自転車を間に挟み、並んで歩き始めると、彼が唐突に「すまなかったな」と言った。
「え?何がですか?」
「いや、急に押しかけるのも悪かったなと思って」
 申し訳なさそうに言う彼に、私は「大丈夫ですよ」と口元を綻ばせる。
「でも、よく通っている学校が分かりましたね。自己紹介も何もしていないのに」
「制服を見ていたからな」
 打ち返された答えに、私は「あ、成程」とすぐに頷いた。
「それで学校が分かったは良いが、他は何も分からなかったからな。名前を聞いておけば良かったと、校門で待っていた時にどれほど思った事か」
 クールな顔を歪めて苦々しげに言う彼に、私は色々と察してしまい「ごめんなさい」と身を縮ませた。
「私がちゃんと聞かずに立ち去ったせいで・・」
 ごめんなさいともう一度告げると、隣から「いや、君に落ち度はないから」と突っ込む様に返される。
「今回と言い、朝の事と言い、悪いのは全部俺達の方だ。だから君が謝る事は何もない」
 渋面から一転して柔らかな微笑を浮かべて告げる彼に、私は「うわ」と零してしまいそうになった。
 いや、こんなクールイケメンの不意打ちの微笑みは心臓に悪いでしょ。これは誰でもこうなっちゃうって。
 誰に言い訳するでもないのに、やたらと言い訳がましい言葉を心の中で並べながら「ありがとうございます」と答えると、彼が「いや」と小さく首を振ってから「じゃあ、改めてだけど」と話題を変えた。
「俺は、清黒紲《きよぐろせつ》。よろしく」
 わお!格好いいのは容姿だけじゃなくて、名前までもだった!
 なんて、スタイリッシュな名前にちょっと面食らってしまうけれど。ちゃんと自分も名乗り返した。
「神森叶架です。よろしくお願いします」
 ぺこっと頭を下げると「神森?」と、驚いた様に返される。そのリアクションが予想外だったから、私は軽く戸惑い「ど、どうかしましたか?」と言わんばかりの顔になった。
 すると彼は「あぁ。いや、何でもない」と、すぐに私から戸惑いを剥がしていく。
「珍しい苗字だと思って。ちょっと驚いた」
 訥々と返された言葉に、私は「そうですか?」と思い切り首を傾げてしまった。
「清黒の方が、かなり珍しいと思いますけど・・?」
「そうか?周りに結構居るから、自分では珍しさが分からないな」
 彼は淡々と返してから「こっち」と右を向き、颯爽と先を歩いて行く。
 そこで会話が区切られてしまうと、そこからは無言の空間が続いた。
 割と気まずいなぁと思ったけれど。この人相手に何を話しかけたら良いのか、分からないから黙っているのが一番と思うと、気まずさはあまり感じなくなった。
 そうして歩くこと数分、彼がようやく「あぁ、ここだ」と立ち止まる。
 そこは私の通学路の途中にある、高層マンション。外から見える玄関ホールは、今も昔もずっと綺麗だ。
 ここが清黒さんのお家なのかぁと思ったけれど。彼はそのロビーを通る事なく、横にある駐輪場の方に進んで行った。
 あ、そっか。私が自転車を持っているから、止める場所に案内してくれるんだ。
 そして私達が駐輪場に入ると、付いていなかった電気が一斉にパッと灯る。LEDの眩しい白光が、目を眩ませた。
 私は目を軽く瞬かせて光の調節をしがてら、彼の「ここに止めて」と言う言葉を待つが。彼は「ここに止めて」とも「あそこに止めて」とも言わず、先を歩き続けた。
 それだから私も止めていた足を動かして、彼の後をついて行く。どうしてだろう?と、内心でひどく訝かしみながら。
 すると突然、私の戸惑いを別の感情に書き換える声が聞こえた。
「主様」
 あ!この声は、あのミミズクだ!と思った刹那、柱の影から人がスッと出てくる。
 清黒さんよりも長身で細身。柔らかな微笑を称えた、優しい相貌。暗めのヴァイオレットっぽい髪色で、前髪は一センチも乱れる事なく、綺麗に眉毛の辺りで切り揃えられていて、チャームポイントの様にちょろっと触覚を出している。肩より少し下まで伸びた長髪は、ハーフアップで綺麗に纏められていた。サラサラッと言う擬音が聞こえてきそうな程まっすぐに美しい髪質が、かなり羨ましい。
 そして何より、彼の最大の特徴は和装をしていると言う事だ。落ち着いた濃緑の着物を完璧に着こなしているせいで、艶めかしい相貌がより艶めかしくなっている。
 突然現れた着物男子に、私が目を奪われていると。清黒さんが「もっと分かり安くて、近い所はなかったのか」と、着物男子をギロリと睨む。
「桔梗」
「申し訳ありません、主様。次回はこうならぬ様、もっとよく探しておきます故どうかお許しを」
 平然と言葉を交す二人によって理性が取り戻され、間の抜けた状態からバチンッと荒々しく我に帰った。
「ちょ、ちょっと待って?!今、桔梗って言いました?!そんな、桔梗って、まさか・・・!」
 失礼ながら呼び捨てして戦いてしまうと。着物男子は恭しく胸に手を当て「ええ」と、美しい所作で腰を折り曲げる。
「ミミズクではない、人の姿でお会いするのは初めてですね。お嬢様」
 にこやかに言葉を返されるが、私は「嘘でしょ?!」と素っ頓狂な声をあげた。
「だ、だ、だって!ミミズクが人になるなんてあり得ないし、人からミミズクになるのもあり得ないでしょ!」
 どういう事ですか?!と混乱しながら訴えると、着物男子がフフッと蠱惑的な笑みを浮かべて「お嬢様、私は人間ではありません。式神でございます」と答えた。
 その言葉に、混乱一色だった私は「式神?」とぼそりと呟き、怪訝に顔を歪める。
「左様でございます。混乱されるお気持ちは大変よく分かりますが。私がこうしてミミズクから人へ、人からミミズクへと常識離れした事をやってのける事が何よりの証拠でございましょう?」
 ニコリと蠱惑的な微笑で、ぐうの音も出させない完璧な返答。
 私は「た、確かに」と反論する事もなく、簡単に白旗を揚げさせられてしまった。
 桔梗さんは、そんな私に対してフフッと小さな笑みを零してから「では、お嬢様。改めて名乗らせていただきます」と、丁寧に腰を折る。
「私は十二天将の一角を担う式神、六合《りくごう》の桔梗と申します。どうぞよろしくお願い致しますね、お嬢様」
 十二天将?六合?迦那人にぃが「神様」と作家の先生を崇める程大好きな漫画にあった様な言葉が出てきたなぁ。なんて、言われた言葉をなんとか冷静に受け取ろうとする。
 けれど、そんなの無理だった。頭も心もひどく混乱し、「嘘だ」と言葉を失ってしまう。
 その様子に、桔梗さんは「ゆっくりご理解いただければ幸いです」と和やかに答え、清黒さんは「当然の反応だ」と言わんばかりの顔をしていた。
 こうも平然としている二人を見ると、段々と泡を食っている私の方がおかしいのかなと思ってくる。
 違うよね?私の方が正常なのよね?向こうがズレてて、こっちが普通ってやつだよね?そうだよね?ね?ね?
 驚きから怪訝へ、怪訝から困惑へと、くるくると変わりゆく感情を必死に処理しながら、私は「神森叶架です」と、桔梗さんに向かって弱々しく頭を下げた。
 すると桔梗さんは柔らかく微笑み「叶架お嬢様、ですか。とても可愛らしい貴女様にピッタリのお名前ですね」と、私の自己紹介を丁寧に受け取った。
 艶やかで柔らな物言いと言われ慣れない言葉のコンボが、心にズドンと突き刺さる。そのおかげと言うべきか、私の心は「いや、もう式神でも何でも良い!」となり、一切のわだかまりを払拭した。
 ふにゃりと口角を緩め「いやぁ、そんな事ないです」と答えようとするが、突然清黒さんがこちらを向き「桔梗に自転車を預けてくれ。あと、靴も脱いで」と言った。そのおかげで、緩んでいたものがキュッと引き締め直される。
 靴を脱ぐ?どうして?とは思ったものの、有無を言わさぬ口調が私の体を従順に動かせた。
 桔梗さんに「すみません」と自転車を預けてから、ローファーを脱いだ。コンクリートのひんやりとした冷たさが、足裏から一気に伝わってくる。
 清黒さんが「桔梗、後は任せたぞ」と畏まる桔梗さんを一瞥してから、私に「神森さんはこっちに」と手を伸ばした。
 彼的には、エスコートの意味で手を差し出してきたのだろうけれど。私はその手に緊張し、躊躇ってしまった。
だって、エスコート慣れもしていないし、こんな風に手を差し出される事も初めてだから。そんなスッて、簡単に手は取れないよね・・。
 あ・・でも、待って。清黒さんの目が「早く」ってうんざり気味に訴えてきているから。早くしないと、この後が怖そう・・。
 私は覚悟を決め「し、失礼します」とおずおずと手を伸ばし、躊躇いがちに彼の手の上に自分の手を乗せた。
 そうして手を優しく引かれ、二、三歩歩くと。そこにはシンプルな木枠の姿見があった。
 何気に姿見って、なんでこんな所にあるの?って言うの多いよね。
 なんて思っていると、清黒さんは私の手を引きながら姿見の方に進んで行った。
 彼の異様で突飛な行動に「ちょっと待って?なんでまっすぐ進むの?」と、ガッと体が固まる。
 すると彼は手を引く力を強めて、固まる私の体を前に運んだ。
「ちょ、ちょっと待って下さい!なんで姿見の方に行くんですか?!」
 踏ん張りながら声を上げると、彼は「移動するから」と投げやりに打ち返す。
「移動?移動ってどう言う・・・ええええええええええっ!?」
 端的な答えに眉を顰めた瞬間、なんと先を歩く彼の体が姿見の中に消えた!
