君がひとりで泣いた夜を、僕は全部抱きしめる。

親族以外の面会時間が過ぎたと告げられ、私は桜人のお父さんを病室に残し、ひとり病院をあとにした。

お医者さんはすぐに目覚めると言っていたけど、時間がかかり過ぎていた。

不安に蝕まれながら、真っ暗なロータリーを行く。

バス停に向かう途中、闇の中で煌々と灯りを灯している、デニスカフェが目に入った。

もちろん、今日そこに桜人はいない。

教室にいるときからは考えられないほどの大人びた笑顔で、いつも懸命に働いていた桜人。

ふと、桜人のお父さんの言葉を思い出した。

――『本が、文字を書くことだけが、この子の支えだったんだろう』

見上げると、雲がかった空には、星がいくつかきらめいていた。

十二月の夜は、凍えるほど寒い。

口から吐き出された息が、白い靄となり、天へと昇っていく。

儚げなその景色を目で追っているうちに、桜人が紡いだ文字が、頭の中によみがえった。 

 僕が歩むこの世界は、澱んで、濁っている
 どんなにもがいても、出口が見えない
 だから僕は、君のために影になる
 光となり風となる
 僕が涙を流すのは、君のためだけ
 僕のすべては、君のためだけ
 深い海の底に沈んだこの世界で、僕は今日も君だけを想う

深く胸を打たれた、去年の文集。

ああ、と泣きたくなった。

あれは、桜人が私に宛てた心の叫びだった。

だから、あんなにも真っすぐ、私の心に響いたんだ。

ゆっくりと、冬の夜の街を行きながら、記憶の海を辿っていく。

そして私は、ふと足を止めた。

 君のために、歌を歌う
 君のために、空を飛ぶ
 君のために、夢を見る
 世界を変えてくれた君に、僕のすべてを言葉にして贈ろう
 悲しい夏ぐれも
 切ない夕月夜も
 寂しい霜夜も
 君がひとりで泣かないように

ああ、そうだ。あれも、桜人が私に宛てた言葉だった。

彼の紡ぐ言葉は、私をいつも、見えないところから包んでくれていた。

悲しいほどに、あたたかく――。

「君のために……」

夜の闇に向けて、白い吐息とともに小さく呟いた。

ちっぽけで臆病な私に、悲しいほど尽くしてくれた君に、私はなにができるだろう?
翌日は土曜日で、学校が休みだった。

病院の面会時間が始まるなりすぐに行けるよう、家を出る。

冬の空は、今日も澄んだ水色だ。

入院棟の一階でエレベーター待ちをしていると、通りかかった近藤さんが、急いでこちらに駆け寄ってきた。

「小瀬川くん、昨日の夜中に、目を覚ましたわよ。光君が会いたいって言ってたから、今朝連れて行ったの。光君、何度も謝って、二度とあんなことはしないと小瀬川くんに誓っていたわ」

「……そうなんですね。本当に、いろいろとありがとうございます」

私は、近藤さんに向けて、心から深々と頭を下げた。

よかった。桜人は、目を覚ましたんだ……。

光は昨日、自分のせいで桜人を傷つけたことを、ひどく後悔していた。逃げてばかりいるのはもうやめる、と言っていた。病気にも、自分を理解してくれない友達にも立ち向かうって――。

