***
家に着くと、リビングからスリッパが床に擦れる音がしてくる。そしてすぐに玄関にやってきたのはエプロン姿のお母さんだ。
「杏里ちゃん、おかえり!」
「あ、うん」
「今日も部活疲れたでしょ? お風呂先に入る? それともご飯食べちゃう?」
言葉を返す間もなく、お母さんはしゃべり続けている。今はあんまり人と話したくないけれど、お母さんは笑顔で話し続けていた。
「ねえ、聞いて杏里ちゃん。今日ねお隣の佐渡さんから、お土産で八ツ橋をもらったの。それがちょっと味見したら美味しくてついつい何個か食べちゃった。きっと杏里ちゃんも気にいると思うよ。ラムネとか桃とか変わった味だったんだけど、和菓子って洋菓子感覚でね」
「そうなんだ。楽しみ」
あのね、お母さん。今私あんまり話したくない。ひとりになりたい。
そんなことを言ったら、きっとお母さんが悲しむ。感情が表に出やすいお母さんは、娘や息子たちが少し反抗するだけで泣いてしまうこともある。
だから家族内の暗黙のルールは、お母さんを傷つけないように優しく接することだ。
洗面所へ手を洗いに行こうとすると、二階からお姉ちゃんが降りてくる。
「おかえり杏里〜!」
ふたつ上のお姉ちゃんは大学一年生で、家の中では一番のしっかり者だ。
「お姉ちゃん、ただいま」
「杏里のアイス買っておいたよ。チョコレートがかかったやつ苺アイス美味しいって言ってたでしょ。ね?」
「え、あ……うん! ありがとう」
本当は次食べてみたいアイスが決まっていて、買いに行こうと思ってた。
チョコレートがかかった苺アイスは、美味しいと思ったけど、お姉ちゃんが頻繁に買ってきてくれるから最近少し飽きていた。私のことを想っての行動なのはわかっている。
だけど、時々こういうのがしんどい。
洗面所で手を洗っていると、目の前の鏡に視線を向ける。
「——え?」
そこに映った自分の姿に絶句した。
「なにこれ……え? うそでしょ!?」
鏡に写っているのは間違いなく私のはずなのに、自分のようには思えない。顔の〝中身〟がなくなっている。
目も、鼻も、口も消えていて、凹凸がなくのっぺりとした顔は気味が悪かった。
胃のあたりから不快なものがせりあがってくるような感覚に、背中を丸くして口元をおさえる。吐き気に襲われながら、おそるおそる再び鏡に視線を向けると、私と同じ動作をしている顔のない人間がいた。
やっぱり気のせいではない。
真っ先に頭に浮かんだのは————青年期失顔症。
自分の顔が認識できなくなるという病だ。私たちくらいの年頃に発症するらしく、同じ学年の生徒でも発症したと聞くこともあった。
やだ。こんなの、どうしたら……と何度も考えながら、その場に蹲る。
他人が発症したと聞いたときは、人に合わせてばかりで自分がないのだと噂していた。それなのに私が発症したということは、〝自分がない〟ということになる。
「そんなはず、ない。だって私……あたしは……」
自分で考えて行動してた。合わせることだってあったけど、自分がないわけじゃなかった。まるで天罰とでもいうタイミングだ。
朝葉に押し付けていたから? 今度は自分の番になって苦しいって思ったから?