 う、嘘でしょ?!と目を剥き、再び足を止まらせてしまうが。鏡の中に消えた清黒さんが、先程よりも強い力でぐいっと引っ張った。
 私の体は、前からの強い力に耐えきれず、ぐんっと簡単に前のめりになる。
 待って、待って、待って!無理、怖い、無理!
 迫り来る鏡面にギュッと目を堅く瞑り、ガツンッと強くぶつかる事を覚悟したけれど。一向に衝撃は与えられない。
 あれ?と思い、堅く瞑っていた目を恐る恐る開けると、そこはどこかの家の一室だった。綺麗に整頓され、白と黒で統一されたインテリアが置かれたお洒落なリビングルーム。ひらひらと風に揺れるカーテンと、柔らかな日差しを部屋に差し込む大窓が、部屋に開放感を与えている。
 そんな馬鹿な!と慌てて振り返ると。後ろに広がっているはずの駐輪場の景色はどこにもなく、このお洒落なリビングルームの一角が平然と広がっていた。
 その時、バチリと自分と目が合う。指紋一つない綺麗な姿見に囚われている、とても間の抜けた顔をした自分と。
 私は駐輪場よりもお洒落でシックな姿見に戦々恐々と近づき、そっと鏡面に触れてみる。
 すると指先はカツンと鏡面にぶつかった。
 当たり前の衝撃のはずだが、その衝撃で混乱している自分が沈思の世界へと誘われる。
 え。これってつまり、私、鏡を通って、駐輪場からどこかのお洒落な部屋に来たって事・・?
 いやいや、そんな事ある訳ないよね。だって、そんなのあまりにも非現実的だし、理解も出来ないよ。夢とかじゃないと説明がつかない。
 あぁ、そっか!これは夢だ!夢だからこんなヘンテコな事が起きちゃう訳だ。もう、私ってばどうかしてた。夢だったら、こんな事があっても「普通」だよね。
 胸に手を当て、ホッと安堵するが。トクトクと小さくリズムを刻んでいる鼓動が、私にしっかりと突っ込んだ。
 じゃあ、どこからが夢なの?私はいつから眠ってしまっているの?と。
「悪いが、靴を玄関に置いてきてくれるか」
 後ろからの淡々とした突っ込みで、私はハッと我に帰った。踵を軸に体をくるっと素早く百八十度にターンさせ、この混乱を強くぶつける。
「ここ、どこですか?!」
「東京にある、俺の家」
「と、東京?!」
 素っ頓狂に張り叫んでから、慌てて大窓の方に駆け寄った。
 すると確かに、そこから見える景色はザ・東京。高層ビルや高層マンションが建ち並び、その合間から存在感あるスカイツリーが見えた。(少し遠くの方ではあるけれども)
 私の家と学校がある場所は、神奈川県の横浜市。横浜と言っても田舎の方の横浜だから、こんなにビルは多く建ち並んではいないし、遠くからでもスカイツリーなんか見える訳がない。
 それなのに私は今、紛う事なき東京の景色を目の当たりにしている。
「ど、どう言う事・・・?」
 理解のキャパを軽々とオーバーする、とんでもなく不可解な状況に放られ、呆然としてしまうが。
 突然「来はったぁぁぁっ!」と興奮した叫声が部屋を震撼させ、ドタドタッと廊下を慌てて走る音が聞こえて来た。
 その荒々しい音で、私の動揺は一気に鎮まる。その代わりに、何事かとこれから起きる事態に対してピシッと身構えた。
 そしてゴクリと固唾を飲み込んだ瞬間、バァンッとリビングの扉が荒々しく開かれる。
 やって来たのは、美しい大人の女性と言う表現がピッタリの若い女性。ウルフカットの黒髪で、赤色の七分袖のトップスに黒色のスキニーパンツと格好いいスタイリングをしている。
 淡い赤色のアイシャドウとまっすぐに引かれたアイライナーで飾った目が、猫の様に大きくパッチリだ。ワインレッドのグロスが乗った唇は、遠目からでもぷるっと潤っている。
 全体的に華々しく目立つ格好をしているからか、胸元にある小さなパールのネックレスの輝きが控えめに見えた。
 パリコレモデルの様な女性の登場に、私は「わぁ」と声を漏らしそうになったけれど。その女性の方が、私を見るや否や、大きな猫目を更に大きくさせ「はぁぁぁぁっ!」と蕩けた大声をあげた。
 思いがけない叫声に面食らっていると、その女性は私の方に猪突猛進してくる。ドンッと強い衝撃を感じたかと思えば、ぎゅううっと力強く抱きしめられた。思わず、パッと靴を離してしまい、ドンッと靴が荒々しく床に着地する。
「なぁんて、めんこい娘ぉやろうかぁぁぁ!会えて嬉しいわぁぁぁぁぁ!」
 耳元で叫ばれるし、抱きしめられる力が強いしで、私は腕の中で小さく呻いた。彼女が付けているラベンダーの香水の香りだけが、とても柔らかく感じる。
「坊《ぼん》!ほんによう見つけはったやないのぉぉ!ようやったでぇ!しかもめんこい娘ときはって、めっちゃ嬉しいわぁぁぁ!」
 近畿地方の訛りがバリバリに現れた言葉遣いだが。今の私は彼女の言葉遣いよりも、彼女から与えられる苦しさでいっぱいだった。
 すると突然彼女はパッと体を離して、私を満面の笑みで見据える。(そろそろギブ!と思っていた私としては、とてもありがたかった)
「うち、海音寺五十鈴《かいおんじいすず》言いますぅ。五十鈴ちゃん、または五十鈴さんって気軽に呼びはっておくれやすぅ」
「えっ、あっ。か、神森叶架です!よろしくお願いします!」
 慌てて頭を下げて答えると、五十鈴さんが顔を輝かせながら「叶架ちゃん!めんこい名前やねぇ!どう書く名前なん?」と訊いてくる。
「えっと。願いが叶うの叶うに、橋を架けるの架けるって書いて叶架です」
「素敵!えろうえぇ名前やねぇ!」
 五十鈴さんは朗らかな笑みを浮かべて答えると、唐突に私の頬を両手で包み込んだ。
「んー!肌ももちもち、すべすべや。ピチピチ十代の肌はやっぱ羨ましいもんやねぇ」
「あ、あにょ。い、いしゅじゅしゃん?(あ、あの。い、五十鈴さん?)」
「うふふ、ほんま可愛い娘ぉやねぇ。あぁ、こないめんこい子なんて思わんかったわぁ。うふふ、どないしよかなぁ。こっちに連れて行ってまおうかなぁ」
 艶然としながら頬を好き勝手に揉まれるけれど、私はされるがまま。
 だって五十鈴さん、私なんかではとても太刀打ち出来る様な人じゃないんだもの・・。
 すると助け船の様に、清黒さんが「師匠」と五十鈴さんに投げかけてくれた。
「もうそこまでにして、早く本題に入らせて下さい。師匠がここに居られる時間は、そう長くないのですよ」
 淡々とした言葉に、五十鈴さんは私の頬をふにふにと揉むのをピタッと辞め
「嫌やなぁ、坊。その呼び方やのうてなぁ。こういう時は、五十鈴ちゃんって呼べぇ言うとるやろぉ」
 と、朗らかな笑みを称えて言葉を返す。
 けれど、その笑顔がなんだかとっても恐ろしい様な気が・・。
 私が少しゾクッとしたものを感じていると。五十鈴さんは、その笑みをピタリと顔に貼り付けたまま「坊」と清黒さんの方に向き直った。
「本題の前になぁ。坊になぁ、言いたい事がぎょうさんあんねんでぇ」
 スッスッと足音もなく、清黒さんの前に進んで立つ。
 そして、その次の瞬間。五十鈴さんが思い切り腕を振り抜き、清黒さんのお腹に深々と一撃を入れ込んだ。「うぐうっ」と苦しげな呻きが飛び出し、清黒さんの体が綺麗なくの字に折り曲がる。
