「付き合ってるの?」
いよいよ文化祭まであと一週間という九月の終わり。
新学期が始まっても続いていた猛暑が、少しずつ和らぎ、ようやく秋の気配を感じるようになった昼休み。いつもの中庭のベンチで、お弁当に箸をつけながら、夏葉が唐突にそんなことを聞いてきた。
「へ?」
意味が分からず、卵焼きを口に入れたまま、間抜け顔で聞き返してしまう。
「真菜と小瀬川くん。噂になってるよ」
したり顔の夏葉の顔を見て、一瞬、むせ込みそうになった。どうにか卵焼きを飲み下し、お茶をひと口飲んでから、ようやく口を開く。
「つ、付き合ってないよ……!」
「霜月川の花火大会で一緒にいるところを、見た子がいるんだって」
どうやら、私の知らないところで、目撃情報が広まっていたらしい。
「委員も部活も一緒だし、付き合ってるの確定って思われてるみたいよ」
「……だから、付き合ってないから!」
噂って、本当にひとり歩きしてしまうんだ、恐ろしい。
夏葉は、「そうなの? なんだ」と残念そうな顔をした。
「花火大会では、たまたま会って、一緒に行くことになったの。私がひとりだったから、心配してくれて……」
「ひとりで花火大会行こうとしてたの? どうして?」
不審そうな顔を浮かべる夏葉。
私は、お弁当を片手にこちらを見ている夏葉を見つめた。
それを話すと、弟のこと、そして母子家庭であることも知られてしまう。だけど。
『――自分の家庭環境を卑屈にしてんのは、お前自身だろ?』
桜人のその言葉は、今はより色濃く胸の奥に残っていた。
もう、怖くはない。美織と杏だって受け入れてくれたし、夏葉なら絶対大丈夫。
私は、家のこと、光の病気のこと、そしてあの日光のためにひとりで花火大会に足を運ぼうとしたことを、夏葉に話した。夏葉はときどき相槌を打ちながら、黙って聞いてくれた。
「……やっと言ってくれた」
語り終えたとき、夏葉がどこかホッとしたように言った。
「真菜が自分の家庭に、後ろめたさを感じてることにはずっと気づいてた。だから、そんな大事なことを、勇気を出して私に話してくれてうれしい」
「夏葉……」
夏葉の優しさに、目元が潤む。どうして私は、夏葉にもっと早く自分をさらけ出さなかったのだろう。でも臆病な私は、夏葉のことが大事だからこそ、中学のときの友達みたいに、失いたくなかったんだ。
夏葉には、もう何も隠したくない。
私は、中学の時のつらい思い出も話した。だからずっと、夏葉に自分を隠していたこと。
夏葉は全部、私の気持ちを受け入れてくれた。
「夏葉と友達で、本当によかった……」
感極まってそう言うと、夏葉は少しバツが悪そうに頭を掻く。
「あー、そのことなんだけど……」
首を傾げると、夏葉は意を決したように、私と向かい合う。
「私も真菜に秘密作りたくないから、全部言うね。私が真菜に声かけたきっかけはね、小瀬川くんに言われたからなの」
「え、そうだったの……?」
「でも、誤解しないで。真菜とずっと話したかって言うのは本心。小瀬川くんは、踏み切れないでいた私の背中を押してくれたの」
「……そうだったんだ。ううん、誤解なんてしてない」
「よかった。『水田さんに声かけて欲しい』って急に言われてね。小瀬川くんと同中だった女子って私だけだから、言いやすかったんじゃないかな」
なんで桜人がそんなこと……。頭の中がぐるぐるしている。美織と杏と離れるきっかけを作ったのは彼だから、責任を感じてたのかもしれない。数カ月越しに知る桜人の優しさに、じんとする。
呆然と桜人に想いを馳せていると、夏葉がそっと微笑んだ。
「小瀬川くん、真菜のことが好きなんだと思う」
そんなことを藪から棒に言われ、固まってしまった。
「前に言ったの覚えてる? 高校に入ってから、小瀬川くん雰囲気変わったって。明るくてクラスのリーダー的存在だったのに、突然寡黙になって誰ともつるまなくなったって」
「……うん、覚えてる」
そのことは、ずっと気になっていた。
なにがきっかけで、桜人が変わってしまったのか。
知りたいけど、知るのもおこがましい気がしている。
「もうひとつ、変わったことがあるの。同じクラスになってすぐの頃から、小瀬川くん、よく真菜のこと見てた。今までは、女子に興味なさそうだったのに、大きな変化だよ。フラれたって子の話、たくさん聞いたし」
驚いて、思わず呆けてしまった。
クラス替え当初から、桜人が私を見てたなんて、考えられない。
「それは、気のせいだと思う。部活とか委員とか一緒にやるようになってからは違うけど……二年になってすぐの頃は、目が合うことすらなかったよ」
「真菜に気づかれないところで、見てる感じかな。ほら、私、小瀬川くんより後ろの席だからよく見えたの。真菜は、ずっと小瀬川くんより前の席だったでしょ? 真菜のこと見てて、真菜が振り返ったら、小瀬川くん窓の方向いちゃうの」
