、なんか悪かったな」
「何が?」
「余計な話をしたと思って。ほら、当時のお前は進級前試験で次席になって、ふてくされていただろう? アドルフの弱みみたいな話をしたら、元気になるかと思ってしたんだよ」
「ああ、そうだったんだ」

 たしかに、一年前の今頃は、成績が落ちて酷く落ち込んでいた。
 二学年は試験に苦手な実技もあったため、アドルフに差を付けられてしまったのだ。
 悔しすぎて、不機嫌な状態が続いていたような気がする。
 そんな中で、アドルフが恋人に薔薇の花束と恋文をせっせと贈っている、なんて話を聞いた。あんな奴にも誰かの気を引きたい気持ちがあるのだと、面白がっていた記憶が残っている。 

「まあ、何はともあれ、愛人にするような女性がいるのに、黙ったまま姉と結婚するというのは面白くない。だから、どんな女性(ひと)に想いを寄せているのか、調べて――」
「どうするんだ?」
「婚約破棄を促す」

 愛する女性と結婚するのが一番だ、なんて夢物語を語るつもりはない。けれども相手に隠し事をしている状態で、結婚するのもどうかと思う。

「アドルフはうちが格下の家だから、それがまかり通るって思っているんだ」
「それはどうだろうなー」

 ランハートをジロリと睨む。先ほどから、アドルフ寄りの意見を言っているように思えてならないのだ。

「ランハート、さっきから君はどっちの味方なの?」
「もちろんリオルに決まっている。俺たちの友情を、忘れないでくれよ」
「怪しい友情だ」

 ランハートとの友情云々はさておいて。
 なぜアドルフの味方になるような発言をするのか問い詰める。

「いやだって、あいつって自尊心はどこまでも高くて、真面目じゃん。だから、結婚する相手に愛人の存在を隠すなんてことはしないと思うんだよねえ」
「だったら、アドルフはいったい誰に薔薇と恋文を贈っているって言うんだ?」
「さあ?」

 ここで、ランハートは情報の出所について打ち明ける。

「俺さ、奉仕活動の時間に購買部に行っていたじゃん?」
「ああ、あったね」

 下級生時代に毎週行われる奉仕活動――放課後に魔法学校内で業務を行う人たちの手伝いをする時間だ。
 その中で、ランハートは購買部を担当していたのだ。

「そこで働くおばちゃんと仲良くなってさー」
「賞味期限が切れそうなお菓子を貰ってきていたよね」
「そう!」

 奉仕活動をする中で、薔薇の花束の注文が毎週入るという話を聞いたのだという。

「その生徒は薔薇の花束に手紙を添えて、校外にいる恋人へ送るよう手配をする――なんて話を、ロマンティックだわ~~っておばちゃんが話していたんだ。いったい誰かと気になって、金を支払いにやってくる様子を覗き見したら、アドルフがやってきたってわけ!」
「なるほど」 

 手紙はアドルフが持っていて、購買部へは薔薇を受け取りにくるだけだった。そのため、宛名は誰だったか、というのはわからないという。

「購買部の店員だったら、宛名を見たことがあるかもしれない」

 そう言って立ち上がると、ランハートも続いて起立する。

「俺も行くよ」
「忙しいんじゃないの?」
「平気。それに、なんか責任感じるし」
「別に気にしなくてもいいのに」

 購買部の店員は生徒に関する情報のすべてに守秘義務がある。そのため、私が突然やってきても、情報提供してくれないかもしれないという。
 ランハートの同行は必要みたいだ。

 校舎の一階、職員室の隣に位置する魔法学校の購買部は、授業で使う魔法書や文房具、お菓子や衣料だけでなく、小説や模型、遊戯盤などの娯楽に関する商品も揃えられている。
 魔法学校に入学して一年目は、外出が徹底的に制限されている。そのため、暮らしに関わる品はなんでも取り扱っているのだ。
 もしかしたら中央街にある雑貨店よりも、品揃えはいいかもしれない。

 購買部の店員はランハートに気づくと、嬉しそうに手を振っていた。

「あら、ランハート君、久しぶりねえ」
「どうも! ご無沙汰してます」
「最近、忙しいんでしょう?」
「まあ、ぼちぼちですねえ」

 軽く近況を語り合ったあと、ランハートは本題へと移った。
 
「そういえばさ、前に薔薇を取り寄せていた生徒がいましたよね?」
「ええ。今も、週末になると注文していた薔薇を受け取りに来ているわよ」

 アドルフは婚約が成立した今も、薔薇と恋文を贈っているらしい。
 ランハートの笑顔が少しだけ引きつっているように見えたのは、決して気のせいではないだろう。
 彼はアドルフが真面目で一途な男で、薔薇と恋文は婚約者となったリオニーに贈っていたと信じていたに違いない。

「毎週欠かすことなく薔薇を贈るなんて、本当にロマンチックな子よねえ」
「で、ですよね」
「私もそういうことをされたいわー。でも、どうしてそれが気になったの?」
「いや、友達がそんなやつなんていないって言い切るから」

 何か聞かれたときには、こう答えるようにとランハートに伝えていたのである。
 売店の店員の視線がこちらに向く。ぺこりと会釈しておいた。

「それで、誰に贈っていたかっていうのは、わからないですよねえ」
「ええ。さすがに相手については知らないのよ」

 それを聞いたランハートは、しょんぼりとうな垂れる。

「あ、でも、いつも蕾の薔薇を注文していたの。届けるのに時間がかかるからって。たしか、馬車で一日半かかる湖水地方のほうだと言っていたわ」

 一日半かかる湖水地方といったら、〝グリンゼル〟だろう。あそこは観光地であるのと同時に、貴族たちの保養地でもある。
 たしか、ブラント子爵家が領する場所であり、ワインの名産地としても有名だ。

 これだけの情報を聞いたら、十分だろう。
 そのまま立ち去るのも悪いので、ノートやインクを購入し、購買部から去る。
 部屋にランハートを招き、話をした。

「やっぱひとり部屋はいいなー」
「そのために勉強しているといっても、過言ではないからね」

 寝台に寝転がろうとするランハートの首根っこを掴み、窓際の椅子へと誘う。

「ランハートのおかげで、いろいろ知ることができた」
「まー、核心に迫る情報は得られなかったけれど」

 湖水地方グリンゼルに住む、アドルフと年若い女性――ここまで絞られたら、特定もしやすいだろう。

「グリンゼルっていったら、校外授業の科目にあった気がする」
「え、いったい何するの?」
「宿泊訓練だってさ」

 ランハートは生徒会に所属していて、先輩からさまざまな話を聞いている。公開されていない教育課程(カリキュラム)についても詳しかった。

「その宿泊訓練は、いつあるの?」
「来月か再来月くらいじゃない?」

 三学年は職業訓練でも忙しい時期である。そのため、自由参加となっているらしい。
 卒業前のお楽しみ行事として、就職先が決まった生徒は遊びに行くような気持ちで受けるのだという。

「話を聞いたときは、どうしようかなって思っていたんだけれど、リオルがいくなら希望を出そうかな」
「うん……ランハートがいてくれると、助かるかも」
「でしょう?」

 誰にも好かれる明るい性格の彼がいたら、調査もしやすい。
 私が感情的になったときも、止めてくれるだろう。
 これまでにこやかに話していたランハートだったが、急に真面目な顔で私を見る。
 少しだけ身構えてしまった。

「あのさ、リオル、ひとついい?」
「何?」
「進路について、そろそろ聞かせてくれる?」

 ついにきたか、と内心思う。
 入学当初から、ランハートは私の将来について聞きたがっていたのだ。

 本当のリオルの進路は、どこにも属さない研究員である。
 優秀な彼のおかげで、ヴァイグブルグ伯爵家の財政はかなり潤っているのだ。
 毎年国立魔法研究所から研究員にならないかという誘いがあるようだが、リオルは無視しているらしい。
 組織に属したら、自由気ままに研究できないと思っているようだ。
 この先、リオルは偉大な研究を成し遂げるだろう。彼の未来は明るかった。

 一方で、私の未来には陰が差し込んでいるように思えてならない。
 アドルフとの結婚を阻止できなかったら、愛人との三人暮らしが始まってしまう。
 婚約破棄できた場合は、ひとりで身を立てて、暮らしていかなければいけないのだ。
 大叔母はひとりでも強く生きていけたが、果たして私は同じように生きられるのか。正直、自信はない。

「私は、家業を手伝いつつ、魔法の研究をする」
「えー! いろんなところから仕事の誘いがあるって話だったのに、どれも受けないの?」
「受けない」

 二学年のときに、職業適性の授業があった。校外に出て、さまざまな職業を体験するのだ。私はランハートと一緒に魔法騎士の職場に行ったり、養護院を訪問したり、修道士の体験をしたり――貴族令嬢であればできない仕事を体験できた。
 その中で、「うちで働かないか」と声をかけてくれる大人たちもいた。
 とても嬉しかったが、リオルの姿を借りている私には過ぎた話で、実現できるわけがないのだ。
 働かないか、と声をかけてくれる人たちは、魔法学校を卒業した良家の子息を迎えたいのだろう。貴族令嬢の道を外れた、頭でっかちな小娘と働きたいわけではない。
 それを思うと、自分が惨めに思えてならなかった。

「リオルはさ、ずっと何かに悩んでいるようだけれど、自分の中で留めずに、誰かに言ったほうがいいよ」
「うん、そうだね。ありがとう」

 実は自分は貴族令嬢で、弟の代わりに魔法学校に通っているんだ、なんてランハート相手でも言えるわけがない。
 私が女だとわかったら、彼との友情も崩壊してしまうだろう。
 ここでの思い出は、美しいものとして残しておきたい。
 だから、秘密は誰にも打ち明けるつもりはなかった。
 魔法学校の夕食は、合計四カ所で提供されている。
 ひとつ目は校内食堂。夜は日替わりで出される料理のみだが、おいしいと評判で人気が高い。
 ふたつ目は寮の近くにある、生徒のみが利用できるレストラン。予約制で、食事のマナーを学べる。
 みっつ目は各寮の食堂。朝食同様、料理が事前に用意されており、好きなだけ食べられるという形式である。
 よっつ目は購買部で販売されている軽食を買い、好きな場所で食べるというもの。パンやチーズ、缶詰などを買い、独自のアレンジをして食べるのが流行っているのだとか。
 私はもっぱら、寮の食堂で済ませていた。校内食堂やレストランに比べたら、料理は冷えている上に、質より量といった感じだったが。
 食事に対する欲求が、他の人より薄いというのもある。今はとにかく、食事よりも勉強に時間を割きたかったのだ。
 ちなみに寮内の食堂でない場所で食べるさい、必ず監督生に報告しなければならない。それも面倒だったので、寮での食事でいいやと思ってしまうのだろう。

 今日、ランハートは他寮の友達と一緒に、校内食堂で誕生会を開くと言っていた。私も誘われたものの、顔見知り程度の同級生だったので断ったのだ。
 クッキーを渡すのを忘れていたので、誕生会が終わったら談話室で渡すという約束を取り付けていた。 
 ランハートが部屋に取りに行くと行ったが、彼がいると長居するので断った。
 なんとなく、夜に異性を部屋に入れるというのも、抵抗があったし。
 今宵も、談話室は無人だった。部屋から持ってきていた勉強道具を広げ、明日の授業の予習を始める。
 校内食堂はもうすぐ閉まる。そのため、ランハートは十分と待たずにやってくるだろう。
 ランハートは想定していた時間に現れる。

