翌日。

思った通り、小瀬川くんは、私のことなどどうでもよさそうだった。

机に突っ伏して寝ていたり、だるそうにあくびをしていたり。そもそも、バイト中に私を見かけたことすら、覚えていないのかもしれない。

「小瀬川。これ、解いてみろ」

三限目の数学の時間。小瀬川くんが、当てられた。

昨日小瀬川くんをたまたま見かけたせいか、彼の動向をつい意識してしまう。

小瀬川くんはノートの上に突っ伏していたから、多分寝ていたんだと思う。というより、寝ていたから、当てられたんだと思う。五十代くらいで頭の毛の薄いその数学の先生は、寝ていたり聞いていなかったりする生徒をわざと当てるのが好きなのだ。

「うわ、かわいそう……」

誰かのヒソヒソ声がした。

机から顔を上げた小瀬川くんは、寝ぼけた顔で、モカ色の頭をガシガシ掻きながら黒板を見つめていた。だけどすぐに立ち上がると、だるそうに黒板に向かう。気だるげなのに、背が高いせいか、妙な存在感のある彼の歩き姿を、教室中の皆が固唾を呑んで見守っていた。

小瀬川くんはチョークを手に取ると、応用問題の方程式を難なく解いた。

チョークが黒板に数式を刻む音が、静まり返った教室内にリズミカルに響く。

想像もしていなかったほど、きれいな字だった。

流麗で、どちらかというと女子が書きそうな字体。

「……正解。戻っていい」

小瀬川くんが間違えるのを、期待していたのだろう。先生が、明らかに不満そうな声を出す。

「すげえ」「かっこいい」「天才じゃん」

そんな声がヒソヒソと飛び交う中を、小瀬川くんはまた気だるげに歩き、自分の席に着くなり突っ伏した。
すごい人だと思った。バイトしてても、ちゃんと勉強してるんだ。

家のことと勉強で手いっぱいの私とは、大違い。

少しだけ、飄々とした態度の小瀬川くんに、ジェラシーを感じた。

その日の放課後のことだった。

「水田。お前、部活に入らないか?」

職員室に私を呼び出したクラス担任の増村先生から、そんなことを言われた。

「部活、ですか?」

突飛すぎて、頭が追いつかない。部活なんて、入ろうとすら思ったことがないからだ。

増村先生は、専攻が古典の、三十代半ばの男の先生だ。だけどガタイがよくていつもジャージの上下を愛用しているから、よく体育教師に間違えられる。先生というよりまるで年上の友達のような親しみやすい先生で、生徒からは人気があるけど、ちょっと強引なノリが私は苦手だった。

「でも……」

忙しくしているお母さんの代わりに、私は家事をしないといけない。それに、特に今は、光の病院に行かないといけないから忙しい。

「分かってるよ。家、大変なんだろ?」

不意をつかれたけど、すぐに当然だと思った。担任である彼は、うちが母子家庭だということなんてもちろん知ってるだろう。

それに去年の面談で、光が入退院を繰り返していることを、お母さんが当時の担任に言っていたし。

「……そうなんです」

「だけどな、水田。部活は青春の一ページだ。絶対にやった方がいい」

使い古されたようなセリフ。大人目線でものを言われると、うんざりしてしまって、「はあ」としか言えなくなる。

「だから、文芸部に入れ」
「……文芸部、ですか?」
「俺が顧問だから、融通が効く。家のことがあるだろうから、無理して来なくてもいい。現に、ユーレイ部員もいるしな。だけど一週間に一回は、顔を見せろ。それだけでいいから」

結局断り切れず、私はその足で、文芸部の見学に行かされることになってしまう。

「文芸部か……」

部活になんて、正直興味がない。中学に入ったばかりの頃は、テニス部に入ってみたけど、結局思うように参加できずラケットを買う前にやめてしまった。

それに、文芸なんてますます興味がない。読書は好きな方だけど、ものすごく読むというほどでもない。

乗り気になれないまま、部室の集まる、旧校舎の三階に向かう。

文芸部は、廊下の一番奥にあった。物置と見まがうような、古めかしい丸型のドアノブのついたドア。ドア板の上半分に埋め込まれた擦りガラスのさらに上部に、『文芸部』と書かれたプレートが掲げられている。

ドアの向こうはシーンとしていて、人の気配なんてまったくなかった。ひと呼吸して、コンコンとドアをノックする。間もなくして「はい」と微かな声が返ってきた。

「あの。増村先生に言われて、見学に来ました」

ドア越しに緊張気味に声をかけると、「入ってください」とまた微かな声がした。

「失礼します……」

そこは、驚くぐらい狭い部屋だった。広さはおよそ六畳程度だけど、壁の二面がぎっしり本棚で埋まっているから、より狭く感じる。

真ん中には、長テーブルが置かれていて、上座のパイプ椅子に女子生徒が座って本に目を落としていた。三つ編みに眼鏡の、いかにも文学少女、といったイメージの人。顔を上げ、文学少女が私を見た。

