小瀬川くん――桜人が文芸部だって知ってから、短時間でも、毎日放課後に文芸部に行くようになった。

彼のことを、知りたいと思ったからだ。

光と違って、恋とか、そういうのじゃない。

いつも私の心を暴く彼。

高校に入ってから、イメージが変わったらしい彼。

人の心を揺さぶる詩が書ける彼。

そういった全てが、興味深かった。

桜人は、二日に一回ぐらい文芸部に顔を出した。

前からそれぐらいのペースで部活に来ていたのかと思ったけど、田辺くんが言うには「先輩、最近よく来ますね」とのことなので、そうでもないみたい。

ある日文芸部に行くと、珍しく川島部長も田辺くんもいなかった。

窓辺のいつものパイプ椅子で、桜人がひとり本を読んでいるだけだ。

お昼ご飯を部室で食べていたときぶりの、ふたりきり。

なんとなく緊張してしまって、長テーブルにバッグを置きながら言葉を探す。

「部長と田辺くん、来てないね」

「ああ」

「今日、バイトあるの?」

「六時から。ここで、少し時間潰してから行く予定」

「ふうん、そうなんだ」

そうだ、私も光のお見舞いにいかないといけなかった。

「じゃあ、私も桜人と一緒に帰る」

そう言うと、桜人が顔を上げ、こちらを凝視した。

ほんの少し動揺した顔をしていて、気のせいか顔が赤い。

「あ……」

言葉が足らずだったことに気づいて、私は慌てた。これじゃあ、ただただ桜人と一緒に帰りたがっているだけみたいじゃないか。

それから、本人に言われたとはいえ、初めて彼を下の名前で呼んでしまったことを、今更のように恥じらってしまう。

「K大付属病院に、弟が入院してるの。だから、お見舞いに行かないといけなくて……。ほら、同じ方向だから」

「そっか」

桜人はそう答えると、また下を向いて、黙り込んでしまった。

パラ……、と桜人が本を捲る音が室内に響く。窓からそよぐ風が、彼のモカ色の髪を揺らした。スッと通った鼻梁に、目元に陰を作る長めのまつ毛。同級生より大人っぽい桜人は、こうして見ると、今すぐにでも俳優になれそうなくらい見た目が整っている。

窓辺で本を読む桜人は、まるで映画のワンシーンのようにとてもきれいだ。

先ほどの名残のせいか、彼の首筋がほんのり赤い。

クールで何事にも動じない人だと思っていたけど、桜人は、わりと照れ屋みたい。

彼の知らなかった一面が知れて、気恥ずかしいながらも、うれしい気持ちになる。

そこで、彼が手にしている本の背表紙が目に入った。

――『後拾遺和歌集』

予想外の本のチョイスに、驚きを隠せない。

「それって、和歌の本だよね。和歌、好きなの?」

桜人は本に目を落としたまま、静かに答えた。

「うん、和歌とか俳句とか、子供の頃から好きなんだ」

「へえ……」

「子供の頃は、本ばかり読んでたから」

どことなく寂しげな目をして、桜人が言う。

桜人は、どうやら文学少年だったようだ。

だから文芸部在籍なんだと、今更のように納得してしまった。見た目は、ともすると遊んでいるようにも見えるのに、人って見かけによらないものだ。

でも、そんな彼の意外な一面を、また素敵だなと思った。

「どうして、和歌や俳句が好きなの?」

「……ありったけの想いが、詰まってるところかな。短いからこそ、胸に染みて、なんかいいなって思う。日本語って、芸術だなって思う」

「ふうん……」

かすかに微笑みながら語る桜人を見て、本当に、和歌や俳句が大好きなんだなと感じた。

「好きな和歌って、あるの?」

聞くと、桜人は顔を上げて「こっちに来て」と私を呼ぶ。

窓辺の椅子に座る彼に歩み寄れば、手にした『後拾遺和歌集』を差し出される。頭のすぐ近くに、桜人の柔らかそうな髪の毛の気配がした。

 君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな
 
指差された文字を、ゆっくりと目で追う。

「これ、知ってる。たしか、百人一首のだよね」

「……そう。百人一首は、いろいろな歌集から歌を集めて編纂されたものだから。この和歌は、もともとこの本に載っていたものなんだ」

「へえ、そうだったんだ……」

桜人の博識ぶりに感心した。

「どういう意味なの?」

「“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”って意味」
淀みなく、桜人は答えた。

その和歌に秘められた壮大な想いに、思わず唸る。

「深い恋の歌なんだね……。死んでもいいという思いを超えて、生きたいと思うようになったほど、好きになったってことでしょ?」

死生観を覆すほどの大恋愛とはどういうものだろう? まだ恋を知らない私には想像もつかない。

「うん、そうだと思う」

「……なんか、すごい」

「うん」

淡白な返事だけど、桜人の声は、いつになく弾んでいる気がした。本当に、この和歌が好きなんだろう。意外な一面が知れた気がして、うれしくなる。

「それに、言葉の響きがとてもきれい」

『日本語って、芸術だなって思う』と言った桜人の気持ちが、少し分かった気がした。

ふと顔を上げれば、思ったより近くに桜人の顔があった。

大人っぽいイメージの彼だけど、近くで見ると、思ったよりも幼く感じる。茶色い瞳が、どことなく不安な色を浮かべていたからかもしれない。きっと、私と同じように、自分について他人に話すことに慣れていないのだろう。

彼を励ますように、そっと微笑みかければ、桜人はまたすぐに下を向いてしまった。

それきり、私たちはほとんど会話を交わさなかった。

互いの気配を感じつつも、それぞれ本に没頭していただけ。

桜人がバイトに行かなければならない時間になり、一緒に部室を出て、廊下を歩み、学校を出てからも、無言のことの方が多かった。

だけど前を行く桜人が、私のペースに合わせて歩く速度を落としているのが分かって、見えにくい優しさに少し心が温かくなった。