ガランガランッ、ガランガランッ
鈴が暴走している様な喧しい音が鳴り響き、一気に夢の世界が引き裂かれた。
私はその音にキュッと眉根を寄せながら、未だにガランガランッとけたたましく鳴り続けているスマホに手を伸ばし、ピッと止める。やかましいと一喝したくなる程鳴り響いていたと言うのに、止めた瞬間スンッと大人しくなった。
枕に顔をぐりぐりと擦りつけ、うーんと布団の中で体を丸める。
そうしてから穏やかになったスマホを睨むと、ディスプレイに表示されている時間は、予定の起床時間を十分以上も過ぎていた。時刻が表示されている下では、時間が一秒ごと淡々と減るカウントダウンと、スヌーズを止めると言う残酷なボタンが現れている。
さーっと血の気が失せると共に、このマズい状況をようやく理解した。まどろんでいた世界からめざましく覚醒し、バッと跳ね起きる。
「やっばっ!」
弾丸の如く部屋を飛び出し、急いで朝の支度を始めた。トイレを済ませてから、すぐ洗面所に駆け込む。先に洗面器を使い、髪を丁寧にセットしていた五歳上の姉・律華《りっか》を押しのけて、バシャバシャと顔を洗った。
「ちょっと叶架《きょうか》!そんなにバシャバシャやらないでよ!」
露骨に眉を顰め、私に小言をぶつけるが。律華ねぇの言葉なんて、全く耳に入っていない。それくらい私は時間に追い立てられていた。
「ごめ、許して!」
ボタボタッと水が滴る顔のまま謝り、横に置いてあったタオルで乱雑に顔を拭い「次!」と、言う様に部屋に駆け戻る。
すぽぽーんっとパジャマを脱ぎ捨て、壁に掛けてあった制服に手を伸ばし、慣れた手つきでパパパッと制服に着替えていく。
パチッとリボンを止めてから、机の前にドカッと座った。左手で机の上に置いてある鏡を引き寄せながら、空いた右手で棚の中にしまっているブラシを取る。
ブラシを引き出すと、すぐにサーッサーッと梳いていく。猫っ毛のせいで、髪がこごり、ブラシの勢いがガクンッと止まる所もあったが。そのままグッと下に引っ張り、強引に梳かしていった。ブチブチッと耳元で嫌な音が弾け、地肌がズキズキと痛んだけれど。そんなのお構いなし!
そうして大雑把ながらも身支度を済ませ、タイマーを止める様にパッと壁に掛けてある時計に目を向けた。時刻は八時。なんと、丁度家を出る時間だ。
「ギリギリッ!」
ふうと手の甲で額の汗を拭う振りをしてから、リュックを引っ掴む。教科書や参考書、現役女子高生として必要な諸々が入っている重たいリュックを背負い、階段を滑る様に駆け下りた。
「いってきまーす!」
最後の一段を飛び、ドスンッと言う着地と共に声を張り上げる。
すると「叶架!」と鋭い声がリビングの方から飛び、そのまま玄関を飛び出そうとしていた私の足をギクリと止めた。
「アンタ、朝ご飯はどうすんの?!食べないの?!」
姿を見せぬまま怒声だけ張り上げる母に、私は「今日は良いー!」と声を張り上げて返す。
「お腹空くわよ!そんなんじゃ、一日持たないよ!少しでも良いから、何か食べてから行きなさい!」
「へーきー!」
ローファーを履き、サッと自転車の鍵を掴んで答えると、リビングの方から「全くもう!」と、母が憤懣としている声が聞こえた。
それを「まぁまぁ」と宥める安穏な父の声と、「授業の合間とかで、友達と菓子食ったりするから大丈夫だろ」と、私のフォローを入れてくれている律華と双子の兄・迦那人《かなと》の声がした。
妹の事を理解しているありがたいフォロー!流石、迦那人にぃ!
「全く!もっと早く起きれば良いのよ!何の為に、あんなガランガランとうるさい音を何度も鳴らしているのかしら!」
私は兄に感謝の念を、母には謝罪を心の中で送ってから、止めていた足を前に動かした。
玄関を飛び出すと、自転車のチェーンロックの鍵穴に鍵を差し込み、ガシャンッと音を立てて解錠させる。ガツッと錆び始めたスタンドを蹴り上げ、サドルに跨がった。トントンと地面を何回か蹴って前進させてから、すーっと緩やかに動き始めた自転車に勢いを乗せる様にペダルをぐいっと踏み込む。
家の敷地を勢いよくシャーッと飛び出し、滑らかに道路へ出て行った。
外は初夏らしい暑さで、照り輝く太陽の光が袖から覗いている肌をジリジリと焼いている。風が体をさーっと突き抜ける様に吹いた。その風のおかげで、蒸し蒸しとした暑さが少しだけ軽減される。
少し前までは、麗らかな春の陽気だったのに。夏と言う苦手な季節が、訪れつつある様だ。
はぁ、あっという間にこの初夏も猛暑に変わっちゃうんだろうなぁ。私は本当に暑いのがダメだから。もう少し、程良い季節でいてもらいたいんだけどなぁ。
私はじんわりと体表に現れる汗を感じながら、ぐいぐいとペダルを漕ぎ、喧噪の中を進んで行く。
ゾロゾロと集団で登校し、楽しそうに会話を弾ませながら歩いている小学生。バタバタと忙しそうにゴミを捨てに来るお母さんと、その少し離れた所から「ママ早くぅ!かなちゃんに会えなくなっちゃうよぉ!」と急かしている幼稚園生。私と同じ様に自転車を漕ぎ、急ぎ足で会社に向かっているサラリーマン。部活の道具を肩に掛け、だらだらと歩きながら学校に向かっている男子高校生。参考書を読みながらせかせかと歩いている女子大学生など。
それぞれいつもの朝を過ごし、それぞれの目的地に向かっている。
私もその例に漏れず、いつも通り自転車を漕いで、ちょっとした丘の上にある学校に向かっていた。
通学路には坂が大分多いから、かなりしんどい。帰りは下り坂になるからいいものの、行きの上り坂はかなり地獄だ。母からは「体力が付いて良いじゃない」と言われ、律華ねぇからは「ダイエットになるわよ」とか好き勝手言われるが。この三年間、そんな事を思った事は一度もない。朝から体力を大幅に削られるだけの重労働としか思っていない。しんどい、ただその一言に尽きる。
まぁでも、私はその重労働に対して文句を付ける立場にないのよね。自分がそれらを加味して考えて、今の学校を選び、進んだのだから。
私は「でも、やっぱり不満の一つや二つは零したくなるんだよねぇ」と苦々しく独りごちてから、不満を力に変える様にぐいと力強くペダルを踏み込んだ。推進力が大きく働き、ぐんっと自転車が前に進んで行く。
そうしてようやく、大きく分けて一つ目の坂を登り切った。漕ぐのを辞め、ふうと軽く一息つく。次の難所である登り坂に耐える為に。
よし!と気合いを入れ直す様にリュックを背負い直し、ペダルに片足を乗せた刹那。
「誰か!誰か、お助け下さいませ!」
必死に助けを求めている誰かの声がした。心地良い低めな声音だけれど、とても切羽詰まった声だ。
私はその声にハッとし、周囲を見渡すが。その声の主らしい人は、どこにもいなかった。声がしっかりと聞こえるから、すぐに分かると思ったけれど。必死で助けを求めている人はいないし、周りも平然としている。
あれ?気のせい・・かな?
怪訝に思ったけれど。周囲の日常が変わらないから、私の聞き間違いだと止めていた足を動かし、ペダルを軽く漕いだ。
「誰か!誰かお助けを!誰か!聞こえておりませんか!誰か!誰か!」
キキッと急ブレーキをかけ、再び聞こえた同じ声に立ち止まる。
やっぱりこれ、聞き間違いじゃないよね。
首を回し、自分の周囲を三百六十度見渡してみる。先程よりも丁寧に、じっくりと。
けれどやっぱり、声の主らしい人はどこにも居ない。それどころか、先程よりも丁寧に見渡しているおかげで、怪訝に思って足を止めている人が自分しか居ない事に気がついた。
一体、どういう事?皆、聞こえていないの?こんなに切羽詰まった声なのに。私だけにしか聞こえていないの?