 この突飛な展開に、私は目を大きく見張って固まる事しか出来なかった。
 清黒さんにとっては、会心の一撃だったのだろう。腹を押さえて、ガクッと膝から崩れ落ちた。
 だが、五十鈴さんがこれだけで終わるかと言わんばかりに、容赦なく胸ぐらを締め上げる。そしてそのまま恐ろしい笑みを彼にぐっと近づけ「ついさっき聞いたんやけどねぇ」と、おどろおどろしく告げた。可憐な声をしている五十鈴さんから発せられた声だとは、とても思えない。
「乙女にとってキスってなぁ、そらぁ重要な事なんよねぇ。せやから、初対面且つ利己的な理由からされるキスとか、乙女にとっては最悪以外の何物でもないんよなぁ。せやのにお前、可愛い叶架ちゃんに何をした?なぁ、ウチに言うてみぃ??」
 五十鈴さんの恐ろしい怒りが纏われた言葉に、私はハッとあの事を思い出す。
 キスって、あの時の・・・
 その一瞬を思い出してしまうと、ぶわっと羞恥心やら何やらが襲ってくる。わぁわぁと身悶えし、恥ずかしさでいっぱいいっぱいになりそうになるが。
 目の前で正座をさせられ、胸ぐらを掴まれ、恐ろしい怒りをぶつけられている可哀想な姿の清黒さんを見てしまうと、その気持ちがひゅんっと引っ込んだ。
「師匠。あの、それには訳がありまして」
「ほぉん?訳があれば、初対面の乙女にキスの一つかましてもええ思たんか?えろうめでたい頭やなぁ。そないお前が阿呆でクズやったとは思わんかったわぁ」
 弁明しようと清黒さんが口を開くも、五十鈴さんの冷たい毒舌が彼の反論を容赦なく封じる。
「正直に言うてみぃ。自分の顔が少ぅし良いからて、許されると思うたんやろぉ?せやろぉ?」
「いいえ」
 清黒さんは、まさかと言う様に首を横に振ったが。五十鈴さんは全てを無視して「剣以前に、こない当たり前の事を教えんとあかんかったなんてなぁ!」と、厳しく言葉を突き詰め続ける。
「あぁあぁ、そないな事教えんでもこの子は大丈夫や思うてた自分が情けない!自分の顔が免罪符になる思うて、乙女の気持ちを一切考えもせんドクズだったなんて、ほんまがっかりやわ!」
 大仰に嘆く五十鈴さんに、清黒さんは「師匠、俺の話を聞いて下さい」と声を張り上げた。そう訴える顔は、痛みに歪んでいる様な顔にも見えるし、うんざりする様な呆れに歪んでいる様にも見える。
「それらを全て考慮していましたから、する前に彼女にはすまないと一言謝罪を入れましたし」
 弁明の途中で、五十鈴さんの肩がピクッと震えた。そして「すまない?」と小さく吐き出される。
 こ、これはなんだかマズい予感が・・・。
 冷や汗がじわりと額に現れた、その時だった。
「それを謝罪と呼べる訳ないやろがぁぁ!こんのド阿呆がぁぁぁぁ!!」
 彼女は想像以上に怒髪天を衝き、手を素早く二撃目に移行させる。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
 慌てて止めに入った私の声に、五十鈴さんの振り下ろされた手がピタッと止まった。清黒さんの頬からあと数センチと言う、とても危うい距離で。
 五十鈴さんは「どないしたん?」と私の方を振り返るが、「あぁ、これの事やったら気にする事ないよ?」と満面の笑みで釘を刺した。その笑顔がまたビックリする位に美しくて、とても冷ややかで恐ろしい。
「この五十鈴ちゃんに任しとき。叶架ちゃんの唇の仇はウチがきっちりとったるからな」
 本気の殺気が言葉にも乗っている五十鈴さん。
 私は「も、もう充分ですから」と、必死に宥めに入った。
「私は何も気にしていませんから、そこまで怒らなくても大丈夫ですよ!それにキスって感じでもなかったし」
「ファーストキス、やったりする?」
 唐突な突っ込みに、私は「えっ」と言葉に詰まってしまった。
 急な質問ですね?!と笑い飛ばしたり、誤魔化したりするのが正解だったと言うのに。馬鹿正直に態度で現してしまったせいで、五十鈴さんの怒りにガソリン一斗缶以上の燃料が投下された。
 彼女の怒りが瞬く間に、ごうっとワンランク上の烈火へと昇格する。
「ほんまに許さん!覚悟せぇやぁぁぁぁ!」
「わー!待って待って!落ち着いて下さい、五十鈴さん!」
 激昂した五十鈴さんを慌てて止めに入った、次の瞬間だった。 
「そこまでにしておけやぁ、五十鈴ぅ」
 横から野太い声がし、それぞれの動きがピタッと止まる。
 バッと闖入者の方に顔を向けると、のっしのっしと威厳ある歩き方でやってきたのは、なんとホワイトタイガーだった。
 それも普通の虎よりも、数倍大きな虎だ。汚れ一つ無い美しい純白の体に、黒の縞模様が一切乱れる事なく等間隔に刻まれている。それに、紺碧の瞳が雪の中でキラリと輝く宝石の様に綺麗だ。
「牙琥《がく》、止めんといて!」
 五十鈴さんが声を荒げると、牙琥と呼ばれたホワイトタイガーはふわぁと大きく欠伸をしてから「そうしたいのは山々だぜぇ」と答えた。
 この虎もペラペラと喋ってる。て事は、桔梗さんと同じ式神・・?
 もはや喋る虎くらいでは動じず、冷静に推測してしまう自分に若干引いてしまうけれど。そんな自分が居る事には見て見ぬ振りをして、目の前の状況に集中する。
「俺も坊がやられている姿を見るのは好きだからなぁ、もっとやれとは思うが。今はそういう場合じゃねぇだろぉ、五十鈴ぅ。俺達が来た意味を忘れんなよぉ」
 ホワイトタイガーが「後でやろうや、俺も参戦するからよぉ」とのんびりと答えると荒ぶっていた五十鈴さんが急激に大人しくなり、あれだけ堅く掴んでいた胸ぐらから手をパッと離した。(清黒さんはホワイトタイガーに対して「おい!」と、鋭く突っ込んでいたけれど)
 何はともあれ、暴走列車の如く暴れていた五十鈴さんが止まった。私じゃ全く止まらなかったと言うのに、たった数秒で簡単に止めてしまうなんて。
 ホワイトタイガーの手腕に感嘆していると、ホワイトタイガーは私の前でどっかりとお座りした。
「俺ぁ十二天将の一人、白虎の牙琥ってんだぁ。牙琥で良いぜぇ。よろしくなぁ、玉陽の巫女」
 あ、白虎は知ってる!四神の一人だ!と、小さな興奮が押し寄せるけれど。最後の言葉に、私は引っかかってしまう。
 ギョクヨウの巫女?何の事だろう?
 なんて思ったものの、私は牙琥に「神森叶架です、よろしくお願いします」と頭を下げた。
「おお、式神相手にもえれぇ行儀が良いなぁ。五十鈴ぅ、お前も少しは見習ったらどうだよぉ?」
 にかにかと目を細め、尻尾を面白げに左右に揺らす牙琥に、五十鈴さんが「余計なお世話や」とすぐに食ってかかる。
 けれど牙琥は「そろそろ本題と行くかぁ?」と、五十鈴さんの突っ込みをものともせず、飄々と話を進めた。
「坊、どこまで話したんだよぉ?」
「まだ何も・・これから話そうとしていた所だ」
 腹を押さえ、苦痛に顔を歪めながら答える清黒さん。本当に痛々しい・・。
 牙琥はその答えに「そうかぁ」と頷いてから、私に向き直った。
「お前さんをここに呼んだのはなぁ、俺達の世界の話をする為なんだよぉ。だから坊がここに連れてきたんだぁ」
 ・・俺達の世界の話?