答えが出ないまま、部屋に駆け込む。ベッドに潜り込み、嘘であってほしいと何度も願う。
その後、体調が悪いと嘘をついて夕食の時間も部屋の外からでなかった。お腹が空いても、この顔を見られることのほうが嫌で足が動かない。
何度もお母さんやお姉ちゃん、お兄ちゃんがドア越しに声をかけてきたけれど、とても対面できるような状況ではなかった。
***
翌朝、お母さんが控えめに部屋のドアをノックしてから中に入ってきた。
「学校、休む?」
いつもは鬱陶しいくらいの干渉にうんざりとしていたけれど、こうやって甘やかすような言葉をかけてくれるお母さんに目頭が熱くなってくる。
布団の中からくぐもった声で「うん」と答えると、近づいてくる足音に体を硬らせた。
「ねえ、杏里ちゃん。学校でなにかあった?」
話したくない。聞かないでほしい。だけどたぶん、私の家の人たちはそっとしておいてはくれない。
昔からそうだ。なにかあればすぐに事情を聞いて、学校に抗議の電話をしたり、友達と喧嘩をすれば親に連絡を入れる。
構わないで、放っておいて。
そう思うのに、私はきつい言葉を口にした瞬間の傷ついたお母さんの顔を見るのが嫌でたまらないのだ。
まるで私が悪いみたいで、やめてって言いたいだけなのに、ごめんねって泣かれたら居た堪れなくなる。
「友達と喧嘩でもしたの? なんて子? うちに連れてきたことある? そういえば朝葉ちゃん最近こないわね。優しい子だったし、杏里ちゃんと喧嘩しそうには見えなかったけど……あ、でも若菜ちゃんって子はお母さんちょっと苦手だったかな。言葉がきついでしょ」
また言いたい放題憶測で話しながら、お母さんは決めつけるように話を進めていく。
「杏里ちゃんと喧嘩するなら朝葉ちゃんよりも、若菜ちゃんかしら。もしかして意地悪でもされた?」
やめてよ。これ以上、勝手に話さないで。真実を知っている私は、余計に惨めになっていく。
「あまりこういうことは言いたくないけど、一緒にいる子は選んだ方がいいと思うの。杏里ちゃんによくない影響を与えることになるだろうし。ね?」
「っ、なんで」
耐えきれなくなって布団からでた私を見て、お母さんは目を丸くしたあとに悲しげに顔を歪めた。
「そんなに泣きはらして、かわいそうに。よっぽど辛い想いをしたのね。やっぱり原因は若菜ちゃんなんでしょう?」
「お母さん……」
「大丈夫よ。お母さんから学校に連絡してあげるから。ね?」
ああもう、ダメだ。
私は、こうやって何も言えずに母親の愛情とやらに溺れさせられて、強制的に甘えさせられてきた。
私、もう幼い子どもじゃないよ。人間関係だっていろいろあるよ。お母さんが解決なんてできないんだよ。
「お母さんは、朝葉を気に入ってたんだね」
「え? そうね。朝葉ちゃん、気の利く優しい子だったでしょ」
「その気の利く優しい子に、あたしがなにしてたと思う?」
心の中に泥のように溜まった感情が、言葉となって吐き出されていく。
これ以上は口にしちゃいけない。頭ではそう思っているのに、止まらない。
「若菜や他の子たちと一緒になって、朝葉に雑用押し付けて苦しめて、退部させたんだよ!」
「え……?」
「それで朝葉がいなくなったら、今度はあたしが朝葉の代わりみたいになって、みんなから押し付けられてんの!」
信じられないと言わんばかりに見開かれたお母さんの目には、涙がじわりと溜まっていく。
「でも、なにか事情があるんでしょう?」
「事情なんてないよ。ただ他人に押し付けるのは楽だったから! あたしがその役割を押し付けられるのが怖かったから、朝葉に押し付けてただけ」
どうして私の過ちをお母さんは、「大丈夫、大丈夫から」と言って慰めようとしてくるのだろう。抱きしめられながら、あたしは心が冷えていくのを感じる。
違うよ。お母さん、どうして私を守ろうとするの。いい子だって言っていた朝葉に私は、酷いことしてたんだよ。
「お母さん、本当は私そんないい子じゃないんだよ……」
軽蔑されるかもしれない。だけどこれ以上、理想の娘でいることに疲れてしまった。
「若菜ちゃんはそういう意地悪の対象がいないとダメな子なのかしら」
「は……?」
「だってそうでしょう。朝葉ちゃんの次は杏里ちゃんだなんて」
抱きしめていたお母さんの腕の中から離れて、私は首を横に降る。
若菜は自分勝手で気が強いけど、彼女だけが悪いわけではない。