顔を怪訝に歪め、頭上にクエスチョンマークが一列にずらりと並ぶ。
「そ、そこのお嬢様!私の声が聞こえておられるのですね?!」
なんと突然、切羽詰まった声が助けを求める声から、確認の声に変わった。
「制服を纏っていらして、水色の自転車に乗られている、そこのお嬢様!ふわふわで茶髪の、黒地で水色の柄が入ったリュックサックを背負っていらっしゃる貴女様です!」
制服、水色の自転車、ふわふわの茶髪、黒地で水色の柄が入ったリュックサック。切羽詰まった声が並べる特徴が、次々と私に当てはまった。
私の事がよく見えている範囲に居ると分かると、更に必死でキョロキョロと辺りを見渡すが。誰もあたふたとしておらず、声の主らしい人はどこにも居ない。
いよいよ不気味さに拍車がかかり、ここは早く去った方が良いかもしれないと思い始めた。
助けを求めている人に対し、不気味さを覚えるのも失礼な話だけれど。本当に怖いから仕方ない。
それに遅刻しちゃうかもだしね、うん、早く行こう。
心の中で口早に言葉を並べ、ペダルを漕ごうと決意した刹那。バッとフクロウが私の前に降り立ってきた。
あまり鳥類に詳しくないから分からないけれど。大きくて、長老みたいな面構えをしている。それに怪我をしているせいなのか、急いでいるせいなのか。何が要因となっているのかは断定出来ないけれど、美しい羽毛はあちこちにとっちらかっていた。
私は思わず、と言うか、必然的に「わっ!」と声を上げて驚いてしまう。
「あぁ、お嬢様!やはり私の姿が見えるのですね!」
先程からずっと聞こえていた不気味な声が、しっかりとフクロウから発せられた。
「?!フッ、フッ、フッ!!」
「ミミズクが喋ったとか、今はどうでもようございます!とにかく、こちらにいらして下さいませ!お早く!」
ピシャリと冷淡に突っ込まれ、私の驚き《ことば》が先回りして封じられる。ええと困惑するも、ミミズク(フクロウじゃなかった)は「早くこちらに!」と、先導する様に飛びあがってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
声を上げて止めようとするも、にべもなく「こちらにお早く!」と、打ち返される。
私は逡巡したが「あー、もう!」と声を小さくあげてから、ミミズクが待ち構えている方に自転車を向け、ぐいとペダルを踏み込んだ。
学校には後で連絡しよう。今回ばかりは遅刻したって仕方ない。だって、助けてと切羽詰まって頼み込まれたのだから。
それを無下にするなんて、私には出来ないもの。
・・・
ミミズクに付いていくと、学校からドンドンと離れ、住宅街が立ち並ぶ路地まで走らされた。爆走しているコースが学校からだと逆走に当たるので、ちらほらと同じ学校の制服に身を纏った子達とすれ違う。その度に、怪訝やら好奇やらの視線に射抜かれた。
人助けに向かっているはずなのに、平然と学校をサボる不良少女みたいな構図で辛い。
違いますからね、皆さん。私、人助けに向かっているんです!堂々とサボってる訳じゃないですから!
「お嬢様、こちらに!」
横からの急アナウンスにハッと我に帰り、急いでハンドルをキュッと右に曲げる。キキッとドリフトをしてから、シャーッと細い路地に入った。
家々が並ぶもののお互いに背を向け、喧嘩している様な所だ。燦々とした太陽の光も差し込まず、家の影に覆い尽くされているせいで余計に陰鬱さに磨きがかかっている。
そんな寂しくて虚しい所で、なんと青年が行き倒れていた。
見た事が無い、珍しい黒色の羽織を着ている事。伸ばされた手の近くで日本刀が転がっている事。それくらいしか特徴が掴めなかった。顔を見ようにも、髪がカーテンの様に覆われているせいで分からない。
けれど、彼はピクリとも動かなくて「これはただ事ではない」と、一目見てすぐに分かった。
「主様!主様!」
ミミズクがバッと急いで彼の顔の横に降り立つ。
私もミミズクに追随する様に「大丈夫ですか?!」と自転車から急いで降り、彼に駆け寄った。スタンドもかける事を忘れた自転車は、私が離れた事でバランスを崩し、ガッシャーンと荒々しい音を立てて倒れる。
でも、今の私には自転車を慮る余裕なんてなかった。切羽詰まった声で、行き倒れている彼に投げかける。
「大丈夫ですか?!私の声、聞こえますか?!大丈夫ですか?!」
すると私の声に応える様に、彼の手と顔がピクッと動いた。カーテンの様な黒髪もハラハラと流れ落ち、彼の顔を露わにさせる。
現れた顔は、かなりのイケメンだった。それは芸能人レベル、いや、それ以上かもしれない。キリッとクールな顔立ちで、纏っている雰囲気がダウナー系だ。
かなりのイケメンを見つけてしまい、キャアキャアと女子らしく舞い上がる。それが彼を見た時の普通の反応だろう。
でも、私はそうならなかった。顔のあちこちに擦り傷や切り傷があり、口から血を流す程の大怪我を負っていたから。よく見れば、時間が経って朱殷色になった血が羽織から滲んでいた。
こんな大怪我、ただ事じゃない。えっと、まずはどうしたら良いんだろ。あ、応急処置をしないと。え、違う、救急車を呼ぶ事が先?!
待って、待って。ここは落ち着いて、的確な手順を思い出さないと。この人を早く助けないといけないんだから。
彼の大怪我によって、頭が真っ白になり、授業で習った応急処置の流れが一つも思い出せない。パニックを鎮めようと必死に自分を宥めるけれど、ちっとも冷静に戻れなかった。
大怪我している彼の前であわあわするも、取り敢えず背負っているリュックを下ろして「何か止血出来る物は」と、探し出す。
すると彼が「桔梗」と呻く様に呟き、ミミズクが「はい」と焦りながら答えた。どうやら桔梗と言うのが、ミミズクの名前らしい。
「どう言う、事、だ」
苦しみに顔を歪めながら尋ねると、ミミズクが口早に答える。
「主様!どういう訳か、このお嬢様は私共の姿が見えるのです!ですから、助けとして」
「馬鹿か」
ミミズクの言葉を遮ったばかりか、吐き捨てる様にして冷淡に一喝した。
ミミズクは心底心配していると言うのに。必死になって助けを求めていたと言うのに。
馬鹿って何?それは酷すぎじゃないの?
大怪我をしていると言う事も忘れて、ついカチンッと来てしまうが。冷めた目がこちらに向いた事で、その苛立ちは瞬く間に怯み、ひゅるひゅると小さくなる。
「・・・早く逃げろ。ヤツが来る」
端的な一言に「はっ?」と呆れの様な驚きの様な、何とも言えない一言が飛び出してしまった。
「どう言う事ですか?ヤツ?」
キュッと眉を顰めた刹那、グオオオオッと禍々しい咆哮が聞こえ、私の体は一気に凍りつく。
「何、今の」
総毛立ちながら小さく呟くと。目の前の彼が呻きながら刀に手を伸ばし、体を動かした。全身の力を余す事なくかき集め、無謀にも一人で立ち上がろうとしている。
「待って、動いちゃダメです!」
無謀に走る彼を止めようと、傷だらけの手に触れた刹那。ぶわっと何かが彼の体に入り込んだ様な気がした。
うまく言葉に出来ないけれど。何かが私から送り込まれた様な、何かが彼の体の中を一掃している様な?
初めての感覚に、私自身も分からなくてきょとんと困惑していると。彼の目が大きく見開かれ、ハッとした表情で見据えられる。
「君・・まさか」
囁く様に呟かれ、ミミズクも興奮気味で「主様、もしやこのお嬢様は!」と訴えている。
二人して驚愕を露わにされるけれど。こっちはちっとも分からないから「へ?」って言う顔だ。多分、相当間の抜けた顔をしていると思う。
「えっと」
目を何度も瞬かせ、口をもごもごとさせると、彼の顔が驚きから真剣そのものに変わった。
そんな真剣な顔に、私はウッと胸を貫かれる様な感覚に陥る。
不意打ち的な胸キュンを食らってしまって、言葉に詰まってしまうけれど。そんな甘い考えは、すぐに消え去る事になった。
「グオオオオオオオオッ!」
猛々しく、禍々しい咆哮をあげながら、恐ろしい化け物が現れたからだ。黒色の鬼の様な恐ろしい体躯で、ギラリと鋭い牙が剥き出しになっている。ズシンズシンと重々しい足音を響かせ、地面が大きく揺れ動く。
紛う事なき、化け物だ。
それを一瞥した途端に、呼吸すらもままならなくなり、恐怖と言う苦しさに縛られる。目も逸らしたいのに逸らせなくて、大きく震える瞳でしっかりと化け物を映し続けていた。
何、何、何、何!何なの、アレ!
