その日の放課後。
久しぶりに、文芸部に行ってみることにした。参加するのは、これで三回目だ。
入部早々幽霊部員になりはててしまって、普通なら気まずいところだ。だけど増村先生の許しがあったし、部員たちもそれを咎めたりするタイプではなさそうだから、それほど気にならなかった。
部室棟の一番端にある文芸部は、ひっそりとしていて、まるであることすら忘れられているみたい。コツコツとドアノックすれば、「どうぞ」といつもの淡白な川島部長の声が帰ってきた。
「水田です。入ります」
ガチャリとドアを開ける。
途端に、開け放しの窓から、サアッと風が吹いてきた。狭い部室に、ほんのり雨の香りが立ち込める。朝から曇りだったし、夕方から雨が降るのかもしれない。湿気を孕んだ風を肌に感じると、なぜか心が洗われるような、清涼な気持ちになった。
長テーブルの上座、いつもの位置で、川島部長はいつものように本を読んでいた。
壁際の書架の前では、くるくる頭の田辺くんが本を物色していた。
「久しぶり、水田さん。今日は増村先生来ないから、ゆっくりして」
「はい」
川島部長の声に答えてから、部室に足を踏み入れる。
だけど次の瞬間、驚きのあまり体の動きを止めていた。
川島部長の背後、窓辺に置かれたパイプ椅子に、小瀬川くんが腰かけて本に目を落としていたからだ。
「どうして……」
委員決めのことや、夏葉の話もあり、ずっと胸の奥で小瀬川くんのことを考えていただけに、驚きもひとしおだった。
呆然としていると、ちらりと目だけをこちらに向けた小瀬川くんの代わりに、川島部長が答えた。
「会うのは初めてだったかしら? 彼、二年の小瀬川くん。ほとんど来ないけど、うちの部員よ」
「部員……?」
思ってもみなかった川島部長の返事に、動揺してしまう。
だけど考えてみたら、小瀬川くんがこの部室でお昼ご飯を食べているのは、部員だったからなんだと合点がいった。
縁もゆかりもない部室でも、彼なら『人が来ないから』という理由で無断で使用しそうだと、勝手に思い込んでしまったのがいけなかった。
それに、大人っぽくてあか抜けた外見からして、小瀬川くんは文芸部という雰囲気ではない。文芸部って、地味な人が在籍しているイメージだから。そんな勝手な先入観も、邪魔していたように思う。
「小瀬川くんにも、紹介するわ。新しい部員の、水田さん」
川島部長が、小瀬川くんに顔を向ける。
「知ってます。同じクラスなんで」
「あら、そうだったの? なら話が早いわね」
川島部長は納得すると、再び本の世界に戻っていった。
窓辺で本に目を落としている小瀬川くんを、ちらりと盗み見る。
寡黙で、文芸部在籍の彼。中学のときは明るくてムードメーカーだったという夏葉の言葉が、やっぱり信じられない。
どうにか動揺を胸でおさえ、私は小瀬川くんから視線を逸らすと、書架に近寄った。
適当に選んだ一冊を手に取る。
有名なロシアの純文学みたい。しっかり読むわけではなく、心に響く言葉を探るように、まばらに読んでいく。
いつもと同じ、静かな空間に、ゆったりと時が流れていく。
窓から入り込む湿気まじりの風、夏の初めの匂い。
各々が本のページを捲る、パラリという音。
なんとなく読み進めてはいるものの、文体が難しいせいか、私はなかなか本の世界に入れないでいた。そもそも、読書はそこまで好きな方ではない。恋すらしたことがないのに初恋ものの小説を選んだのも間違いだったのだろう。
どうにも集中できなくて、本をパタリと閉じると、もとの棚に戻した。続いて選んだのは、アメリカの古典文学。
だけどこの本にもまったく集中できなくて、すぐにもとに戻した。
そのとき、書架の一番下に、薄い冊子がズラリと並んでいるのを見つける。
この間見た、毎年文化祭に合わせて製作してるという、文芸部の冊子だ。
無意識のうちに、手が紫色の去年の冊子に伸びていた。パラパラと捲り、一番最後のページに辿り着く。
それだけ制作者の名前もタイトルもない、不思議な詩。
ロシアの純文学やアメリカの古典文学みたいに有名じゃない。だけど名もない生徒が書いたその一編の詩は、今まで読んだ何よりも、私の心を捉えて離さなかった。
僕が涙を流すのは、君のためだけ
僕のすべては、君のためだけ
閉ざされたこの世界で、僕は今日も君だけを想う
なんて真っすぐで、ひたむきで、美しい詩だろう。
何が、この人にこれを書かせたのだろう。
ほんの数行のその詩に改めて熱中していると、「あ」と隣から声がした。見ると、田辺くんが、私が手にしている冊子を覗き込んでうれしそうな顔をしている。
「どうかした?」
すると田辺くんが、詩を指差し、からかい口調で言った。
「それ、小瀬川先輩が書いたんですよ。イメージに合わないですよね」
――え?
