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口実ではあったのだが、彼羽に浴衣のことを話すと、彼女は父親が着なくなった浴衣を僕にくれた。
縦に薄くストライプの入った黒の浴衣に薄黄色の帯、それと下駄。どれも短い人生において縁のないものだったので、ご丁寧に着付けまで手伝ってもらうはめになった。
別れ際、少しだけ寂しそうな表情を見せた彼羽だったが、笑顔で見送ってくれた。
その時の僕の表情はどんなだっただろうか。たぶん、あとで笑い話にでもなるような情けない表情だったに違いない。
それでも、彼女の記憶に残ってくれるのなら満足だ。
慣れない下駄で僕らの部屋にそのまま戻ろうと思ったが、約束の時間にはまだ早かったため、僕はもう一人の会いたい人の元へ向かうことにした。会いたいという表現は語弊があるだろうか。恩人にもう一度だけ意味のわからない教えを乞うのだ。
海沿いを歩き、目的の場所を目指す。
ふと見上げると、雲ひとつない青空。時折、風が身体を撫でる。花火には最適の天気だ。
露店ではまず何を食べようか。金魚すくいは下手くそになっていないといいな。
大して大事でもないことをぼやぼやと考えながら――実際は嫌なことを考えないように必死に思い浮かべながら歩く。
目的の場所に到着すると、彼はやっぱりそこにいた。
彼羽といい、彼といい、どうして僕がいてほしい時にその場所にいるのだろう。
運命というキザなものに沢山の感謝をする。
彼は後ろ手をつき、防波堤の先端に座っていた。日曜日だというのに、皺がたくさん入ったスーツに身を包み、煙草をふかしている。
僕は黙って、彼の横に同じように座る。横目で彼を見るが、彼はまっすぐに海を見つめたまま微動だにしない。
「来たか、少年」
「来ました」
「もう、死んだと思っていたぞ」
「死んではいるんですけどね。明日、消えますよ」
「そうか……」
なぜだろうか。彼には簡単に重い言葉が発露する。
どうでもいい人ってわけではない。きっと、彼が僕の言葉を心の底から重く捉えていないからだ。
人によってはこういう人のことを薄情と言うのだろうけど、今の僕にとっては一人の安心できる人であり、ある意味尊敬できる人だ。
僕は、彼に会いに来た理由を話す。
「あの、おじさんは明日死ぬってなったら、どうやって過ごします? もしくはどう思います?」
彼はやつれた手で煙草を口に持って行き、深く吸い込んだ。吐き出された煙は、海沿いの強い風によって即座に消え去る。
「難しい質問だ」
一言、呟かれたその言葉には、まるで難しく考えている様子はなかった。
「人によっては泣き喚くだろう。はたまた、悟って無になるだろうか。それでも、俺はきっと――」
「海を見に来る? そういえば、海で死ぬって言ってましたもんね」
「あぁ。そうなれれば本望だが、どうだろうか。俺は自分の最期はきっと今と同じような日常を過ごし、部屋で朽ちるんじゃないかと思っている。だが、それも人生というものだ」
「相変わらず、よく分からないですよね。海で死ぬために頑張るってことですか?」
「かいつまんでいうとそういうことだな」
初めて彼が僕を見た。伸びきった無精髭に白髪混じりのぼさぼさな髪、痩けた頬。それでも、やっぱりその双眸は力強く、それでいて少年のようにキラキラと輝いていて、まるで別の人の瞳を取り付けたようだ。
「少年はそんな顔だったか」
「もう会うの三回目ですよ?」
「そうだな。しかし、少年のことを俺は今後も覚えているだろう」
そう言って、彼はすぐに視線を水平線へと戻した。
「質問の答えがまだだったな。つまり、明日死のうと、少年は少年が望むままに過ごせばいい。深く考える時間なんて無いのだから」
初めてまともな意見を聞いた。ごく普通のこと。それでも、彼が言うととても自然に身に入り込んでくる。
「人生はまるで海のようなもんだからな」
彼の口癖に対して僕は笑いながら一言。
「意味が分からないですよね」
そっと立ち上がる。
去り際に見た彼の横顔には小さく笑みが浮かんでいた。