「すまない。待たせたな」
「大丈夫。勉強していたし」
「リオルは本当に真面目だな」

 授業中、特待生は教師の注目を集めやすい。当てられて答えられなかったら恥ずかしいので、予習は欠かせないのだ。

「アドルフがいるから大丈夫! って思っている日ほど、当たるんだよな」
「わかる! 俺もアドルフとリオルがいるから大丈夫って思っていたら、ご指名を受けるんだよなあ」
「不思議だよね」
「本当に」

 もうすぐ談話室は閉鎖される。忘れないうちにクッキーを渡しておいた。

「うわー、やった! リオルの家のクッキー、絶品なんだよねえ」
「絶品って、これまでおいしいクッキーをたくさん食べていただろうに」
「いーや、このクッキーが一番おいしい。甘すぎないし、ザクザクした歯ごたえが絶妙なんだよね」

 リオルとランハート、アドルフはお菓子の好みが一緒なのだろう。三人がお茶とクッキーを囲む様子を想像したが、気まずそうだと思ってしまった。

「一個食べようかな」
「お腹いっぱいケーキと鶏の丸焼きを食べたんじゃないの?」
「まあ、そうなんだけれど」

 個人の誕生日をする場合、希望を出したらケーキと鶏の丸焼きを作ってくれる。
 一か月前に予約する必要があるようだが、誕生日ですら実家に帰れない生徒には好評を博しているようだ。
 私も毎年ランハートが誘ってくれるものの、その日は弟の誕生日なので、祝われても別に嬉しくない。
 本当の誕生日も、同級生よりひとつ多く年を取ってしまったと切ない気持ちになるだけだった。

「クッキーは別腹なんだよ」

 そう言って、クッキー缶の蓋を開く。

「うーーん。甘くていい匂い! リオルの実家のクッキー、久しぶりだな」

 ランハートはキラキラした瞳で、クッキーを見つめていた。これほど喜んでくれたら、クッキーを作った甲斐があるというもの。

 幸せそうにクッキーを頬張る横顔を見つめていたら、廊下からカツカツという足音が聞こえた。  
 予想するまでもない。アドルフに間違いないだろう。

 広げていた勉強道具をきれいに整え、ランハートは二個目のクッキーをごくんと呑み込む。
 談話室に顔を覗かせたのは、やはりアドルフだった。
 彼は監督生に贈られる金のカフスボタンをいじりつつ、中へ入ってくる。尊大な様子で、私たちに注意し始めた。

「もうすぐここは閉鎖する。早く部屋に戻るように」
「へーーい」

 ランハートが気の抜けた返事をしたからか、アドルフにジロリと睨まれてしまった。
 気まずく思ったのか、ランハートは思いがけない提案をする。

「あー、えっと、アドルフ、よかったらリオルの実家のクッキーを食べる?」

 あろうことか、そのクッキーを勧めるなんて。

「リオル・フォン・ヴァイグブルグの、実家のクッキーだと?」
「そう。特製のシュガークッキーなんだけれど、すっごくおいしいんだぜ」

 いやいや待て。それを勧めるなと制止したかったが、もうすでにアドルフが恐ろしい形相でこちらにやってきていた。
 クッキー缶の中身を見て、ハッと肩を震わせる。
 そして、アドルフが小脇に抱えていたクッキー缶を手に取り、開封した。
 ランハートが持っているクッキーと、アドルフが持っているクッキーの中身はそっくりそのまま同じだったのである。
 それも無理はない。どちらも、同じ日に私が焼いたクッキーだから。
 アドルフはキッと眉をつり上げ、ランハートを睨みつける。まるで親の敵を前にしたような、苛烈な視線であった。

「お前、どうしてそのクッキーを持っている!?」

 問いかけられたランハートは、キョトンとしていた。

「いや、どうしてって、貰ったとしか言いようがないというか」
「リオニー嬢が、お前のために贈ったというのか!?」
「え、どういうこと?」
「しらばっくれるな!!」

 たかがクッキーくらいで大声をあげないでほしい。
 アドルフの包み紙を確認したら、実家から寮に転送してもらったというのがわかる。

「このクッキーは、俺のためにリオニー嬢が焼いたものなんだ! お前が食べていいものではない!」
「えー、そんな!」

 面倒な事態になってきた。この場はランハートに任せて、私は自分の部屋で明日の予習をしたいのに。
 私にとって無関係な話ではないというか、当事者なので、この場を離れるわけにはいかないのだ。
 部屋に置いてきたチキンを召喚しようかと思ったものの、あの子は過剰防衛をする可能性がある。アドルフの頭に羽根を突き刺されたら困るので、呼ばないほうがいいだろう。

「ランハート・フォン・レイダー、お前はリオニー嬢とどういう関係なのだ?」
「どういうって、会ったことすらないんだけれど! これがリオルのお姉さんの手作りクッキーだったことすら、今知ったくらい! 直接貰ったんじゃなくて、リオルが分けてもらったのを、横流ししてもらったの!」

 ランハートが必死の形相で訴えると、アドルフのつり上がっていた眉がどんどん下がっていく。
 そして、ゴホン!! と咳払いすると、小さな声で「少々誤解があったようだ。すまなかった」と素直に謝罪した。

 談話室は時間になったら自動施錠される。注意するようにと言い残し、アドルフはそそくさと去っていった。
 ランハートとふたり、しばし呆然としてしまう。
 アドルフの足音が聞こえなくなると、息苦しさから解放された。

「あの、ランハート、なんかごめん」
「ううん、いいよ。談話室でクッキーを食べた俺が悪いんだし」

 ランハートが寛大でよかったと、胸をなで下ろす。

「っていうかさ、リオル。アドルフって、やっぱりお姉さんにベタ惚れしているのでは?」
「は!? どうしてそういうふうに思うの?」
「だって、お姉さんが作ったクッキーを俺が持っているのを知って、激怒してたじゃん」
「アドルフはクッキーが大好物なだけでしょう?」
「そんなこと……あるのかなあ」
「あるよ。僕、心の中でアドルフをクッキー暴君って呼んでいたから」
「クッキー暴君って、なんじゃそりゃ。ぴったりじゃないか!」

 ランハートと一緒に、大笑いしてしまう。たかがクッキーひとつで、あそこまで怒れるなんて一種の才能かもしれない。

「でも、そのクッキーがトラブルの火種になったのは確かだから、今度購買部で何か奢ってあげる」
「それよりも、その予習ノートを明日の朝に見せてほしいな」
「そんなのでいいの?」
「それがいいんだよ」

 ランハートと裏取引を行っていたら、談話室の閉鎖が告げられるベルが鳴り始める。
 閉じ込められたら、明日の朝までここにいなければならなくなる。私とランハートは急いで談話室を飛び出したのだった。

 ◇◇◇

 クッキー暴君との事件から一週間後、実家から手紙が転送されてきた。
 お茶会のお誘いが二通、ルミからの手紙、それからアドルフからの手紙と小包が届いていたという。
 お茶会の誘いはずいぶんと減った。魔法学校に入学する前は、毎週二十通以上届き、どこに参加するのか頭を悩ませるくらいだった。
 魔法学校での暮らしを優先させ、断り続けていた結果がこれである。
 二通の差出人はいつもの面々だ。ひとりはルミの友人である侯爵令嬢、クララ様。社交場に姿を現さない私をいつも心配し、誘ってくれるのだ。
 もうひとりは私が所属している、慈善活動サロンのお茶会のメンバーからである。これも、毎月クッキーを養育院に送るくらいで、現地での活動には参加できていない。お茶会への誘いは名簿に載っている貴族令嬢全員に送られているのだろう。
 ルミからのお手紙は最後の楽しみにしておくとして、問題はアドルフの手紙と小包である。
 ため息をつきつつ、手紙を開封した。
 便箋には丁寧な文字で前回の外出時の謝罪と、クッキーがおいしかったという感想が書かれてあった。
 彼がこんなにきれいな文字を書く人だったなんて、今まで知らなかった。
 包みはこの前のお詫びだとある。
 いったい何を贈ってきたのだろうか。恐る恐る包みを開く。 
 木箱に収められていたのは、ドラゴンを模った胸飾りだった。
 精巧な出来で、子どもが見たら大喜びしそうな意匠だ。
 瞳はルビーで、翼は銀でできている。女性への贈り物としてはいささか武骨ではないのか。
 毎週、魔法学校から薔薇と恋文を贈っているロマンチックな男が選んだとは思えないのだが……。
 まず、どのドレスにも合わないだろう。
 しかしまあ、ぶっきらぼうなアドルフらしいとも言える。

 ふと、封筒にカードが入っているのに気づいた。そこには、ドラゴンの胸飾りはお守りなので肌身離さず身につけたほうがいいと書かれてある。さらにまた会いたい、とあった。まるで、恋人を熱望しているようなメッセージに思えてならないのだが……。
 前回の外出で、私の不興を買ったと思っているのか。よくわからない。
 正直頻繁に会いたくない相手なのだが、アドルフがグリンゼルへの宿泊訓練に参加するか気になる。
 もしも彼が現地に行ったら、追跡調査ができる。
 リオルの状態では探りを入れられないが、婚約者であるリオニーであれば気軽に聞けるだろう。
 便箋を取り出し、ドラゴンの胸飾りに対する感謝の気持ちと、次に実家に戻れる期間を会える日として書いておいた。
 書いた手紙は一度実家に戻し、そこから侍女に頼んで改めてアドルフのもとへと届けられる。面倒だが、ここから送ったら魔法学校の消印が付いてしまうので仕方がないことだった。

 ◇◇◇

 今日も今日とて、監督生であるアドルフは食堂の監視をしていた。
 学校から贈られた金のカフスが太陽の光に反射して、これでもかと輝いている。
 悔しいけれど、彼に似合っていた。 
 前を通り過ぎようとしたら、声をかけられる。

「おい、リオル・フォン・ヴァイグブルグ」
「何? 違反行為はしていないでしょう?」
「そうじゃない」

 アドルフは少しだけ頬を染め、ボソボソと小さな声で言う。

「リオニー嬢の誇りになるよう、真面目に過ごすように」
「は!? どうしてそんなことを言われなければならない?」

 私の気が立ったからか、肩に止まっていたチキンの羽毛がぶわっと膨らんだ。
 それだけでなく、翼をシュッシュと前に突き出し、戦闘態勢になる。
 ここで暴れられたら大変なことになるので、チキンを掴んでポケットに突っ込んでおく。服の上からぽんぽんと叩き、落ち着くように促した。

 アドルフは自信満々の態度で言い返してくる。

「どうしてって、俺はリオニー嬢の婚約者だからだ」

 私が変な行動を取ると、姉の婚約者であるアドルフも損害を被る、とでも言いたいのか。
 まだ結婚していないのに、家族顔されるのはごめんである。

 ピリピリした空気が流れつつあったが、突然背後から腕を取る者が現る。ランハートだった。

「おう、リオルじゃないか。あっちの席が空いているぜ!」

 ランハートは私の腕をぐいぐい引っ張り、席へと誘導してくれる。そこに座るよう肩を押し、「どーどー」と言いながら背中を摩った。

「リオル、お前、なんで朝からアドルフに絡んでいるんだよ」
「あいつのほうが先に絡んできたんだ」
「アドルフは教師への密告手帳を持つ監督生なんだ。声をかけられても、スルーしろ」
「それができたら、あいつは僕に絡んでこないだろう」
「まあ、そうだろうけれど、気を付けろよー」
「わかっている」

 監督生の密告手帳というのは、違反行為を起こした生徒について記録しておくものだ。一日の終わりに教師に報告し、違反内容によっては成績にも影響を及ぼす。
 そのため、監督生の前では猫を被っている生徒が多い。

