放課後。

部活に入っていない私は、いつものようにすぐに学校を出ると、バスに乗った。

私の家から学校までは、バスを二本乗り継がないといけなくて、トータルで一時間以上かかる。

しかも今日は、家の最寄りのバス停で降りず、そのままバスに乗って行かなければいけないところがあった。

バスを降りた先は片道二車線の大通りになっていて、スーパーや青果店が並ぶ向かい側に、大型の駐車場を備えた病棟が何棟か建っている。

K大付属病院。

私にとっては、思い入れの深い病院だ。

六年前にお父さんが亡くなり、そして、今は弟が入院しているから。

小児病棟の二階にある大部屋の一室。『水田光』という名前を入り口のプレートで確認してから、なるべく音をたてないように、足を踏み入れた。各々のベッドがある場所にはきっちりとカーテンが引かれ、そこここからコソコソと声がしている。ときどき聞こえる、声を潜めたような楽しげな笑い声。

弟の光がいるのは、窓側の奥のベッドだ。

カーテンの端から、そうっと顔を覗かせる。

光は、布団もかけず、大の字でベッドに横になっていた。

眠っているわけではなく、かといって何かをするでもなく、ただ宙を見つめている。

窓から降り注ぐ夕方の光が、まだあどけなさの残る小学五年生の光の空虚な顔を照らしていた。栗色の髪も、大きくも小さくもない目も、見るたびに自分によく似ていると思う。

「光」

声をかけると、光はちらりとこちらに視線を向けた。

「洗濯物、替えに来た。調子はどう?」
「ふつう」
「ゲームはしないの? 持ってきてるんでしょ、スイッチ」
「しない」
「何か欲しいものある? 次来たとき、持って来るから」
「べつにない」

何を言っても手ごたえのない光の返事を聞きながら、私はベッドサイドに備え付けられた棚から、看護師さんが入れてくれた洗濯物の袋を取り出した。

普段はわりと愛想のいい子だけど、今はにこりともしない。

この大部屋にいるのは、皆光と同じくらいかもう少し幼い子供ばかり。皆、お母さんが四六時中付き添ってくれるのに、うちはなかなか来られない。だから、きっと拗ねているのだろう。前もこんなことがあったから、光の気持ちは手に取るように分かった。

だけど、女手ひとつで私と光を養っているお母さんは、あまり病院に来られない。

それに、年が離れているとはいえ、姉に過ぎない私にお母さんの代わりは果たせない。

「二週間もすれば退院できるって、先生言ってたから。少しだけ、がんばろうね」

光が、非難の目を私に向ける。

「二週間って、けっこう長いし。二週間もしたら、クラスのみんな仲良くなってるよ。クラス替えしたばっかりだから、俺だけ浮くに決まってるじゃん」

ふてくされた顔をすると、光は寝返りを打ってベッドにうつぶせた。

「光なら、きっとうまくやれるよ。私と違って、友達付き合い上手だし」

「……すげえ他人事」

光はそれきり、何も言わなくなった。

――重症喘息。

それが、光の疾患名だ。喘息持ちの人はたくさんいるけど、医学が進んで、今では薬や日常生活の諸注意でコントロールできる
人が増えている。だけどごくまれに、いまだ自分に合ったコントロール方法を見つけられず、入退院を繰り返している人がいる。

光の喘息の症状が悪化したのは、二年前からだった。

夜中に胸を押さえて苦しがっていたり、通学途中に息切れが激しくなって立っていられなくなったり。常に持っている吸引機ですらおさえられなくなって、光はそのたびに入院していた。

一年に、二~三回。繰り返す入院は、まだ子供の光の精神にダメージを与えるには充分だった。

次に発作がくるのはいつだろう。

こんどこそ、息ができなくなって死んでしまったらどうしよう。

光はいつも、そんな不安と闘っている。

そのせいか、入院したときは、たいてい我儘になる。

きっと、不安を打ち消すような、甘えられる存在が欲しいのだろう。

だけど、うちの家族では、それを満足にしてあげることができない。
 
結局光はそれ以上話してくれなくなり、私は「また来るからね」とため息交じりに声をかけて病室を去ることにした。
ナースステーションで挨拶を済ませ、エレベーターで階下に降りる。エントランスに出れば、病院に入る前は明るかった空が、暮れかかっていた。