たしかに、彼は見るたびに窓の外を眺めているイメージだった。
どうしよう。勝手に、胸が高鳴って、居ても立っても居られない気持ちになってしまう。
そんな私の様子を見て、ふっと夏葉が笑顔を浮かべた。
「真菜は好きなの? 小瀬川くんのこと」
そろりと目を上げ、夏葉を見る。
すっかり赤く染まってしまった顔では、もう隠しようがない。
「……多分、好きなんだと思う」
「多分?」
「分からないけど、私がつらいときに、桜人はいつも気づいてくれて……」
桜人はいつも、見えないところから、私を支えてくれた。
「臆病な私を、叱ってくれて……」
逃げるなよ、といった厳しい彼の口調。今にして思えば、あれほど優しくて思いやりのある言葉を、私は知らない。
まるで、陽だまりのような人だ。
天気のいい日には煌めくような輝きを、日射しの穏やかな日には柔らかな光を。そして曇りの日も雨の日も、雲のずっと上から、途切れることなく私を包み込んでくれる。
「でも私は何かをしてもらってばかりで、彼の役に立ててないことが……ときどき悲しくなる」
時折ふっと見せる悲しげな表情や、言葉を濁す感じ。
桜人は、私との間に築いた境界線を解いてはくれない。
彼に近づけば近づくほど、私はそれをはっきりと感じてしまう。
「誰かのために何かをしたいって気持ちは、“好き”ってことだよ」
夏葉が、私を諭すように言った。
「応援してるから。ふたりのこと」
「ありがとう……」
夏葉の優しさに泣きそうになりながら、私は深く頷いた。
十月初旬。文化祭本番当日。
「何コレ、めちゃくちゃ怖かったんだけど!」
「あの女ユーレイしつこい! 泣くかと思った」
「急にコンニャクが大量にぶつかってきたの、マジでびびったんだけど!」
私たちのクラスのお化け屋敷は、大盛況だった。
空き教室と、理科室を繋いだロングコースで、うちの高校の文化祭史上もっとも凝ったお化け屋敷と言われた。
コースの前半は、日本の墓場がイメージされている。ドロンドロンというお決まりの音響のもと、ダンボールで精巧に作られたお墓が並び、壁から突然出てくる手やコンニャクに驚かされながら、美織が扮する女ユーレイをはじめとしたお化けたちに次々襲われる。
次は、理科室。不協和音を奏でるピアノの旋律が流れる中、ブルーライトに照らされた骸骨やホルマリン漬けの瓶の中を、時折爆音に驚かされながら恐々進む。そして最後に、人体模型に扮したクラスの男子が急に動き出し、悲鳴をかっさらう。
私も一度、夏葉と一緒に入ったけど、どこで何がでてくるか分かっていながら、すごく怖かった。ユーレイの美織と化け猫の杏も執拗に襲ってくるし、本気で逃げ出したくなったほどだ。
「みんなお疲れ! 増村先生から差し入れだぞ~!」
文化祭が終わって、ようやく片付けが一段落した頃、コンビニのビニール袋を抱えたクラスの男子たちが、テンション高く教室に入ってきた。
ビニール袋の中には、ペットボトルに入ったジュースやお菓子が大量に入っている。
「打ち上げだ~!」
お調子者の斉木くんの号令で、皆好きなところに座って、今日のことを話しながらお菓子を食べジュースを飲む。こんな時間に、教室で堂々とこんなにお菓子を食べるなんて、特別な感じがしてわくわくした。
「カンパーイ!」
女子たち数人で、ジュースの入った紙コップを合わせた。
「今日の主役は、やっぱ美織だよね。あの気合の入った演技! 子どもが来ても、容赦ないんだもん」
「当たり前じゃない。子どもだからって、世の中の怖いことから目を背けさせてどうするのよ」
杏の言葉に、美織が鼻高々に答えている。
「杏の猫娘も可愛かったよ」
夏葉が言うと、杏は照れたように笑う。
「やっぱり? 夏葉の音響も最高だった。あのドロドロいうやつ、どこから持ってきたのよ」
「ネット検索して、フリーの曲の中からダウンロードしたの。いろんな効果音があったよ。真菜もありがとう。真菜いなかったら、ここまで纏まんなかったと思う」
ふいに話題に上げられ、「そうかな?」と頭を掻いた。
「うん。裏方的な仕事が、一番大変だもんね。特に増村先生の許可取る系のやつは。あの先生、どこにいるか分かんないんだもん」
「そんなことないよ。だいたい喫煙所にいるし」
「マジで? だからあんなタバコ臭いんだ」
美織の嫌悪感溢れる顔に、どっと笑いが起こる。
教室を見渡せば、どこもかしこも満足そうな笑顔が溢れてて、がんばってよかったと心から思った。
これが、“青春の一ページ”というものなのかもしれない。まるで他人事のような、増村先生のその口癖が苦手だったけど、今は先生の言っていたことがなんとなく分かる気がした。