 朝食を食べる気にならず、寮母(メイトロン)に頼んで朝食に出ていたもので|お弁当(パックランチ)を作ってもらった。休み時間に食欲が復帰したら食べたい。

 本日は登校日であるので、教室には多くのクラスメイトがいた。
 半月ぶりに会う者同士が、戦場から戻ってきた兵士と家族のような再会をしていた。
 私は端っこにある目立たない席で、新しく取り寄せた魔法書を読む。ランハートは私がやってきた予習を、一生懸命自分のノートに写していた。

 ホームルームが始まる。教師はグリンゼルへの宿泊訓練についての摘要(レジュメ)を配っていた。皆、騒がずに落ち着いた様子で見ていたが、顔がにやけている。きっと魔法学校を卒業する頃には、表情筋を鍛える訓練を終え、完璧な紳士として独り立ちするのだろう。今はまだまだ未完成紳士、といったところか。

 アドルフのほうをチラリと横目で見ていたら、無表情だった。
 さすが、ロンリンギア公爵家のご子息といったところか。表情から感情は読み取れない。

 一限目の授業が終わり、休み時間となる。皆、各々集まって宿泊訓練について語っていた。
 残念ながら密告手帳を持つアドルフに話しかける猛者はおらず、動向は探れない。
 やはり、リオニーとして会ったときに聞くしかないようだ。
 ひとまず宿泊訓練のことは頭の隅に追いやり、私は寮母が用意してくれたお弁当を食べ始める。
 すると、一学年のときから同じクラスだった男子生徒、ギードが話しかけてきた。

「なんだよ、リオル。お前、育ち盛りか?」
「違う。朝、食欲が湧かなかっただけ」
「そうか」

 ギードがやってきたからか、次々とクラスメイトが集まってくる。ここでも、話題の中心は宿泊訓練についてだった。
 皆、参加するようで、今から何をするかと話し合っている。
 厳しい紳士教育を受けても、彼らはいつでも少年の無邪気な心を持っていた。
 そんなクラスメイトを、少しだけ羨ましく思ってしまった。

 ◇◇◇

 アドルフに手紙を送ってから、次の予定はとんとん拍子に決まった。
 前回のように歩き回ったら疲れてしまうので、喫茶店で会うという方向性で固まった。
 行き先はアドルフに任せた。いったいどんなお店に案内してくれるのやら……。なんせ、ドラゴンの胸飾りを婚約者に贈る男である。
 紳士の社交場となっているコーヒーハウスに連れていかれたとしても、驚かないようにしよう。

 外出するのは寮監督教師へ申請書を提出しなければならない。
 もっとも外出の許可が降りにくいのは、一学年のときだろう。国王陛下が主催する式典に招待されたとか、家族に何かあったとか、そういう理由がないと許可されない。
 二学年になると、少しだけ緩和される。美術品の鑑賞や舞台の観劇など、芸術に触れるための外出が許可されるのだ。ただこれも、誰もが行けるわけでなく、監督生と寮監督教師の審議に合格した者のみが行ける。さらに、馬車は学校が用意したもので行き来しなければならない。出発時間と帰着時間がきっちり決まっていて、自由に行動する時間なんてないという。
 三学年になると、かなり緩和される。就職活動のための外出や、社交を目的とした外出は審議なく許可される。
 十八歳となった魔法学校の生徒たちは、将来の伴侶を探すために社交界デビューをするというわけである。
 良家の子息は社交界デビューの年齢が早いが、一般的な貴族の嫡男はだいたい十八歳前後になったら夜会に参加するのだ。

 そんなわけで、社交を目的とした私の外出はあっさり許可された。

 忙しない毎日を過ごしていると、あっという間にアドルフと面会する日を迎える。憂鬱(ゆううつ)すぎて、夜中に何度も起きてしまう。完全に寝不足であった。

「リオニーお嬢様、本日のお召し物はどうなさいますか?」
「うーん」

 派手な出で立ちはアドルフにダメージを与えられないとわかったので、今日は華やかすぎないごくごく普通の恰好で、と侍女に頼む。
 侍女がいくつかドレスを持ってやってくる。その中でもっとも控えめな、薄紫(ライラック)のドレスを選んだ。

「髪は三つ編みにして、クラウンみたいにまとめて。香水は鈴蘭(ミュゲ)のをお願い」

 こういった侍女への指示も、貴族女性の務めである。よくわからないからといって、侍女の思う通りにさせてはいけない。
 何もかもお任せにしていた場合、侍女がドレスや宝飾品を購入することになる。その結果、侍女が権力を握り、最終的に主人を軽んじるのだ。
 正直、他人にあれこれ指示するのは得意でないものの、以前よりは上手く侍女を使えるようになったのではないか。
 それも、魔法学校で下級生に指示を出していた成果だろう。

 化粧品も似たような瓶が大量に並べられる。魔法薬の名前は暗記できるのに、化粧品の種類を覚えられないのはなぜなのか。
 面倒なので化粧品の指定はせず、今、社交界で流行っている仕上がりで、とざっくり頼んでおいた。

 今日は秋晴れで、日差しが強い。日傘を持参して行こう。
 侍女が数本持ってきたので、象牙の|持ち手(ハンドル)が美しい、チュールレースがあしらわれたものを選んだ。
 日傘は美しければ美しいほど、重たくなる。今日選んだのもたくさんレースが縫い付けられていたので、手にずっしりときていた。貴族の女性も大変なのだ。

 出発前にふと気づく。ドラゴンの胸飾りを忘れていた。
 薄紫のドレスには合いそうになかったが、付けていかないわけにもいかないだろう。
 さすがに目立つ場所には付けられないので、腰のリボンに合わせた。
 侍女は感情を表に出さず、私の指示に従う。なんとなく、質問を投げかけてしまった。

「この胸飾り、どう思います? 婚約者にいただいた品なのですが」
「こちらは――とても勇ましいですね」

 その一言に尽きるだろう。苦笑していたら、侍女は控えめに微笑んでくれた。

 アドルフの乗る馬車がやってきたと、侍女が耳打ちしてくれた。
 本物のリオルと会わないよう、大急ぎで玄関に向かう。
 待ち合わせにしたかったのだが、家まで迎えにきたいと手紙に書かれてあったのだ。それを断るのもどうかと思ったので、アドルフの送迎を受けることとなってしまった。

 息を整えたのと同時に、玄関の扉が開かれる。
 アドルフはパールグレイのフロックコート姿で立っていた。前髪は以前のように後ろに撫で付けず、軽く分けるだけにしていた。監督生になってから、よくしている髪型である。
 前回は別人のようだったが、今回は完全に普段のアドルフなので、妙に緊張してしまう。

「リオニー嬢、待たせたな」

 そう言って、優雅に手を差し伸べる。
 あのアドルフと、手と手を合わせるなんて信じられない。けれどもこれは現実である。

「さあ、行こうか」

 こくりと頷くと、アドルフは優しくエスコートしてくれた。
 ふたりきりとなった馬車の中で、先手を打って胸飾りについて感謝の言葉を伝える。

「あの、こちらの胸飾り、ありがとうございました」
「ああ。やはり、それは贈った品だったか。よく似合っている」

 アドルフの言葉に、微笑みに見える苦笑いを返した。
 ドラゴンが似合うと言われて喜ぶ貴族令嬢など存在するのか――わからない。
 そんな会話を皮切りに、アドルフとの外出が始まった。
 先ほどまで晴れていたのに、空模様は瞬く間に曇天となった。まるで、私の心の内を映し出したかのように思えてならない。
 外を眺めているうちに、窓ガラスに雨粒が打ち付ける。最悪だ、雨が降ってきた。

「雨、ですわね」
「ああ、そうだな」

 まるで、倦怠期(けんたいき)の夫婦のような会話だ。
 アドルフと結婚してしまったら、こんな未来が待っているのだ。
 まだ結婚もしていないというのに、うんざりしてしまう。

 いつ、宿泊訓練についての話題を出そうか。会ってすぐに聞くのは不審がられるだろう。まずは、アドルフの近況について探る。

「学業がお忙しい時期に、こうしてわたくしのために時間を割いていただき、嬉しく存じます」

 遠回しにご迷惑なのでは? と聞いたつもりだ。まだまだ鈍感なところがある同級生ならまだしも、すでに完成された紳士であるアドルフには通じるだろう。

「言うほど忙しくはない。他のクラスメイトのように、職業訓練があるわけではないからな」

 次期ロンリンギア公爵であるアドルフには、すでに王の側近としての輝かしい未来が待っている。そのため、愛人の盾になってくれる結婚相手に時間を割くことができるのだろう。

 アドルフが案外暇だということがわかった。監督生としての活動も問題なくできるというわけである。

 そんな話をしているうちに、馬車が停まった。御者が扉を開き、傘を差して雨を避けてくれる。
 先にアドルフが降り、傘を握ったあと手を差し伸べた。私はしぶしぶと指先を重ねる。
 馬車の|踏み段(ステップ)に降りた瞬間、雨に濡れていたからか足を滑らせてしまう。
 体が傾き、落ちる――そう思った瞬間、アドルフは私の手をぎゅっと握り、もう片方の手にあった傘を放り出して、腰を強く支えてくれた。
 間一髪で、転ばずに済んだようだ。
 その後、何を思ったのか。アドルフは私を抱き上げ、地上へと降ろしてくれた。
 切迫した表情で私を覗き込み、質問を投げかけてくる。

「リオニー嬢、大丈夫か?」
「え、ええ、まあ……おかげさまで平気です。ありがとうございました」

 そう言葉を返すと、明らかに安堵した表情を浮かべる。このように慌てた表情を見るのは初めてである。

 傘を拾い、一緒に入るようにと肩を抱き寄せる。
 思っていた以上に密着するので、少しどぎまぎしてしまった。雨に濡れないためなので、仕方がない話なのだが。
 それにしても驚いた。
 アドルフ・フォン・ロンリンギアという男は、怒り以外の感情をほとんど表に出さないから。

 アドルフは御者を振り返り、踏み段を指差しつつ耳打ちする。きっと、濡れている状態では危ないと注意しているのだろう。
 いつもの彼だったら、その場で怒鳴り散らしそうだが。人混みの中で感情を剥き出しにするのはスマートではない。紳士的な態度で、御者に物申したのだろう。
 御者は眉尻を下げ、何度もペコペコと頭を下げていた。気にするなと伝わるよう、淡い微笑みを向ける。

「リオニー嬢、行こう」

 御者の反応を見てから去ろうとしたのに、腕を強く引かれてしまった。
 足取りは以前より速く、普通のご令嬢であればついて行けないだろう。
 横目でアドルフを見上げると、眉がキリリとつり上がっていた。私がどんくさかったので、心の中では腹を立てているのか。念のため、謝罪しておく。

「あの、申し訳ありませんでした」
「何の謝罪だ?」
「わたくしが転びそうになったせいで、アドルフに恥をかかせてしまったと思いまして」

 そう伝えても、アドルフは意味がわからないとばかりに小首を傾げている。

「その、お顔が、怒っているように見えたものですから」
「怒ってなど――いいや、怒っていたのかもしれない」

 それはどうして? そう問いかけるようにアドルフを見つめる。

「リオニー嬢が、御者に優しく微笑みかけたのが、面白くなかった。それだけだ」
「はい?」

 私には他人へ微笑みかける権利すらないというのか。わけがわからない。
 やはり、アドルフは暴君だ。
 結婚したら、さまざまな制限を提案しそうで恐ろしい。

「こういう感情は初めてだから、酷く混乱している。不快にさせてしまい、申し訳ない」

 素直に謝ったのだから、今日は許してあげよう。そう、思うことにした。

 中央街の馬車降り場から徒歩三分の場所にあるのは、王室御用達(ロイヤルワラント)の看板が下がった喫茶店であった。
 もともとは夜会を行うような宮殿だったが、持ち主が破産して売却。翌年には喫茶店となり、王族も足しげく通う人気店となった。
 完全予約制で、一年先まで予定が埋まっているという噂話を耳にしたことがある。ロンリンギア公爵家のご子息ともなれば、ここの予約を取ることは難しくないのだろう。
 店内はすべて個室で、多くの貴族は密会の場として使っているらしい。