驚いて窓辺にいる小瀬川くんに目をやると、凄んだ顔の彼と目が合う。彼の方でも、私たちの会話を耳にしていたようだ。
ガタッとパイプ椅子を引いて立ち上がると、小瀬川くんはものすごい勢いでこちらへと歩んでくる。そして私の手から、奪うように冊子を取り上げた。
「ちょっ……!」
何するの、と言いかけて、思わず固まってしまう。
冊子を持った手を隠すように背中にやっている小瀬川くんの顔が、見たこともないほど赤くなっていたからだ。
普段はあんなクールな小瀬川くんでも、こんな顔をするんだと驚いた。
「ごめん……」
きっと、ものすごく知られたくないことだったのだろう。小瀬川くんの態度からそれを察知した私は、小さく謝る。
隣にいた田辺くんも、目を剥いていた。彼にしろ、小瀬川くんがこんな行動をとるとは、予想できなかったみたい。
すると小瀬川くんが、ハッとしたように私に視線を戻した。
「俺こそ、ごめん……」
後ろ手に持った冊子を、前に持って来る小瀬川くん。それから彼はしゃがみ込むと、冊子をもとあった場所に戻そうとした。
水色のワイシャツの、小瀬川くんのその背中は、全力で私を拒絶している気がした。
いつも以上に、境界線を引かれている雰囲気だ。
私にあの詩の作者が小瀬川くんだと教えてくれた田辺くんも、怯えた顔で彼を見ているほどに。
だけど、初めて読んだときからあの詩がずっと頭に残っていたことや、ツルゲーネフよりもゴールズワージーよりもよほど心を
打たれたことを、どうしても小瀬川くんに伝えないといけない気がした。
病院の前で、呼吸困難になったとき。
文化祭の実行委員を決めたとき。
同じクラスになって二ヶ月ほどで、そんなに話したこともないのに、嫌になるくらい私の気持ちに気づいてくれた彼に。さりげなく、他の誰よりも寄り添ってくれる彼に。素直な気持ちを、伝えなくちゃと思った。
「――その詩、すごく好きだよ」
ポツンと言葉を吐き出し、視線を上げる。
間近で、驚いたような顔をしている小瀬川くんと目が合った。
「初めて読んだときから、すごく好きだと思った。よく分からないんだけど、その詩を読んでたら、悲しくて、そして幸せな気持ちになれるの」
悲しくて幸せ。
言葉にするのは難しかったけど、それがぴったりな表現だと思った。
こんな気持ちになったのは久しぶりだった。
お父さんが亡くなってから、ずっとそう。ドラマを見ても映画を見ても、面白いとは思っても、何も響かない。心をすり抜け、
あとには空虚な気持ちが残りだけ。
だけどこの詩は、私の心をぶわっと震わせてくれる。
悲しくて――そして幸せな気持ちにさせてくれる。
ありがとう、って伝えたかったけど、さすがに大袈裟な気がして、代わりに笑ってみた。
ものすごく久しぶりに、笑った気がする。
凍ったように私の顔をまじまじと見ていた小瀬川くんだけど、私が笑った途端にフッと下を向いた。
不快な気持ちにさせたかなって、胸がチクリと痛んだ。
だけど小瀬川くんは、またすぐに顔を上げる。
私の顔の斜め下を見ている小瀬川くんの瞳は、よく見ると髪の色と同じく茶色がかっている。
とても深い目の色だと思った。
陰のある彼のイメージそのまんまに、混沌としていて、迂闊には入り込めないなにかを感じる。
「小瀬川くん……?」
返事がないから、不安になって、彼の名前を呼ぶ。
すると小瀬川くんが、「はると……」と小さな声で、呟いた。
「……え?」
あまりにもボソボソした声だったから、聴き間違いかと思って聞き返すと、小瀬川くんはひとつ瞬きをして、今度は真っすぐに私を見つめて言った。
「桜(はる)人(と)って呼んで。俺のこと」
びっくりして、喉から変な音が出そうになる。
だけど驚きは、やがて温かな熱を伴って、じわじわと胸に広がった。