私は、力の限り光の支えになろうと思っている。

桜人が、身を呈して光を救ってくれたように。

「真菜ちゃんも、桜人くんのところに、早く行ってあげて。光君の容態は安定してるから、心配ないわ」

「わかりました」


急いで、五階にある桜人の病室に向かう。

真っ白なドアをノックすれば「はい」と中から声が返ってきた。

窓から燦燦と降り注ぐ光に照らされたベッドに、彼は横になっていた。

頬にガーゼをした昨日と同じ姿で、驚いたように私を見る。そして、気まずそうに視線を逸らした。

もう、怖くはなかった。

私は病室に足を踏み入れると、桜人に向けて頭を下げる。

ぎょっとしたように、桜人が再びこちらを見た。

「光を助けてくれて、ありがとう」

心からの気持ち込めて言うと、「やめろよ」と困惑したような声が返ってくる。

「悪いのは俺なんだ。光に、もう今までみたいに相手してやれないって言ったから……。光を追い込んでしまった。また自分のことしか考えてなくて、周りを傷つけた」

「相手してやれないって、どうして……?」

そういえば以前に、光がさっちゃんとうまくいってないとお母さんが言っていたことを思い出す。

「それは……」

桜人が、視線を上げて私を見る。

心が軋むほど、悲しげな目だった。

「俺が、真菜や、光の傍にいてはいけない人間だから……」

それから桜人は、うつむき、肩を震わせた。

「ごめん、真菜。ごめん……。悲しませてごめん……」

悲しみが伝染しそうなほど、苦しげな声だった。

細い糸のように頼りなく、今にも消え入りそうな声。

男の人が、こんな風に泣くのを初めて見た。

だけど私は、その姿を異様だとは思わなかった。

きっと彼は、今までも、心の中でずっと泣いていた。

むしろ、泣いている彼の方が、自然な姿なのだ。

彼はきっと、紡ぐ言葉と同じく、繊細な人だから。

「俺がいなかったら、真菜のお父さんは助かっていたかもしれないんだ……」

感極まっているのだろう。くわしい説明もなく、彼は心のままに懺悔を吐き出す。

「俺は、苦しんでる真菜を助けたかった。明るい方に、導いてあげたかった。だけどこれ以上そばにいたら、離れられなくなる気がして……。俺は、君の近くにいてはいけない存在なのに」