「よく、こちらの予約が取れましたね」
「うちはここに専用の部屋を持っているんだ」
「まあ! でしたら、好きなときに行ける、ということなのですか?」
「他の家族が使っていない時間帯は、まあ、そうだな」

 さすが、ロンリンギア公爵家である。まさか、喫茶店に専用の部屋があるとは……。
 どんなに予約希望者がいても、その部屋はロンリンギア公爵家の者以外は使わないらしい。

「入り口はこちらだ」

 アドルフは正面から入らずに、裏手に回り込む。なんでも貴賓は専用の出入り口があるのだという。

「父が頼み込んで、専用の部屋ができたのだが……」

 アドルフは立ち止まり、ため息交じりに語り始める。

「愛人との密会のために、用意したらしい」

 ドクン、と胸が激しく脈打つ。
 愛人について語るアドルフの表情は、憎しみに満ちあふれているように思えてならなかった。
 
 アドルフはその後、何も言わずに喫茶店の中へと誘(いざな)う。
 なんだろうか。今、彼の中にある深い闇を垣間見てしまったように思えてならない。

 店内に入り、まっすぐ廊下を歩くと、誰にも会わずに部屋に辿り着く。
 さすが、愛人との密会のために用意された部屋だ。
 中には窓がなく、ドーム状の天井には水晶のシャンデリアが部屋を明るく照らしていた。
 部屋の中心にはゆったり寛げる猫脚のアームチェアに、ウォールナットの三脚テーブルが鎮座していた。
 すでに、お菓子と紅茶は用意されている。
 ポットには魔石が仕込まれており、淹れ立ての紅茶が楽しめるようになっているのだろう。他にも、シャンパンやワインなどの酒類も用意されていた。我が国では十八歳から飲酒が許可されている。けれども魔法学校の生徒は卒業するまで飲酒は厳禁とされているのだ。
 お菓子は定番のスコーンに、マカロン、それからベリータルトにサブレなどもある。口直しにキュウリのサンドイッチや野菜のケーキ、キャビアが載ったカナッペなどもある。
 お菓子は広いテーブルに、品よく並べられていた。
 その様子を見ていると、ふと思い出す。
 慈善活動サロンのご令嬢を我が家に招いてお茶会を開いたとき、ケーキスタンドにスコーンやサンドイッチを載せて提供した。
 それを見たそこまで親しくないご令嬢のひとりが、こういうのは初めて見ると驚いていたのだ。「狭いスペースしか提供できない者が、場所を有効利用しかつ華やかに見える工夫なのですね」、と指摘され、なんとも言えない気持ちになったのを覚えている。
 暗に、広い家を持っていない者の知恵だと言いたかったのではないか。捻くれた思考を持つ私はそう思ってしまったのだ。

 しかしながら、王宮御用達店ではケーキスタンドは使われていない。やはりあれは、狭いスペースを有効活用するための工夫だったのだろう。

 ここで、給仕係がやってくる。カップに紅茶を注ぎ、お菓子を一通り取り分けると、「ご用がありましたら、ベルでお知らせください」とだけ言って去って行った。

 その間、アドルフは黙ったままだった。いったい何を考えているのやら。
 クッキーを摘まもうとした瞬間、彼は想定外の行動に出る。
 頭を深々と下げ、謝罪したのだ。

「こんなところに連れてきて、すまなかった!」
「こんなところ、ですか?」
「父が愛人を連れてきた場所に、リオニー嬢を連れてきてしまった」
「ああ……」

 そういう意味だったのか。あいにく、そういった考えには至っていなかった。
 ただただ、王室御用達の喫茶店ってすごい、としか思っていなかったわけである。

「前回、舞台の誘いを断られてしまってから、行き先に自信がなくなってしまって……。この喫茶店が貴族令嬢の憧れだという話を聞いたものだから、それ以外に他意はなく、案内してしまった」

 あの天下の暴君アドルフ・フォン・ロンリンギアが、自信がないという言葉を口にするなんて。
 本当に申し訳ないと思っているようで、しょんぼりと肩を落としていた。

「アドルフ、わたくしは別に、有名なお店でお茶が楽しめると嬉しくなっただけで、あなたに対して非難めいた感情は抱いておりません」

 そう宣言すると、アドルフは希望を見いだしたかのような目で私を見つめてきた。
 視線が交わると、ハッと肩を震わせ、目を両手で覆う。ギリギリ聞き取れるような声で「感謝する」と言ったのだった。

 いい機会だと思い、愛人についての認識を問いただそう。
 ぼんやりするアドルフに、私は質問を投げかけた。

「アドルフは、愛人という存在について、どう思います?」

 ここで彼が正直に告げたら、まあ、許してやらないこともない。
 かと言って、結婚はしたくないのだが。

「俺は、愛人という存在は、あってはならないと、個人的には思う。伴侶への裏切りだ」

 絞り出したような、切ない声だった。
 そう思うのであれば、なぜ、毎週熱心に薔薇と恋文をグリンゼルに住む女性に贈っているというのか。

 まさか、相手は愛人ではない? 
 ふたりの関係に名前はなく、純愛を貫いているというわけ?

 私に子どもを産ませ、爵位の継承者(エア)を得たあと離縁し、後妻としてその女性を迎えるという気の長い計画の実現を狙っている可能性が浮上した。

 これまでのアドルフは、私を正式な婚約者として、丁重に扱ってきた。
 それもすべて、後妻を迎えるための手段だったのだ。

 清廉潔白なところがあるアドルフが、黙って愛人を迎えるという状況にいささか疑問を抱いていたところである。
 後妻を迎えるつもりであるならば、すべて納得がいった。

 胃の辺りに手を当てて、首を傾げる。
 なんだかモヤモヤするような、不快さを感じるのだ。
 きっと私は、腹を立てている。
 私を大切に扱う男の目的が、他の女性との幸せを掴むためであったから。
 どうしてこのような感情を抱くのか。よくわからない。
 アドルフ・フォン・ロンリンギアという男は私を勝手にライバル視し、この二年間、成績を競い続けたのだ。
 彼がいなければ、魔法学校の生活も平和だっただろう。
 そんな相手に、いいように利用されている。気に食わないのも無理はないのかもしれない。

 これ以上、アドルフに時間を割きたくない。そう思って、本題へと移る。

「それはそうと、弟が話しておりましたの。今度、グリンゼルに宿泊訓練に行く、と。アドルフはどうなさいますの?」
「ああ、あれは――子ども騙しのイベントだ。訓練と言っても、そこまで厳しい監視下のもとで行われる行事ではない」

 これから卒業に向けて教育課程が進む生徒たちに、羽目を外す場を設けようとしたのが宿泊訓練らしい。そのため、自由参加となっているようだ。

「俺は行かない。それよりも、魔法書を一冊でも多く読んだほうが、時間の有効活用と言えるだろう」

 まさかの不参加である。アドルフがいなければ、情報を得られないだろう。
 なんとしてでも、グリンゼルの地に誘わなければならない。

 ここでふと思い出す。ヴァイグブルグ伯爵家はグリンゼルに別荘を持っていたはずだ。病弱だった母が療養できるように、父が資金を集め、中古物件を購入したのだ。
 ならばと、ある提案をしてみた。

「あの、わたくしも同じくらいの時期に、グリンゼルに行きますの」
「リオニー嬢も、グリンゼルに?」
「ええ。別荘がありまして。ですので、アドルフもご一緒しません?」

 アドルフは驚いた表情を浮かべ、「リオニー嬢と、一緒にグリンゼルに」などとうわごとのように呟いていた。

「学校の行事もあるでしょうから、常にご一緒できるわけではないでしょうが」
「そう、だな。いいかもしれない。わかった。宿泊訓練に参加しよう」

 アドルフの決定に、テーブルの下で拳を握ってしまった。
 帰りの馬車に揺られながら、とんでもない提案をしてしまったものだと反省する。
 一人二役なんて、初めてだ。
 一瞬、リオルに協力を頼もうか迷ったものの、同級生に発見されたら大変だ。いくら似ている姉弟だからと言っても、性格はまるで違うから。
 クラスメイトに囲まれでもしたら、他人との接触を嫌うあの子は、きっと悪態を打つに違いない。
 私がこれまで築きあげてきたイメージを、壊すわけにはいかなかった。
 この身分が借り物であるというのはよくわかっている。
 わかっているから、卒業までは大切にしたいと考えているのだ。
 アドルフは魔法学校についてどう思っているのか。

「あの、第三学年に進級されたようで。監督生に指名されたとお聞きしました」
「ああ、そうだな。だが――」

 そう言いかけ、アドルフは窓の外に顔を向けた。そのまま、黙り込んでしまう。

「どうかなさったのですか?」
「いや、俺よりも相応しい奴がいたから、指名されても嬉しくなかっただけだ」
「あなたさまよりも相応しいお方なんて、いらっしゃいますの?」

 窓に映ったアドルフの表情は、どこか寂しげだった。
 なぜ、そのような表情を浮かべているのか。
 四大貴族のひとつである、ロンリンギア公爵家の嫡男である彼は、生まれたときからすべてのものを手にしているような男性(ひと)なのに。

「監督生は、リオニー嬢の弟、リオル・フォン・ヴァイグブルグがするべきだったんだ。あの男ほど公平で、生徒を俯瞰(ふかん)で見ることができる者はいない」
「ま、まあ。そう、でしょうか?」
「そうだ。俺は嘘を言わない」

 本当に、その通りである。怒りっぽくて尊大で、暴君な一面があるアドルフだが、根が曲がったことが大嫌いで、嘘を嫌悪している。
 一度、陰湿ないじめを発見したときは、いじめた生徒を徹底的に断罪し、最終的に魔法学校から追放してしまった。
 やりすぎではないか、なんて声もあった。
 けれども彼は非難する者たちを前に、「これは見せしめだ」と言ってのけたのだ。
 苛烈としか言いようがないが、自分の影響力や権力を使い、校内のいじめを徹底的に絶やした功績は認めざるをえない。

「正直、魔法学校は息苦しい場で、居場所がないと感じるときもある」

 それは完全に同意である。少年たちが箱庭に詰め込まれ、多感な年頃を過ごす。逃げ場なんかなく、ただただ決められた道をまっすぐに歩いていくしかないのだ。

「しかしながら、自らを高め合える戦友とも言える者との出会いは、貴重だった。彼のおかげで、魔法学校での日々は悪くなかったと言えるだろう」

 アドルフの取り巻きの中に、戦友とも言える友達がいるということなのか。
 だとしたら、彼の心の中の闇もそこまで深いものではないのかもしれない。

「魔法学校を卒業したら、その男と親友になれるだろうか?」
「今は、違うのですか?」
「違うな」

 アドルフが親友になりたいと望んだら、誰だって喜ぶだろう。そう伝えると、彼は珍しくはにかんだ。
 
「リオニー嬢、ありがとう」

 感謝の言葉を口にするアドルフに、私は微笑みを返したのだった。

「もう長い間、どう接していいのかわからないでいる。どうしても、彼を前にすると、闘争心が湧き出てしまい……」
「素直になれないのですね」
「そうだ」

 具体的に、どういうふうに打ち解けたらいいのか、と質問される。

「そうですわねえ。貸し借りをしてみるのはいかがでしょうか?」
「貸し借りというのは?」
「お友達同士で、自分の私物を貸したり、借りたりするのです。されたことは?」
「ない」