達成感に満ちた、夕暮れの教室の雰囲気。
再来年にはバラバラの道を行く私たちの心がひとつになった、今しか味わえない、尊い時間。
この瞬間を、心に刻んでいたいと強く思う。
皆で楽しく話し込んで、ふと時計を見ると、五時を過ぎていた。
十月に入ってから、日が暮れるのも少しずつ早くなってきていて、窓の外はもう薄暗くなっている。
「そうだ、部室行かなきゃ」
思い出した私は、立ち上がる。クラスのことが落ち着いたら文集を取りに来るよう、川島部長に言われていたのだった。
毎年文化祭に合わせて製作される文集は、図書室と、教員全員に配布される。余ったものの中から部員が各々一冊ずつ持ち帰り、残りは部室で保管するらしい。私と桜人は文化祭実行委員で忙しいだろうからと気を遣ってくれて、製本と印刷は川島部長と田辺くんがやってくれた。だから、私はまだ完成したものを見ていない。
「真菜、どこか行くの?」
「文芸部の部室。取りに行くものがあるの」
「そう。気を付けて行ってきてね」
夏葉に別れを告げてから、教室を出た。
「川島部長、まだいるかな……」
旧校舎の中にある部室棟を、文芸部の部室目指してひとりで歩く。新校舎の方から、楽しげな笑い声やはしゃぐ声が、遠く聞こえた。対照的にこちらは閑散としていて、薄暗い廊下に、上靴の音がやたら響いている。
部室は開いてたけど、無人だった。
長テーブルの上に、今年の冊子が数冊山積みになっている。
「出来てる……」
新緑の色に似た、若草色の冊子をひとつ手に取った。今年の年号の下には、『県立T高校文芸部』と印字されている。
出来立ての文集からは、新しい紙の匂いがした。初々しい香りと手触りに、気持ちが昂る。この中に自分の作品も入っているのだと思うと、よりいっそう心が弾んだ。
パラリと、指先を切ってしまいそうなほど真新しい髪のページを捲った。
まずは、川島部長のミステリー小説だ。
「なっが……」
全体の七割以上を占めているそれは、立ち読みでは終わりそうにない文量だった。予想以上の長さに怖気づき、帰ってからじっくり読もうと、パラパラと先にページを進めた。
続いて、田辺くんの作品たち。なんだか小難しそうな随筆と詩と短編だった。
「ふふ。田辺くんっぽい」
次のページを開いて、ドキリとする。そこに載っていたのは、私が夏休みに書いたあのエッセイだった。
自分の中に眠っていた唯一無二の思い出が、こうして文印字されているのを見ると、不思議な気がした。誰かがこれを読むのかと思うと、恥ずかしいけどうれしい。
指先で、自分で紡いだ文字を辿る。
思いは、言葉は、こうして外に放つことができるのだと、改めて胸が震えた。
これを読んだ誰かが、また新しい思いを抱く。それはまた別の思いとなって、他の誰かの目に届くかもしれない。文字が生み出す、永遠の連鎖だ。それはとても壮大で、尊いことのような気がした。
「あれ……?」
私のエッセイが終わった次のページは、背表紙になっていた。
桜人のは?と違和感を覚えながらページを捲ると、わずか半ページに、短い詩があった。
昨年と同じく、名前もタイトルもない。
だけど、それが桜人の作品だということは、すぐに分かった。
君のために、歌を歌う
君のために、空を飛ぶ
君のために、夢を見る
世界を変えてくれた君に、僕のすべてを言葉にして贈ろう
悲しい夏ぐれも
切ない夕月夜も
寂しい霜夜も
君がひとりで泣かないように
すぐ帰るつもりだったから、電気をつけていない夕暮れの部室は、ひどく暗かった。
彼の紡いだ文字を、その想いをなぞるように、指先でそっと撫でる。
彼の言葉はいつも短いけれど、どうしてこうも、私の心を揺さぶるのだろう。
心の昂りを感じていると、父が亡くなった日に振り仰いだ病院の景色が、ふいに脳裏を過った。
ロータリーから見上げた病院の窓。
光の病室から見た、樫の木の生い茂る中庭――。
「………」
胸が、どうしようもなくざわついた。
――ガチャッ
ドアの開く音がして、私は慌てて背後を振り返る。
部室の入口には、桜人が立っていた。桜人は理科室の片付け担当だったから、空き教室の片付け担当だった私は、この数時間会っていない。
緩んだ緑色のネクタイに、白のワイシャツ、肘まで捲り上げられた袖。十月に入ってから衣替えがあったため、冬の制服姿の桜人は、重いものでも運んでいたのか額に汗を滲ませていた。
「はると……」
私と目を合わすと、桜人はほんの少しだけ微笑んだ。
目の奥に優しさが滲んでいて、見ているだけで胸の奥が和む。
「文集取りに来た」
あの花火大会の日、ともに過ごしてから、桜人はときどきふたりのときにこうやって笑ってくれるようになった。教室でも、文芸部でも見せない、私だけにする特別な顔だ。