泣いている彼は、幼子のように小さく見えた。

そして同時に、たまらなく愛しいと思えた。

私はベッドまで歩み寄ると、桜人の身体を、そっと抱きしめた。

私よりもずっと背の高い桜人の背中は大きいから、すべては抱きつくせないけど、生まれて初めて芽生えたこの想いが伝わるように、きつく、きつく、抱きしめる。
「桜人」

柔らかなモカ色の髪を撫でながら、愛しいその名を呼ぶ。

弱くて、みじめで、消えたいほどダメな自分の中に、こんな強さが眠っているなんて思いもしなかった。

教えてくれたのは、彼だ。

悲しみに沈んだ世界から手を伸ばし、いつも私を支えてくれた。

私はやがて、私を変えてくれた彼に恋をした。

本当の恋は――人を強くする。

与えられるだけじゃない。本当は小さくて弱いこの人を、守ってあげたいと思う。

君のために、生きたいって思う。

「桜人が、好き」

心からの想いは、ごくごく自然に口からこぼれ出ていた。

驚いたように上げられた涙で濡れた顔に、心のままに微笑みかける。

「だから私は――これからもずっと、傍にて欲しい」

全部知ってるよ、と言葉を繋いだ。

「桜人が、ずっと苦しんできたことも。私のために、あふれるほどの言葉を書いてくれたことも。そんな桜人のすべてが、私は好き」

桜人は驚いた顔をしたあと、困惑したように眉を寄せて、その目にまた哀しげな色を浮かべた。

「でも俺は、絶対に許されないことをしたから――」

「許すとか、そんなんじゃないよ。桜人じゃなきゃだめなの」

そう答えると、ようやく桜人の目に、微かに希望の色が浮かんだ。

震える息が、耳元で「……本当に、いいのか?」と懇願するように囁いてくる。

深く頷けば、桜人の腕が背中に伸びてきて、そっと抱き返された。

「ありがとう……」

まるで壊れ物を扱うように私を抱きしめながら、桜人はその後も泣き続けた。

そんな彼の温もりを肌に感じながら、私は今までにないほど、満ち足りた気持ちになっていた。
もう泣かないで大丈夫だよ、桜人。

今度は私が、君のための、光となり陰となるから。
桜人は三日で退院になった。そしてさらに五日後に、光の退院も決まる。

土曜日のその日、光の退院に付き添うために、お母さんと一緒に朝早く家を出た。

お世話になった看護師さんやお医者さんへの挨拶をすませ、退院の手続きを終えてから、病院を出る。すると、エントランスの柱に寄りかかるようにして、桜人が立っていた。

フード付きのグレーコートに、黒の細めのジーンズ。私服の桜人は、相変わらず背が高くて大人っぽい。本当は二歳年上なのだから、当然といえば当然だけど。

病院から出てきた若い看護師さん三人組が、そんな桜人にチラチラ視線を送りながら通り過ぎていく。

「さっちゃん!」

桜人に気づいた光が、顔を輝かせて駆け寄る。光の頭をわしゃわしゃと撫でながら、「光、退院おめでとう」と桜人は笑った。

「もう、無茶するなよ」

「分かってるって。さっちゃん、また遊んでくれるんでしょ?」

「おう。いつでも遊んでやる」

桜人の返事を聞くなり、光は花開いたように笑った。

本当に桜人が好きなんだなあと、姉として軽いジェラシーを感じてしまう。

するとふいに、桜人と目が合った。

「光。ちょっとだけ、お姉さん借りていい?」

「いいよ!」

それから桜人は、お母さんに向かってぺこりと頭を下げる。お母さんは「ふふ」と何かを含んだような笑い方をした。

「私と光は先に帰ってるから、ゆっくりしていきなさい」

そう言い残して、光を連れて、そそくさと大通りの方に向かうお母さん。

なんだか、すごく恥ずかしい空気感だった。

桜人とは、昨日の夕方まで一緒にいた。退院してからというもの、朝は待ち合わせて一緒に登校して、帰りは一緒に文芸部に行く。それから同じバスに乗って、桜人はバイト、私は光のお見舞いに行く日々を過ごしていた。

そんな状態だから、私たちが付き合っているという噂は、あっという間に学校中に広まっていた。夏葉にも、美織にも、杏にも、そのことを冷やかされた。

実際は付き合っているというわけではないのだけど、私は桜人に好きと伝えたし、彼もそれを拒まず一緒にいてくれるということは、それに近い状態なのだと思っている。

「ちょっと来て」

桜人はいきなり私の手を握ると、入院棟の方に向かって歩きはじめた。

手を繋いだのは久しぶりで、あっという間に胸が高鳴った。

歩きながら桜人の掌がそっと動いて、指に、指を絡ませられる。

今までにない触れ方に、距離が近くなったことを感じて、頬が熱くなった。

桜人が私を連れてきたのは、樫の大木が根を蔓延らせている、あの中庭だった。

水色の空には白い霧のような雲が浮かんでいて、葉をなくした枯れ枝が、風に煽られ緩やかに揺れている。

「いい天気だね」

空を見上げながらそう言うと「ここはいつもいい天気だ」と桜人が非科学的なことを言う。

「俺の中では……」

それから桜人は、変なことを言ったのに気づいたのか、やや焦ったように付け足した。

「そうなの?」

いつになく動揺している桜人が面白くてクスクス笑っていると、突然両肩に手を乗せられた。急なことにビクッと肩が竦む。 

「好きだ」

見上げれば、真剣な目をした桜人の顔があった。

あまりの不意打ちに、私は狼狽えた。

「どうしたの? 急に……」

「伝えてなかったことが、ずっと気になってた。真菜に先に言われたけど、本当は俺の方が何倍も好きなんだ」

どちらの方が好き度が強いかなんて、そんなの、客観的には判断できない。

だけど、真剣な顔で、一言一句を大事そうに言われると、彼の想いがどれほど強いかが伝わってきた。

「……うん、ありがとう」

ありえないほどに顔に熱が集まるのを感じながら、恥ずかしさのあまりうつむこうとした。

だけどその瞬間、不意に目の前が陰って、感じたことのない温もりが唇に触れていた。

――優しい、この世の何よりも優しいキス。

そのとき、懐かしい景色と空気に触発されるように、私はあの日のことを思い出した。

「そうだ。あのとき、『“君がため”ゲーム』をしたんだった……」

いかにも子供の遊びらしい、思いつきの言葉遊びだ。

「今思い出したの?」

赤い顔で、桜人が不服そうに言う。

「俺は、ずっとずっと、覚えていたんだけどな」

そう言って、かけがえのない人となった君は、抜けるように青い寒空の中、私の向かいで幸せそうに目を細めて笑った。
君が閃いた、面白い遊びがあった。

ルールは簡単。

相手のためにできることを、互いに、順番に言い合いっこすればいい。

 君のために、歌を歌う。
 君のために、空を飛ぶ。
 君のために、夢を見る。
 
ただ、それの繰り返し。

本当にできることでも、そうでなくてもいい。

だけどずっと本か病室の天井ばかりを眺めていた僕には、それはこの世の何よりも尊い遊びのように思えた。

 
病院の真っ白な壁に、青々と生い茂る芝生、大きく育った樫の木のざわめき。

そして、白い光の中にいるような、君の笑顔。

知らなかった。

言葉は、こんなにも力を持っている。

君がこうやって笑ってくれるなら、僕はまた、新たな言葉を紡ぐことができるだろう。


君に出会って、言葉の尊さを知った日。

僕は生まれて初めて、この世界を愛しいと思った。
 


                                   おわり

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