 ロンリンギア公爵家のご子息は、必要な物はすべて手元にある。きっと、貸し借りなんてする必要はないのだろう。

「普段、どういったものを貸し借りしているのだ?」
「たとえば、文房具を忘れたときに借りるとか」
「忘れ物をしたことがない」
「で、でしたら、本の貸し借りは?」
「ああ、なるほど」

 アドルフは「貸し借りか」などとボソボソ呟いていた。
 短い学校生活である。くだらない自尊心は捨てて、友達は大切にしてほしい。
 そんな話をしている間に、我が家へ辿り着いた。

「次に会うのは、グリンゼルでだろうか?」
「ええ」
「楽しみにしている」

 どんな反応をしていいのかわからず、私は頭を深く下げるばかりだった。
 帰宅すると、侍女が慌てた形相で駆けてくる。いったいどうしたというのか。

「リオニーお嬢さま、旦那様が部屋でお待ちです」
「お父さまが?」

 侍女の様子から、きっと何かあったのだろう。
 詳しい話は知らないようで、父から直接聞くしかない。
 しぶしぶと父の執務室へと向かうと、入った瞬間に怒鳴られてしまった。

「リオニー、これはどういうことだ!!」

 父が手にしていたのは、ルミに送るはずだった便箋である。端にインクを零してしまったので、ゴミ箱に捨てていたのだ。

「お前は、アドルフ君との婚約を破棄する計画を立てていたとは――!!」

 なんでもメイドが捨てられた便箋を回収したときに、婚約破棄の文字を発見してしまったようだ。その後、執事に情報が行き渡り、最終的に父が知ってしまったわけである。
 これは、便箋を燃やさなかった私も悪い。一旦、叱咤を受けよう。

「魔法学校にも行かせてやったというのに、お前はどうしてそんな勝手なことをする!?」
「父上、行かせてやったと申しておりますが、学費はリオルが稼いだものではないのでしょうか?」

 父は一瞬うろたえたものの、「そういう意味ではない!!」と言葉を返す。
 魔法学校に通うには、親の許可が必要だ。それを顧みると、父のおかげで魔法学校に行けている、ということで間違いないのだろう。

「婚約破棄して、卒業後はどうするつもりだったんだ? 叔母上のように、慈善活動だなんだって、あちこち放浪するつもりだったのか?」
「それは悪いことなのですか?」
「貴族の家が、結婚していない娘を抱えることの恥を、お前は理解していないようだ」

 貴族女性は家の、はたまた国の繁栄のために結婚しなければならない。そのために美しいドレスを与えられ、恵まれた環境の中で暮らしているのだろう。

「お言葉ですが、子どもというのは、何も自分で産んだ者でなくてもよいと思うのです。養育院の子どもたちを支援し、その子たちが国の未来を作る。そうなっても、貴族女性としての役割は果たせていると――」
「黙れ!!」

 口にしてから、父は言いすぎたと思ったようだ。
 それがわかったので、私は盛大に傷ついた表情を浮かべる。
 そして、思いの丈を父にぶつけた。

「お父さまの石頭!! 一度地獄に堕ちて、サラマンダーの餌になってくださいませ!!」

 そう叫び、部屋を飛び出す。そのままの勢いで私は魔法学校に戻ることとなった。

 父が言っていたことは正論だ。けれども、いい家柄の男性と結婚することが存在理由のすべてでありたくなかったのかもしれない。

 ◇◇◇

 誰とも会いたくないし、話したくない。そう思いつつ、寮の裏口から私室を目指す。
 こういうとき、閑散としている三学年の寮は助かる。なんて思っていたら、背後から声をかけられてしまった。

「おい、リオル・フォン・ヴェイグブルグ、立ち止まれ」

 この尊大で生意気な物言いをするのは、アドルフ以外にいない。
 無視するつもりだったのに、立ち止まってしまった。
 振り返ると、アドルフがつかつかと歩いてくる。また、あら探しでもしていたのか。呆れつつ、腕組みして彼の発言を待った。

 アドルフは視線を斜め下に向け、私に一冊の本を突き出してくる。
 それは、薬草魔法について書かれた魔法書であった。

「な、何?」
「これを貸してやる」
「え!?」

 よくよく見たら、表紙にロンリンギア公爵家の家紋があしらわれた封蝋が押されていた。貴重な魔法書は、盗まれないようにこうして印を入れているのだ。

「以前、薬草学の教師から、お前がこれを読みたがっていたという話を聞いていた。ちょうど家にあったから、貸してやる」

 この本はすでに絶版で、国内でも一部の国家魔法師にのみ閲覧を許可された一冊である。ちなみに父は一部の国家魔法師の中に入っていないため、読むことができない。

 薬草学の先生ですら、目にする機会すらなかったと話していた本である。
 それをなぜ、私なんかに貸してくれるのか。
 首を傾げた瞬間、アドルフは少し照れた様子で物申す。

「これを貸す代わりに、お前が持っている本を貸せ」

 その発言を聞いた瞬間、ピンとくる。
 先ほど、私は彼に言った。

 ――そうですわねえ。貸し借りをしてみるのはいかがでしょうか?

 たしかに貸し借りを勧めた。それを、アドルフは素直に実行した、というわけである。
 それにしても、彼は素直になれない相手と親友になりたい、と言っていた。
 もしかして、それが私(リオル)だった?
 いやいやいや、ありえない。
 彼にとって私は、嫌悪する相手に違いない。
 きっと親友になりたい相手は他にいて、本当に貸し借りで仲良くなれるか試したいのだろう。
 リオニーだけでなく、リオルでも利用しようとしているのか。
 お断りと申したいところだが――薬草魔法の魔法書は読みたい。
 逆に、彼を利用したと思い込めばいい。本だって、その辺にあるものを貸してやればいいのだ。

「わかった。じゃあ、本を貸してあげるから、部屋に来て」
「あ、ああ」

 てくてくと、アドルフと並んで歩く。リオルの姿では初めてだ。なんとなく、リオニーでいるときよりも居心地が悪いのは気のせいだろうか。

 私たちは二年間隣同士だったが、こうしてアドルフを部屋に招くのは初めてだ。
 妙な緊張感がある。

「そこに座って」

 いつもはランハートの特等席になっているひとり掛けの椅子を、アドルフに勧めた。

「なんだ、この古びた椅子は?」
「一年生のときに、監督生をしていた人から貰ったんだ」
「ああ、眼鏡にオールバックの……エルンスト・フォン・マイか?」
「そう」
「なぜ、彼と親しかったんだ?」
「親しくないよ。一学年のとき、縦割りの掃除区域が同じだったから、少し話す関係だっただけ」

 彼も首席だったので、勉強方法や学校での振る舞い方についていろいろ習った。皆の前にいるときは厳格な監督生、という感じだったものの、個人で話すときは親切な上級生、といった雰囲気だった。

「首席が使う角部屋にだけ、ここに窓があるだろう? そこに椅子を置いて景色を眺めると違った風景が見えるからって、くれたんだ」

 ちなみにこの椅子は四十年もの間、魔法学校の生徒に受け継がれているものらしい。私も頃合いを見て、首席の一学年にこの椅子を譲らなければならないのだ。

「ちなみにこれを貰ったのは先輩の卒業前だったんだけれど、二学年は残念ながら次席で――」
「ああ、そうだったな」

 一年間は角部屋を使えなかったので、なんとも悔しい思いをしていたのだ。
 そのため、三学年でこの椅子を窓の前に置けたとき、どれだけ嬉しかったか。
 アドルフがいなければ、私は三年間首席だったのに。

 そんな話はさておいて。アドルフに貸す一冊が決まった。それは、薬草学の基礎について書かれた一冊で、中には私が調べたことのメモや、授業中に教師が話していた内容などがびっしり書かれてある。
 つまりは、落書きだらけの本というわけなのだ。

「これを貸してやるよ」

 差し出された本を、アドルフはキョトンとした表情で受け取る。彼も持っているであろう、どこにでもある本なので、なぜこれを? と思っているに違いない。

 本をパラパラ捲ると、アドルフはハッと肩を震わす。わなわなと震えているように見えた。
 ほら、言ったことか。
 友達の貸し借りというのは、対等な品でできるとは限らない。その辺は、友情をもって補うのだが。
 顔をあげたアドルフは、瞳を輝かせていた。

「ん?」

 思っていた反応と違う。ぜんぜん怒っているようには見えなかった。

「お前、これを借りてもいいのか?」
「え、うん。いいけれど」
「本当に?」
「嘘は言わないよ」

 それはそんなに何度も確認して借りるような本ではない。そう思っていたのだが――。

「私はあまり薬草学が得意ではないのだが、お前の補足を読んでいたら、よく理解できた」
「え、君、薬草学の成績よかったじゃん」
「あれは、丸暗記していただけだ。きちんと理解はしていなかった」

 一学年のとき、よくわかっていなかったものが、私の補足説明を読んだら理解できるようになったという。

「リオル・フォン・ヴェイグブルグ――いいや、リオル。素晴らしい本を貸してくれてありがとう」
「あ、ああ、うん」
「これはお前の努力の結晶だ。心して読ませてもらおう」

 アドルフは爽やかに言って、部屋を去っていった。
 どうしてこうなってしまったのか。部屋にいたチキンに問いかけてみたが、『わからないちゅり』と言われてしまった。
 アドルフから借りた薬草魔法の魔法書は大変素晴らしいものであった。三回ほど繰り返して読み、その後、時間が許す限りノートに写して保管する。
 この貴重な本を長く借りておくわけにはいかないので、一週間ほどでアドルフに返した。

「もういいのか?」
「全部ノートに写したし」
「写しただと? 魔法陣もすべてか?」
「まあ、うん」

 呪文や魔法陣の中には、魔法式を理解しないと記録できないものが多い。借りた本に書かれてあった内容は、それがほとんどだった。だからアドルフは驚いているのだろう。

「リオル、お前は魔法学院に進むのか?」
「だとしたら、どうするの?」
「魔法学院には、高名な魔法薬学の教授がいる。ただ高齢で、誰かの紹介がないと授業をしてくれないらしい。お前が望むのならば、紹介状を父に書かせるが」
「いや、大丈夫。魔法学院には行かないから」

 魔法学院というのは、魔法をさらに専門的に学ぶ場所である。主に魔法師になる者が進む道だ。

「行かない……? お前、まさか魔法騎士にでもなるつもりなのか?」

 文武両道の魔法騎士は、魔法学院に進学せずに魔法学校を卒業したあとに進む道である。ここに通う生徒の三分の一は、魔法騎士になるのだ。

「魔法騎士にはならない。僕は実家で家業を手伝いながら、ひとりで研究をする」
「は!? お前、才能を無駄にするつもりか!?」

 アドルフは私の肩をガシッと掴み、血走った目で訴えてくる。

「お前ほど熱心に魔法を学び、真面目で、周囲の人間からも好かれる奴なんて他にいない。家に引きこもって孤独に研究をする将来なんて、ありえないだろうが!」

 なぜ、私はアドルフに褒めちぎられ、将来の心配をされているのか。
 そういうふうに思われていたなんて、知らなかった。

「なんだか知らないけれど、褒め言葉だけ受け取っておくよ」
「ほめ――!? ほ、褒めてない!!」

 私が本当のリオルだったら、魔法学院に通いたかった。魔法薬学の権威とも会ってみたかったし、将来の選択についていろいろ考えてみたかった。
 けれども私はリオルではない。貴族の家に生まれた女――結婚以外に役に立つ術なんてないのだ。
 父との約束は魔法学校を卒業するまでだったし、これ以上、自由気ままに過ごせないだろう。