「部長の川島です。三年です。二年の水田さんですよね? 増村先生から話は聞いています、好きに見学してください」

「あ、はい……」

サクサクと話を進めると、川島部長は再び本に没頭しはじめた。本棚の手前には、男子生徒がひとり、胡坐を組んで座っている。彼も本に没頭していて、こちらのことには我関せず、といった具合だ。彼らがときどきページを捲る音だけが響く、静かな空間だった。

ていうか、好きに見学してと言われても、狭すぎて、ぼうっと立つ以外何も出来ない。

「あ、あの……」

「何か?」

おずおずと声を出すと、川島部長が再び顔を上げて眼鏡を光らせた。

「他の部員の方は……?」

「私と、そこにいる一年の田辺くんと、今日は来てないけどあとひとり。以上です」

田辺くんらしき男子生徒が、私に向けてぺこりと頭を下げてきたので、私も慌てて頭を下げた。くるくる頭の黒髪の、童顔の男の子だ。その手元には、背表紙に『ドグラ・マグラ』と書かれた、なんだか難しそうな本。

「全部で三人ってことですか……?」

「そうです」

川島部長は、何を聞いても、声のトーンも表情も一切変わらない。それきり、会話は途切れてしまった。仕方なく、私は本棚に近づき、本や資料を物色することにする。

日本文学全集や、ロシア文学全集など、図書館でしか見かけないような分厚い本がたくさん並んでいた。旧い本独特の、どこか懐かしい香りが、鼻をかすめる。

静かな部屋に、半開きの窓からそよぐ風が、放課後の音色を運んでくる。グラウンドでノックに励む、野球部の声。吹奏楽部が奏でている音楽は、有名な映画のテーマ曲だ。どこからともなく遠く聞こえる、ワッと盛り上がる笑い声。

気づけば私は、本を目で追いながら、ストンと床に体育座りをしていた。

不思議と、居心地が良かったからだ。

行ったことのない部室に、初めて会うふたりの生徒。そのはずなのに、ずっと前からこの場所を知っていたかのような心地になっていた。

「よかったら」

ふいに、声がした。見れば、胡坐を掻いて小難しそうな本を読みふけっていた田辺くんが、冊子のようなもの私に向けて差し出している。

「去年の文集です。僕のは今年入部したばかりなので載っていませんが、入部を決める際の参考になるかと」

「あ、ありがとう」

私が文集を受け取ったのを見届けると、田辺くんは、また本の世界に戻っていった。

紫色の薄い冊子には、去年の年号、そして『県立T高校文芸部』と書かれてある。日付が秋になっているから、おそらく文化祭に合わせて作成されたものだろう。この文集の作成が、文芸部の一番目立った活動なのかもしれない。

パラリと頁をめくる。

一センチにも満たない厚さのその冊子には、部員たちが、思い思いに文字を綴っていた。

短編小説、エッセイ、随筆、詩。ひとつとして同じものはない。

好きなように、書きたいように。そこには多種多様の個性が輝いていた。

後ろの方のページで、昨年二年だった、川島部長の名前を見つける。難しそうなミステリーの短編が、他の部員たちの倍はあるのではないかという文字数で、ぎっしり書き連ねられていた。

今日会ったばかりで、先輩のことはまだよく知らないけど、我が道を貫くかんじが彼女らしいなと感じた。

最後は、詩だった。

他の作品とは違い、その詩だけタイトルも名前もないのを、不思議に思う。

川島部長が幅を占めすぎたせいか、その部員の枠だけすごく狭い。

だけど、詩独特の空白のせいか、それは驚くほど自然と私の目に入ってきた。

 僕が歩むこの世界は、澱んで、濁っている
 どんなにもがいても、出口が見えない
 だから僕は、君のために影になる
 光となり風となる
 僕が涙を流すのは、君のためだけ
 僕のすべては、君のためだけ
 深い海の底に沈んだこの世界で、僕は今日も君だけを想う

そこには、苦しいほどの、“君”に対する想いが綴ってあった。

詩の勉強なんてしたことがないから、この詩がうまいかどうかなんてわからない。

わからないけど、そんなことはどうでもいいと思った。

わずか七行の、他のどの作品よりも短いその詩は、不思議なほど私の心に響いた。

そして、たまらなく泣きたくなった。

不器用なほど真っすぐな、“君”に対する真っすぐな想いが、じわじわと胸を揺さぶったんだ。

――悲しくて、あたたかい。

心の奥底から、今まで感じたことのない熱い感情が込み上げた。

「どうしますか、入部しますか?」

ふいにかけられた声に、詩の世界に支配されていた私は、我に返った。

川島部長が、眼鏡をクイッとやりながら、こちらを見ている。

「あ、ええと……」

こんな、早急に決めないといけないのだろうか?

戸惑いながら、名もない詩に視線を落とす。

心臓がドクドクと鼓動を刻んでいる。

名もなき詩の一文一文が、いまだ頭の中を、ゆっくりと揺蕩っていた。

そして、まるで口から言葉が流れ出てきたかのように、私は自然と返事をしていた。

「……はい。入ります」