桜人は三日で退院になった。そしてさらに五日後に、光の退院も決まる。

土曜日のその日、光の退院に付き添うために、お母さんと一緒に朝早く家を出た。

お世話になった看護師さんやお医者さんへの挨拶をすませ、退院の手続きを終えてから、病院を出る。すると、エントランスの柱に寄りかかるようにして、桜人が立っていた。

フード付きのグレーコートに、黒の細めのジーンズ。私服の桜人は、相変わらず背が高くて大人っぽい。本当は二歳年上なのだから、当然といえば当然だけど。

病院から出てきた若い看護師さん三人組が、そんな桜人にチラチラ視線を送りながら通り過ぎていく。

「さっちゃん!」

桜人に気づいた光が、顔を輝かせて駆け寄る。光の頭をわしゃわしゃと撫でながら、「光、退院おめでとう」と桜人は笑った。

「もう、無茶するなよ」

「分かってるって。さっちゃん、また遊んでくれるんでしょ?」

「おう。いつでも遊んでやる」

桜人の返事を聞くなり、光は花開いたように笑った。

本当に桜人が好きなんだなあと、姉として軽いジェラシーを感じてしまう。

するとふいに、桜人と目が合った。

「光。ちょっとだけ、お姉さん借りていい?」

「いいよ!」

それから桜人は、お母さんに向かってぺこりと頭を下げる。お母さんは「ふふ」と何かを含んだような笑い方をした。

「私と光は先に帰ってるから、ゆっくりしていきなさい」

そう言い残して、光を連れて、そそくさと大通りの方に向かうお母さん。

なんだか、すごく恥ずかしい空気感だった。

桜人とは、昨日の夕方まで一緒にいた。退院してからというもの、朝は待ち合わせて一緒に登校して、帰りは一緒に文芸部に行く。それから同じバスに乗って、桜人はバイト、私は光のお見舞いに行く日々を過ごしていた。

そんな状態だから、私たちが付き合っているという噂は、あっという間に学校中に広まっていた。夏葉にも、美織にも、杏にも、そのことを冷やかされた。

実際は付き合っているというわけではないのだけど、私は桜人に好きと伝えたし、彼もそれを拒まず一緒にいてくれるということは、それに近い状態なのだと思っている。

「ちょっと来て」

桜人はいきなり私の手を握ると、入院棟の方に向かって歩きはじめた。

手を繋いだのは久しぶりで、あっという間に胸が高鳴った。

歩きながら桜人の掌がそっと動いて、指に、指を絡ませられる。

今までにない触れ方に、距離が近くなったことを感じて、頬が熱くなった。

桜人が私を連れてきたのは、樫の大木が根を蔓延らせている、あの中庭だった。

水色の空には白い霧のような雲が浮かんでいて、葉をなくした枯れ枝が、風に煽られ緩やかに揺れている。

「いい天気だね」

空を見上げながらそう言うと「ここはいつもいい天気だ」と桜人が非科学的なことを言う。

「俺の中では……」

それから桜人は、変なことを言ったのに気づいたのか、やや焦ったように付け足した。

「そうなの?」

いつになく動揺している桜人が面白くてクスクス笑っていると、突然両肩に手を乗せられた。急なことにビクッと肩が竦む。 

「好きだ」

見上げれば、真剣な目をした桜人の顔があった。

あまりの不意打ちに、私は狼狽えた。

「どうしたの? 急に……」

「伝えてなかったことが、ずっと気になってた。真菜に先に言われたけど、本当は俺の方が何倍も好きなんだ」

どちらの方が好き度が強いかなんて、そんなの、客観的には判断できない。

だけど、真剣な顔で、一言一句を大事そうに言われると、彼の想いがどれほど強いかが伝わってきた。

「……うん、ありがとう」

ありえないほどに顔に熱が集まるのを感じながら、恥ずかしさのあまりうつむこうとした。

だけどその瞬間、不意に目の前が陰って、感じたことのない温もりが唇に触れていた。

――優しい、この世の何よりも優しいキス。

そのとき、懐かしい景色と空気に触発されるように、私はあの日のことを思い出した。

「そうだ。あのとき、『“君がため”ゲーム』をしたんだった……」

いかにも子供の遊びらしい、思いつきの言葉遊びだ。

「今思い出したの?」

赤い顔で、桜人が不服そうに言う。

「俺は、ずっとずっと、覚えていたんだけどな」

そう言って、かけがえのない人となった君は、抜けるように青い寒空の中、私の向かいで幸せそうに目を細めて笑った。