焦りと恐怖が綯い交ぜになってぐるぐると大きく渦を巻き、内側の私はそれらの感情でいっぱいになる。
するとボロボロだった彼が、恐怖で竦む私を背に庇う様にしてふらふらと立ち上がった。
「早く、行け」
化け物に刀を向け、臨戦態勢を取る彼に、私はハッとさせられる。ガツンと強く頭を殴られ、臆している自分が吹っ飛ばされた。
そしてそれとほぼ同時くらいで、私はグッと彼の羽織を強く掴んだ。
「逃げますよ!一緒に、早く!」
必死に叫び、ぐいっと強く羽織を後ろに引っ張る。
だが、彼は頑として動かず、それどころか「良いから、一人で行け!」と怒声を張り上げられる始末だ。
そうなると危機的状況の焦り、戦おうとしている彼の馬鹿さへの怒りなどが押し寄せてきてしまって。「置いていける訳ないでしょ?!」と、逆ギレ気味に言葉をぶつけてしまう。
早く行け、早く逃げようの論争が激突するが。俺を無視するなと言わんばかりに、化け物が怒り心頭で吠えた。
その吠え声で、言い合っている場合ではないと思い直した所か。いきり立っていた私が、一瞬にして鎮められた。ビクッと体を震わせ、言葉を、恐怖を飲み込んでしまう。
化け物はそんな私に対して、とても非情だった。素早く拳を作り、躊躇無くこちらに向かって振り下ろす。
早く逃げないとダメ、と頭が必死に命令しているのに。体が恐怖に固められ、まんじりとも動かせなかった。恐怖で竦む事のみが、今の私に出来る事だった。
あぁ、ダメ!やられる、やられちゃう!死んじゃう、私、死んじゃう!
ギュッと向かってくる恐怖に目を堅く瞑ると「桔梗!」と、彼が声を張り上げた。
そしてその後すぐにバキバキッ、ギギギッと何かが激しく拮抗している音が発せられる。
えっ、何の音?な、何が起きたの・・?
私は戦々恐々としながら目を開けてみる。
すると抱いていた恐ろしさは、眼前の光景によって別の感情に変わった。恐怖から、驚きと言う全く別種の感情に。
拳を振り下ろそうとしていた化け物が、その状態のまま、コンクリートから生えた太い木に雁字搦めにされているのだ。そんな木はどこにも生えていなかったと言うのに、今も尚うねうねと伸び続け、強く化け物を締め上げている。
そしてそんな化け物と私達の間で、バサバサと滞空しているミミズク。
・・・ま、まさか、この木。ミミズクがやっているの?
次から次へと訳分からない事が訪れ、全く状況の理解が出来ない。勿論、感情も追いつかない。恐怖だか、驚きだか、困惑だか。自分の気持ちすらも分からなくなってきた。
「主様、お早く!」
ミミズクが切羽詰まって叫ぶと。彼は「あぁ」と端的に答えてから、こちらを向いた。
「その・・・すまない」
目を伏せ、躊躇いがちに突然謝罪されるけれど。何が「すまない」なのか、全く分からない。
え?と唖然としてしまうが、そんな私を他所に彼の端正な顔がスッと近づいてきた。
間近で見ると、本当に端麗な顔立ち。こんなに綺麗な顔をしている人が、本当に現実に居るなんて。なんか信じられない。
ドキドキと心臓が変に鼓動を打ち、全身の血液がギュルギュルと忙しなく駆け巡り始めた。
色々な感情が押し寄せすぎて、あわあわとしてしまう。
けれど、一瞬にして全て止まった。ドキドキと素早く鼓動を打つ心臓も、忙しなく駆け巡る血液も、呼吸も、時間も。全てが止まってしまう。
ただ、目だけが正常に動いていた。まるで、目の前の事は現実だと自分にしっかりと思いしらせる様に。
そしてハッと我に帰ると、全てが正常に戻っていた。眼前にあった彼の顔も近くになく、心臓も呼吸も時間も平然と元に戻っている。
一瞬、何かとんでもない事が起きた様な気がするんだけれど。気のせいだった?
なんて、きょとんとしてしまいそうになるが。唇の端から伝わる血の味、唇に微かに残る感触が「つい数秒前」をしっかりと夢うつつの私に刻み込ませる。
気のせいではないと思い知ると、多様な感情がボンッと一気に生まれ、一つの荒波として襲いかかってきた。
けれど、それでパニックに陥る事はなかった。
なぜなら、化け物を押さえつけている木々が、力任せにメキメキッと剥がされる嫌な音が弾けたから。
ハッと我に帰り、目の前の現実世界に集中する。
木々から逃れようと暴れている化け物、そしてそんな化け物に対して毅然と相対している彼。
そんな彼の後ろ姿を見ると「え、どうして?」と、言う一言が口から飛び出していた。
先程まではボロボロで、立つ事すらままならなかったと言うのに。今の彼の後ろ姿は、とても「怪我人」だとは思えない。それほどに毅然とした立ち姿だ。
どういう事?と目を白黒とさせていると。彼がスッと刀を懐に差している鞘に仕舞い込んだ。
「雲耀《うんよう》」
冷淡な一言が発せられたかと思えば、私の視界からフッと彼が消える。
あれ?と思った次の瞬間には、化け物の体がゆっくりと斜めに割れ、ずるずると斬られた面同士が滑っていた。
文字通り、それはあまりにも一瞬の出来事。
目にもとまらぬ速さで抜刀して、化け物をあっという間に倒しちゃった・・・。
私が唖然としていると、化け物からしゅううと黒煙が上がり始める。
そしてその黒煙と共に体がパラパラと塵の様に崩壊し、瞬く間に消えてしまった。
「き、消えた・・・」
目を大きく見開きながらぼそりと呟くと、彼がゆっくりと振り向く。
その時、私は化け物が消えた時以上の驚きを与えられてしまった。
振り向いた彼には、怪我の一つもなかったから。
あれだけあった傷が、とても一瞬では治らない様な傷が。どういう訳か、全て綺麗に治っていた。
常識を次々と大きく越える事ばかりが起きて、遂に私は言葉を失ってしまう。
「巻き込んですまなかった」
彼は刀を鞘に収めながら謝ると、私の方に歩み寄ってきた。
困惑していた私は「あ、いえ」と小さく首を振り、近寄ってくる彼を露骨に怪訝な眼差しで貫く。
そんな眼差しを受けてか、彼は「まぁ、そうなるよな」と苦笑を浮かべた。
その「当然の反応だな」みたいな、余裕な一言を受け取った刹那。私の中でパンッと何かが弾けた。唖然呆然の状態をシュッと矢の如く突き破り、一気呵成になる。
「どういう事ですか?!おかしくないですか、この一連の流れ!全部訳が分からないんですけど!さっきの化け物は何ですか?!なんで貴方の怪我は治ってるんですか?!と言うか、貴方一体何者?!そこの喋るミミズクも!何者なの?!」
がーっと一気にまくし立てると、彼は「少し落ち着け」と苦笑交じりに私を宥めた。
「まずは俺の話を聞いて欲しい」
微苦笑を浮かべながら「一つ一つ説明する」と話す姿に、私は心の中で「あれ?」と少々首を傾げる。
この人は誰にでも冷たくて、容赦なくて、心底冷徹で性格が本気《マジ》で悪い人なんだ。あぁ、やっぱりイケメンに良い人は居ないんだなぁって思ったけれど。
実は、意外と優しかったりするのかな?クールな印象も、もしかして見かけ倒しだったり・・?
なんて事をだらだらと心の内で並べるけど。外の私は内側の感想をおくびにも出さず、真面目な面持ちを取り繕って「ちゃんと理解出来る様に説明して下さい」と言っていた。
それだから彼は内側の私に気がつく事なく、泰然と言葉を継ぐ。
「まずは自己紹介からだな。俺の名前は」
ティロリロリン、ティロリロリン!ティロリロリン、ティロリロリン!