桜人の視線が、私の手もとで開かれた文集に移った。
最終ページの彼の詩を読んでいたことに、気づかれたようだ。
「詩、読んだよ。今回のも好き」
「……ふうん、そう」
そっぽを向いて、素っ気ない返事をする桜人。だけどもう私には、彼が照れているのが、すぐに分かった。
部室内に足を踏み入れた桜人は、長机の上に重ねられた文集を手に取り、そのままパラパラと捲る。そして「川島先輩の、ながっ……」と苦笑した。
本の香りに包まれた部室は、日暮れとともに、青に染まっていく。暗いけど、まだ闇になりきれていない昼と夜の間のひととき。特別な一日が終わろうとしている安堵感と寂しさが、胸に押し寄せた。
「桜人は、いつから詩を書いてたの?」
立ったまま文集に目を落としている桜人に聞いてみる。
「小学校の頃から」
「そんな前から?」
うん、と桜人は頷いた。
「詩を書くことは、俺の日常の一部みたいなもんなんだ」
「じゃあ、中学のときも文芸部だったの?」
「いや、中学のときは文芸部がなかったから、帰宅部。だけど詩は、家でひとりで書き続けてた」
当たり前のように、さらりと桜人は言ってのけた。
詩を書くことが日常の一部だなんて、すごすぎる。
「じゃあ、文集に載ってる詩は、桜人の想いのほんの一部なんだね」
桜人の家には、いったいどれだけ彼が紡いだ詩が眠っているのだろう。
ほんの二編見ただけの詩に、これほどまで惹かれたんだから、もしもそれらすべてを目にしたなら、私はどうなってしまうのだろう。
桜人の紡いだ言霊の波に、溺れてしまうかもしれない。
だけど、それでいいと思った。そうなりたいと思った。
そしてふと、すんなり、心が認めたんだ。
――この気持ちが、好きって感情だということを。
喜びも、悲しみも、恥じらいも、切なさも。
彼のすべてを知りたい。
そして、寄り添いたい。
ぼんやりと、再び、桜人の書いた詩に指を馳せる。
真っ白な紙の上に浮かぶ黒い文字のひとつひとつが、泣きたいくらい愛しいものに思えた。
「桜人の書く詩は、初めて見るのに、そうじゃない気がするの。なんだか懐かしい」
言葉は、文字は、命だ。
桜人の命を、私はどうしようもないほどに抱きしめたい。
桜人は、天才かもしれない」
「なんだよ、それ。大げさだな」
ふっと、桜人が笑った。笑うと少し幼い印象になるのは、最近知ったことだ。
「桜人は、卒業したら、文学部に進むの?」
それは、当然のことのような気がした。幼い頃から文学が好きで、詩を紡ぐことが好きな彼は、これからも文学に寄り添うのだろう。
だけど桜人は、「まだ決めていない」とそっけなく答える。
「真菜は?」
「私? 私は就職する。うち、お金ないし」
微笑んで答えると、桜人はうつむいた。
暗いせいで、その顔はよく見えなかったけど、少しだけ変な間があった。
それから桜人はスクールバッグに文集を入れると、バッグを持っていない方の手を、当たり前のように私の方へと差し出す。
「――もう戻ろう。暗くなるから」
「うん」
私はごくごく自然に、その手を取った。
桜人の大きな掌に包まれると、途端に、身体中が生気を取り戻す。
花火大会のときからずっと、そうだった。
今まで宙ぶらりんの掌で生きてきたのが、嘘みたい。
掌と掌が繋がって、互いの体温を感じている方が、自然な気がした。
桜人もそう思っていてくれたなら、うれしい。
学校内にも関わらず、私たちは、ずっと手を繋いで廊下を歩いた。
これからバイトに向かうらしく、桜人とは昇降口で別れる。
「バイト、頑張ってね」
「おう。ごめん、あと作業終わったら、一応増村先生に報告しといて」
「わかった。まかせて」
微笑むと、桜人はまた少し幼さの見え隠れする笑顔を見せたあと、そっと私の手を離した。
背の高い彼の後ろ姿が、下駄箱の方へと遠ざかるのを、私はしばらくその場に立って見送った。
作業をしていた教室に戻ると、クラスメイトたちはほとんど帰っていた。隅の棚に置いていたバッグを漁り、スマホを見ると、【ごめん、塾あるから先に帰るね】と夏葉からLINEが入っている。美織と杏も、帰ったみたい。
空き教室の方は、すっかり片付いている。理科室はどうだろうと、隣に向かった。確認出来たら、桜人に言われたように、増村先生に報告しないといけない。
入り口から理科室の中を見ると、すっかり片付いていた。実験台のひとつに男子が二・三人集まって、話し込んでいただけだ。
もう大丈夫、と判断して喫煙室に向かおうとしたそのとき。
「あ、水田!」
男子の輪の中にいた斉木くんが、私を見て声をあげた。一緒にいる男子も、いつも斉木くんとはしゃいでいる賑やかなタイプの人ばかりだったけど、今はやけに深刻そうな顔をしている。
「どうしたの?」