同じクラスなのに、いつも私を助けてくれるのに、どういうわけか私に境界線を引こうとしている彼が、突然近くに歩み寄ってくれたような気持ちになれたんだ。
「……うん」
自然と笑みが零れていた。
「分かった。桜人って呼ぶ」
素直な気持ちを伝えたことが、功を奏したのかもしれない。
正直な言葉は、ときに人を動かすことができるんだ。
「……コホンッ!」
そこで、隣からわざとらしい咳ばらいが聞こえて、ハッと目を覚ました。
そういえば隣にいた田辺くんが、恥ずかしそうにうつむいている。
「こっちが恥ずかしくなるから、そういうの、ふたりだけのときにやってくださいよ」
「は? そんなんじゃねーし……!」
小瀬川くんも、思い出したかのように真っ赤になって、私から離れていった。
川島先輩だけは、どこ吹く風といった感じで、先ほどと変わらず読書を続けている。
「……じゃあ、俺、用事あるんでもう帰ります」
小瀬川くんは部室の隅に置いていた黒のスクールバッグを肩にかけると、逃げるようにドアに向かう。
「先輩、また来るの、楽しみしてますから」
「気を付けてね」
田辺くんと川島部長が、口々に小瀬川くんの背中に声を掛けた。
――バイトかな。
そう思いながら、小瀬川くんを見つめていると、横を向いた彼と目が合った。
だけど小瀬川くんはすぐに私から視線を逸らし、文芸部の部室から出て行った。
久しぶりに、文芸部に行ってみることにした。参加するのは、これで三回目だ。
入部早々幽霊部員になりはててしまって、普通なら気まずいところだ。だけど増村先生の許しがあったし、部員たちもそれを咎めたりするタイプではなさそうだから、それほど気にならなかった。
部室棟の一番端にある文芸部は、ひっそりとしていて、まるであることすら忘れられているみたい。コツコツとドアノックすれば、「どうぞ」といつもの淡白な川島部長の声が帰ってきた。
「水田です。入ります」
ガチャリとドアを開ける。
途端に、開け放しの窓から、サアッと風が吹いてきた。狭い部室に、ほんのり雨の香りが立ち込める。朝から曇りだったし、夕方から雨が降るのかもしれない。湿気を孕んだ風を肌に感じると、なぜか心が洗われるような、清涼な気持ちになった。
長テーブルの上座、いつもの位置で、川島部長はいつものように本を読んでいた。
壁際の書架の前では、くるくる頭の田辺くんが本を物色していた。
「久しぶり、水田さん。今日は増村先生来ないから、ゆっくりして」
「はい」
川島部長の声に答えてから、部室に足を踏み入れる。
だけど次の瞬間、驚きのあまり体の動きを止めていた。
川島部長の背後、窓辺に置かれたパイプ椅子に、小瀬川くんが腰かけて本に目を落としていたからだ。
「どうして……」
委員決めのことや、夏葉の話もあり、ずっと胸の奥で小瀬川くんのことを考えていただけに、驚きもひとしおだった。
呆然としていると、ちらりと目だけをこちらに向けた小瀬川くんの代わりに、川島部長が答えた。
「会うのは初めてだったかしら? 彼、二年の小瀬川くん。ほとんど来ないけど、うちの部員よ」
「部員……?」
思ってもみなかった川島部長の返事に、動揺してしまう。
だけど考えてみたら、小瀬川くんがこの部室でお昼ご飯を食べているのは、部員だったからなんだと合点がいった。
縁もゆかりもない部室でも、彼なら『人が来ないから』という理由で無断で使用しそうだと、勝手に思い込んでしまったのがいけなかった。
それに、大人っぽくてあか抜けた外見からして、小瀬川くんは文芸部という雰囲気ではない。文芸部って、地味な人が在籍しているイメージだから。そんな勝手な先入観も、邪魔していたように思う。
「小瀬川くんにも、紹介するわ。新しい部員の、水田さん」