「お前、いったい何を考えているんだ!」
「いろいろ考えているよ。でもそれは、君には言えない」

 そんな言葉を返すと、アドルフは傷ついた表情で私を見つめる。
 なぜ、そういう反応をするのか。
 まったくわからなかった。

 ◇◇◇

 三学年になってから、ようやく大叔母が発明した〝輝跡の魔法〟について学ぶ時間が取れるようになった。
 輝跡の魔法というのは、流れ星や花火など、見るものを魅了する魔法のイルミネーションだ。
 これの基盤となっているのは、光魔法である。
 光魔法というのは厄介なもので、火属性、風属性、土属性、水属性の四元素(エレメント)をきちんと理解しないと使えない。
 一学年と二学年で四元素についての授業が終わったため、やっと輝跡の魔法に取りかかれるというわけだ。
 大叔母は魔法学校に通わず、独自で魔法を編み出した。本物の天才なのだろう。
 そんな輝跡の魔法の中で、私は植物を使った魔法を実現させたいと考えていた。
 たとえば光る蔓だったり、魔石灯代わりに使える花だったり、輝く花飾りだったり。
 大叔母が考えた輝跡の魔法を応用できるように、薬草学の授業を特に真剣に聞いていたのだ。
 もしかしたら、これで商売ができる可能性だってある。大叔母に頼んで特許を取り、貴族相手に販売する。
 それを資金として、養育院の子どもたちに魔法を教えられたら――どれも夢みたいな話だ。まったくもって現実的ではない。

 貴族に生まれた女性は、籠の中の鳥だ。自由に空をはばたくことさえ許されていない。
 これからどうなるのか。自分のことなのに、まったく想像できないでいた。

 バタバタと忙しく過ごしているうちに、宿泊訓練に行く前日となっていた。
 一人二役をし、アドルフの心に秘める女性を捜索する。
 それを知ってどうするのか。計画を打ち明けたルミに聞かれてしまった。
 それをネタに婚約破棄をする予定だが、あまり派手な騒ぎにはしたくない。
 父からも「余計なことをしたら勘当する!」と言われているのだ。
 さすがの私も、今の状態で路頭に迷うことになったら、生きていけないだろう。
 理想は、アドルフのほうから婚約を辞退することである。
 ロンリンギア公爵家からの申し出があれば、父は何も言えまい。
 婚約破棄の鍵を握るのは、薔薇と恋文を受け取り続けていた女性の存在なのだ。
 ドレスは先に別荘に送っている。侍女も現地まで足を運んでくれるらしい。
 一人二役は早着替えが重要となるので、非常に助かる。
 服を詰め終えると、盛大なため息がでてきた。
 グリンゼルでの宿泊訓練は、二泊四日。その期間に、上手くアドルフの想い人を発見できるのか。正直に言って自信はない。けれどもやるしかないのだ。

 目指せ、婚約破棄という目標に迷いはない。
 アドルフ、見てろよ! という意気込みでグリンゼルへと向かったのだった。

 湖水地方グリンゼルまで、王都から馬車で一日半かかる。
 一日目の夜は宿に宿泊し、翌日の昼頃に到着するという予定だった。
 それが突然覆る。
 魔法学校の校庭に、ワイバーンが並んでいた。どうしてこうなってしまったのかと、呆然としてしまう。

 チキンはワイバーンを前に、闘争心を剥き出しにしていた。

『あんな小竜、ひとひねりにできまちゅり』
「はいはい」

 小鳥ほどのサイズしかないチキンが、ワイバーンにどうやって勝つというのか。
 竜種の中でいったら、ワイバーンは小型に分類されるようだが。
 ワイバーンの気を逆立たせたら大変なので、チキンはポケットの中に突っ込んでおいた。

 ランハートは瞳をキラキラ輝かせながら、ワイバーンを眺めている。

「おお、リオル、あっちに白いワイバーンがいるぜ! きれいだなー!」
「ああ、そうだね」
「お前、なんでそんなに落ち着いているんだよ」
「びっくりしすぎて、言葉がでないだけ」
「本当か~?」

 他の生徒も、ランハート同様に興奮していた。
 魔法学校の紳士教育とはいったい……。三学年になって落ち着いたと思いきや、すぐこれである。

 ただ、それだけワイバーンという存在が珍しいのだ。
 現に、噂話を聞いた新聞社の記者が、ワイバーンについて取材させてくれとやってきたくらいである。
 今回のワイバーンの運用はイレギュラーな事態であったため、取材は断ったようだ。

 ここにいるワイバーンは、竜車用に集まったものである。竜車というのは、空飛ぶ馬車と言えばわかりやすいのか。
 馬車で一日かかるグリンゼルまでの距離も、竜車だと三時間で済むらしい。
 竜車は国内の貴賓を運ぶために運用されているが、それがどうしてか魔法学校に集結していた。
 その理由は、ひとりの生徒に所以(ゆえん)する。
 アドルフ・フォン・ロンリンギア――彼が父親の縁故(コネクション)を使い、三学年の生徒全員が竜車で移動できるよう手配してくれたのだ。

「どうだ、リオル? 竜車は素晴らしいだろう?」

 そんなことを言いつつ、背後より突然登場したのは、アドルフであった。
 なぜか、自費生が着用する外出用の外套をまとい、頭巾を深く被っていた。

「アドルフ、監督生の外套はどうしたの?」
「鞄の中だ。今回は抜き打ちで生徒のふるまいを監督するため、このような恰好でいる」

 きちんと教師の許可を得ているのだという。そういうところは抜かりない。

「あとは、他の生徒に見つからないようにな」

 竜車を前に瞳を輝かせるクラスメイトは皆、口々にアドルフはすごい、と絶賛していた。きっと見つかったら、もみくちゃにされるだろう。

「俺とリオルは、ふたり乗りの竜車を用意した。こっちだ」

 一方的に宣言し、アドルフは回れ右をして歩き始める。
 それを見ていたランハートは、訝しげな様子で話しかけてきた。

「なんだよ、お前たち、いつの間に仲良くなったんだ?」
「さあ?」
「当事者なのにわからないのかよ」

 仲良くなったわけではないが、一回目の貸し借りをきっかけに、少しだけアドルフを理解できたような気がする。

 あの日以降、私たちは苦手な教科のノートを貸し借りするような仲となった。
 実技魔法のコツも教えてもらい、以前よりは苦手意識がなくなったような気がする。
 かといって、友達というわけではない。少し話せるクラスメイト、みたいな認識である。

「たぶん、自分だけ別の竜車に乗ったら、あとで非難されると思ったのかも」
「なるほどなー。アドルフ、賢い奴め」

 ここでアドルフが振り返り、「ついてこいと言っただろうが!」と叫ぶ。
 彼の取り巻きになったつもりはないのだが。

「じゃあランハート、またあとで」
「おう!」

 小走りでアドルフのもとを目差し、一緒に小型の竜車に乗りこんだのだった。
 車内は案外広かった。上質な革張りのシートで、腰かけるとしっかり体を支えてくれる。

 この車体を引くのは、先ほどランハートが発見した白いワイバーンである。

「メスのワイバーンだ。オスよりも従順で、飛行も丁寧だ」
「へえ、そう」
「以前、馬車が苦手だと話していただろう? 竜車は馬車ほど揺れない」
「あ――うん」

 少し前に、馬車酔いするという話を彼にしていたのだ。まさか、それを覚えていたとは。

「そういえば、リオニー嬢も馬車が苦手なのか? 思い返してみたら、顔色が悪かったような気がする」

 女性は化粧をしているので、顔色で判断できなかったのだという。

「ああ、姉上も馬車が得意ではない」
「だったら、次回の外出は竜車にするか」
「絶対に止めて!」
「ん?」
「あ、いや、うちの庭はワイバーンが降りられるほど広くないから」
「そうか」

 どでかい竜車なんかが貴族街にやってきたら、目立ってしまうだろう。
 同時に、私がアドルフから竜車の迎えがあった、などという噂話が出回るに違いない。
 その話が記者に伝わり、ゴシップ誌に〝成金伯爵令嬢、公爵子息との仲は良好〟などと掲載されたら、恥ずかしくて二度と社交の場に顔を出せなくなる。
 それだけは絶対に阻止しないといけないだろう。

「もう少し手配が早くできたら、リオニー嬢も竜車で一緒に行けたのだがな」
「あー、そうだねー」

 思わず、棒読みになってしまう。
 リオニーは三日前から出発し、すでにグリンゼルにいる、という設定である。
 正確に言うと、三日前に出発したのは侍女たちだ。念のため、侍女のひとりに私に変装してもらっている。
 その辺の工作はしっかり計画済みだった。

 そんな話をしているうちに、ワイバーンがもぞもぞ動き始め、翼を大きく広げた。
 竜車を操縦するのは、国家魔法師である。
 魔装線路と呼ばれる魔法の線路を作り出し、その上をワイバーンが飛んでいくのだ。
 魔法師が杖を振りつつ、呪文を唱える。すると、線路が地上から空へ伸びていった。

「わ、すごい……!」

 アドルフも竜車に乗るのは初めてのようで、車内にある御者席を覗き込める小窓から、魔法師の様子を興味津々とばかりに眺めていた。

 ついに竜車が動き始める。上昇中はさすがに揺れるだろうと思っていたが、車内に影響はない。

「これは、どうして?」
「魔法師が車内の重力制御を行っているからだ。この辺は操縦する者の腕の見せ所だな」
「そうなんだ。すごい技術だ……!」

 どんどん竜車は上昇していき、魔法学校が小さくなっていく。

「あ――魔法学校って、大きな魔法陣なんだ」  
「知らなかったのか? 入学式のときに、校長が話していたが」
「話が長かったから、聞き流していた」

 魔法学校の校舎は魔法の要となっており、水晶でできた温室が魔石代わりとなっている。

「信じられない。魔法学校自体が、巨大な結界なんだ」

 生徒の安全を守るために、初代校長が作ったものらしい。
 当時は生徒を集めるために、王族も通っていた。そのため、守りが必要以上に強固にしていたのだろう。

「アドルフが竜車に乗せてくれなかったら、一生知らなかった」
「そうだろう?」

 いつになく優しい声で、アドルフは返す。
 思わず顔を見たら、淡く微笑んでいた。
 それはリオニーと一緒にいるときにのみ見せていた、優しい笑みだった。
「おい、リオル、下を見てみろ」

 別部隊の竜車が飛んでいるらしい。覗いてみると、黒いワイバーンが左右に揺れつつ飛んでいる。

「うわ、あれって大丈夫なの?」
「中は大揺れだろうな」

 ワイバーンが悪いわけではなく、操縦する魔法師の魔法が上手くいっていないので、あのように大きく揺れているらしい。

「あの様子じゃ、重力制御もできていないな」
「じゃあ、中にいる人たちは?」
「右に、左にと大揺れだろう」
「うわあ……」
「しかしまあ、あれは訓練用の車体で、体を固定する装備が座席にあるだろうから、三半規管が弱くなければ平気だろう」
「そ、そっか」

