医者に余命を宣告された。

 遺伝ってのは恐ろしい。
 気がつけばガンが身体中を(むしば)んでいた。
 残念だが長生きは出来ない。その日から会社を辞めて病院にも行かなくなった。

 雨宮(あまみや) 洋一(よういち)28歳。おっさんと呼ばれてもなんらおかしくない歳になった。


 そして諦める辛さを知る。

 今では虫や道端に咲く花ですら愛おしく思ってしまう。

 そんな俺には愛してやまない妻子がいた。

 結婚して約8年、妻は同い年でまだまだ若い。こんな自分を綺麗さっぱり忘れてしまえば、何回だって再婚できるほどすごく可愛い。

 旦那の贔屓目(ひいきめ)を差し引いても世界一可愛い妻だ。

 異論は認めない。絶対にだ。

 そして自慢の娘がこれまた宇宙一可愛い。

 目に入れても痛くない存在とはまさにこのことだと思う。


 そんな2人には生涯幸せになってもらいたい。死ぬほど幸せになってもらいたい。

 だからこそ心を鬼にして演技をした。

 やりたくもない賭博にタバコや酒。なんなら家具や家電に当たり散らして情緒不安定なサイコ野郎を演じ切った。

 妻はまんまと騙されてくれた。離婚ってやつだ。

 この時の涙は墓場まで持ち帰るから許してほしい。せめてガン保険さえ入っていれば全て丸く収まったかもしれない。


 世の中は金。これだから保険は大切だよな。


 そんなことは置いといて、俺には死ぬ前に必ず成し遂げればならない仕事が出来てしまった。


「どうやって自殺するかねぇ……」
「やめろよ、まじで。目頭が熱くなる」


 目の前にいるぽっちゃりは親友のひろゆきだ。女には好かれないがこれほど信用出来る人間はこの世にいない。まあ、腐れ縁ってやつなんだろう。この男と一緒にいるとついつい口が軽くなっちまう。だからこそ余命のこともペラペラと喋っちまった。

「それで静香(しずか)さんと(しずく)ちゃんは今どこに?」
「多分、実家に戻ってるんじゃないかな……今頃雫が歯を磨いて寝る時間だな……」
「やめてくれよ。もう口を閉じてくれ。泣いちまう」
「悪いかよ。好きすぎてたまらんのだよ」
「いや、マジで。らしくないぞ!! 調子が狂う。突然人の家に押しかけて来たからに、勘弁してくれ」

 ひろゆき曰く、こんなに素直だと気持ち悪いとの事だった。

 確かに年中無休で上司の悪口を言う、そんな人間だった。でもそれはこの後に及んでくだらないと思っちまう自分がいる。

 ひろゆきは立ち上がり、台所にある冷蔵庫からいつもの発泡酒を取り出した。

「とりあえず、一杯飲んで落ち着きな」
「いいのか?明日は仕事が早いだろ?」
「なに、親友が困ってるんだ。こんな時に横にいてやれなくて、なにが親友さ」
「ひろゆき……おまえ……ほんとにいいやつだな……」
「やめてくれ、そっちだけは断固お断りだぞ」

 幸せな人生に恵まれた。改めて強く噛み締める。
 なんなら女と縁がないひろゆきを抱いてやろうとさえ思った。

 発泡酒を受け取って栓を開ける。

 プシュっと空気が抜けた音が、小さな四畳半の部屋に鳴った。

 缶に口をつけてトボトボと喉の奥に流し込む。

「ぷはっ!たまんねぇ!!やっぱこれだよな、一番安い発泡酒!」

 ひろゆきはそれを眺めて微笑んでいる。

「馬鹿野郎!値段は旨さに比例しない。安いから買ってるんじゃない、美味いから買ってるんだ」

 今となっちゃ、この聴き慣れたフレーズが心に染みる。

 これを聞くとネタに聞こえるかもしれないが、この男は冗談を言えない。ほんとに不器用なやつだ。笑えない。

 俺は胸が熱くなって気がつけば口ずさんでいた。

「ありがと」

 ひろゆきは目を丸くして、やり場のない表情する。そして思い出したかのように上手く話をすり替えた。

「兎にも角にも、だ!これからどうするつもりなんだよ。自殺するったってそう簡単にはいかないだろ?」
「ああ、一旦実家に戻ろうとおもう」
「実家だ?実家って両親が亡くなってから空き家になってるだろ。しかも人の少ない田舎町に戻っちまったら、心配すぎてこっちが眠れねぇよ!」