手招きされて、彼らの方に近づく。すると斉木くんが、「お前、知ってた?」と小声で聞いてきた。
「小瀬川が、俺らより年上ってこと」
「……え?」
軽く動揺していると、「付き合ってるのに、知らなかったの?」と男子のひとりが茶化すように言う。
「別に、付き合ってないから」
声が小さくなってしまったのは、今でははっきり、桜人のことが好きだと実感しているからだろう。否定はしても、心の中では、私はそれを望んでいる。
「これ、見ろよ」
斉木くんが、紺色の生徒手帳を差し出してくる。
「さっきそこに落ちててさ。誰のか確認しようと思って中開いたら、小瀬川のだったんだけど、生年月日見て」
そこには、たしかに桜人の写真があった。記載されていた生年月日から彼の年齢を計算すると、斉木くんのいうように、私たちより二歳も年上と言うことになる。
「ほんとだ……」
見てはいけなかったもののような気がして、罪悪感が込み上げる。
「高校浪人したのかな?」
「少年院入ってたとか?」
「小瀬川が? まさか!」
「留学じゃね?」
好き勝手に話している、男子たち。私の深刻な面持ちに気づいた斉木くんが、「あ、ごめん、誤解するなよ!」と慌てたように言った。
「年上って知って、変な目で見るようになったわけじゃねーから。あいつ何やってもかっこよくて妬けたけど、『あ、年上ならしゃーねーな』って逆に安心したかんじ?」
裏表のなさそうな斉木くんのその言葉は、きっと本心だろう。
うん、と私は頷いた。
「……私、今から増村先生のところに行くから、よかったら、生徒手帳渡しとくよ?」
「お、さんきゅ。じゃあ頼むわ」
斉木くんから受け取った生徒手帳を、掌でそっと包んで廊下に出た。
たしかに驚きはしたけど、だからといって、何かが変わるわけではない。
だけど、私の知らない桜人の二年間には、絶対になにかがあるわけで。
知りたいけど、知ってはいけないような、落ち着かない気持ちになっていた。
***
君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな
“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”
ずっと、この和歌の意味が理解できなかった。
僕はずっと、生きたいと思っていなかったから。
誰かに会うために生きたいという気持ちなど、子供ながらに、きれいごととしか思えなかった。
見るからに仲が冷え切っていく両親、泣きわめく母親、突然の離婚。
ずっと思ってた。この世から、僕なんかいなくなった方がいいって。
この身体は、欠陥だらけだ。
早く土に返って、新しい生を育んだ方が、よほど世のため人のためだろう。
そんなとき、あの子に出会った。
あの子は太陽の光みたいに輝いていた。
最初は苦手で、拒絶しかけたけど。
だけど彼女は、不思議な力で、ぐいぐいとすさんだ僕の心を溶かしてくれた。
あのとき、一文字一文字が心に染み入るように、あの和歌の意味がスッと理解できたんだ。
遠い、夏の日の思い出だ。
生徒手帳がないことに気づいて理科室に引き返した俺は、中でのやりとりを、すべて聞いてしまった。
彼女の背中が、廊下の向こうに遠ざかって行く。
思わず柱の陰に身を隠した俺に気づかないまま、彼女の後ろ姿はやがて見えなくなった。
「でさ、そのあと増村に廊下で会ってさー」
「ぎゃはは、お前、それヤバくね?」
理科室内にとどまっている斉木達の話題は、もうすっかり別のことに移っている。
まあいいか。生徒手帳ぐらい、明日増村が返してくれるだろう。
俺は結局そのまま、踵を返して、昇降口に戻ることにした。
これくらい、どうってことはない。
何度も自分に言い聞かせても、心臓は、不穏な鼓動をやめる気配がない。
このままいると、いつか君は、知ってしまうかもしれない。
僕が、君に何をしたか。
臆病な僕は、そのことが、君に全てを知られることが。
――この世が終わってしまうことよりも、恐ろしい。
文化祭が、終わったころからだった。
桜人が、文芸部に来なくなった。
はじめは、バイトが忙しいのだろうと思っていた。
だけど翌週もその翌週も部室に来なくなり、教室で目が合うこともなくなったとき、避けられているのだと気づいた。
同じ教室にいても、私たちの空気が交わることはない。近くて遠い、そんな距離感。
まるで、二年になったばかりの、あの頃の関係に戻ったかのよう。
だけどあの頃と違うのは、桜人が文化祭をきっかけにクラスに馴染んでいるというところだった。
相変わらず一匹狼ではありけど、実は頼りがいのある桜人の周りには、いつも人が絶えない。桜人も、クラスメイトに笑顔を見せるようになった。
