渡り廊下を抜けて、部室の並ぶ旧校舎三階を歩む。

目的は、文芸部の部室だった。

入部したものの、一度しかまだ部活には行けていない。でも一応部員だから、部室を使う権利はある。

閑散としている廊下を歩み、相変わらず倉庫然とした文芸部のドアの前に立つ。ノックすると思った通り返事はなくて、私は迷わずドアノブを掴んだ。

鍵がかかってるかもと不安になったけど、ドアノブは容易に捻ることができた。

ホッとしつつ、ドアを開く。

「……っ」

次の瞬間、私は声にならない声をあげていた。

窓辺のパイプ椅子に小瀬川くんが腰かけ、開け放たれた窓から外を眺めていたからだ。

「小瀬川くん……?」

よく見ると、小瀬川くんの手には、コンビニのおにぎりが握られていた。長テーブルにはお茶の入ったペットボトルも置かれている。どうやら、お昼ご飯を食べていたみたい。

予想外の先客に、唖然としてしまう。

「……どうして、ここにいるの?」

聞くと、小瀬川くんは、見れば分かるだろ?とでも言いたげな顔をした。

「飯、食ってるから」

「え? でも、ここ文芸部……」

「とりあえず入ったら? 水田さんも、飯食べに来たんだろ?」

小瀬川くんが、また見透かすような色を瞳に浮かべた。

それ以上は何も言わず、じっとこちらに顔を向けているだけの小瀬川くん。窓から入り込んだ風が、彼のモカ色の髪を揺らす。

彼の視線で、なんとなく理解した。

話したこともなかったのに、私の心を暴いた小瀬川くんは、多分分かってる。

私が美織と杏から離れて、ひとりでお弁当を食べにここに来たことを。

私は後ろ手にドアを閉めると、部室に足を踏み入れた。

入ってすぐのところに置かれていたパイプ椅子に座り、長テーブルの上にお弁当の入った袋を置く。

小瀬川くんは、私に興味が失せたかのように、おにぎりを食べながら再び窓の外に目を向けていた。

なんでわざわざ文芸部の部室で食べてるの?とか、いつもここで食べてたの?とか、小瀬川くんに聞くべきことはいっぱいあった。だけど、腰を落ち着かせた途端に先ほど聞いた美織と杏の声を思い出し、他のことはなにも考えられなくなる。

『え。なにあれ、感じ悪い』
『他に食べる人いないだろうから、わざわざ一緒に食べてあげてたのにね』

――もう、完全に終わりだ。

ひとりの私は、学校でも“普通”の存在じゃなくなってしまった。

「小瀬川くん……」

「なに?」

「……私、明日からも、ここに食べに来ていいかな」

声、震えていなかっただろうか。

ドキドキしながら顔を上げると、こちらを見る小瀬川くんの顔が目に飛び込んできた。

勇気をたたえるわけでもなく、憐れむわけでもなく。小瀬川くんは、実に淡々と言った。

「そうしたいんならそうしなよ。ていうか、俺の許可なんて必要ないし」

「……うん」

「水田さんは、水田さんの好きなように生きなよ。誰にも、水田さんの行動を制約する権利なんてないんだ」

「――うん」

どうしてだろう。 

小瀬川くんの言葉に返事をした途端、瞳に涙が溢れた。

好きなように生きたらいい。

誰にも、私の行動を制約する権利なんてない。

そんなふうに思ったことは、今までなかった。

お母さんのために、光のために、頑張らないといけないと思っていた。無理して、自分を偽って、女子グループからはみ出さないようにしがみついて。そうやって、“普通”を演じないといけないと思っていた。

だけど、そうじゃないんだと教えられた気がして。

普通じゃなくてもいいんだと言われた気がして。

突き放されているようにも聞こえる言葉だったけど、心がホッとしたんだ。

涙を見られるのが恥ずかしくて、顔を伏せ、さりげなく指先で拭う。だけど次に顔を上げたとき、思い切り小瀬川くんを目が合って、泣いてるのがバレバレだったことに気づいた。

小瀬川くんは、また不機嫌そうな顔をしていた。

それから、私の涙に対しては何も触れず、窓の外を向いてしまう。

ひとりが平気な気丈な彼には、めそめそ泣くような女子はきっとうっとうしいだけだろう。

だけど、泣き止まなきゃと思えば思うほど、涙は止まってくれなかった。

「ううっ……」

できるだけ声を押し殺そうとはしたけど、どうしても無様な泣き声が漏れてしまう。

「うっ、ううっ……」

涙で顔はボロボロ。鼻水だって出ている。

お母さんの前でも、お父さんが亡くなった日以降一切泣いていなかったのに……。

どうして昨日初めて話したばかりの小瀬川くんの前で泣いてるんだろうって、情けない気持ちになったけど、涙は止まる気配がなかった。

小瀬川くんは、私のむせび泣きなど聞こえないかのように、ずっと窓の向こうを見てていた。

聞こえてるけど、うっとうしいからあえて無視しているのか。

それとも、気を利かせて聞こえないフリをしてくれているのか。

分からないけど、何も言わないでいてくれることが、今はひたすらありがたかった。