突然、雑に置かれていたリュックの中にあったスマホが音楽を奏でた。滑らかながらも、早く出ろ!と言わんばかりの鬼気迫った着信音に、さーっと血の気が失せる。
「ご、ごめんなさい!」
パッと急いでリュックに駆け寄り、スマホを引き抜くと。恐ろしい事に、と言うか案の定、画面に表示されていたのは「母」だった。
ゴクッと唾を飲み込み、戦々恐々としながら着信ボタンを震える指でタップする。
「は、はぁい」
「アンタ、今どこに居るの?!学校行ってないってどういう事?!」
鼓膜を突き破る凄まじい怒声に、思わずスマホをパッと耳元から引き離した。
予想以上の怒髪天。覚悟はしていたけれど、まさかこんなに凄まじいなんて・・。
「学校から電話が来たわよ!どこに居て、何してんだか知らないけどね!アンタが学校に来てないって言われた時、母さんがどんな気持ちになったか分かる?!」
私はスマホを耳元にゆっくりと近づけ、未だに続く怒声を遮る様に「あの」と弱々しく言葉を吐き出す。
「ご。ごめんなさい、母さん。電話をし忘れただけなの。ほんと、ただ、それだけ。学校サボるとか、そんなんじゃなくて、ほんと」
おどおどと話すと、「じゃあ何?!」と言葉を遮られ、スマホの向こう側からぐわっと大きな牙でがぶりと噛みつかれた。
「アンタ、今学校行かずに何してるって言うの?!言ってみなさい!」
「ひ、人助けよ。人助けをしていたの。えっと、偶然ね。ほんと、偶然、あの、倒れている人を見つけてね、それの介抱をしていたって言うか、何と言うか・・」
事を上手く説明する言葉を探りながら話したせいで、段々と語勢がごにょごにょと弱まり、まるで嘘を並べている様な口ぶりになってしまった。
それだから「嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつきなさい!」と、余計に火に油だ。ごうっと遠くにあるはずの猛火が、こちらまで届いてくる。
「良い?!馬鹿な事をしていないで!今すぐに!学校に行きなさい!すぐに行かずにサボり続けていたら、アンタ、どうなるか分かってるわね?!」
「は、ハイッ!すぐに向かいますっ!」
くるっとひっくり返った声で答えてから、急いで電話をピッと切った。そのまま慌ててリュックを背負い、倒れていた自転車に駆け寄る。
「私、行きます!何はともあれ、怪我が治って良かったです!さよなら!」
自転車を起こしながら口早に告げると、いそいそと方向転換して自転車に跨がった。
そして呆気に取られる彼とミミズクを置いて、後ろを振り返りもせずに、私はその場を去った。爆走していた逆走コースを再び全速力で走り、学校へと急ぐ。
家を出た時は、じわりと汗玉が額に滲む程度の暑さだったのに。今はだらだらと滝の様な汗が流れていた。
・・・
力強くペダルを踏み込みながら坂を駆け上ると、校門が見えてくる。立っている警備員さんに「おはようございますっ!」と挨拶をしてから、そのままシャーッと滑らかに敷地に入って行った。付属している大学の横を通り過ぎ、高校の駐輪場に自転車を滑らせる。キキッと自転車を空いたスペースに止め、スカートをパッパッと直してから校舎に向かっていく。タタタタッと階段を滑る様に降りると、綺麗なステンドグラスが特徴的なロビーに清々しく出迎えられるが。ステンドグラスなんか見向きもせずに、まっすぐ通り抜け、教室に向かった。
今は、一限目の真っ最中。廊下には人っ子一人おらず、私が駆け走る音だけが響いていた。(通り過ぎる教室から漏れ聞こえる先生の声をかき消してしまう位だったから、かなりうるさい足音だったと思う)
校舎と校舎を繋ぐ扉の手前。この校舎の一番奥の教室に辿り着くと、私は全速力で走っていた足を止める。はぁはぁと荒くなった呼吸を軽く整え、風や汗で乱れた髪を適当に整えてから、おずおずと扉を引く。
ゆっくりと扉を開け、忍の様に教室に足を踏み入れたつもりだが。教室中の視線がこちらを向いていた。チョークを持ったまま、先生もこちらに視線を寄越していて、私を見るや否や「神森《かみもり》、今来たのか?」と呆れた様な顔つきになる。
「す、すみません。遅れました」
薄ら笑みを浮かべながら弱々しく謝ると、先生は「席に座りなさい」と朗らかに促してくれた。
私はその言葉に従い、ぽっかりと空いた自分の席に向かう。上がっている椅子を下ろしてから、リュックを机のフックにかけ、小さく息を吐きながら座った。
そしてリュックから一時限目の授業のノートを取り出し、板書の用意をしていると
「神森、なんでこんなに遅刻したんだ?お前にしては珍しいじゃないか」
出席簿に私の遅刻を書き込み終わった先生が尋ねてくる。その言葉に、私は「えーっと」と、軽く言葉を詰まらせた。
「ちょっと・・・人助け?みたいなのをしていて?」
「おいおい、なんでクエスチョンマークが付くんだよ」
「色々複雑な事があったんですよ。そう、兎に角色々あって。色々大変でした、色々」
苦笑を浮かべながら、先生を強引に言いくるめる。深掘りしないで下さいと目でも訴えていたからか、「なんだそりゃ」と苦笑を浮かべながら引き下がってくれた。
こんな日の一時間目の先生が優しくて面倒くさくなくて、生徒の心をすぐに汲み取ってくれる人で良かったぁ。と言うか、助かったぁ。これが面倒くさくて、ネチネチうるさい先生だったら、確実にこうはならないし。うん、本当に助かったぁ。
私は「アハハ」と乾いた笑みを見せてから、全てをうやむやにするが如く、平然と板書に取りかかった。
そこからはいつもの様に、時計の針が淡々と前に進んだ。
あっという間に、チャイムがキーンコーンカーンコ―ンと鳴り響き、一時限目が終わる。
休み時間を迎えた瞬間、私の席に突進をかます様に二人の女子がやって来た。どちらも一年の頃から仲が良い友達で、所謂イツメンと言うやつ。
一人は、梶谷友花《かじやゆうか》。ボブショートの黒髪とリムが薄い丸眼鏡が特徴的で、さっぱりとした性格をしている。友花は理系に強くて、中でも科学が一番凄い。テストでも、模試でも常に上位を争っている。だから理系がてんでダメな私は、よく友花に助けてもらっているのだ。
もう一人は、有沢凜《ありさわりん》。クラスで一、二位を争う位可愛い顔立ちで、華奢な容姿をしているけれど。図抜けた身体能力があり、バリバリに運動神経が良い。それに明るくて、誰とでも仲良くなれる性格だから、凜はクラスの人気者だ。まぁ、本当はクラス内だけに留まらないんだけれどね。
「ちょっと、そんな強く突進してこないでよ」
二人の突進により、机からダイブしてしまったペンを拾い上げながら文句をぶつける。それに対し、二人は「ごめん」と微塵も心がこもっていない謝罪を寄越した。そればかりか「そんな事よりもさぁ」と、満面の笑みで強引に話題を変えてくる。
「遅刻の原因が人助けって、もっとマシな言い訳なかったの?」
「ほんとそれ。どうせ寝坊したんでしょ?叶架、めちゃくちゃ朝弱いじゃん?」
ニヤニヤとしながら問いかける友花と凜に、私は「嘘じゃないし」と小さく唇を尖らせた。
「本当に人助けをして遅れたの。でも、実を言うとね、夢みたいな事ばっかり起きたんだよ。もうほんと訳分からない事ばっかりで、何が何だかって感じ。だから説明したくても、何一つ上手く説明出来ないの」
憮然としながら答えると、二人は「何それぇ」と眉根をキュッと寄せる。
「だからぁ、私も何がなんだか分からないんだって」
はぁとやりきれないため息を吐き出してから「もしかして私の夢だったのかなぁ」と、頬杖をつきながらぼそりと呟いた。
アレは確かに現実で、何一つ夢じゃないと思っているけれど。全部夢でした、となっても普通に頷ける。
夢だから、あんな化け物が出てきた。夢だから、ミミズクがペラペラ喋った。
ほら。やっぱり夢って言う方が、説得力がある。
「夢じゃなかったはずだけどなぁ」
心の中で呟いたはずが、うっかり口を滑らせてしまった。「あ、やば」と思った時には、もう遅い。
「とどのつまり、やっぱ寝坊って事でオケ?」
「デコピンしよっか?目、覚めるよ?」
呆れ一色の友花と、面白げにぴんっぴんっと何度も人差し指を弾いている凜。
即座にからかってきた二人のおかげで、私は「あぁ、もう!」と色々と吹っ切れた。
「寝坊したって事で良いよ!どうせ上手く言葉に出来ないしね?!私自身が何をしたって訳でもないし?!良いよ、良いよ!寝坊したって事にするよ、もう!」
「いや、逆ギレすんなよ」
友花に鋭く突っ込まれるが。私はふんと鼻を鳴らして「次、何だっけ?!」と、刺々しく尋ねる。
それに凜は「あ、誤魔化したぁ」と茶化してくるが。友花は「英文法、始めにミニテストだよ」と、ちゃんと答えてくれた。
「うわ、そうだった!やばっ!」
素直に教えてくれた友花に「ありがと、友花!」と礼を述べる。
だが次の瞬間、私は純粋に礼を述べた事を激しく後悔した。
「次の時間は佐伯《さえき》先生だから、そのままの状態だと大変だよ。しっかり目を覚ましておきな」
ニヤリとほくそ笑む友花に「ちゃんと起きてますから!」と食ってかかる。
憤慨する私に対し、二人は更に意地悪な笑みを浮かべ「いやいやぁ!」と、声を揃えて大仰に手を横に振った。
この二人、言動のハモり具合がほんとムカつく・・・!