川島部長が、小瀬川くんに顔を向ける。
「知ってます。同じクラスなんで」
「あら、そうだったの? なら話が早いわね」
川島部長は納得すると、再び本の世界に戻っていった。
窓辺で本に目を落としている小瀬川くんを、ちらりと盗み見る。
寡黙で、文芸部在籍の彼。中学のときは明るくてムードメーカーだったという夏葉の言葉が、やっぱり信じられない。
どうにか動揺を胸でおさえ、私は小瀬川くんから視線を逸らすと、書架に近寄った。
適当に選んだ一冊を手に取る。
有名なロシアの純文学みたい。しっかり読むわけではなく、心に響く言葉を探るように、まばらに読んでいく。
いつもと同じ、静かな空間に、ゆったりと時が流れていく。
窓から入り込む湿気まじりの風、夏の初めの匂い。
各々が本のページを捲る、パラリという音。
なんとなく読み進めてはいるものの、文体が難しいせいか、私はなかなか本の世界に入れないでいた。そもそも、読書はそこまで好きな方ではない。恋すらしたことがないのに初恋ものの小説を選んだのも間違いだったのだろう。
どうにも集中できなくて、本をパタリと閉じると、もとの棚に戻した。続いて選んだのは、アメリカの古典文学。
だけどこの本にもまったく集中できなくて、すぐにもとに戻した。
そのとき、書架の一番下に、薄い冊子がズラリと並んでいるのを見つける。
この間見た、毎年文化祭に合わせて製作してるという、文芸部の冊子だ。
無意識のうちに、手が紫色の去年の冊子に伸びていた。パラパラと捲り、一番最後のページに辿り着く。
それだけ制作者の名前もタイトルもない、不思議な詩。
ロシアの純文学やアメリカの古典文学みたいに有名じゃない。だけど名もない生徒が書いたその一編の詩は、今まで読んだ何よりも、私の心を捉えて離さなかった。
僕が涙を流すのは、君のためだけ
僕のすべては、君のためだけ
閉ざされたこの世界で、僕は今日も君だけを想う
なんて真っすぐで、ひたむきで、美しい詩だろう。
何が、この人にこれを書かせたのだろう。
ほんの数行のその詩に改めて熱中していると、「あ」と隣から声がした。見ると、田辺くんが、私が手にしている冊子を覗き込んでうれしそうな顔をしている。
「どうかした?」
すると田辺くんが、詩を指差し、からかい口調で言った。
「それ、小瀬川先輩が書いたんですよ。イメージに合わないですよね」
――え?
驚いて窓辺にいる小瀬川くんに目をやると、凄んだ顔の彼と目が合う。彼の方でも、私たちの会話を耳にしていたようだ。
ガタッとパイプ椅子を引いて立ち上がると、小瀬川くんはものすごい勢いでこちらへと歩んでくる。そして私の手から、奪うように冊子を取り上げた。
「ちょっ……!」
何するの、と言いかけて、思わず固まってしまう。
冊子を持った手を隠すように背中にやっている小瀬川くんの顔が、見たこともないほど赤くなっていたからだ。
普段はあんなクールな小瀬川くんでも、こんな顔をするんだと驚いた。
「ごめん……」
きっと、ものすごく知られたくないことだったのだろう。小瀬川くんの態度からそれを察知した私は、小さく謝る。
隣にいた田辺くんも、目を剥いていた。彼にしろ、小瀬川くんがこんな行動をとるとは、予想できなかったみたい。
すると小瀬川くんが、ハッとしたように私に視線を戻した。
「俺こそ、ごめん……」
後ろ手に持った冊子を、前に持って来る小瀬川くん。それから彼はしゃがみ込むと、冊子をもとあった場所に戻そうとした。
水色のワイシャツの、小瀬川くんのその背中は、全力で私を拒絶している気がした。
いつも以上に、境界線を引かれている雰囲気だ。
私にあの詩の作者が小瀬川くんだと教えてくれた田辺くんも、怯えた顔で彼を見ているほどに。