集団という輪で次々に生贄をつくっているのは、全員の責任だ。私だってそのうちのひとりだった。
「大丈夫よ、杏里ちゃん。部活なんてやめてもいいの、苦しいことからは逃げていいのよ」
「なに、言って……」
〝部活なんて〟? 私が今まで頑張ってきていたものを、そんな言葉で片付けようとすることに愕然とした。
苦しいことから逃げたくなることだってあるし、それをしていいと言ってもらえるのは有り難いことなのかもしれない。
だけど私は、そんな言葉がほしいわけではなかった。
「目が腫れちゃってるわ。今冷やすもの持ってくるわね。学校はしばらく休んだっていいから、まずは心を休めましょう?」
「お母さんはあたしの話、ちゃんと聞いてくれてる? 理解してくれようとしてる?」
「なに言ってるの? もちろんじゃない」
それならどうして、お母さんの方が現実逃避をするように逃げ道を作る会話を進めていくの。
「大丈夫よ、全部お母さんに任せて」
お母さんは安心させるような笑みを私に向けると、部屋から出て行った。
胸元を押さえながら、私は自分の中でぐるぐると渦巻く感情の正体を考える。
優しくて甘やかしてくれて、逃げていいと言ってくれるお母さんに、私はどうして不満を抱いてしまうのだろう。
家に着くと、リビングからスリッパが床に擦れる音がしてくる。そしてすぐに玄関にやってきたのはエプロン姿のお母さんだ。
「杏里ちゃん、おかえり!」
「あ、うん」
「今日も部活疲れたでしょ? お風呂先に入る? それともご飯食べちゃう?」
言葉を返す間もなく、お母さんはしゃべり続けている。今はあんまり人と話したくないけれど、お母さんは笑顔で話し続けていた。
「ねえ、聞いて杏里ちゃん。今日ねお隣の佐渡さんから、お土産で八ツ橋をもらったの。それがちょっと味見したら美味しくてついつい何個か食べちゃった。きっと杏里ちゃんも気にいると思うよ。ラムネとか桃とか変わった味だったんだけど、和菓子って洋菓子感覚でね」
「そうなんだ。楽しみ」
あのね、お母さん。今私あんまり話したくない。ひとりになりたい。
そんなことを言ったら、きっとお母さんが悲しむ。感情が表に出やすいお母さんは、娘や息子たちが少し反抗するだけで泣いてしまうこともある。
だから家族内の暗黙のルールは、お母さんを傷つけないように優しく接することだ。
洗面所へ手を洗いに行こうとすると、二階からお姉ちゃんが降りてくる。
「おかえり杏里〜!」
ふたつ上のお姉ちゃんは大学一年生で、家の中では一番のしっかり者だ。
「お姉ちゃん、ただいま」
「杏里のアイス買っておいたよ。チョコレートがかかったやつ苺アイス美味しいって言ってたでしょ。ね?」
「え、あ……うん! ありがとう」
本当は次食べてみたいアイスが決まっていて、買いに行こうと思ってた。
チョコレートがかかった苺アイスは、美味しいと思ったけど、お姉ちゃんが頻繁に買ってきてくれるから最近少し飽きていた。私のことを想っての行動なのはわかっている。
だけど、時々こういうのがしんどい。
洗面所で手を洗っていると、目の前の鏡に視線を向ける。
「——え?」
そこに映った自分の姿に絶句した。
「なにこれ……え? うそでしょ!?」
鏡に写っているのは間違いなく私のはずなのに、自分のようには思えない。顔の〝中身〟がなくなっている。
目も、鼻も、口も消えていて、凹凸がなくのっぺりとした顔は気味が悪かった。
胃のあたりから不快なものがせりあがってくるような感覚に、背中を丸くして口元をおさえる。吐き気に襲われながら、おそるおそる再び鏡に視線を向けると、私と同じ動作をしている顔のない人間がいた。
やっぱり気のせいではない。
真っ先に頭に浮かんだのは————青年期失顔症。
自分の顔が認識できなくなるという病だ。私たちくらいの年頃に発症するらしく、同じ学年の生徒でも発症したと聞くこともあった。
やだ。こんなの、どうしたら……と何度も考えながら、その場に蹲る。
他人が発症したと聞いたときは、人に合わせてばかりで自分がないのだと噂していた。それなのに私が発症したということは、〝自分がない〟ということになる。
「そんなはず、ない。だって私……あたしは……」
自分で考えて行動してた。合わせることだってあったけど、自分がないわけじゃなかった。まるで天罰とでもいうタイミングだ。
朝葉に押し付けていたから? 今度は自分の番になって苦しいって思ったから?