 何の話か、全く見えないけれど。取り敢えず「はぁ」と相づちを打っておく。
「まずはなぁ、この世には二つの世界があるんだぜぇ。あの世は三つに分離されているが、この世は俺達人間の世界ともう一つ。魁魔《かいま》の世界っつーのがあるんだぁ」
 急にSF、ファンタジーじみた事を言われ、私は「魁魔の世界?」と首を九十度近く傾げてしまった。だが、牙琥は何もおかしな事はないと言う様に「そうだぁ」と堅く頷く。
「あっちで生きている妖魔《ようま》、憎魔《ぞうま》、讐《あだ》の三つの種族を総じて魁魔っつーから魁魔の世界って呼んでいるんだ。そうだなぁ、人間界の裏の世界って捉えてくれた方が良いなぁ。だが、その世界は表の人間界とは全く違ぇ。負の念や邪念が詰まった、悍ましい世界で惨憺そのもの」
 まぁ、ひでぇ世界だよぉ。と、牙琥は一呼吸置いてから、ゆっくりと言葉を継いだ。
「二つの世界は各々で独立した世界になっているから、本来であれば交わる事はねぇんだが。鏡を通しちまうと、二つの世界が繋がっちまうんだ」
「鏡を通して・・?」
「あぁ。鏡は、奴らが糧にしている怨嗟や憎悪と言った負の念をよく吸収するからな。それが向こうを刺激するっつーか共鳴を引き起こして、表裏一体化を起こすんだ。つまり鏡は、向こうとこちらの境界線みてぇなもんだぁ」
 けどよぉ。と、ここから先の言葉の重要性を強調する様に、重々しく言葉を区切る。
「境界線を破って、奴等はこっちの世界を脅かすんだぁ。自分の世界を広げる為か、より強い負の念を求めている為か。はたまた、何か別の理由があるのか。何の為かは分からねぇが、向こうの奴らは鏡を通って人間の世界を脅かす。だがなぁ、どんな悪にも必ず対抗する勢力って言うのは生まれるんだよぉ。その対抗勢力って言うのが」
「ウチ等、鏡番《きょうばん》なんよ!」
 ズバッと良い所取りをしたのは、五十鈴さんだった。
 でも、彼女には話を遮った所か奪ったと言う自覚は一切ない様で、ニッコニコのまま「鏡の番をしているから鏡番って言う、安直な名前なんやけどなぁ」と、話を続ける。
 そして話の先を奪われた牙琥はと言うと、呆れてはいるものの柔らかな顔つきで「ここまでよく黙ってたなぁ」と、五十鈴さんに場を完璧に託していた。
 二人の関係性と言うか、二人の間に築いてある信頼が垣間見えた気がするよ。
「鏡番の歴史は古いもんでなぁ。出来た時期は記録が残ってへんから明確には分からへんけど、平安時代には確実にあったって言われとるんよ」
「平安ですか?!結構昔からあるんですね・・」
 私が目を丸くすると、五十鈴さんは「せやねん」と口元を綻ばせる。
「昔は少数やったらしいけど、それと比べたら今は結構な大所帯さんにならはったと思うよ。古くから戦い続けている清黒、黒壁、大黒司を主三家として、各家に仕える傘下達がおる位やからなぁ。ま、それでも人手は足らんのやけどね」
 敵の数が多い事も一因やけど。人の負の念が強うなってきはってるせいで、奴らも強うなってはるからね。と、弱々しく眉根を寄せて、小さく肩を竦めた。
 けれど、彼女はすぐにニコッと明るい笑みに戻り「そないな事はどうでもええな!」と、話をパッと戻して先に進める。
「ウチ等鏡番が守る鏡は、大きく分けて二つあるんよ。その二つを本鏡、支鏡って言わはってな。支鏡はウチ等が普段使こてる鏡の事で、本鏡は北海道、東京、京都、広島、熊本に置かれた特殊な鏡の事や。本鏡の方が絶対に守らなあかんって言う大切な鏡で、主三家を筆頭とした精鋭の鏡番が守ってはる。それはなんでか言うと、支鏡とは比べもんにならん程危険度が高いからや。重傷を負わされたり、後遺症を残されたり、最悪命を落とす事もある。それ位、出てくる敵がえろう強いんや。せやから、本鏡は主三家を筆頭とした精鋭達が守り、支鏡は手が空いたり、近くにおった鏡番が回る事になってんねん。でもほんま手が足らへんから、本鏡を守る鏡番でも支鏡に回る事もあんねんで」
 鏡番はブラック企業以上にハードなんよぉ。と、カラカラと笑う五十鈴さん。
 けれど、私はにこりとも出来なかった。笑う所か、表情がガチガチに真顔で強張る。
 私達が生きている今日の平和は、鏡番の人達が奮闘して築いてくれているものだった。
 命を落とす危険があろうと、敵が強大であろうと。私達の平和の為に戦ってくれているおかげだった。
 私はキュッと拳を作り、床の木目に目を落とす。
 危険を顧みずに私達の世界をずっと守ってくれていたと言うのに。そんな人達が居る事を知る所か、居る事に《《気がつかなかった》》なんて・・。
 自分自身を恥じる想いと申し訳ない想いがぶわっと胸中に渦巻いた。
 視線が床の木目に縛り付けられる。
 どんな顔で五十鈴さん達と向き合ったら良いか、分からなくなってしまった。
 すると突然、私の両肩にドンッと強い衝撃が与えられる。その衝撃にハッとして顔を上げると、五十鈴さんの満面の笑みが眼前にあった。
 そして「そないな顔せんで!」と、再び両頬をむにむにと包み込まれる。
 私は、彼女の突飛な行動に目を見張ったが。すぐに罪悪感で瞳がふるふると揺らぎ「で、でも」と、小さく吐き出す。
「知らなかった上に、こんな風に」
「優しい子ぉやなぁ!そないな事、気にせんでええのよぉ!」
 五十鈴さんは朗らかに笑い飛ばし、私のもごもごとした言葉をバッサリと遮った。
「ウチ等の存在は他所様に知られない方がええ言うもんやでぇ!存在が知られてしもてたら、こっちが平和じゃのうなってるって言う事やもん。せやから、誰もこの事を知らん方がええの!」
 五十鈴さんは朗らかに笑いながら告げるが。「ま、正直に言うと。ウチも思う時はあったで」と、ばつが悪そうな顔に変わった。
「なんでなんも知らへんの、なんで気づかんの。誰のおかげで平和に過ごせとるんや、この脳天気共!って」
 当時の気持ちを仕舞っている箱から引っ張り出しているからか。彼女の顔はフフッと小さく綻び、私を映している眼が過去に映り変わった。
「けど、お師匠から言われたんよ。普通努力は目に見えないが、俺達の場合は大きく、燦々と輝く様に見えている。それだけじゃない。自分が存在する意味だって見えているんだ。普通の世界を生きていれば、そんな事はあり得ない。俺達は普通よりも恵まれ過ぎている。それだと言うのに、そんな贅沢な不平を鳴らすのか?・・ってなぁ」
 そう言われて、確かにその通りやなぁって思うたんや。と、五十鈴さんはフッと目線を外の方に向ける。
 少し開かれた大窓からさーっと爽やかな風が入り込み、カーテンがふわりと柔らかく揺れた。いや、入って来たのは風だけではない。人々が日常を送っている音も、だ。
 鏡番の人達が必死になって戦ってくれているからこそ謳う事が出来る平和の音に、彼女は朗らかに相好を崩す。
「この平和な世界こそ、ウチ等の努力の証。必死で戦って、必死に守っている平和がウチ等の存在の証。それらがこうも目にハッキリ見えとるんなら、他所様に自分らこないな事しはってるんですーってアピールせんでもええやんかって分かってきてん。せやから、今はなぁんも不満に思う事はないよ」
 私はその笑みと言葉で、ハッと気がついた。
 この平和こそが、鏡番の人達の「誇り」なんだ。なんて格好いいんだろう。なんて凄い人達だろう。
 私には、とても真似出来ないよ・・。
「フフフ、叶架ちゃんも分かってくれた?他所様は知らん方がええって」
 五十鈴さんから優しく尋ねられると、私は「はい」と小さく頷いた。
「五十鈴さん達鏡番の方々は、本当に凄いですね。私だったら、とても出来ないですよ。戦うのが怖いし、きっと他人の為にそこまで戦えないです」
 弱々しい笑みで答えると、目の前から「そりゃあウチもよ!」と朗らかな笑みで打ち返された。
「うちかてアイツ等と戦うの怖い思うとるよぉ!」
「えっ?!」
 そんな事を言われるとはつゆほど思っていなかったから、思いっきり面食らってしまう。五十鈴さんの後ろでも「はっ?」と、そんな訳ないだろと言わんばかりの低い声が飛び出していたけれど。
 五十鈴さんはそれら全てを一蹴する様に「そらぁ、怖い思うよぉ!当たり前やぁん!」と、呵々としながら言った。
「何人も死ぬ所を見てはるし、大切な人も戦いで亡うなってるから。次は自分やもって怖がりながらいつも戦うてる。あんま出てこぉへんけど、讐はほんま激強やし、死んだなって思う事も多いで。せやからウチも当然怖い思うてるよ?」
 でもねぇ、と五十鈴さんは手を頬に当て、キュッと眉根を寄せた。
「アイツ等と戦うよりも、もっと怖い事があるからなぁ。戦うしかないんよぉ」
「もっと怖い事、ですか?」
 五十鈴さんにそんな事があるんですか?と言う様に、目を猫の様に大きく丸くして尋ねる。
 五十鈴さんはフフッと口角を緩め「それはなぁ」と、優しく言葉を紡いだ。
「ウチ等人間の世界が魁魔に侵略されてしまう事や。そないなったら、ウチの大切な人も、ウチも生きられへん。ウチの大切なもの全てが理不尽に奪われてまう。そうなってしもたら、怖いから戦いたくないなんて言うてる場合じゃないからなぁ」
 せやから戦うしかないねん、と五十鈴さんは小さく肩を竦める。
 そしてニッと口角の端を上げ、「これは鏡番に限らず、万人に言える事なんやけど」と私の手をキュッと握った。
「戦えない思うた時は、大切な誰かを思い浮かべるとええのよ。自分の力が自分の大切な人の為になる想うと、どんな相手とも戦えるで」
 五十鈴さんの温かな言葉が、胸にじわりじわりと沈み込む。
 自分の力が大切な人の為になると思う事。
 確かに、そう思うと「私は戦える!」って言う気持ちが湧くかもしれないけれど。でも、その思いだけで戦えるのかな?命の危険があって、怖いと思うものから戦えるのかな・・?