「凜、起こしてあげな。叶架、まだ寝ぼすけさんだよ」
「任せて!アタシのデコピン、結構目が覚めるって評判あるから!」
どこまでも私をイジり倒す二人に、私は「もおおおー!」と唸る様に吠えた。
「ちょっとは真剣に聞いてくれても良いじゃん!意地悪!」
「凜と私が意地悪?ウチ等は優しい事しかしてないんだけどなぁ」
「そぉだよ。叶架の寝言に対して、真摯に向き合っているんだから。優しいって言ってもらわないと。ねぇ?」
一切悪びれず、強い結託を見せつけてくる二人。私はもう降参と言う様に、はぁぁとため息を吐き出した。
鈴が暴走している様な喧しい音が鳴り響き、一気に夢の世界が引き裂かれた。
私はその音にキュッと眉根を寄せながら、未だにガランガランッとけたたましく鳴り続けているスマホに手を伸ばし、ピッと止める。やかましいと一喝したくなる程鳴り響いていたと言うのに、止めた瞬間スンッと大人しくなった。
枕に顔をぐりぐりと擦りつけ、うーんと布団の中で体を丸める。
そうしてから穏やかになったスマホを睨むと、ディスプレイに表示されている時間は、予定の起床時間を十分以上も過ぎていた。時刻が表示されている下では、時間が一秒ごと淡々と減るカウントダウンと、スヌーズを止めると言う残酷なボタンが現れている。
さーっと血の気が失せると共に、このマズい状況をようやく理解した。まどろんでいた世界からめざましく覚醒し、バッと跳ね起きる。
「やっばっ!」
弾丸の如く部屋を飛び出し、急いで朝の支度を始めた。トイレを済ませてから、すぐ洗面所に駆け込む。先に洗面器を使い、髪を丁寧にセットしていた五歳上の姉・律華《りっか》を押しのけて、バシャバシャと顔を洗った。
「ちょっと叶架《きょうか》!そんなにバシャバシャやらないでよ!」
露骨に眉を顰め、私に小言をぶつけるが。律華ねぇの言葉なんて、全く耳に入っていない。それくらい私は時間に追い立てられていた。
「ごめ、許して!」
ボタボタッと水が滴る顔のまま謝り、横に置いてあったタオルで乱雑に顔を拭い「次!」と、言う様に部屋に駆け戻る。
すぽぽーんっとパジャマを脱ぎ捨て、壁に掛けてあった制服に手を伸ばし、慣れた手つきでパパパッと制服に着替えていく。
パチッとリボンを止めてから、机の前にドカッと座った。左手で机の上に置いてある鏡を引き寄せながら、空いた右手で棚の中にしまっているブラシを取る。
ブラシを引き出すと、すぐにサーッサーッと梳いていく。猫っ毛のせいで、髪がこごり、ブラシの勢いがガクンッと止まる所もあったが。そのままグッと下に引っ張り、強引に梳かしていった。ブチブチッと耳元で嫌な音が弾け、地肌がズキズキと痛んだけれど。そんなのお構いなし!
そうして大雑把ながらも身支度を済ませ、タイマーを止める様にパッと壁に掛けてある時計に目を向けた。時刻は八時。なんと、丁度家を出る時間だ。
「ギリギリッ!」
ふうと手の甲で額の汗を拭う振りをしてから、リュックを引っ掴む。教科書や参考書、現役女子高生として必要な諸々が入っている重たいリュックを背負い、階段を滑る様に駆け下りた。
「いってきまーす!」
最後の一段を飛び、ドスンッと言う着地と共に声を張り上げる。
すると「叶架!」と鋭い声がリビングの方から飛び、そのまま玄関を飛び出そうとしていた私の足をギクリと止めた。
「アンタ、朝ご飯はどうすんの?!食べないの?!」
姿を見せぬまま怒声だけ張り上げる母に、私は「今日は良いー!」と声を張り上げて返す。
「お腹空くわよ!そんなんじゃ、一日持たないよ!少しでも良いから、何か食べてから行きなさい!」
「へーきー!」
ローファーを履き、サッと自転車の鍵を掴んで答えると、リビングの方から「全くもう!」と、母が憤懣としている声が聞こえた。
それを「まぁまぁ」と宥める安穏な父の声と、「授業の合間とかで、友達と菓子食ったりするから大丈夫だろ」と、私のフォローを入れてくれている律華と双子の兄・迦那人《かなと》の声がした。
妹の事を理解しているありがたいフォロー!流石、迦那人にぃ!
「全く!もっと早く起きれば良いのよ!何の為に、あんなガランガランとうるさい音を何度も鳴らしているのかしら!」
私は兄に感謝の念を、母には謝罪を心の中で送ってから、止めていた足を前に動かした。
玄関を飛び出すと、自転車のチェーンロックの鍵穴に鍵を差し込み、ガシャンッと音を立てて解錠させる。ガツッと錆び始めたスタンドを蹴り上げ、サドルに跨がった。トントンと地面を何回か蹴って前進させてから、すーっと緩やかに動き始めた自転車に勢いを乗せる様にペダルをぐいっと踏み込む。
家の敷地を勢いよくシャーッと飛び出し、滑らかに道路へ出て行った。
外は初夏らしい暑さで、照り輝く太陽の光が袖から覗いている肌をジリジリと焼いている。風が体をさーっと突き抜ける様に吹いた。その風のおかげで、蒸し蒸しとした暑さが少しだけ軽減される。
少し前までは、麗らかな春の陽気だったのに。夏と言う苦手な季節が、訪れつつある様だ。
はぁ、あっという間にこの初夏も猛暑に変わっちゃうんだろうなぁ。私は本当に暑いのがダメだから。もう少し、程良い季節でいてもらいたいんだけどなぁ。
私はじんわりと体表に現れる汗を感じながら、ぐいぐいとペダルを漕ぎ、喧噪の中を進んで行く。
ゾロゾロと集団で登校し、楽しそうに会話を弾ませながら歩いている小学生。バタバタと忙しそうにゴミを捨てに来るお母さんと、その少し離れた所から「ママ早くぅ!かなちゃんに会えなくなっちゃうよぉ!」と急かしている幼稚園生。私と同じ様に自転車を漕ぎ、急ぎ足で会社に向かっているサラリーマン。部活の道具を肩に掛け、だらだらと歩きながら学校に向かっている男子高校生。参考書を読みながらせかせかと歩いている女子大学生など。
それぞれいつもの朝を過ごし、それぞれの目的地に向かっている。
私もその例に漏れず、いつも通り自転車を漕いで、ちょっとした丘の上にある学校に向かっていた。
通学路には坂が大分多いから、かなりしんどい。帰りは下り坂になるからいいものの、行きの上り坂はかなり地獄だ。母からは「体力が付いて良いじゃない」と言われ、律華ねぇからは「ダイエットになるわよ」とか好き勝手言われるが。この三年間、そんな事を思った事は一度もない。朝から体力を大幅に削られるだけの重労働としか思っていない。しんどい、ただその一言に尽きる。
まぁでも、私はその重労働に対して文句を付ける立場にないのよね。自分がそれらを加味して考えて、今の学校を選び、進んだのだから。
私は「でも、やっぱり不満の一つや二つは零したくなるんだよねぇ」と苦々しく独りごちてから、不満を力に変える様にぐいと力強くペダルを踏み込んだ。推進力が大きく働き、ぐんっと自転車が前に進んで行く。
そうしてようやく、大きく分けて一つ目の坂を登り切った。漕ぐのを辞め、ふうと軽く一息つく。次の難所である登り坂に耐える為に。
よし!と気合いを入れ直す様にリュックを背負い直し、ペダルに片足を乗せた刹那。
「誰か!誰か、お助け下さいませ!」
必死に助けを求めている誰かの声がした。心地良い低めな声音だけれど、とても切羽詰まった声だ。
私はその声にハッとし、周囲を見渡すが。その声の主らしい人は、どこにもいなかった。声がしっかりと聞こえるから、すぐに分かると思ったけれど。必死で助けを求めている人はいないし、周りも平然としている。
あれ?気のせい・・かな?
怪訝に思ったけれど。周囲の日常が変わらないから、私の聞き間違いだと止めていた足を動かし、ペダルを軽く漕いだ。
「誰か!誰かお助けを!誰か!聞こえておりませんか!誰か!誰か!」
キキッと急ブレーキをかけ、再び聞こえた同じ声に立ち止まる。
やっぱりこれ、聞き間違いじゃないよね。
首を回し、自分の周囲を三百六十度見渡してみる。先程よりも丁寧に、じっくりと。
けれどやっぱり、声の主らしい人はどこにも居ない。それどころか、先程よりも丁寧に見渡しているおかげで、怪訝に思って足を止めている人が自分しか居ない事に気がついた。
一体、どういう事?皆、聞こえていないの?こんなに切羽詰まった声なのに。私だけにしか聞こえていないの?