だけど桜人は、私にだけは笑いかけない。見向きもしない。
私だけに見せていた、あの特別な優しい笑顔も、霧のようにどこかに消えてしまった。
それが、たまらなくつらい。
どうしてって、何度も自問した。
彼を傷つけただろうか。不快にさせただろうか。
だけど思い当たる節がなく、月日だけが無常に過ぎていく。
十月も、もう終わりに近づいていた。
校庭の木々は色づき、太陽の光は和らぎ、空の水色もくすんでいく。
日に日に色を塗り替えていく世界が、冬の訪れを知らせていた。
おはよ、の声が飛び交う朝の昇降口。
寝ぼけ眼で、私はローファーから上靴に履き替えていた。昨夜、光が反抗してきて、夜遅くまで喧嘩をしていたからだ。
このところ、光は不安定だった。夏ごろから気持ちが落ち着いていて、体調もよかったのに、なんだか嫌な予感がする。
考えながらローファーを下駄箱にしまっていると、ぼうっとしていたせいで、手が誰かの腕に当たった。
「あ、ごめんなさい」
慌てて謝り、振り返る。息が止まるかと思った。
それは、久しぶりに間近で見る桜人だった。
前髪が、少し伸びた気がする。だけど相変わらずモカ色の髪はサラサラで、薄茶色の瞳が、驚いたようにこちらに向けられていた。
喉から出かけた言葉を、瞬時に呑み込む。
私を見るなり、彼の瞳に、激しい拒絶の色が浮かんだことに気づいたからだ。
「……いや、」
それだけ答えると、桜人は私を視界から外すように瞳を伏せた。スクールバッグを持つ彼の大きな掌が、遠ざかっていくのを放心状態で見送る。
廊下を歩いていた浦部さんが、そんな桜人に軽快に近づく。
「小瀬川くん、おはよー! 数学の課題、やってる?」
「やってるよ」
「さすが小瀬川くん! ちょっとだけ見せてもらっていい?」
並んで歩くふたりは、親しそうに見えて、胸がきりりと痛んだ。
廊下の向こうに徐々に見えなくなっていく背中は、今はもう、他人のようにすら感じる。
すがるように、彼の掌の感触を思い出していた。
まるで幻だったかのように、あのぬくもりは、今は遠い。
たまらなく胸が苦しくなって、私はひとりきりの掌を、ぎゅっと握りしめた。
その日の放課後。誰もいない文芸部の部室で、その想いに寄り添うように、私は桜人の綴った詩を眺めていた。
悲しい夏ぐれも
切ない夕月夜も
寂しい霜夜も
君がひとりで泣かないように
彼の言葉のひとつひとつが、今でも愛しい。だけど愛しければ愛しいほど、胸が苦しくて、張り裂けそうになる。
恋をしていなかったら、こんなつらい想いはしなくてすんだのに。
弱い弱いと思っていたけど、あの頃の私の方が、よほど強かったと思う。
どうして避けられてる?
いくら考えても、その答えは出てこない。
聞きたくても、桜人は話す機会を与えてくれない。
そして臆病な私は、また怖気づいてしまっている。
恋なんて、しなければよかった……。
「あれ? 川島部長は、今日休みっすか?」
ドアの開く音とともに、そんな声がした。田辺くんの出現に、私は慌てて文集を閉じると、平生を繕う。
「うん、来てないみたい。珍しいよね」
「小瀬川先輩はずっと来てないし、寂しいっすね~」
言いながら、田辺くんは、自分のバッグから本を取り出した。どうやら、図書館で借りてきた本を読むつもりみたい。
「あ、そうだった!」
静まり返ったのも束の間、唐突に田辺くんが声をあげる。
「これ! すごいじゃないですか!」
目の前に新聞を差し出され、面食らう。
「え、なんで新聞?」
「知らないんですかっ!? ここ、見てくださいよ」
田辺くんに示された欄に、視線を馳せる。そして私は、目を見開いた。
「特別賞……?」
そこは、夏に開催された地域のエッセイコンテストの結果の欄だった。
大賞、準大賞、特別賞、それぞれ一名ずつ。名前と作品が、紙面を大幅に使って載っている。そして特別賞のところには、私の名前が、夏に書き上げたあのエッセイとともに掲載されていた。
「嘘……」
送った覚えもないのに、どうしてという疑問は、当然湧いた。だけどそれ以上に、自分の作品が認められたという歓びが、胸に押し寄せる。
自分の胸から湧き出た言葉が、誰かの目に届き、そして共感を得た。誰かの心を震わせた。その事実が、たまらなくうれしかった。
「僕なんか、何度も送ってるけど全然ダメですよ! 一発で特別賞って、才能ありますよ! ていうか乗り気じゃなかったのに、いつ送ったんですか?」
「……送ってない。私じゃない」
「え? じゃあ、誰かが勝手に送ったのかな。部長とか?」
あの人がそんなことするかなあ、と田辺くんは唸っている。
「じゃあ、増村先生かなあ……」
首を捻っている田辺くんの隣で、私は、あるひとつの可能性について考えていた。
――もしかして、桜人が?