 言葉が心の最奥に届く前に、小さな疑問が湧いた。その時だった。
「あー、五十鈴ぅ。格好つけてる所悪ぃが、玉陽の巫女とのお喋りは終いにして戻るぞぉ」
 牙琥が嘴を容れ、五十鈴さんに穏やかに告げる。
 五十鈴さんは私の手をパッと離し、「なんで?」と笑顔で牙琥に打ち返した。
「まだ帰る時間やないやろ?せやからまだまだ叶架ちゃんとお喋りすんねん」
 きっぱり拒絶した答えに、牙琥は「そうなんだけどよぉ」と困った様に答えるが。「もう充分喋ったはずですよ」と、よろよろと清黒さんが立ち上がり、牙琥の援護に回った。
「早く京都の本鏡にお戻りを。師匠がいなければ大変でしょうし、京都本鏡はいつ何が起こっても不思議ではありませんから」 
 機嫌を損ねない様に恭しく告げるが、五十鈴さんの冷笑は崩れず「そない言われても、戻らんからね?」とけんもほろろに答えていた。
 清黒さんは「師匠」と渋面を作り、苦々しく吐き出す。その姿に、五十鈴さんは「なんやねん」と居丈高に答えた。
「別にええやろ。どうせ讐やないんやから」
「そうだなぁ・・って言えたら良かったんだけどなぁ」
 相変わらずのんびり口調で言った牙琥に、五十鈴さんの冷笑がようやく崩れる。
 牙琥の方を向き、「ハッ?!」と素っ頓狂な声で叫んでから「まさか」と顔を曇らせた。
 牙琥は「そのまさかだぁ」と言う様に、うんうんとゆっくり大きく頷く。
「嘘やろ?!」
「大マジだぁ。大陰のババァから早く戻って来いって言われたぜぇ」
 すぐに淡々と打ち返した牙琥に、五十鈴さんはギュッと皺が寄った眉間を揉みながら「こう言う時に限って」と恨めしげに独りごちた。
「・・・はぁ、しゃあない。早う戻るで、牙琥」
「あいよぉ」
 牙琥の間延びした答えを受けてから、五十鈴さんはくるっとこちらを振り向き、素早く私の手を取る。
「叶架ちゃん、ほんま堪忍ね。ゆるりとした会話も出来んくて、坊もとっちめられずに終わってしもたけど。叶架ちゃんが、五十鈴ちゃんって鏡に向かって呼んだらすぐ来るからな。今もウチ等が出て行った後、坊に何かされたら言うてな。必ず息の根、止めたるから」
 ぎゅうっと私の手を握る力が強くなり、若干怖いと感じる程鬼気迫った表情をぐっと近づけられた。
 私は五十鈴さんの覇気にたじろいでしまい、曖昧な笑みを浮かべる事しか出来なかった。
 そして五十鈴さんは「またね、叶架ちゃん」と私をギュッと強く抱きしめてから、私達が通ってきた姿見の前に移動する。牙琥も猫の様にするんっと彼女に寄り添い「またなぁ、玉陽の巫女」と、ニマッと上機嫌な笑みで別れを告げた。
「五十鈴や、京都本鏡連絡鏡へ繋いでおくれやす」
 五十鈴さんが淡々と鏡に語りかけると、鏡の中に波紋が広がった。
 さっき私の爪先を弾いた鏡は、進んで来る五十鈴さん達を受け入れ、ぶわんと鏡の向こうへ通していく。
 だが、彼女は突然ピタッと止まり、ほぼ向こうに消えかけていた体をこちらに戻してきた。
「叶架ちゃんにちょいとでも変な気ぃ起こしたら、許さんからな?」
「早く行って下さい」
 うんざり気味に底冷えした声で言い放つと、五十鈴さんはふんっと鼻を鳴らしてから、私の方に顔を向けた。打って変わった柔らかな笑みで「いつでも呼んでええからね?」と、軽やかなウィンクまでくれる。
 私が「はい」とややぎこちない笑みで答えると、鏡の向こうから「五十鈴ぅ、もう良いだろうよぉ」と、先に向こうへ渡った牙琥の呆れた声が彼女を呼び戻した。
 五十鈴さんはその声に「ええやろ、別に!」と怒声を張り上げ、鏡の向こうへと消えてしまった。今度は引き返してくる事もなく、完璧に。
 すると鏡はぶんっと表面に波紋を起こしてから、再び私達を映した。
 本当に不思議な光景。鏡と鏡でひょいと移動するなんて・・。
 何度も目を瞬かせながら、普通に戻った姿見を見つめていると。突然後ろから「やっと行った」と解放された喜びの様な、うんざりした呻きの様な声が零れた。
 私がくるっと振り返ると、清黒さんがはぁと頭をがっくりと落としてしゃがみ込み、見るからに与えられた疲労に押し潰されている。
「あの、大丈夫ですか?」
 靴を拾い上げがてらおずおずと尋ねると、彼は頭を落としたまま「ああ」と呻く様に答えた。
「あの人はいつもああなんだ。こっちの話をちっとも聞かない。それにすぐ喋りたがるし、すぐ人の話を遮るし、すぐ実力行使だし。本当に厄介な性格で、まるで嵐だ」
 嵐、か。うーん、確かにそうかも。五十鈴さんには失礼だけれど、清黒さんの言葉は否定出来ないかなぁ。
 だって、五十鈴さんが帰ってしまったら、急激に部屋が静かになった。いや、寂しくなったって言うべきかも。
 私が苦笑しながら「確かに、パワフルな方でしたね」と言うと、清黒さんは「アレはパワフルなんてもんじゃない」と苦々しく答えた。
 うーむ、これは相当五十鈴さんに翻弄されてきたんだろうなぁ・・。
 彼に対し、不憫な気持ちを抱いていると「おや?」と、柔らかながらも怪訝な声が後ろからした。
 パッと振り向くと、つい先程鏡に戻ったはずの鏡から桔梗さんが現れる。(いつ見ても艶麗だから、本当に見惚れちゃう)
「主様、何をそんな所でがっくりとなさっているのです?叶架お嬢様も、靴をお持ちになられたままではございませんか」
 桔梗さんの怪訝な指摘で、私は「すみません!」と慌てて玄関に置きに行こうとするが。桔梗さんが笑顔で「私が」と靴を颯爽と取り、玄関に置きに行ってくれた。
 桔梗さんが普通の人間だったら、きっと死ぬほどモテるだろうなぁ。割と大きなファンクラブとかも出来て、桔梗様って崇め奉られてそうだもん。会員の女子達がバチバチに牽制し合うけど、実は全員桔梗様の目に映る為に努力してたりなんだり・・。
 スマートで格好いい手腕に対して惚けた想像をしていると、桔梗さんが戻って来た。
 私は急いで気を引き締め直して「ありがとうございます」と礼を述べる。桔梗さんは「いいえ、これくらい構いませんよ。叶架お嬢様のお役に立てて何よりでございます」と嫌な顔せず、朗らかに答えてくれた。
 やっぱり何から何まで完璧だよ、この人、じゃなくて式神。こりゃあ、心をしっかりと強く持っていないと。私も禁断の恋に落ちそうだよ・・・。
 私は赤みが差しそうになる頬を手で隠す様に抑えながら、二人の会話に耳を傾ける。
「主様。五十鈴様は、いつお帰りになられたのですか?」
「ついさっきだよ。お前と入れ違いでな」
「あぁ、成程。それで、でしたか。ふふふ、相変わらず五十鈴様には敵いませんねぇ」
 ふふふと柔らかく微笑む桔梗さんに、清黒さんは「うるさい」と弱々しく一喝した。
「あの人が師匠でも叔母でもなかったら、俺はきっと」
「えっ?!叔母?!」
 私は素っ頓狂な声をあげて、苦々しく紡がれる言葉を思い切り遮ってしまう。
 前の二人は、唐突に張り上げられた大声のせいでビクッと体を小さく震わせた。
 そして大きく開かれた目をパチパチと二、三回瞬かせてから「言ってなかったか」と、清黒さんが話してくれる。
「海音寺は結婚してからの姓で、旧姓は清黒。俺の父の妹で、十二天将白虎を継ぐ歴代最強の女性だよ。折り紙付きの実力だが、奔放な性格をしているせいで色々と問題児扱いされる・・いや、アレは問題児だな」
「歴代最強?!五十鈴さん、そんなに凄い人だったんですか!」
 まぁ、でもあの五十鈴さんを見れば、その肩書きには普通に納得出来ると言うか、何と言うか・・。と、彼女の持つ肩書きに感嘆しながら独りごちた。
 すると清黒さんは渋面のまま「確かに凄い人ではある」と、重々しく首肯する。
「鏡番最強とも呼べる人だしな。悔しいが、まだまだ敵わないなとも思う。けどな、あの人の良さは強さ|《それ》だけだ。圧倒的にマイナスが多すぎる」
 自分勝手で横暴だし、面倒この上ない性格だし。と、苦々しい感情に帰結し、だらだらと愚痴を零し始める清黒さん。
 こんなにも根が深いのは、昔からずっと五十鈴さんに翻弄され続けているからなんだろうなぁ・・・。
・・・
 それからは綺麗なダイニングテーブルを囲み、桔梗さんが出してくれたチーズケーキと紅茶を頂きながら話を聞く事に。仕切り直しの様に、清黒さんは五十鈴さんの話の復習がてら補足説明も入れてくれた。