顔を怪訝に歪め、頭上にクエスチョンマークが一列にずらりと並ぶ。
「そ、そこのお嬢様!私の声が聞こえておられるのですね?!」
なんと突然、切羽詰まった声が助けを求める声から、確認の声に変わった。
「制服を纏っていらして、水色の自転車に乗られている、そこのお嬢様!ふわふわで茶髪の、黒地で水色の柄が入ったリュックサックを背負っていらっしゃる貴女様です!」
制服、水色の自転車、ふわふわの茶髪、黒地で水色の柄が入ったリュックサック。切羽詰まった声が並べる特徴が、次々と私に当てはまった。
私の事がよく見えている範囲に居ると分かると、更に必死でキョロキョロと辺りを見渡すが。誰もあたふたとしておらず、声の主らしい人はどこにも居ない。
いよいよ不気味さに拍車がかかり、ここは早く去った方が良いかもしれないと思い始めた。
助けを求めている人に対し、不気味さを覚えるのも失礼な話だけれど。本当に怖いから仕方ない。
それに遅刻しちゃうかもだしね、うん、早く行こう。
心の中で口早に言葉を並べ、ペダルを漕ごうと決意した刹那。バッとフクロウが私の前に降り立ってきた。
あまり鳥類に詳しくないから分からないけれど。大きくて、長老みたいな面構えをしている。それに怪我をしているせいなのか、急いでいるせいなのか。何が要因となっているのかは断定出来ないけれど、美しい羽毛はあちこちにとっちらかっていた。
私は思わず、と言うか、必然的に「わっ!」と声を上げて驚いてしまう。
「あぁ、お嬢様!やはり私の姿が見えるのですね!」
先程からずっと聞こえていた不気味な声が、しっかりとフクロウから発せられた。
「?!フッ、フッ、フッ!!」
「ミミズクが喋ったとか、今はどうでもようございます!とにかく、こちらにいらして下さいませ!お早く!」
ピシャリと冷淡に突っ込まれ、私の驚き《ことば》が先回りして封じられる。ええと困惑するも、ミミズク(フクロウじゃなかった)は「早くこちらに!」と、先導する様に飛びあがってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
声を上げて止めようとするも、にべもなく「こちらにお早く!」と、打ち返される。
私は逡巡したが「あー、もう!」と声を小さくあげてから、ミミズクが待ち構えている方に自転車を向け、ぐいとペダルを踏み込んだ。
学校には後で連絡しよう。今回ばかりは遅刻したって仕方ない。だって、助けてと切羽詰まって頼み込まれたのだから。
それを無下にするなんて、私には出来ないもの。
・・・
ミミズクに付いていくと、学校からドンドンと離れ、住宅街が立ち並ぶ路地まで走らされた。爆走しているコースが学校からだと逆走に当たるので、ちらほらと同じ学校の制服に身を纏った子達とすれ違う。その度に、怪訝やら好奇やらの視線に射抜かれた。
人助けに向かっているはずなのに、平然と学校をサボる不良少女みたいな構図で辛い。
違いますからね、皆さん。私、人助けに向かっているんです!堂々とサボってる訳じゃないですから!
「お嬢様、こちらに!」
横からの急アナウンスにハッと我に帰り、急いでハンドルをキュッと右に曲げる。キキッとドリフトをしてから、シャーッと細い路地に入った。
家々が並ぶもののお互いに背を向け、喧嘩している様な所だ。燦々とした太陽の光も差し込まず、家の影に覆い尽くされているせいで余計に陰鬱さに磨きがかかっている。
そんな寂しくて虚しい所で、なんと青年が行き倒れていた。
見た事が無い、珍しい黒色の羽織を着ている事。伸ばされた手の近くで日本刀が転がっている事。それくらいしか特徴が掴めなかった。顔を見ようにも、髪がカーテンの様に覆われているせいで分からない。
けれど、彼はピクリとも動かなくて「これはただ事ではない」と、一目見てすぐに分かった。
「主様!主様!」
ミミズクがバッと急いで彼の顔の横に降り立つ。
私もミミズクに追随する様に「大丈夫ですか?!」と自転車から急いで降り、彼に駆け寄った。スタンドもかける事を忘れた自転車は、私が離れた事でバランスを崩し、ガッシャーンと荒々しい音を立てて倒れる。
でも、今の私には自転車を慮る余裕なんてなかった。切羽詰まった声で、行き倒れている彼に投げかける。
「大丈夫ですか?!私の声、聞こえますか?!大丈夫ですか?!」
すると私の声に応える様に、彼の手と顔がピクッと動いた。カーテンの様な黒髪もハラハラと流れ落ち、彼の顔を露わにさせる。
現れた顔は、かなりのイケメンだった。それは芸能人レベル、いや、それ以上かもしれない。キリッとクールな顔立ちで、纏っている雰囲気がダウナー系だ。
かなりのイケメンを見つけてしまい、キャアキャアと女子らしく舞い上がる。それが彼を見た時の普通の反応だろう。
でも、私はそうならなかった。顔のあちこちに擦り傷や切り傷があり、口から血を流す程の大怪我を負っていたから。よく見れば、時間が経って朱殷色になった血が羽織から滲んでいた。
こんな大怪我、ただ事じゃない。えっと、まずはどうしたら良いんだろ。あ、応急処置をしないと。え、違う、救急車を呼ぶ事が先?!
待って、待って。ここは落ち着いて、的確な手順を思い出さないと。この人を早く助けないといけないんだから。
彼の大怪我によって、頭が真っ白になり、授業で習った応急処置の流れが一つも思い出せない。パニックを鎮めようと必死に自分を宥めるけれど、ちっとも冷静に戻れなかった。
大怪我している彼の前であわあわするも、取り敢えず背負っているリュックを下ろして「何か止血出来る物は」と、探し出す。
すると彼が「桔梗」と呻く様に呟き、ミミズクが「はい」と焦りながら答えた。どうやら桔梗と言うのが、ミミズクの名前らしい。
「どう言う、事、だ」
苦しみに顔を歪めながら尋ねると、ミミズクが口早に答える。
「主様!どういう訳か、このお嬢様は私共の姿が見えるのです!ですから、助けとして」
「馬鹿か」
ミミズクの言葉を遮ったばかりか、吐き捨てる様にして冷淡に一喝した。
ミミズクは心底心配していると言うのに。必死になって助けを求めていたと言うのに。
馬鹿って何?それは酷すぎじゃないの?
大怪我をしていると言う事も忘れて、ついカチンッと来てしまうが。冷めた目がこちらに向いた事で、その苛立ちは瞬く間に怯み、ひゅるひゅると小さくなる。
「・・・早く逃げろ。ヤツが来る」
端的な一言に「はっ?」と呆れの様な驚きの様な、何とも言えない一言が飛び出してしまった。
「どう言う事ですか?ヤツ?」
キュッと眉を顰めた刹那、グオオオオッと禍々しい咆哮が聞こえ、私の体は一気に凍りつく。
「何、今の」
総毛立ちながら小さく呟くと。目の前の彼が呻きながら刀に手を伸ばし、体を動かした。全身の力を余す事なくかき集め、無謀にも一人で立ち上がろうとしている。
「待って、動いちゃダメです!」
無謀に走る彼を止めようと、傷だらけの手に触れた刹那。ぶわっと何かが彼の体に入り込んだ様な気がした。
うまく言葉に出来ないけれど。何かが私から送り込まれた様な、何かが彼の体の中を一掃している様な?
初めての感覚に、私自身も分からなくてきょとんと困惑していると。彼の目が大きく見開かれ、ハッとした表情で見据えられる。
「君・・まさか」
囁く様に呟かれ、ミミズクも興奮気味で「主様、もしやこのお嬢様は!」と訴えている。
二人して驚愕を露わにされるけれど。こっちはちっとも分からないから「へ?」って言う顔だ。多分、相当間の抜けた顔をしていると思う。
「えっと」
目を何度も瞬かせ、口をもごもごとさせると、彼の顔が驚きから真剣そのものに変わった。
そんな真剣な顔に、私はウッと胸を貫かれる様な感覚に陥る。
不意打ち的な胸キュンを食らってしまって、言葉に詰まってしまうけれど。そんな甘い考えは、すぐに消え去る事になった。
「グオオオオオオオオッ!」
猛々しく、禍々しい咆哮をあげながら、恐ろしい化け物が現れたからだ。黒色の鬼の様な恐ろしい体躯で、ギラリと鋭い牙が剥き出しになっている。ズシンズシンと重々しい足音を響かせ、地面が大きく揺れ動く。
紛う事なき、化け物だ。
それを一瞥した途端に、呼吸すらもままならなくなり、恐怖と言う苦しさに縛られる。目も逸らしたいのに逸らせなくて、大きく震える瞳でしっかりと化け物を映し続けていた。
何、何、何、何!何なの、アレ!