答えが出ないまま、部屋に駆け込む。ベッドに潜り込み、嘘であってほしいと何度も願う。
その後、体調が悪いと嘘をついて夕食の時間も部屋の外からでなかった。お腹が空いても、この顔を見られることのほうが嫌で足が動かない。
何度もお母さんやお姉ちゃん、お兄ちゃんがドア越しに声をかけてきたけれど、とても対面できるような状況ではなかった。
***
翌朝、お母さんが控えめに部屋のドアをノックしてから中に入ってきた。
「学校、休む?」
いつもは鬱陶しいくらいの干渉にうんざりとしていたけれど、こうやって甘やかすような言葉をかけてくれるお母さんに目頭が熱くなってくる。
布団の中からくぐもった声で「うん」と答えると、近づいてくる足音に体を硬らせた。
「ねえ、杏里ちゃん。学校でなにかあった?」
話したくない。聞かないでほしい。だけどたぶん、私の家の人たちはそっとしておいてはくれない。
昔からそうだ。なにかあればすぐに事情を聞いて、学校に抗議の電話をしたり、友達と喧嘩をすれば親に連絡を入れる。
構わないで、放っておいて。
そう思うのに、私はきつい言葉を口にした瞬間の傷ついたお母さんの顔を見るのが嫌でたまらないのだ。
まるで私が悪いみたいで、やめてって言いたいだけなのに、ごめんねって泣かれたら居た堪れなくなる。
「友達と喧嘩でもしたの? なんて子? うちに連れてきたことある? そういえば朝葉ちゃん最近こないわね。優しい子だったし、杏里ちゃんと喧嘩しそうには見えなかったけど……あ、でも若菜ちゃんって子はお母さんちょっと苦手だったかな。言葉がきついでしょ」
また言いたい放題憶測で話しながら、お母さんは決めつけるように話を進めていく。
「杏里ちゃんと喧嘩するなら朝葉ちゃんよりも、若菜ちゃんかしら。もしかして意地悪でもされた?」
やめてよ。これ以上、勝手に話さないで。真実を知っている私は、余計に惨めになっていく。
「あまりこういうことは言いたくないけど、一緒にいる子は選んだ方がいいと思うの。杏里ちゃんによくない影響を与えることになるだろうし。ね?」
「っ、なんで」
耐えきれなくなって布団からでた私を見て、お母さんは目を丸くしたあとに悲しげに顔を歪めた。
「そんなに泣きはらして、かわいそうに。よっぽど辛い想いをしたのね。やっぱり原因は若菜ちゃんなんでしょう?」
「お母さん……」
「大丈夫よ。お母さんから学校に連絡してあげるから。ね?」
ああもう、ダメだ。
私は、こうやって何も言えずに母親の愛情とやらに溺れさせられて、強制的に甘えさせられてきた。
私、もう幼い子どもじゃないよ。人間関係だっていろいろあるよ。お母さんが解決なんてできないんだよ。
「お母さんは、朝葉を気に入ってたんだね」
「え? そうね。朝葉ちゃん、気の利く優しい子だったでしょ」
「その気の利く優しい子に、あたしがなにしてたと思う?」
心の中に泥のように溜まった感情が、言葉となって吐き出されていく。
これ以上は口にしちゃいけない。頭ではそう思っているのに、止まらない。
「若菜や他の子たちと一緒になって、朝葉に雑用押し付けて苦しめて、退部させたんだよ!」
「え……?」
「それで朝葉がいなくなったら、今度はあたしが朝葉の代わりみたいになって、みんなから押し付けられてんの!」
信じられないと言わんばかりに見開かれたお母さんの目には、涙がじわりと溜まっていく。
「でも、なにか事情があるんでしょう?」
「事情なんてないよ。ただ他人に押し付けるのは楽だったから! あたしがその役割を押し付けられるのが怖かったから、朝葉に押し付けてただけ」
どうして私の過ちをお母さんは、「大丈夫、大丈夫から」と言って慰めようとしてくるのだろう。抱きしめられながら、あたしは心が冷えていくのを感じる。
違うよ。お母さん、どうして私を守ろうとするの。いい子だって言っていた朝葉に私は、酷いことしてたんだよ。
「お母さん、本当は私そんないい子じゃないんだよ……」
軽蔑されるかもしれない。だけどこれ以上、理想の娘でいることに疲れてしまった。
「若菜ちゃんはそういう意地悪の対象がいないとダメな子なのかしら」
「は……?」
「だってそうでしょう。朝葉ちゃんの次は杏里ちゃんだなんて」
抱きしめていたお母さんの腕の中から離れて、私は首を横に降る。
若菜は自分勝手で気が強いけど、彼女だけが悪いわけではない。
集団という輪で次々に生贄をつくっているのは、全員の責任だ。私だってそのうちのひとりだった。
「大丈夫よ、杏里ちゃん。部活なんてやめてもいいの、苦しいことからは逃げていいのよ」
「なに、言って……」
〝部活なんて〟? 私が今まで頑張ってきていたものを、そんな言葉で片付けようとすることに愕然とした。
苦しいことから逃げたくなることだってあるし、それをしていいと言ってもらえるのは有り難いことなのかもしれない。
だけど私は、そんな言葉がほしいわけではなかった。
「目が腫れちゃってるわ。今冷やすもの持ってくるわね。学校はしばらく休んだっていいから、まずは心を休めましょう?」
「お母さんはあたしの話、ちゃんと聞いてくれてる? 理解してくれようとしてる?」
「なに言ってるの? もちろんじゃない」
それならどうして、お母さんの方が現実逃避をするように逃げ道を作る会話を進めていくの。
「大丈夫よ、全部お母さんに任せて」
お母さんは安心させるような笑みを私に向けると、部屋から出て行った。
胸元を押さえながら、私は自分の中でぐるぐると渦巻く感情の正体を考える。
優しくて甘やかしてくれて、逃げていいと言ってくれるお母さんに、私はどうして不満を抱いてしまうのだろう。