 人魂みたいな姿形で自我がない存在の妖魔。自我があり、化け物じみた異形の姿をしている憎魔。人型が讐だと言う事。(讐についてはあまり出てこないから、人型と言う事と、魁魔の中で一番強い種族だと言う事しか分かっていないらしい)そして朝にあったのが憎魔になりかけていた強い妖魔だった事など。
「それじゃあ次は、玉陽の巫女の事だな」
 聞き覚えのある単語に、私は「あ」と瞬時に反応する。
「牙琥がそう呼んでいました、私の事。ギョクヨウの巫女って」
「玉陽の巫女と言うのは呼称だ。どんな傷でも治す癒しの力と、魁魔を直接見るだけに留まらず、魁魔の世界に滞在出来る特殊な力を持つ者の事を俺達はそう呼んでいる」
 端的な説明に、私は「えっ!」と驚き、口を挟んだ。
「魁魔は普通見えないんですか?鏡番の人でも?!」
「あぁ。鏡番は特別な羽織を羽織る事で、奴等を可視化しているだけだ。羽織が無ければ、見えもしないから何も出来ない」
鏡番は特別な人間じゃないからな。と、清黒さんは淡々と付け足す。
「鏡番は奴等に対抗する為の力を運良く見出し、力を付けただけだ。後は、他の人間達と何ら変わらない。羽織もなしで見えるのは、この世で玉陽の巫女だけだ」
「じゃ、じゃあ魁魔の世界を行き来出来るって言うのは?鏡番の人達は鏡と鏡を使って移動出来るじゃないですか!」
 食い気味に質問を投げかけてしまうが、清黒さんも「出来ない」と食い気味に打ち返してきた。
「いや、出来るには出来るが。滞在時間が持って一分弱だからな、渡った所で何も出来ない。幾ら強かろうが、幾ら鏡番を長く務めていようが、それ以上は戦える体じゃなくなる。それほど向こうの世界が、人にとって厳しい世界と言う事だ。だから俺達鏡番は、出てくる時にしか対応が出来ないんだよ」
 清黒さんはティーカップを美しい所作で取り、一口紅茶を啜る。
「それ程に、玉陽の巫女が特別な存在と言う事だが。やはりそう言った存在は易々と生まれてこない。玉陽の巫女が生まれたと言う記録が残っているのは、わずか二人。君は恐らく三人目だとされる」
 長い時の中で、前に二人しか居ないと言う事に「それだけ?!」と驚いてしまうけれど。淡々と「一人は」と話を進められ、華麗に私の驚きはスルーされた。
 その時、私は「五十鈴さんの事、結構言ってたくせに。自分もじゃん」と内心で小さく毒づいた。(顔にそれを出す勇気はまだ持っていないから、内心でしか不満を出せないのだ)
「一人は初代玉陽の巫女として、当時の鏡番を支え、力や知恵を貸したと言われている。だが、二人目は讐に魅入られ人間界を捨て、戻って来なかった。讐に力を貸し、魁魔の為に癒しの力を使ったとされている。爾来、鏡番は玉陽の巫女があちらに渡らない様に魁魔よりも先に見つけ、必ず守ると決めた。持っている力をこちらではなく、あちらに使われると困るからな。だが、そうしようと動いているのは鏡番だけではない。魁魔も玉陽の巫女の力を狙っている。アイツ等にとっても、玉陽の力は必要だからな」
 君が玉陽だと分かれば、あの手この手で向こうに攫おうとするはずだ。とか何とか言葉を続けられるけれど。
 頭が段々とぼんやりしてきて、彼の真剣な言葉がきちんと脳内に響かなくなってきた。単語だけが、ふわっふわっと漂う様な感じに陥る。
 なんでそうなっているのかは、自分でもよく分からないけれど。多分、多分・・・。
「俺は、君を見つけられて、本当に幸運だったと思う」
 私は、そんな風に言われる人じゃないって思っているからだ。
 私はそんな大層な人じゃないよ。特別な力があって、皆が必死になって探し出す様な、そんな重要な役割を持った人間じゃない。
 私は至って普通の、ただの女子高生。大学受験が憂鬱で、嫌々ながらも勉強に励む普通の高校三年生。仲良しの友達と楽しく喋ったり、ふざけあったり、買ってきたお菓子を休み時間に分け合ったりする、普通の女子高生だよ。
「私じゃない」
 否定が口をついて飛び出していた。その声は、自分でもビックリする位らしくない。いつもの明るさが影に潜められていて、すごく刺々しい声だった。
 その声に、清黒さんもピタッと言葉を止める。彼の言葉がなくなると、脳内に並んでいた私の言葉が勝手につらつらと口の方に移動してきた。
「何かの間違いです、私、玉陽の巫女じゃありません。私は普通の、どこにでもいるただの女子高生です。容姿だって、中身だって、学力だって、運動能力だって、全てが平凡で。特別な事なんて何一つ持っていない、普通の人間ですよ」
「初代も二人目も、至って普通の人間だった。ただ違っていたのは、持っていた力だけ」
 君と同じ、どこにでも居る普通の人間だった。と、淡々と言葉を返される。
 けれど、こちらも頑として引かなかった。
「私は特別な力なんて持っていません!私に玉陽の巫女の力なんて、ありません!」
 力強く訴えると、目の前の彼から「無茶苦茶な反論だな」と呆れ混じりに突っ込まれる。
「まともに立てすらしなかった俺を治して、戦える体にしてくれただろ。まぁ、それについては一方的で申し訳なかったが。玉陽の巫女を学んだ時に、あれが全身の傷を治すに手っ取り早い方法と、学んでいたから・・」
 最後の方はごにょごにょとしたけれど、ズバズバと事実を突きつけられてしまう。
 あっという間に完全敗北が眼前に迫り、のっぴきならない状態に追い込まれてしまった。
 私はテーブルの下で拳を堅く作り、唇を軽く噛みしめてから「私・・」と弱々しく言葉を紡ぎ出す。
「私、今までずっと普通の生活をしていたんですよ?今日初めて巻き込まれて、生まれて初めて妖魔を見たんですよ?十八年生きていて、初めての出来事だったんです。特別な力が備わっている人間なら、生まれた時とか、幼少の頃にすでに巻き込まれているはずです・・」
「今まで巻き込まれていない訳は色々と考えられる。一番に考えられる理由は、君が妖魔達を認識する前に鏡の前から立ち去っていると言う事だな」
 弱々しい反論までも、にべもなく打ち落とされてしまった。
 これ以上の反論は何も思いつかないし、思いついたとしても彼の言葉を覆らせ、白旗を揚げさせるまでにはならないだろう。どんな言葉もピシャリと封じられてしまうに違いなかった。
 何とも呆気ない勝敗の付き方。
 けれど、まだ瞳だけが「認めたくない」と左右に揺れ動いていた。
 すると突然、彼の口から「別に良い」と思いがけない言葉が飛び出す。
「自分がそうだと認めたくないのであれば、別に認めなくても良い」
「・・・えっ」
 思いも寄らなかった言葉をかけられ、私は目を丸くする。冗談で言っているのかと思えば、彼は本気で言っている様だった。真剣な表情で「こっちも、そうだと認めろと迫っている訳じゃないからな」と言葉を続ける。
「知って欲しいだけだ。だから君はこの世界の事情を頭の片隅に入れておいてくれたら、それで良いよ」
 ぽかんと呆気に取られてしまう、とはまさにこの事だ。
 だが、彼は「と言う事で、話は以上だ」と、淡々と言い、腰をあげて空いたお皿とティーカップをキッチンに下げに行った。「主様、私がやりますよ」と、慌てて言う桔梗さんを目で制して。
 シンクに食器を置き、ジャーッと水を軽く流してから、清黒さんはこちらに戻って来た。
「桔梗、アレを持ってこい」
 端的な命令だが、桔梗さんはすぐに「畏まりました」と恭しく答え、リビングを後にする。
 清黒さんは出て行く桔梗さんの姿を一瞥してから、私の方に向き直った。
「放課後の貴重な時間を割かせて申し訳なかった。君には色々と礼と謝罪が重なる」
 呆然としている頭では、トントンと進むこの状況に追いつかない。
 それだから「え、あぁ・・いえいえ、そんなそんな・・」と、たどたどしい言葉でしか答えられなかった。
「本当に色々とありがとう」
 彼が口元を優しく綻ばせ、礼を述べた瞬間。桔梗さんが見計らっていた様な良いタイミングで戻ってくる。その手には、ブレスレットが乗せられていた。細かい繋ぎ目のチェーン型で、可愛らしいピンクゴールドの色。