 私があれに乗っていたら、胃の中のものをすべて出していたかもしれない。
 アドルフがこの竜車に誘ってくれて、心から感謝した。

「それはそうと、訓練用って?」
「これは竜車を操縦する魔法師の訓練の一環だ」
「そうだったんだ!」

 ちなみに、私たちが乗っているのは教官の竜車らしい。普段は貴賓相手の飛行もしているようで、安定しているわけである。

「教官だから、わかりやすいように白いワイバーンなの?」
「そうなんだろうな」

 なんというか、いろいろ腑に落ちた。

「おかしいと思っていたよ。魔法学校の生徒の移動に、貴賓用の竜車を出すなんて」
「一応、校長に許可は取っている」

 生徒にも乗車前に伝えているらしい。拒否した生徒は魔法生物学の先生の使い魔である翼のある白馬、ペガサスに乗って行くようになっているのだとか。

「ペガサスは飛んでいないな。拒否した生徒は見当たらないようだ」
「みんな、怖いもの知らずだ」
「嬉々として乗っていたと思うがな」

 そういえばと思いだす。数年前にガーデンパーティの見世物として、馬術ショーが行われた。そのさい、馬が暴れて大騒ぎになったのだ。
 女性陣の多くは眉を顰めていたが、男性の大半はいいぞ、もっとやれと盛り上がっていた。きっと予想外のトラブルを前にしたら、逆にワクワクしてしまうのだろう。
 この辺の感覚は、人それぞれなのだろうが。

「リオル、下の竜車、安定してきたぞ」
「あ、本当だ」

 アドルフと顔を見合わせ、笑ってしまった。
 ひととおり竜車を堪能したあとは、各々持参していたノートの交換を行う。
 今回は独自に行った試験対策ノートの貸し借りをしたのだ。
 アドルフは私と目の付け所がまったく異なる。ここをこう勉強するのか、という新しい発見があった。
 悔しい気持ちになったものの、アドルフも同じことを思っていたらしい。

「今回の試験対策は自信があったのだが、たくさん抜けがあったようだ」
「僕も、同じく」

 真剣にノートを読んでいる間に、グリンゼルに到着した。

 ◇◇◇

 国内有数の美しい景色があるという観光地、湖水地方グリンゼル。
 教師が冬用の外套を用意しておくように、と注意したわけを身をもって実感する。
 王都よりも北寄りにあるからか、風が冷たく肌寒い。
 ただ、湖は見にくるだけの価値がある。
 水面には美しい紅葉が映し出されていた。けれども少し風が吹いただけで波紋が生まれ、その景色は消えてしまうのだ。なんて儚く、美しいものなのか。
 隣に立つアドルフも、同じことを思っていたようだ。

「驚いた。湖というのは、このように美しいのだな」
「そうだね」

 しばし見とれていたようだが、他の竜車が到着すると踵を返す。

「引率の教師陣が到着したようだ。次の指示を待とう」
「わかった」

 三時間ぶりの再会を果たしたクラスメイトたちは、出発前よりも興奮していた。
 空を飛ぶ竜車の旅は、彼らにとって大きな刺激だったらしい。
 中でも、ランハートが乗っていた竜車は特に揺れていたようだ。

「なんかもう、すごかったんだよ。このまま空に放り出されるかと思った!」
「よく、訓練生の竜車に乗ったよね」
「だって、竜車なんて、二度と乗れないかもしれないだろう?」
「たしかに、それはそうかもしれないけれど」

 教師陣が生徒に指示を出す。グリンゼルにいる間は、常に使い魔を使役していなければならないらしい。
 ランハートは一学年のときに召喚したカエルを胸に抱いていた。前に見たときは普通サイズのカエルだったが、今は小型犬くらいの大きさになっている。

「うわ、そのカエル、そんなに大きくなったんだ」
「可愛いだろう?」
「すごいけれど、可愛くはない」

 カエルにとって湖水地方の気候は過ごしやすいようで、ゲロゲロと元気よく鳴いていた。

「大きいと言えば、アドルフのもすごいな」
「ああ、あれね」

 アドルフが召喚したフェンリルは一回り以上成長していた。あの使い魔を連れていると、いつも以上に威圧感がある。

「リオル、お前のところのカツレツはちっこいままだな」
「カツレツじゃなくてチキンね」

 三年間で成長を見せる使い魔たちだが、チキンはそのままだった。大きくなってポケットに詰め込めなくなったら困るので、この先ずっとこのままでいてほしい。

 生徒が集まると、宿泊訓練についての説明が始まった。
 事前に現地で何をするのか、というのは知らされていない。内容によって、出席する、しないを決める生徒がいるからだという。
 参加は自由だが、個人個人の自主性を高める訓練でもあるため、スケジュールは現地で話すようだ。
 まず、一日目はレクリエーションを行う。
 なんでも、内容は毎年異なるらしい。去年の先輩は森に隠された魔法巻物(スクロール)を探し、発見したものは入手できる、というものだった。
 魔法巻物の中には貴重な転移魔法もあったようで、大いに盛り上がったらしい。
 今年はいったい何をするのか。ドキドキしながら教師の話に耳を傾ける。

「レクリエーションについて発表する。これから全員くじを引いて、ペアを作ってもらう。そのペアで森に行き、食材探しをしたあと調理。完成した料理を一口提出し、教師が食べて採点する。点数によって、特別な魔石を与える、というものだ」

 別の教師が盆に載った魔石を見せてくれた。
 炎の魔石に雷の魔石、光の魔石に闇の魔石――学生の身分では手に入らないであろう、稀少な魔石の数々であった。

 中でも、光の魔石は特に珍しい。めったに市場にも出ない、という話を耳にしていた。
 光の魔石は輝跡の魔法を使うさいの素材にもなる。
 ぜひとも欲しい。

「森には木の実、キノコ、ウサギやアナグマ、魚など、豊富な食材がある。持ち帰った食材は、一度提出するように。毒が含まれたものがないか、こちらで選別する。まあ、これまでの授業を真面目に聞いていたら、食べられるか、食べられないかくらいはわかるだろう。ちなみに、森はほどよく整備されていて、魔物は出現しない。けれども絶対とは言えない。気を抜かないように」

 森の中には毒を持つ植物や生き物がいるらしい。
 なんでも口にせず、動物とも触れ合わないようにと、教師は口を酸っぱくするように注意していた。
 それだけでは物足りないと思ったのか、生徒全員に解毒薬や血止めなどの薬が入ったパックが配られた。
 信用がないものである。

 そんなことはさておいて。食材探しと調理が課題らしいが、食材探しはさておき、調理は得意だ。
 養育院で子どもたちに出す料理を作っていたし、魔法学校では寮母の軽食作りを手伝ったこともある。
 他の生徒よりも、上手く作れる自信があった。
 問題は、ペアとなる生徒だ。
 なんでも三学年ごちゃまぜにくじを引くのではなく、クラスごとになっているらしい。
 ここで、教師から驚愕の事実を知らされる。

「今日、皆が宿泊するのは南の方向に見える小住宅(バンガロー)だが、組んだペアの者と泊まってもらう。夜、レポートもまとめやすいだろう」

 ひとり部屋でないだろうとは思っていたが、まさかふたりっきりで宿泊しないといけないなんて。
 なんとかペアになった生徒に話を付けて、別荘に行けたらいいのだが……。
 そんなことを考えているうちに、くじ引きが始まった。
 隣にいたランハートがぼやく。

「くじかー。自由にふたり組になれって言われたら、リオルを選ぶんだけどなー」

 私も、未来の魔法騎士さまと一緒だったら心強かったのだが。
 ランハートと共に、とぼとぼ歩きながらくじを引きにいった。
 ほとんどの生徒が引いたらしい。すでにペアになっている者たちもいる。
 先にランハートが引いた。ふたつ折りになった紙を開く。

「お、犬の絵が描いてあるな」
「だったら俺だ」

 クラスメイトのひとりが、犬が描かれた紙を掲げながら挙手する。
 奇跡が起きて、ランハートとペアになるという望みが潰えてしまった。
 続いて私の番だ。
 ランハート以外のクラスメイトで打ち解けている者なんていない。広く浅い付き合いをするばかりである。だから、誰であろうと一緒――なんて思考を一次停止させる。視界の端に、フェンリルと佇むアドルフが映った。まだペアが決まっていないようだった。
 アドルフは気まずい、アドルフとペアは嫌だ。
 なんて思いながらくじを引く。ハラハラしつつ、くじを開いた。

「猫の絵のひと、いる?」

 クラスメイトにそう問いかけたら、ひとりの男が手を挙げた。

「俺だ」

 アドルフだった。
 そうなるんじゃないかって、ほんの僅かだが思っていたのだ。
 なんてくじ運が悪い……。

 アドルフは私のもとへつかつか歩いてくると、肩をポンと叩きながら言った。

「リオル、よろしく頼む」
「まあ、うん、よろしく」

 意外や意外。アドルフは私とペアを組むことに、嫌悪感は抱いてそうにない。
 上手く利用できると思っているのかもしれないけれど。

 果たして、レクリエーションは彼と上手くいくのか。まったく想像できない。
 そもそも、彼は家で大人しくしているタイプにしか思えなかった。外で活発に活動する姿なんて、想像すらできない。
 大型の使い魔であるフェンリルがいるのは心強いが。
 チキンはフェンリルを前にしても、堂々たる態度でいた。

『ちゅり! 図体だけが大きい獣なんかに、負けないでちゅり!』

 その自信はどこからやってくるものなのか……。
 フェンリルはまったく相手にしていなかった。

 そんなことはさておいて。夜、アドルフと同室で過ごさなければならないというのが憂鬱だ。
 監督生である彼の目を盗んで別荘に行くことなど、不可能に近いだろう。
 今晩は眠れそうにない。

 ペアが組めた者には、森の地図が配布された。
 貴族の行楽のために作られた森のようで、食材がある場所がわかりやすく書かれていた。
 ウサギやアナグマなどは、狩猟区で獲れるらしい。内部には猟場管理人(ゲームキーパー)がいて、猟犬や猟銃なども貸してくれるという。
 森の中にいくつかチェックポイントが用意されていて、その場に教師がいるらしい。エリアごとにある食材を入手し、地図にスタンプを押して回って全部集めると、翌日の自由時間に使えるボート券が貰えるようだ。

「リオル、君はどういう作戦を考えている?」
「うーん、今のシーズンだったら、アナグマが絶品かな」

 秋に実る木の実やキノコをたっぷり食べたアナグマは、脂が乗っていておいしい。
 貴族は秋はウサギこそが絶品というが、個人的にはアナグマのほうが味がいいと思っている。

「アナグマか……」

 アドルフの顔が若干引きつっている。食べたことがないようで、どんな味か想像できないのだろう。

「そのアナグマはどう調理するんだ? そのまま焼くのか?」
「いや、けっこう脂っぽいから、教師陣の受けは悪いかも」

 若い教師であれば、焼いたものに香辛料をかけたものだけでも満足するだろう。
 しかしながら、教師陣の平均年齢は四十代後半くらいか。脂の多い肉は胃もたれするに違いない。

「キノコと煮込んで、スープにしたらさっぱり食べられるかも」
「なるほど。目当てはアナグマとキノコだな。その料理の作り方はわかるのか?」
「アナグマを解体してもらえたら、まあ、なんとか」
「わかった」