焦りと恐怖が綯い交ぜになってぐるぐると大きく渦を巻き、内側の私はそれらの感情でいっぱいになる。
するとボロボロだった彼が、恐怖で竦む私を背に庇う様にしてふらふらと立ち上がった。
「早く、行け」
化け物に刀を向け、臨戦態勢を取る彼に、私はハッとさせられる。ガツンと強く頭を殴られ、臆している自分が吹っ飛ばされた。
そしてそれとほぼ同時くらいで、私はグッと彼の羽織を強く掴んだ。
「逃げますよ!一緒に、早く!」
必死に叫び、ぐいっと強く羽織を後ろに引っ張る。
だが、彼は頑として動かず、それどころか「良いから、一人で行け!」と怒声を張り上げられる始末だ。
そうなると危機的状況の焦り、戦おうとしている彼の馬鹿さへの怒りなどが押し寄せてきてしまって。「置いていける訳ないでしょ?!」と、逆ギレ気味に言葉をぶつけてしまう。
早く行け、早く逃げようの論争が激突するが。俺を無視するなと言わんばかりに、化け物が怒り心頭で吠えた。
その吠え声で、言い合っている場合ではないと思い直した所か。いきり立っていた私が、一瞬にして鎮められた。ビクッと体を震わせ、言葉を、恐怖を飲み込んでしまう。
化け物はそんな私に対して、とても非情だった。素早く拳を作り、躊躇無くこちらに向かって振り下ろす。
早く逃げないとダメ、と頭が必死に命令しているのに。体が恐怖に固められ、まんじりとも動かせなかった。恐怖で竦む事のみが、今の私に出来る事だった。
あぁ、ダメ!やられる、やられちゃう!死んじゃう、私、死んじゃう!
ギュッと向かってくる恐怖に目を堅く瞑ると「桔梗!」と、彼が声を張り上げた。
そしてその後すぐにバキバキッ、ギギギッと何かが激しく拮抗している音が発せられる。
えっ、何の音?な、何が起きたの・・?
私は戦々恐々としながら目を開けてみる。
すると抱いていた恐ろしさは、眼前の光景によって別の感情に変わった。恐怖から、驚きと言う全く別種の感情に。
拳を振り下ろそうとしていた化け物が、その状態のまま、コンクリートから生えた太い木に雁字搦めにされているのだ。そんな木はどこにも生えていなかったと言うのに、今も尚うねうねと伸び続け、強く化け物を締め上げている。
そしてそんな化け物と私達の間で、バサバサと滞空しているミミズク。
・・・ま、まさか、この木。ミミズクがやっているの?
次から次へと訳分からない事が訪れ、全く状況の理解が出来ない。勿論、感情も追いつかない。恐怖だか、驚きだか、困惑だか。自分の気持ちすらも分からなくなってきた。
「主様、お早く!」
ミミズクが切羽詰まって叫ぶと。彼は「あぁ」と端的に答えてから、こちらを向いた。
「その・・・すまない」
目を伏せ、躊躇いがちに突然謝罪されるけれど。何が「すまない」なのか、全く分からない。
え?と唖然としてしまうが、そんな私を他所に彼の端正な顔がスッと近づいてきた。
間近で見ると、本当に端麗な顔立ち。こんなに綺麗な顔をしている人が、本当に現実に居るなんて。なんか信じられない。
ドキドキと心臓が変に鼓動を打ち、全身の血液がギュルギュルと忙しなく駆け巡り始めた。
色々な感情が押し寄せすぎて、あわあわとしてしまう。
けれど、一瞬にして全て止まった。ドキドキと素早く鼓動を打つ心臓も、忙しなく駆け巡る血液も、呼吸も、時間も。全てが止まってしまう。
ただ、目だけが正常に動いていた。まるで、目の前の事は現実だと自分にしっかりと思いしらせる様に。
そしてハッと我に帰ると、全てが正常に戻っていた。眼前にあった彼の顔も近くになく、心臓も呼吸も時間も平然と元に戻っている。
一瞬、何かとんでもない事が起きた様な気がするんだけれど。気のせいだった?
なんて、きょとんとしてしまいそうになるが。唇の端から伝わる血の味、唇に微かに残る感触が「つい数秒前」をしっかりと夢うつつの私に刻み込ませる。
気のせいではないと思い知ると、多様な感情がボンッと一気に生まれ、一つの荒波として襲いかかってきた。
けれど、それでパニックに陥る事はなかった。
なぜなら、化け物を押さえつけている木々が、力任せにメキメキッと剥がされる嫌な音が弾けたから。
ハッと我に帰り、目の前の現実世界に集中する。
木々から逃れようと暴れている化け物、そしてそんな化け物に対して毅然と相対している彼。
そんな彼の後ろ姿を見ると「え、どうして?」と、言う一言が口から飛び出していた。
先程まではボロボロで、立つ事すらままならなかったと言うのに。今の彼の後ろ姿は、とても「怪我人」だとは思えない。それほどに毅然とした立ち姿だ。
どういう事?と目を白黒とさせていると。彼がスッと刀を懐に差している鞘に仕舞い込んだ。
「雲耀《うんよう》」
冷淡な一言が発せられたかと思えば、私の視界からフッと彼が消える。
あれ?と思った次の瞬間には、化け物の体がゆっくりと斜めに割れ、ずるずると斬られた面同士が滑っていた。
文字通り、それはあまりにも一瞬の出来事。
目にもとまらぬ速さで抜刀して、化け物をあっという間に倒しちゃった・・・。
私が唖然としていると、化け物からしゅううと黒煙が上がり始める。
そしてその黒煙と共に体がパラパラと塵の様に崩壊し、瞬く間に消えてしまった。
「き、消えた・・・」
目を大きく見開きながらぼそりと呟くと、彼がゆっくりと振り向く。
その時、私は化け物が消えた時以上の驚きを与えられてしまった。
振り向いた彼には、怪我の一つもなかったから。
あれだけあった傷が、とても一瞬では治らない様な傷が。どういう訳か、全て綺麗に治っていた。
常識を次々と大きく越える事ばかりが起きて、遂に私は言葉を失ってしまう。
「巻き込んですまなかった」
彼は刀を鞘に収めながら謝ると、私の方に歩み寄ってきた。
困惑していた私は「あ、いえ」と小さく首を振り、近寄ってくる彼を露骨に怪訝な眼差しで貫く。
そんな眼差しを受けてか、彼は「まぁ、そうなるよな」と苦笑を浮かべた。
その「当然の反応だな」みたいな、余裕な一言を受け取った刹那。私の中でパンッと何かが弾けた。唖然呆然の状態をシュッと矢の如く突き破り、一気呵成になる。
「どういう事ですか?!おかしくないですか、この一連の流れ!全部訳が分からないんですけど!さっきの化け物は何ですか?!なんで貴方の怪我は治ってるんですか?!と言うか、貴方一体何者?!そこの喋るミミズクも!何者なの?!」
がーっと一気にまくし立てると、彼は「少し落ち着け」と苦笑交じりに私を宥めた。
「まずは俺の話を聞いて欲しい」
微苦笑を浮かべながら「一つ一つ説明する」と話す姿に、私は心の中で「あれ?」と少々首を傾げる。
この人は誰にでも冷たくて、容赦なくて、心底冷徹で性格が本気《マジ》で悪い人なんだ。あぁ、やっぱりイケメンに良い人は居ないんだなぁって思ったけれど。
実は、意外と優しかったりするのかな?クールな印象も、もしかして見かけ倒しだったり・・?
なんて事をだらだらと心の内で並べるけど。外の私は内側の感想をおくびにも出さず、真面目な面持ちを取り繕って「ちゃんと理解出来る様に説明して下さい」と言っていた。
それだから彼は内側の私に気がつく事なく、泰然と言葉を継ぐ。
「まずは自己紹介からだな。俺の名前は」
ティロリロリン、ティロリロリン!ティロリロリン、ティロリロリン!