「大した物ではございませんが。こちらをお礼の品として、叶架お嬢様にと」
 桔梗さんが柔らかな笑みを称えたまま、そのブレスレットが乗った両手を私の方にずいと差し出す。よく見れば、そのブレスレットには、桔梗の花が象られたチャームがプランと付けられていた。
 見るからに割に合わない謝礼品を前に、私は「えっ、いや!大した事もしてないのに、こんな素敵な物は頂けません!」と、直ぐさま首と手をぶんぶんと横に振る。
「そう仰らずに。私共は、叶架お嬢様にこれを受け取って頂きたいのです」
 と、桔梗さんは上目遣いを駆使した弱った笑みで訴えて来た。
 そんな顔で訴えられると、ついつい首を縦に振ってしまいそうになるけれど。私はぐらりと桔梗さんに揺らぐ自分を理性でスパァンッと張り倒した。
「あ、ありがたいのですが。本当にこんな素敵で、充分過ぎるものは頂けません」
 お礼なら紅茶とケーキで頂いていますから、とニコリと口元を綻ばせる。
 うう、よく負けなかったよ。よく頑張ったよ、私・・・。
 コロリと落ちそうだった彼の魅惑に、何とか勝った自分をよしよしと内心で褒める。
 すると次なる挑戦者が戦場に現れた。桔梗さんよりも手強そうなカードを持っていそうな清黒さんが「貰ってくれ」と、私と対峙する。
「君がこれを貰ってくれないと困るから、本当に黙って受け取ってくれ。申し訳ないが、好みじゃなかったとしても貰ってくれ。付けてくれていないどころか、貰われてもいないとなると。俺達が師匠に殺される」
 急に鬼気迫った声で訴えてくるから、「どうしてそこまで?」と不思議に思っていたけれど。最後の一言が全てを物語り、私は「あ、成程」と納得してしまった。
 これは貰わなかったら、清黒さん達がとんでもない事になりそうだ・・。
 二人が背負っている、恐ろしく冷ややかな圧を感じ取りながら「すみません、じゃあ」と、桔梗さんからブレスレットを申し訳なく受け取る。
「師匠が作った物だから、なるべく付けておいて欲しい。付けるのが難しい時でも、側に置くなり、近くに持っておくなりして欲しい」
「えっ、これ五十鈴さんが作ったんですか?!」
 五十鈴さんのハンドメイドと言う衝撃で、後半に続いた言葉があまり耳に入らなかった。
 すごい器用だなぁ、五十鈴さん。普通、こういうのってお店でしか買えないイメージだけど。お店で買う物と遜色ない感じする。
 私は早速ブレスレットを自分の手首に合う様に付けた。付け心地が良くて、手首に添う様なブレスレットだから、邪魔だなぁって感じない。
 んー、本当に良い物を貰っちゃったなぁ。
「ありがとうございます。五十鈴さんにもこんな素敵な物をありがとうございますって、伝えて下さい。とっても可愛くて気に入りました」
「あぁ、言っておく」
 清黒さんは端的に言うと「じゃあ、神森さん。またどこかで会えば」と、締めくくった。
「はい、また。今日は色々とありがとうございました」
 ペコリと頭を下げて礼を述べ、私は帰り支度を整える。
 そして帰り支度が整うと、送って来いと清黒さんから命を受けた桔梗さんと共に姿見を通った。姿見を通り抜けると、そこは私の家の玄関だった。
 うーん、やっぱりこの移動には慣れないなぁ・・。
「自転車の方は、すでにお外の方にありますのでご安心を。鍵も付けてありますよ。では、叶架お嬢様。本日は誠にありがとうございました。またお会いしましょうね」
 柔らかな微笑みを浮かべてから、桔梗さんはスーッと戻って行った。
 艶麗な彼の後ろ姿を見送る様に、私はしばし姿見の前に佇む。
 なんか・・今日は色々な事があったなぁ。
 国宝級イケメン二人(なんと片方はミミズクにもなれちゃう)、恐ろしい妖魔、鏡を繋げた移動、五十鈴さんと牙琥のコンビ、魁魔が生きている世界、魁魔と戦っている鏡番、玉陽の巫女。
 知らなかった世界が一気にドンと乗り込んできて、私の世界の形を変えた気がする。
 無理にその世界を受け入れる事はしなくて良いと言われたけれど。本当は、ちゃんと受け入れなくちゃダメなんじゃないかって少し思うんだよね・・。
 矛盾している自分の存在をふと感じると、途端に私は「私」が見えなくなった気がした。
 受け入れたくないと拒絶しているのに、受け入れるようとする気持ちがあるなんて。一体、自分はどうしたいんだろう。
 分からない、自分なのに自分が分からない。
 私はキュッと唇を軽く噛みしめ、俯いて足下をジッと見つめる。
 ううん、きっと「私」はずっと見えている。ただ私がそれを直視しないで、見えていない振りをしているだけだ。
 姿見の中に居る自分と恐る恐る目を合わすと、鏡の中の自分はジッと全てを見透かす様に、まっすぐ私を見つめていた。
 あぁ、やっぱりまだダメ。私はその世界を受け入れたくない。まだ、まだ私は「この世界」に居たいよ・・・。
 カツンと小さく甲高い音を立たせて、錫色の世界を生きている自分と指先を合わす。
 私達の指先は重なるけれど、お互いの世界に干渉は出来なかった。
・・・
 今日も今日とて寝坊をかまし、いつもの慌ただしさで家を飛び出して、自転車でシャーッと通学路を進んでいる私。
 いやぁ、本当に朝は弱いんだよね。偶には余裕を持ちたいんだけど、これがなかなか出来ないんだよなぁ。ま、学校にはギリ間に合っているから良いんだけどさ。
 シャーッと滑る様に校門を抜け、いつもの駐輪スペースに自転車を止めると「あ!叶架!」と、少し離れた横から、聞き慣れた声が私を呼び止めた。
 パッと横を見ると、朝練終わりの凛が小走りでやってくる。凜の所属する女子サッカー部の朝練は相当キツいはずなのに、疲れが微塵も見えない笑顔だ。
「おはよー、凜。今日も朝から大変だねぇ」
 凜を労って迎えると、凜は満面の笑みで「ねぇ、友花から聞いたよぉ!」と、唐突に話を突っ込んでくる。「おはよう」を返す事を忘れてしまう程の興奮振りだ。
「二人きりでイケメンと帰ったって!どうだったん?!てか知り合いなら、私にも紹介してよ!連絡先交換したいんだけど!」
 矢継ぎ早に飛んで来る言葉に、私は「別に何もなかったよ」と苦笑交じりに答える。
「だから紹介も何も出来ません。昨日の一回だけ、特別だったの」
 残念でした、とニッと口角の端をあげると。すぐに凜は「えぇぇ」と全身で残念がった。
「あぁぁ、ウチも見たかったなぁ!二人だけずるいよ、至近距離で国宝級イケメンの尊顔を拝んでさぁ!部活なんて入らなきゃ良かったよぉ!」
「凜って、本当にイケメン好きだよね」
「そりゃあ眼福だし、癒しだし、イケメンはこの世で至高の存在だからね。だから心底悔しいわ。見られなかった事もそうだけどね?お近づきになるチャンスが消えた事が最高に悔しいのよ!叶架が連絡先を知らなかったから!」
 うわぁ。これ、清黒さんの連絡先知っていたら、絶対もっとやばかっただろうなぁ。
 凜のイケメン好きに苦笑していると、凜は「はぁぁ」と長いため息を吐き出した。
 そこからはずっと凜が「会いたかった」とか嘆くばかりで、私は苦笑しっぱなし。校舎内に入っても、途中の女子トイレに寄っても、凜の嘆きは流暢に流れ、途切れる事が無かった。
「それでね?待っている様子がアップされて、万バズくらいしてたんよ」
「えっ?!万バズ?それはヤバ過ぎ・・・」
 芸能人レベルのバズり方に引いていると、凜は「ところが!」と言葉に続ける。
「アップしてた投稿が悉くバンされて、全て削除されたの!結構、このイケメン誰?みたいな感じになったんだけど。答えに辿り着く前に全消しされて、誰も答えを知らずに終わっちゃったの!保存して拡散した子達も、何故だか全部消えちゃってたの!こんなん絶対ファンクラブがあって、その人達が通報してたとしか思えなくない?!」
「まぁ確かに、ファンクラブがありそうな人ではあったけど。なんでバンされてたん?」
「さぁ?全部盗撮だったからじゃない?」
 鏡の前で髪を丁寧に整えながら答える凜に、私は横で待ちながら「成程ねぇ」と頷いた。
「あーあ、本当に会いたかったなぁ。マジで叶架が羨ましすぎぃ」「マジでないよねぇ」
 ・・・あれ?今、凜の声に誰か重なった?