 アドルフは地図を目で追い、動線を考えているようだ。食材探しのリーダーを務めてくれるらしい。

「リオル、行くぞ!」
「はいはい」

 そんなわけで、アドルフと一緒にレクリエーションに挑む。 
 森に行く前に、小住宅の鍵が手渡される。荷物を運ぶ、動きやすい恰好に着替えるようにと指示を受けた。

 木造、平屋建ての一軒家を前に、アドルフはボソリと呟く。

「これは、エルガーの小屋みたいだ」

 エルガーというのは彼の使い魔であるフェンリルの名前だ。こんな立派な家を与えられているとは。
 というかこれから二泊する家を、犬小屋みたいだと言わないでほしい。

「アドルフ、これは一般的な小住宅の規模だよ」
「そう、なのか。初めて知った」

 お坊ちゃん育ちであるアドルフは、当然小住宅なんて知るわけもない。
 私も初めてだが、知識としてそういうものがあると把握していた。
 
「リオル、入ってみよう」
「そうだね」

 フェンリルは体が大きくて入れなかったので、バルコニーで待機だ。
 鍵を開き、中へと入る。内部は二段に重なった寝台が置かれただけの、シンプルな室内だった。

「な、何もないではないか!」
「ここ、小住宅だから」
「最低限の設備はあると思っていたのだが」
「それは|貸し別荘(コテージ)だよ」

 宿泊訓練はあくまでの授業の一環だ。旅行のように快適な空間で寝泊まりできるわけがないのだ。

「本当に、ここで二泊もするのか?」
「するよ」
「暖炉や風呂、洗面所もないような場所で?」
「もちろん」

 お風呂は温泉施設がある。そこで、身なりを整えるのだろう。
 私は実家の別荘で済ませる予定だ。
 普段、私やアドルフは部屋に備え付けられているお風呂に入っている。アドルフなんかは集団で入浴するのは初めてではないのだろうか。
 明らかに戸惑っている様子を見せていた。
 寝台にはカーテンが付けられていて、着替えはなんとかなりそうだ。
 雑魚寝の可能性も考えていたが、想像よりはいい環境なのかもしれない。

「アドルフは寝台の一段目と二段目、どちらがいい?」
「別に、どちらでもいいが」

 二段目を選んだら、「馬鹿と煙は高いところが好きだよね」なんて言おうとしたのだが……。さすが、学年次席といったところか。

 まあなんにせよ、二段目だったら突然アドルフが降りてきて驚く、ということもないだろう。ありがたく使わせてもらう。
 
「じゃあアドルフ、十分で着替えて集合でいい?」
「五分でもいい」
「じゃあ五分で」

 お坊ちゃんはお着替えに時間がかかると思っていたのだが、そうではなかったようだ。心の中で謝っておく。

 魔法学校の野外活動着は、普段、貴族がまとっている狩猟服に似たものである。
 タイを巻いたシルクブラウスに緋色(スカーレット)のジャケットを合わせ、白いズボン、黒いブーツを履くのがお約束だ。
 急いで着替え、二段重ねの寝台から降りる。私から遅れること一分後に、アドルフが出てきた。
 
「リオル、出発前に互いの使い魔の能力について把握しておこう」
「うん、いいよ」

 まずはアドルフの使い魔、フェンリルのエルガーについて教えてくれた。

「エルガーは氷属性で、魔法がいくつか使える。牙や爪は鋭く、物理攻撃も可能だ。力持ちだから、荷物も運べる」

 フェンリルはかなり有能な使い魔のようだ。
 続いて、チキンについて説明する。
 どこから自信が湧き出てくるのか、チキンは私の肩の上で胸を張っていた。

「この子、チキンは怖いもの知らずで、気性が荒くて、落ち着きがない。以上」

 チキンは満足げな表情で、こくこくと頷いていた。

「リオル、その使い魔の能力は?」
「右ストレート?」
「鳥が物理攻撃をするのか?」
「するよ。けっこう痛い」

 チキンは毎晩私の寝台に潜り込んで眠るのだが、これがまあ、寝相が悪い。
 何かと戦っている夢をみていたときは、私のみぞおちにパンチしていたのだ。
 一撃食らったあと、古代文字の課題で使う石版(タブレット)があったので、チキンと私の間に差し込んでいた。
 一晩中パンチを受けていたら、内出血していたに違いない。

 それにしても、フェンリルと比べたときのチキンの能力といったら……。正直、使い魔の能力としては下の下だ。
 雨魔法が使えるランハートのカエルのほうが、能力は上だろう。
 一応、チキンの名誉のため、付け加えておく。

「まあ、空が飛べるのだから、上空から偵察くらいできるかもしれないね」
「期待しておこう」

 準備が整ったので、森を目指す。
 小住宅街から森まで、徒歩三十分といったところらしい。

「エルガーの背中に乗ったら、三分で到着する」

 一緒に乗ろう、と誘ってくれた。フェンリルは私も背中に乗せてくれるらしい。
 乗馬の授業がそこまでよくなかったので、若干不安になる。

「毛の束を強く握っておけば落ちない。馬より安定しているから、安心しろ」

 フェンリルは伏せの姿勢を取る。先にアドルフが跨がり、私に早く来いと手招きする。
 アドルフよりも前に座るらしい。
 恐る恐るといった感じで、背中に跨がった。

「わ、ふかふか!」

 フェンリルの毛並みは信じがたいほどフワフワしていて、触り心地は極上だ。
 毛を掴んでも痛がらないので、しっかり持っても問題ないという。
 走行中、チキンを落としたら大変なので、ジャケットの胸ポケットに突っ込んでおいた。
 
「リオル、握ったか?」
「ああ」

 アドルフがフェンリルの腹を踵で軽く叩くと、立ち上がった。

「わっ!」

 目線は馬よりも高い。本当に馬より安定しているのか。

「行くぞ」
「わかった」

 そう返事したのと同時に、フェンリルはバルコニーから地上へ降りるために大跳躍をしてみせた。
 悲鳴はなんとか呑み込み、奥歯を噛みしめる。

「舌を噛むなよ」

 その言葉が合図となり、フェンリルは走り始めた。
 軽やかに駆け、景色はめくるめく変わっていく。
 楽しむ余裕なんてない。振り落とされないように、しがみついておくので必死だった。
 フェンリルは風のように走る。あっという間に森に到着した。
 途中、生徒たち数名とすれ違った。背中に乗って移動できる使い魔はアドルフのフェンリルだけだったので、森への到着は一番乗りだったわけだ。
 グリンゼルの森は全域柵に覆われていて、内部はきちんと管理されているらしい。
 そのため、魔物が出現しないと言われているようだ。

「リオル、どこから行こうか?」
「獲物は持ち歩いていたら傷みそうだから、最後かな」
「そうだな」

 アドルフはチェックポイントも制覇するつもりらしい。さすがに、森の中はフェンリルに乗れない。徒歩ですべて回るつもりのようだ。
 きちんと方位磁針を持参し、地図を険しい表情で眺めている。
 チェックポイントは全部で六カ所。
 木の実エリア、キノコエリア、魚エリア、狩猟エリア、森菜(しんさい)エリアに天然水エリア。

「ここから一番近いのが、木の実エリアだな。そこから回っていくか」
「了解」

 なるべく食材集めに時間をかけたくない、という方針は私とアドルフの中で固まっていた。こういうとき、他のクラスメイトだったら「気楽にやろうぜ!」とか言って、釣りを楽しんでいたに違いない。

 急ぎ足で木の実エリアを目指す。すると、真っ赤な実を生らしたイチゴを発見する。
 甘い匂いが辺り一面に漂っていた。

「これは――」
「ヘビドクイチゴ、食べられない」
「ああ、これがそうなのか」

 毒と名が付いているものの、食べても死ぬわけではない。軽く腹を下す程度だ。
 いい匂いがするので、食べてしまう人があとをたたないため、毒の名が付けられたのだという。さらに、毒ヘビが好んで食べるから、というのも由来のひとつだ。

 アドルフはヘビドクイチゴというものがあるのは暗記していたものの、どれがそれに該当するかまでは知らなかったという。

「教科書ってさ、情報のみ書いてあって、参考図がないものも多いよね」

 見た目の絵などがないときは、図書館に行って調べていたのだ。

「そういえばリオルの参考書には、参考図がないものの絵が差し込まれていたな。ずいぶんと上手かったが、あれは自分で書いたのか?」
「見よう見まねだよ」
「なるほどな。お前は本当に勤勉な奴だ」
「アドルフには敵わないけれどね」

 奥までいくと、低い木に実ったベリーを発見した。

「あっちはグースベリー、そっちはクランベリー、あれはブラックベリーにラズベリー」

 ベリーの旬は夏や秋とそれぞれ異なるものの、ここにあるものは魔法で生育管理がされているようだ。そのため、ベリーの楽園のようになっている。
 食後のデザートとして食べるため、生食に向いているベリーを摘んでおく。
 さらに先に進むと、教師が待ち構えていた。

「おお、お前たちが一番だ。さすが、首席と次席のコンビだな」

 フェンリルのおかげで、木の実エリアの一番を取れたのである。
 地図を広げると、スタンプを押してくれた。

 教師はカゴを覗き込み、ヘビドクイチゴがないか確認する。

「よしよし。妙なもんは入れていないな。何がダメだったかわかったか?」
「ヘビドクイチゴ」
「そうだ」

 毎年、レクリエーションをするさいに、生徒は必ずヘビドクイチゴを食べてしまうらしい。

「授業のたびに、自生している植物は専門家の確認なしに口に入れてはいけないと言っているのに、あいつらは聞く耳を持たん」

 身をもって学んでもらうために、ヘビドクイチゴについては注意しないという。
 そういう目論見があるので、薬を全生徒に渡していたのだな、と納得してしまった。
 教師と別れ、次なる目的地を目指す。

「次はキノコエリアだ」

 そこは木の実エリアとは比較にもならないくらいの、毒キノコが生えていることだろう。

「キノコも正直自信がないな。リオルはどうだ?」
「僕は選択授業で魔法キノコの学科を選んだからね」
「あれを選んだ奴っていたんだな」
「いたよ。僕ひとりだったけれど」

 その知識が、今役立つとはまったく想定していなかった。
 キノコエリアでは、食材の臭い消しに最適な香り茸と肉料理と相性がいいコショウ茸を入手する。それ以外にも、旬のキノコを手に入れた。
 ここでも、チェックポイントで教師からスタンプをもらった。

「次! 魚エリア」

 ここには、生徒が数名いた。入り口からまっすぐ進むと、比較的早くここに辿り着くのだ。
 大きな池のほとりには、小屋があった。そこで釣り竿を借りられるらしい。
 皆、楽しそうに釣りをしていた。

「アドルフ、どうする?」

 私たちは釣りに関しては未経験である。他の生徒も、そこまで釣れているようには見えない。
 食材を入手しないとスタンプが貰えない。何か仕掛けを作って帰りがけに回収しようか。なんて考えていたら、アドルフがぬかるみのほうを指差す。

「何かあるの?」
「おそらく、あるはずだ」

 フェンリルはぬかるみに足を取られたら大変なので、池のほとりで待機を命じていた。
 慎重な足取りで近づき、ナイフで泥を掘り起こす。
 途中でカツン、と硬いものに当たる音がした。
 アドルフは手袋を装着し、泥を掘り返す。

「あった!」

 出てきたのは、大きな貝だった。

「それは、もしかして大黒貝?」

 アドルフは深々と頷く。以前、生物図鑑で読んだ大黒貝の生息地を記憶していたらしい。泥臭いが、味はおいしいと聞いたことがある。

「これ、私の腕ではおいしく調理する自信はないんだけれど」
「安心しろ」

 アドルフは魔法で水球を作りだし、そこに獲れた大黒貝を入れる。水に風魔法を加えると、くるくる回り出した。すると、瞬く間に水が真っ黒になる。

「あ、泥抜きしたんだ」

 こればかりは、さすがだと思ってしまう。魔法と魔法を掛け合わせるのは、高い技術と集中力を必要とするのだ。まさかそれを、アドルフが軽々とやってのけるとは。
 魚エリアでは、大黒貝をいくつか入手した。