新聞を持つ手が、どうしようもなく震えていた。
自分が書いた文章が、人に認めてもらえた。
自分なんて、弱虫で、なんの役にも立たない人間だと思ったけど、必要とされることもある。
その事実は、私の考えを変えた。
文章の力は無限だ。無数にある言葉を、唯一無二の形に連ねることによってできた文章は魂を持つ。
私に、夢なんてなかった。
この先も、母を支え、弟を支えて生きて行かなければいけないのだと、漠然と思っていた。
でも、気づいたんだ。それは言い訳に過ぎないんだと。
自分の生き方を見つけられないでいることを、私は家庭環境のせいにしていた。
光に、母にすがっていたのは私だ。
でも、今は違う。挑戦してみたいことがある。夢なんていう大それたものではないけれど、歩んでみたい道がある。
「真菜。進路調査のことで、昨日先生から電話があったんだけど……」
ある朝、台所で食器を洗っていると、仕事に行く用意をバタバタとしていたお母さんに話しかけられた。お母さんの声が、珍しく弾んでいる。
「希望、“進学”に変えたんだって? 何かあったの? 大学行って欲しかったから、お母さんとしてはうれしいんだけど……」
我が家の家計を考えて、今まで私は、頑なに就職を希望していた。お母さんは奨学金だってあるしお金のことは心配しなくていいと言ってくれてたけど、それ以前に、やりたいことがなにひとつ見つからなかったからだ。
でも、文芸部に入って、文学に触れて、小さいけれど賞をもらって――おこがましいけど、少しだけ、文字の世界に浸ってみたいと思った。
「うん、ちょっと……」
文芸部に入ったことは先生伝いに知られてるみたいだけど、賞をもらったことは知られていない。恥ずかしくて言葉を濁すと、お母さんは私の気持ちを察したように笑顔を見せた。
「うれしいわ。……あなたが、変わってくれて」
小さく鼻を啜る音が聞こえて、私は慌てた。お母さんの目が潤んでいる。
「お母さん? どうしたの、急に……」
「あなたには、無理をさせてたから……。家のことも光のことも任せっぱなしで、ずっと申し訳なく思ってたの。そのせいか、まったく我儘を言わない子になってしまって……。就職したいって言ってたのも、私に気を遣ってるんじゃないかって、心配だったの」
「お母さん……」
「でも、このところ、あなた少し楽しそうだから、本当にうれしくて……」
せっかくお化粧をしたばっかりなのに、アイメイクの崩れてしまったお母さんの顔を、ちらりと見る。私は、心底情けない気持ちになった。
お父さんが亡くなってから、一番大変な想いをしてきたのは、お母さんなんだ。
自分本位な私には、それが見えていなかった。
お母さんだって、光のそばにずっといたいだろう。もともと料理が好きな人だから、私にお弁当だって作りたいだろう。だけど日々仕事に追われているせいで、泣く泣く、それらすべてを手放してきたのだ。
「増村先生も言ってたわ、クラスでも楽しそうにしてるって。いい友達ができたのね」
「……うん、そう。本当に、友達に恵まれてる」
答えると、「よかった」とお母さんはまた微笑んだ。
増村先生が言ってたように、クラスでの日々は、順調だ。夏葉とは相変わらず仲がいいし、美織と杏ともうまくやってる。みんなと過ごす日々は楽しい。
でも、私の中でもっとも大きな存在を放っているのは、桜人だ。
桜人は、自分を偽らないこと、逃げないことを教えてくれた。
それから、文字を紡ぐことの尊さも……。
そのとき、ガラッとふすまが開いて、光が出てきた。
ランドセルを背負って、通学用の黄色い帽子をかぶっている。
「あれ? 光、もう学校行くの?」
まだ、朝ご飯も食べていないのに。
「いらない」
それだけ答えると、光は暗い面持ちのまま玄関に向かい、行ってきますも言わずに外に出て行った。
私とお母さんと、目を合わすことすらしなかった。
光がアパートの階段を下りる音が、カンカンカン……と遠ざかっていく。
「光、今日も元気ないね」
光はこのところ、ずっと暗い顔をしている。それに、ことあるごとに私やお母さんに反抗していて、光が家にいるときはいつも重苦しい空気が漂っていた。
「学校で、友達とうまくいってないらしいの。あの子あの身体だから、どうしてもクラスメイトと同じように行動できなくて、それを不満に思っている子がいるみたいで……」
光が出て行った玄関扉を哀しげに見つめながら、お母さんが言う。
「そうだったんだ……」
重度喘息の光は、体育に参加できない。放課後友達と走り回ることもできないし、遠足にも行けない。前のクラスでは、それでもうまくやってたみたいだけど、今回は違うらしい。
クラスによって纏う雰囲気が違うことは、私もよく知っている。
「それに、病院のお友達とも、うまくいってないみたい」
「病院のお友達って、さっちゃんのこと?」
さっちゃんは、おそらく、光と同じ重度喘息の子供だ。入院中は光の支えになってくれたし、退院後も、定期受診の際によく会ってたみたい。
お母さんは、重い表情で頷いた。
「学校でうまくいってなくてもさっちゃんがいるから、って気持ちが、あの子の中にはあったと思うの。だけど両方いっぺんに失ったから、苦しんでるんだと思うわ」
病は、心までをも蝕む。
悪性リンパ腫だったお父さんもそうだった。
愚痴ひとつ吐かない気丈な人だったのに、晩年、やりきれない表情で項垂れている姿を何度も見た。
そのたびに私はお父さんに元気を取り戻してもらおうと、明るく振る舞った。だけどお父さんは、力なく笑うだけだった。