ロータリーに沿うように歩いて、病院の敷地外を目指す。

五月だというのにほんのり冷たい風が、私の肩までの髪をサラリと撫でた。

ここを通るたびに、あの日のことを思い出してしまう。

――お父さんが、亡くなった日。

同じ景色の中を、まだ幼かった光の手を引いて、とぼとぼ歩いたっけ。

あのときの空っぽな気持ちと、胸の奥にズドンと沈んだ悲しみを、今でも昨日のことのように思い出せる。

つらい思い出を振り払うように下を向き、病院の敷地外へと出る。

お父さんが早くに亡くなって、弟は病気がち。お母さんは働きづめで、私は家事と弟の世話で手いっぱい。
こんな重い家庭、普通じゃない。

私は、普通でありたかった。

お母さんにお弁当を作ってもらって、家では弟と喧嘩をして、それをお父さんが穏やかにいさめて。

毎日部活を頑張って、自分の家のことも、包み隠さず友達に話せるような環境にいたかった。

苦い気持ちが胸に溢れるのを感じたとき、目前の店舗看板にパッと明かりが灯る。

デニスカフェ。

アメリカ発の全国チェーンのカフェで、病院の傍に、ちょうど一年前にオープンした。オレンジ色の看板と、ダークブラウンを基調とした落ち着いた外観が、特徴的なお店だ。

行ったことはないけど、入り口に貼られたおいしそうなタルトのポスターや、店内から漂うコーヒーの香りに、以前から惹かれてはいる。

もう、看板に明かりを灯すような時間なんだ。早く帰らなきゃ。

そう思いながらガラス張りの店内に目をやった私は「あれ?」と声をあげていた。

見覚えのある顔が、窓際に面したテーブルをせっせと拭いていたからだ。

柔らかそうなモカ色の髪に、アーモンド形の瞳、スラリと高い背丈。

今日彼の名前を覚えたばかりだから、記憶に新しい。

「小瀬川くん……?」

顔は、そっくりだった。だけど自信が持てなかったのは、薄いグレイストライプのシャツに、ロング丈の黒エプロンを身に付けた彼が、学校にいるときよりずっと大人びて見えたから。

席を立ち上がった客に向け、「ありがとうございました」と笑顔を向ける様子にも違和感があった。とっつきにくい小瀬川くんのイメージには、重ならないからだ。

しばらくじっと彼を見てると、不意打ちで、彼がこちらに顔を向けた。

瞬間、彼は目を見開き、凄むような顔をした。

その顔は、今日の昼休憩に見た顔にそっくりで、確信してしまう。

――やっぱり小瀬川くんだ。

小瀬川くんはすぐに私から視線を逸らすと、店内に戻っていく。そして、それ以降は一切こちらを見ずに、接客に戻っていった。

ずっと立ち止まっているのもおかしい気がして、私も足早にその場を離れる。

小瀬川くん、バイトしてるんだ。たしかうちの高校、バイト禁止のはず。

校則を破ってバイトしている人なんて、きっと他にもいるけど、思いがけずクラスメイトの秘密を知ってしまってドキドキしていた。

明日、どういう顔をしたらいいんだろう?

向こうも絶対に私の存在に気づいてるから、『バイトしてるでしょ?』ってストレートに聞いた方がいいのかな? でも、話したこともないのに、変じゃないかな。そもそも、話したことのない相手に話しかけるなんて、相当な勇気がいる。

そんなことをぐるぐると考えるうちに、だんだんどうでもいいことのような気がしてきた。

小瀬川くんとは、この先も、きっと深く関わることはない。

そもそも、私は口下手で、小瀬川くんは不愛想。

同じクラスとはいえ、深く関わるわけがない。

だから、何も見なかったことにしよう。気づかないふりをしよう。

そう決意すると、私は茜色の空の下に佇むバス停の前で足を止めた。