 声を荒げるひろゆきに区切りを打つ。

「だ、か、ら!!だよ。自殺は試みてみるけど、最悪できなくてもいずれそこで死ねる。保険をかけておくんだよ」
「なんだよ……それ。それじゃ本当にさよならじゃないか」
「ああ、いずれ死ぬなら妻と娘にガンだったってバレたくない。二度目の人生があるなら俺は応援してやりたいのさ。その為にここ数ヶ月やれる事をやってきた」
「まさかその為にわざわざ離婚したのか?」
「ああ……」

 俺は本気だ。
 死ぬ覚悟は出来ているし、逃げも隠れもしない。それを伝える為に目を合わせる。

「そうか……そうだよな……」

 ひろゆきは沈黙して、不満そうにタバコに火をつけた。
 一回深く吸って、強く吐き出す。

 まるで説教する前の死んだ親父にそっくりだ。

「なあ、覚えてるか。小学生の頃、市民プールの後にカブトムシを取りに行ったよな?そんで洋ちゃんは森できったない剣をみつけて、俺は近くで変な穴を見つけたんだよ」
「なんだそれ……急に昔話かよ……」

 怒鳴られるのだろう、そう覚悟していたせいか突拍子もない言葉に耳を疑った。

「まあいいけど、そんなことあったか??」

 思い出せないまま適当に聞き返すと、ぎこちない表情でひろゆきは続ける。

「ああ、俺ははっきり覚えてるんだよ。まるでブラックホールみたいに真っ黒で気持ち悪い穴だったからな。それに洋ちゃんも興味津々だっただろ?その剣で『ファイアーソード!!』とか言って突き回したの記憶にないか?」

ぼんやりと記憶は残っているが、はっきりとは覚えてない。

「それで?その後は?」
「穴が爆発しちまったんだよ。まるでファイアーソードが本物になっちまったみたいにさ。それにびっくりして、血相変えて逃げたんだよ」

ひろゆきは思い出し笑いしながら、「あれは笑ったなぁ」と切なくいった。不慮の事故だったとしても、今となっては微笑ましい。

「ああ、そうだったな。あれは死ぬほどびっくりしたやつだ」

 慌てすぎて何度も何度も転んだんだよな。山火事になってたら大惨事だった。運がいいやら悪いやら……。

苦笑いしてると、ひろゆきは感極まったのか唇を噛んで、なにもない畳の床に目線を落とした。

「その日からかな……心のどこかで洋ちゃんを勝手に強い奴だと思い込んでいたのかもしれない。実はすっごく強い人間なんだって……勝手に思い込んじまったんだよ……」

 ひろゆきは灰皿に長くなった灰を落とし込む。
 そして、畳は涙粒で鈍い音を立てた。

「だからさ、嘘だって言ってくれ。あの頃みたいにさ、『お前バカだな』って手を叩いて笑ってくれ……」
「ごめん……それはできない」

この期に及んで気の利いた言葉がみつからない。世界でたった一人の友人ですら、悲しませることしか出来ないのだと思い知った。

それもこれも何もかも全てひっくるめて、不運な人生を呪ってやりたい。そう感じた。

目が赤くなったひろゆきを視界の端にとらえながら、行き場のない気持ちで発泡酒を煽る。

死ぬのが怖い。

はち切れそうになる胸の痛みを内側に押し殺して、喉越しで無理矢理中和していく。

感情なのか炭酸の刺激なのかよくわからない涙を誤魔化しながら、精一杯明るく振る舞った。

「あーあ、パイナップルくいてぇーなぁ」
「なんだよそれ……急にパイナップルか。流石に出てこないっつーの」

とりあえず言葉なんてなんでもよかった。ひろゆきが俺の言葉に反応する、ただそれだけで。そして「なんだよそれ」って笑ってくれるだけで人生が報われる、そんな気がしたのだ。