病気の苦しみは、当人にしか分からない。
光は、病と、孤独と、寂しさと、苦しみを抱えている。
それは、あの小さな体が抱え込むには、あまりにも多すぎる。
どうやったら、弟を救えるだろう。
いつまで経ってもその答えを見いだせないでいることが、歯がゆかった。
エッセイで予期せぬ特別賞を貰ってから、一週間。
十一月に入ったばかりの、午後七時。
最寄り駅で下車せず、私はK大付属病院前で降り立った。
秋が深まるにつれ日没も早まり、すっかり闇に染まっている道路には、冷たい夜風が拭いていた。紺色のブレザーを着た上半身を縮め、寒さをしのぎながら歩道を行く。
ここのところ、光の容態はずっと安定していたから、ここに来るのは久しぶりだ。
闇の中、デニスカフェは、今日も煌々としたオレンジ色の明かりを灯していた。
通行人の素振りをして、そっとウインドウ越しに中を覗くと、トレイを片手に店内を歩いている桜人が見えてドキッとした。
せわしなく動いている桜人には、どことなく鬼気迫るものがあった。毎日同じ教室で何時間も過ごしているのに、こうして見ると、何の接点もない他人のようにすら見えてくる。それが、たまらなく悲しかった。
ずっと、桜人と話す機会を待っていた。
だけど学校では、とことん避けられてしまう。
だからここに来てみたはいいものの、急に怖気づいてしまう。
彼のことが好きだからこそ、前にも増して怖かった。
他人のような目で見られること、無視されること、冷たい態度を取られること――すべてがつらい。
恐怖から足が棒のようになってしまって、そのまま立ち尽くしていると、「ねえ」と突然声を掛けられた。見ると、店内から出てきた店員さんのひとりが、すぐそこにいる。
顎髭がダンディーな、二十代後半くらいの店員さんだ。
髭の店員さんは、にこりと笑みを浮かべると「小瀬川くんの友達でしょ?」と話しかけてくる。
「あ……はい」
「今、呼んでくるね」
「大丈夫です! バイト中だし」
「今手が空いてるから、気にしないで。ちょっと待っててね」
そのまま彼は、店内へと引き返していった。
入れ違うようにして、小瀬川くんが出てきた。
その顔は、みたこともないほど不機嫌そうだった。
途端に、心臓が激しく乱れ打った。
「なに?」
不愛想ではあるけれど、桜人はそう口にした。
文化祭の日、昇降口で別れて以来ひとことも口をきいていないから、それだけで感動が押し寄せる。
「用事があるなら、早くして。バイト中だから」
「あの、ごめんね……。聞きたいことがあって……」
私は、田辺くんから切り抜いてもらった新聞を、桜人に突き出す。エッセイコンテストの応募結果だ。桜人は黙って、カフェから漏れる明かりを頼りに、紙面に目を落としていた。
「で、なに?」
おめでとう、のひとこともなかった。
期待していたわけじゃないけど、非常識ともとれるその態度に、私と彼との間に取り返しがつかないほどの隔たりがあるのを感じて悲しくなる。
「それ、私、送った覚えがなくて。……出してくれたの?」
桜人、と名前呼びすることに抵抗を覚え、あえて呼ばなかった。
桜人は、黙ってかぶりを振っただけだった。
予想が外れて、私は肩を落とす。じゃあ、あのエッセイを送ったのは誰……?
今にも、店の中に戻りたそうな桜人。
「そう……。忙しいのに、ごめんね。あと、それから、私、就職じゃなくて進学することにしたの」
このことを報告したのは、私が進路を見いだせたのが、桜人のおかげでもあるからだ。
彼の書いた詩を見たり、彼と和歌の話をしたりしなかったら、私は文学の尊さを知らなかった。
「………」
だけど、桜人はもうなにも答えてくれなかった。
心底どうでもよかったのかもしれない。そんな答えに行き着いたとき、私は、また逃げ出したくなった。
なぜ嫌われてるのかわからない。
でもこれでは、同じクラスになったばかりのあの頃よりも遠い。あの頃はお互い関りがなかっただけで、嫌われてはいなかった。
苦しくて苦しくて、胸が張り裂けそうで。
これ以上、ここにはいられないと思った。
「……ごめん、バイト中に。帰るね」
泣きそうになりながらそう言って、背を向ける。
だけど数歩進んだところで、彼の声が聞こえた気がして、私は後ろを振り返る。だけどもうそこに桜人の姿はなかった。
きっと、風の唸りだったのだろう。
桜人は、変わってしまった。もしかしたらそもそも彼はずっと変わってなくて、不愛想で寡黙な小瀬川くんのままで、この数カ月私は夢を見ていたのかもしれない。
バス停までのわずかな道のりで、同じ制服を見つけた。
茶色のロングヘアーが、夜風にさらりと揺れる。それは、浦部さんだった。
「水田さん?」
「浦部さん……?」
浦部さんは、明らかに怪訝そうな顔をしていた。どうしてここに?と聞きかけて、ハッと押し黙る。
この頃、浦部さんは桜人とよく一緒にいる。付き合ってるんじゃないかという噂も流れている。きっと桜人がここでバイトをしていることを知っていて、来たのだろう。ひょっとすると、これまで何度も来たことがあるのかもしれない。
「桜人くんに会いに行くの」
案の定、浦部さんはそう言った。勝ち誇ったような顔だ。
桜人くん。その呼び方に、ぎくりとしてしまう自分がいた。
「……そう」
私はそれだけ答えると、足早に、浦部さんの隣を通り過ぎる。
バス停でバスを待っているとき、ふいに振り返れば、ウインドウ越しに、仲睦まじげに話している桜人と浦部さんの姿が見えた。
――心の何かが、音をたてて崩れていくのを感じた。