突然、雑に置かれていたリュックの中にあったスマホが音楽を奏でた。滑らかながらも、早く出ろ!と言わんばかりの鬼気迫った着信音に、さーっと血の気が失せる。
「ご、ごめんなさい!」
パッと急いでリュックに駆け寄り、スマホを引き抜くと。恐ろしい事に、と言うか案の定、画面に表示されていたのは「母」だった。
ゴクッと唾を飲み込み、戦々恐々としながら着信ボタンを震える指でタップする。
「は、はぁい」
「アンタ、今どこに居るの?!学校行ってないってどういう事?!」
鼓膜を突き破る凄まじい怒声に、思わずスマホをパッと耳元から引き離した。
予想以上の怒髪天。覚悟はしていたけれど、まさかこんなに凄まじいなんて・・。
「学校から電話が来たわよ!どこに居て、何してんだか知らないけどね!アンタが学校に来てないって言われた時、母さんがどんな気持ちになったか分かる?!」
私はスマホを耳元にゆっくりと近づけ、未だに続く怒声を遮る様に「あの」と弱々しく言葉を吐き出す。
「ご。ごめんなさい、母さん。電話をし忘れただけなの。ほんと、ただ、それだけ。学校サボるとか、そんなんじゃなくて、ほんと」
おどおどと話すと、「じゃあ何?!」と言葉を遮られ、スマホの向こう側からぐわっと大きな牙でがぶりと噛みつかれた。
「アンタ、今学校行かずに何してるって言うの?!言ってみなさい!」
「ひ、人助けよ。人助けをしていたの。えっと、偶然ね。ほんと、偶然、あの、倒れている人を見つけてね、それの介抱をしていたって言うか、何と言うか・・」
事を上手く説明する言葉を探りながら話したせいで、段々と語勢がごにょごにょと弱まり、まるで嘘を並べている様な口ぶりになってしまった。
それだから「嘘をつくなら、もっとマシな嘘をつきなさい!」と、余計に火に油だ。ごうっと遠くにあるはずの猛火が、こちらまで届いてくる。
「良い?!馬鹿な事をしていないで!今すぐに!学校に行きなさい!すぐに行かずにサボり続けていたら、アンタ、どうなるか分かってるわね?!」
「は、ハイッ!すぐに向かいますっ!」
くるっとひっくり返った声で答えてから、急いで電話をピッと切った。そのまま慌ててリュックを背負い、倒れていた自転車に駆け寄る。
「私、行きます!何はともあれ、怪我が治って良かったです!さよなら!」
自転車を起こしながら口早に告げると、いそいそと方向転換して自転車に跨がった。
そして呆気に取られる彼とミミズクを置いて、後ろを振り返りもせずに、私はその場を去った。爆走していた逆走コースを再び全速力で走り、学校へと急ぐ。
家を出た時は、じわりと汗玉が額に滲む程度の暑さだったのに。今はだらだらと滝の様な汗が流れていた。
・・・
力強くペダルを踏み込みながら坂を駆け上ると、校門が見えてくる。立っている警備員さんに「おはようございますっ!」と挨拶をしてから、そのままシャーッと滑らかに敷地に入って行った。付属している大学の横を通り過ぎ、高校の駐輪場に自転車を滑らせる。キキッと自転車を空いたスペースに止め、スカートをパッパッと直してから校舎に向かっていく。タタタタッと階段を滑る様に降りると、綺麗なステンドグラスが特徴的なロビーに清々しく出迎えられるが。ステンドグラスなんか見向きもせずに、まっすぐ通り抜け、教室に向かった。
今は、一限目の真っ最中。廊下には人っ子一人おらず、私が駆け走る音だけが響いていた。(通り過ぎる教室から漏れ聞こえる先生の声をかき消してしまう位だったから、かなりうるさい足音だったと思う)
校舎と校舎を繋ぐ扉の手前。この校舎の一番奥の教室に辿り着くと、私は全速力で走っていた足を止める。はぁはぁと荒くなった呼吸を軽く整え、風や汗で乱れた髪を適当に整えてから、おずおずと扉を引く。
ゆっくりと扉を開け、忍の様に教室に足を踏み入れたつもりだが。教室中の視線がこちらを向いていた。チョークを持ったまま、先生もこちらに視線を寄越していて、私を見るや否や「神森《かみもり》、今来たのか?」と呆れた様な顔つきになる。
「す、すみません。遅れました」
薄ら笑みを浮かべながら弱々しく謝ると、先生は「席に座りなさい」と朗らかに促してくれた。
私はその言葉に従い、ぽっかりと空いた自分の席に向かう。上がっている椅子を下ろしてから、リュックを机のフックにかけ、小さく息を吐きながら座った。
そしてリュックから一時限目の授業のノートを取り出し、板書の用意をしていると
「神森、なんでこんなに遅刻したんだ?お前にしては珍しいじゃないか」
出席簿に私の遅刻を書き込み終わった先生が尋ねてくる。その言葉に、私は「えーっと」と、軽く言葉を詰まらせた。
「ちょっと・・・人助け?みたいなのをしていて?」
「おいおい、なんでクエスチョンマークが付くんだよ」
「色々複雑な事があったんですよ。そう、兎に角色々あって。色々大変でした、色々」
苦笑を浮かべながら、先生を強引に言いくるめる。深掘りしないで下さいと目でも訴えていたからか、「なんだそりゃ」と苦笑を浮かべながら引き下がってくれた。
こんな日の一時間目の先生が優しくて面倒くさくなくて、生徒の心をすぐに汲み取ってくれる人で良かったぁ。と言うか、助かったぁ。これが面倒くさくて、ネチネチうるさい先生だったら、確実にこうはならないし。うん、本当に助かったぁ。
私は「アハハ」と乾いた笑みを見せてから、全てをうやむやにするが如く、平然と板書に取りかかった。
そこからはいつもの様に、時計の針が淡々と前に進んだ。
あっという間に、チャイムがキーンコーンカーンコ―ンと鳴り響き、一時限目が終わる。
休み時間を迎えた瞬間、私の席に突進をかます様に二人の女子がやって来た。どちらも一年の頃から仲が良い友達で、所謂イツメンと言うやつ。
一人は、梶谷友花《かじやゆうか》。ボブショートの黒髪とリムが薄い丸眼鏡が特徴的で、さっぱりとした性格をしている。友花は理系に強くて、中でも科学が一番凄い。テストでも、模試でも常に上位を争っている。だから理系がてんでダメな私は、よく友花に助けてもらっているのだ。
もう一人は、有沢凜《ありさわりん》。クラスで一、二位を争う位可愛い顔立ちで、華奢な容姿をしているけれど。図抜けた身体能力があり、バリバリに運動神経が良い。それに明るくて、誰とでも仲良くなれる性格だから、凜はクラスの人気者だ。まぁ、本当はクラス内だけに留まらないんだけれどね。
「ちょっと、そんな強く突進してこないでよ」
二人の突進により、机からダイブしてしまったペンを拾い上げながら文句をぶつける。それに対し、二人は「ごめん」と微塵も心がこもっていない謝罪を寄越した。そればかりか「そんな事よりもさぁ」と、満面の笑みで強引に話題を変えてくる。
「遅刻の原因が人助けって、もっとマシな言い訳なかったの?」
「ほんとそれ。どうせ寝坊したんでしょ?叶架、めちゃくちゃ朝弱いじゃん?」
ニヤニヤとしながら問いかける友花と凜に、私は「嘘じゃないし」と小さく唇を尖らせた。
「本当に人助けをして遅れたの。でも、実を言うとね、夢みたいな事ばっかり起きたんだよ。もうほんと訳分からない事ばっかりで、何が何だかって感じ。だから説明したくても、何一つ上手く説明出来ないの」
憮然としながら答えると、二人は「何それぇ」と眉根をキュッと寄せる。
「だからぁ、私も何がなんだか分からないんだって」
はぁとやりきれないため息を吐き出してから「もしかして私の夢だったのかなぁ」と、頬杖をつきながらぼそりと呟いた。
アレは確かに現実で、何一つ夢じゃないと思っているけれど。全部夢でした、となっても普通に頷ける。
夢だから、あんな化け物が出てきた。夢だから、ミミズクがペラペラ喋った。
ほら。やっぱり夢って言う方が、説得力がある。
「夢じゃなかったはずだけどなぁ」
心の中で呟いたはずが、うっかり口を滑らせてしまった。「あ、やば」と思った時には、もう遅い。
「とどのつまり、やっぱ寝坊って事でオケ?」
「デコピンしよっか?目、覚めるよ?」
呆れ一色の友花と、面白げにぴんっぴんっと何度も人差し指を弾いている凜。
即座にからかってきた二人のおかげで、私は「あぁ、もう!」と色々と吹っ切れた。
「寝坊したって事で良いよ!どうせ上手く言葉に出来ないしね?!私自身が何をしたって訳でもないし?!良いよ、良いよ!寝坊したって事にするよ、もう!」
「いや、逆ギレすんなよ」
友花に鋭く突っ込まれるが。私はふんと鼻を鳴らして「次、何だっけ?!」と、刺々しく尋ねる。
それに凜は「あ、誤魔化したぁ」と茶化してくるが。友花は「英文法、始めにミニテストだよ」と、ちゃんと答えてくれた。
「うわ、そうだった!やばっ!」
素直に教えてくれた友花に「ありがと、友花!」と礼を述べる。
だが次の瞬間、私は純粋に礼を述べた事を激しく後悔した。
「次の時間は佐伯《さえき》先生だから、そのままの状態だと大変だよ。しっかり目を覚ましておきな」
ニヤリとほくそ笑む友花に「ちゃんと起きてますから!」と食ってかかる。
憤慨する私に対し、二人は更に意地悪な笑みを浮かべ「いやいやぁ!」と、声を揃えて大仰に手を横に振った。
この二人、言動のハモり具合がほんとムカつく・・・!
「凜、起こしてあげな。叶架、まだ寝ぼすけさんだよ」
「任せて!アタシのデコピン、結構目が覚めるって評判あるから!」
どこまでも私をイジり倒す二人に、私は「もおおおー!」と唸る様に吠えた。
「ちょっとは真剣に聞いてくれても良いじゃん!意地悪!」
「凜と私が意地悪?ウチ等は優しい事しかしてないんだけどなぁ」
「そぉだよ。叶架の寝言に対して、真摯に向き合っているんだから。優しいって言ってもらわないと。ねぇ?」
一切悪びれず、強い結託を見せつけてくる二人。私はもう降参と言う様に、はぁぁとため息を吐き出した。