だけど、初めて読んだときからあの詩がずっと頭に残っていたことや、ツルゲーネフよりもゴールズワージーよりもよほど心を
打たれたことを、どうしても小瀬川くんに伝えないといけない気がした。
病院の前で、呼吸困難になったとき。
文化祭の実行委員を決めたとき。
同じクラスになって二ヶ月ほどで、そんなに話したこともないのに、嫌になるくらい私の気持ちに気づいてくれた彼に。さりげなく、他の誰よりも寄り添ってくれる彼に。素直な気持ちを、伝えなくちゃと思った。
「――その詩、すごく好きだよ」
ポツンと言葉を吐き出し、視線を上げる。
間近で、驚いたような顔をしている小瀬川くんと目が合った。
「初めて読んだときから、すごく好きだと思った。よく分からないんだけど、その詩を読んでたら、悲しくて、そして幸せな気持ちになれるの」
悲しくて幸せ。
言葉にするのは難しかったけど、それがぴったりな表現だと思った。
こんな気持ちになったのは久しぶりだった。
お父さんが亡くなってから、ずっとそう。ドラマを見ても映画を見ても、面白いとは思っても、何も響かない。心をすり抜け、
あとには空虚な気持ちが残りだけ。
だけどこの詩は、私の心をぶわっと震わせてくれる。
悲しくて――そして幸せな気持ちにさせてくれる。
ありがとう、って伝えたかったけど、さすがに大袈裟な気がして、代わりに笑ってみた。
ものすごく久しぶりに、笑った気がする。
凍ったように私の顔をまじまじと見ていた小瀬川くんだけど、私が笑った途端にフッと下を向いた。
不快な気持ちにさせたかなって、胸がチクリと痛んだ。
だけど小瀬川くんは、またすぐに顔を上げる。
私の顔の斜め下を見ている小瀬川くんの瞳は、よく見ると髪の色と同じく茶色がかっている。
とても深い目の色だと思った。
陰のある彼のイメージそのまんまに、混沌としていて、迂闊には入り込めないなにかを感じる。
「小瀬川くん……?」
返事がないから、不安になって、彼の名前を呼ぶ。
すると小瀬川くんが、「はると……」と小さな声で、呟いた。
「……え?」
あまりにもボソボソした声だったから、聴き間違いかと思って聞き返すと、小瀬川くんはひとつ瞬きをして、今度は真っすぐに私を見つめて言った。
「桜(はる)人(と)って呼んで。俺のこと」
びっくりして、喉から変な音が出そうになる。
だけど驚きは、やがて温かな熱を伴って、じわじわと胸に広がった。
同じクラスなのに、いつも私を助けてくれるのに、どういうわけか私に境界線を引こうとしている彼が、突然近くに歩み寄ってくれたような気持ちになれたんだ。
「……うん」
自然と笑みが零れていた。
「分かった。桜人って呼ぶ」
素直な気持ちを伝えたことが、功を奏したのかもしれない。
正直な言葉は、ときに人を動かすことができるんだ。
「……コホンッ!」
そこで、隣からわざとらしい咳ばらいが聞こえて、ハッと目を覚ました。
そういえば隣にいた田辺くんが、恥ずかしそうにうつむいている。
「こっちが恥ずかしくなるから、そういうの、ふたりだけのときにやってくださいよ」
「は? そんなんじゃねーし……!」
小瀬川くんも、思い出したかのように真っ赤になって、私から離れていった。
川島先輩だけは、どこ吹く風といった感じで、先ほどと変わらず読書を続けている。
「……じゃあ、俺、用事あるんでもう帰ります」
小瀬川くんは部室の隅に置いていた黒のスクールバッグを肩にかけると、逃げるようにドアに向かう。
「先輩、また来るの、楽しみしてますから」
「気を付けてね」
田辺くんと川島部長が、口々に小瀬川くんの背中に声を掛けた。
――バイトかな。
そう思いながら、小瀬川くんを見つめていると、横を向いた彼と目が合った。
だけど小瀬川くんはすぐに私から視線を逸らし、文芸部の部室から出て行った。