 私は「ん?」と首を傾げ、眉を顰めるが。凜は「会いたかったなぁ。昨日部活があったのマジで恨むわぁ」と、平然と話を続けている。それに、今は誰かの声も重ならなかった。
 やっぱり私の気のせい、か。きっと昨日の話のせいで、変にびくついちゃってるんだな。
 私は怪訝な表情をすぐに壊し「女子サッカー部は大変だからねぇ」と、突っ込んだ。
「ほんとそれな、勘弁して欲しいよ」
 凜が苦々しく答えた刹那、私達のクラスで一軍女子と括られる可愛い四人組がふざけ合いながら女子トイレに入って来た。すでにバチバチに決められているのに、手には化粧ポーチがしっかりと握られている。
 そして私を見つけるや否やで「叶架ちゃん、昨日のイケメン誰?!」と凜と同じ、いや、凜以上の激しさで突っ込んで来た。
「どういう関係なの?!」「あの人、フリー?!彼女いない?!」「今日も来たりするの?!」「ね、連絡先教えてよ!繋がりたい!」
 目を爛々とぎらつかせながらの猛攻に、私は圧倒されてしまう。
 それでも何とか「あぁ、えっと」と、言葉を吐き出すが。そんな弱々しい声が、のぼせ上がった彼女達の耳に届く訳が無かった。
 自分達の輪に私を入れながらも「ほんと格好良かったよね、あの人!」と、私を爪弾いて、キャアキャアとはしゃぎ出す。
「あの人にさぁ、話かけたんだけどぉ。名前すら教えてくれなかったのぉ!泣けたけど、めちゃくちゃクールでやばくなぁい?!」「やばい、やばい!それはめちゃくちゃ格好良すぎ!」「あんな人が学校に居たら、絶対狙うよね?!浮気とかしなさそうだもん!」「えー、でもあの人さぁ、告白とか聞く前に拒絶しそうな感じしなぁい?」「マジで最悪だよねぇ」
 ・・・待って、今。声が、増えなかった?今、この四人とは違う声が聞こえなかった?
 口々に言い合っている彼女らを放って、私は耳を研ぎ澄ます。
 だが、異変は音よりも先に、視覚に現れた。
 洗面台の鏡から、黒いモヤの様な物が幾つも出始めているのだ。
 そしてそのモヤから「マジ最悪よねぇ」「アイツ、キモすぎ」「セクハラで訴えてやろぉ」「あの女、マジでむかつくぅ」など、女子達がここで吐き出した愚痴ばかりが、変に高くて嫌な声で吐き出されている。
 まさか、これが妖魔・・!?
 私は慄然としてしまうが。他の子達は、誰一人として異変に気がつかず、熱を上げ続けている。凜も四人に加わり、イケメン談義に花を咲かせていた。そんな彼女達に呼応する様にして、妖魔はどんどんと溢れ出している。
 と、取り敢えずここから出ないと。これ以上の妖魔が出てきちゃうかもしれない!そうなったら、皆が危ない・・!
 私は「ねぇ、もう時間やばくない?!」と声を張り上げ、話を中断させる。些か唐突で強引だとは思ったけれど、そこに突っ込む隙を与えない様に口早に言葉を続けた。
「ホームルーム終わりに、その人の話してあげるから!もう行こ!」
 ほらほらっ!と凜の背中を押すと、凜は「分かったから、押さないでよぉ」と笑いながら出て行こうとしてくれる。来たばかりの四人組も、話の旨味に吊り上げられて「そだね」「約束だよ?!」と、パタパタとトイレを出て行った。
 そして最後に私が出ようとした、刹那
「玉ぅぅ陽ぉぉ?」
 私は思わず足を止め、鏡の前で立ち止まってしまう。
 すると愚痴をだらだらと言い続けていたはずの会話が、どんどんと「あれぇ?」「玉陽だよぉ」「違うよぉ」「違うかぁ」「あれだよぉ」と、まるで子供達が考えあぐねている様な会話になり始めた。
 その時、私の頭の中で清黒さんの淡々とした声が響く。
「魁魔も玉陽の巫女の力を狙っている」
 まさか・・・私を?なんで?どうして知っているの・・・?
 ツーッと背筋に冷たいものが滑り落ちた。ぞくりと冷たい恐怖が、蛇の様に足下から指先からスルスルと這ってくる。
 そして思い知らされた、私は紛れもない「玉陽の巫女」なのだと。
 唇をキュッと固く結び直してから、立ち止まっていた足を前に動かした。恐怖を振り払う様に飛び出し、洗面台の鏡から逃げ出す。
 だが、その時だった。ガシッと右肘を誰かに掴まれる。えっ?と目をその方に落とすと、赤い肌をした人の手が、入り口の姿見から飛び出して私の肘を掴んでいた。
 ぶわっと焦りと恐怖が生まれると同時に、ぐいっと姿見の方へ力強く引っ張られてしまう。その強い力に抗う事が出来ず、私の体は簡単にがくんっと右に傾いた。
 嫌だ、辞めて!辞めて!離して!離して!
 頭の中では叫声があがったのに、ピッタリと声帯が喉に張り付いていた。
 恐怖に絡め取られているせいか、それとも唐突な出来事のせいか。はたまた、何か別の理由があるのか。どれが要因なのかは分からないけど、声が全く出せない事だけは確かだった。
 声が出ないと、気持ちばかりが前のめりにもがくが。体は何も変わらず、最悪を進み続けている。ドンドンと右横に傾き、掴まれている部分が完璧に鏡の向こうへと消えた。
 辞めて!助けて!凜!凜、戻って来て!助けて!助けて!
 誰にも聞こえない声を必死に張り上げ、必死で助けを求める。
 そして遂に、右半身がとぷんと鏡の向こうへ消えてしまった。
 お願い!誰か、私の声を聞いて!助けて!・・・助けて、清黒さん!
 歯止めが利かない最悪に、せめてもの抗いとして私はギュッと目を瞑り、歯を食いしばった。
 その瞬間、シュッと何かが風を切る様に顔の前を駆ける。
 そして一拍遅れて鋭い風を感じると同時に、私の右肘を掴んでいた力がフッと消えた。そうかと思えば、今度はぐいっと左側から力強く引っ張られる。とても優しくて、温かな手で。
「大丈夫か?」
 温かくて、柔らかい声が上から降って来ると、私はその声に導かれる様に顔を上げた。
 見上げた先にあった顔に、じぃんと温かな刺激で胸がつかえ、視界が滲んでしまう。広がっていく安堵が零れない様に、私はグッと奥歯を噛みしめてから、その人の名前を呼んだ。
「清黒さん」
 蚊の鳴く様な声で呼んでしまったが、彼はしっかりと私の声を受け止め「あぁ」と柔らかく微笑む。
「間一髪だったな」
「えぇ、本当に。ご無事で何よりでございました、叶架お嬢様」
 清黒さんの半歩後ろで控えている桔梗さんも、無事を喜ぶ様に柔らかな微笑を向けてくれた。
 私の無事を心から安堵していると分かる二人の温かな声に、じんと刺激が強まり、堪えていた物が溢れそうになる。
 けれど「ダメ、今は泣くところじゃない」と自分を厳しく律して、二人にしっかりと頭を下げる。
「あ、ありがとうございます。本当に助かりました」
「頭を上げてくれ、礼を言う程の事じゃない」
 ぶっきらぼうな言葉に「でも」と反論を口にしかけながら頭をあげると、彼が私よりも先に「本当に良いんだ」と言った。
「鏡番として、当然の事をしたまでだからな」
 清黒さんが淡々と告げると同時に、なんと凜が「叶架―?大丈夫―?」と覗きに来る。
 その時、理性も感情も何もかもがいつもの自分にカチッとシフトチェンジした。これはこれで、とてもマズい事が起こると気がついてしまったから。
 件のイケメンが目の前に居るとなると、凜が絶対発狂しちゃう!清黒さんにとっては、それはかなり嫌な事のはず。あぁ、やばい、どうしよう!
「り、凜。あ、あのね」
 しどろもどろに弁明を紡ぎ出すが、その前に凜が「何?どしたん?」と怪訝に顔を歪めた。
「皆、先に行って叶架を待ってるんだけど」
 あれ?彼等が視線の先にいると言うのに、突っ込まないなんてどういう事・・?
 狼狽し、動揺が表に現れそうになるが。後ろから囁かれる様に「彼女に俺達の姿は見えていない」と告げられた。
「だからこちらを振り返らず、彼女とそのまま行ってくれ。俺達ももう行くから」
 その声に従う様に、私は自分の中から困惑と動揺を外に追い出し、凜に「ごめん、なんでもなかった。私の気のせい」と笑顔を見せる。
 凜はその答えで、顔を綻ばせ「じゃ、早く行こ!」と促した。
「早くあのイケメンさんの話聞きたいし!」
「うん、待たせてごめんね」
 いつもの様に朗らかに答え、私は凜の元にパッと駆ける。助けてくれた彼等を振り返らず、そのまま私は元の世界に戻って行った。
 それからは、私が妖魔やあの赤い手を見る事はなかった。きっと清黒さん達鏡番のおかげだろう。
 だから平穏無事に時が流れ、一日が終わっていったのだ。
 あ、やっぱり平穏って言うのはちょっと違うかも。だって、女子達からの清黒さんについての質問攻めが凄まじかったから。休み時間の度に突っ込まれるし、他クラスの子からも聞かれるし、もうかなり大変だった。たった数十分で清黒さんが虜にした膨大な数が窺い知れたよ、本当に。
 でも、「ごめんね、私も名前だけしか知らないの。あの一回が特別で、もう会える機会もないんだ」と答えると、「えー」と不満げな声をあげながらも、皆引いてくれたのは救いだったかなぁ。