「行くな」
私の裾をつかんで、まだ年若い皇帝は呟いた。
後宮の一室。用意された部屋には、私と彼しかいない。
彼の寒月を思わせる白銀の髪が、さらりと揺れる。その前髪の奥の瞳は、珍しく熱を帯びていた。薄氷のような水色の瞳は、いつも不思議と陽だまりの猫を思わせる。しかしそれは、彼が今まで優しい笑みを浮かべてくれていたからだと気づいた。
真剣な表情の彼は、冷たく、熱く、少し、怖い。
「は......?」
思考が混乱する。
貴方もこういう顔が出来るのか、とか。
意外と男の人の手なんだな、とか。
借りた男物の服がよれてしまうからやめてほしい、とか。
そういうどうでもいいことを考えそうになる。
ただ、
――行くな
告白のような、子供の我儘のような言葉が、私の頭を甘く痺れさせた。
何をボサっとしているのだ。私は。
流されそうな自分を強く律する。そうだ、冷静にならなければならない。
だってこの逢瀬は......『期限付き』なのだから。
そもそも、一商家の娘である私が、夜中に皇帝と二人で会っていることがおかしいのだ。
これは猫と後宮、そして呪いの物語。
全ては、ひと月前に遡る。

「皇帝陛下には、愛猫がいたらしい」
その噂を聞けたことは、後宮に捨てられた私にとって良いことだった。
猫は好きだ。
母上が死んだ日も、
義母に追い出された日も、
父上が後宮行きを命じた日も、
猫たちは静かに私のそばにいた。
どうせここから出られないのなら、皇帝は猫の温かさを知っている人だと思いたい。
「莉莉、眉間にしわがよっているわよ?」
「は、はい。雪朱様。」
私が考えこんでいると、お仕えしている雪朱様が頬をつついてきた。雪朱様と話していると、沈んでいた気分が浮上する。
「貴女は私つきの女官なのよ。もっとほわほわ笑って頂戴な」
「ですが、私にゅ」
私などが笑ったところで......そう言おうとしたとき、雪朱様が私の頬をぱしっと掴んだ。
「いつ、皇帝陛下のお渡りがあるかわからないの。今はまだお越しにならないけれど、その時は莉莉にも機会があるかもしれないのよ」
利莉は可愛いのだから!そう力説する雪朱様は私よりも高位の雪妃である。北の国から招かれた彼女の部屋は広く、調度品も高そうだ。雪朱様の薄墨色の髪に刺さっている簪だけで、一生暮らせる者もいるだろう。
貴族相手の書舗(本屋)であった私の実家にもなかった希少本も多くある。
そんな彼女は、何かと私を目にかけてくれているのだ。そのことには本当に感謝をしている......が。
「......女官である私よりも、雪朱様のほうが皇帝と、その、機会があるのではないですか」
「こんな美女を一年も放っておくような殿方、こちらからお断りだわ」
「せ、雪朱様!」
北の戦闘民族の出であることもあり、かなり彼女は奔放だ。ただ、彼女のいう通り、皇帝は即位してから一年、どの妃のもとにも渡っていない。政治は順調であるし、まだ15と年若いため、女性に興味がないのであろう。
「そのぶん、莉莉は好きよ。強い人は好きだわ」
雪朱様は私のうねった茶髪(雪朱様は亜麻色と褒めて下さる)を手に絡める。
ちなみに瞳はそれより黄色がかった茶色(雪朱様は琥珀色とおっしゃる)である。
「父上からは、男勝りだと散々嫌がられましたけどね」
「そんなことないわ。莉莉は可愛いわよ。まるで......」
「まるで?」
カラカラと笑っていた雪朱様が急に押し黙る。
「何でもないわ」
雪朱様はたまにこういうことがある。大抵その目は少し沈んでいるのだ。後宮に捨てられ、失意の中にいた私は、雪朱様に救われた。できることなら、彼女の憂いを解いてあげたい。
そう伝えると、雪朱様は悲しそうに呟いた。
「ねえ、莉莉はいなくならないでね」
まるで、既にいなくなってしまった誰かがいるような言い方に疑問を覚える。
「私は......」
と、その時、血相を変えた宦官が飛び込んできた。

「――雪妃様!皇帝陛下が!皇帝陛下がいらっしゃいました!」
「はぁ!?」
雪朱様はすっとんきょうな声をあげた。
お渡りの無かった皇帝突然訪問してきたのだ。驚くのも無理はない。
--しかし、これは......。
私は無言で彼女を庇い、後ろに隠す。本来ならそのようなことをする必要はない。ただ、皇帝が妃のもとに足を運んだ、それだけだ。本来なら。
「ただ、ご様子が!」
宦官が大声でまくしたてる。
私にははっきりと聞こえていたのだ。その後ろから来る、たくさんの武器と防具のこすれる音が。
これは、ただのお渡りではない。事件の気配がする。
「私は逃げない。やましいことなんて何もないもの。ね、莉莉」
そういう雪朱様の声は震えていた。
確かにここで逃げるのは悪手だ。こちらにやましいことがないかぎり、逃げる必要はない。どうせ相手は大国だ。今逃げたからといって安全の保障はないのである。
騒ぎたてる宦官を外においやり、他の女官とともに雪朱様の支度を行う。私達自身も飾り立てる。ここは後宮、美しさは武器だ。
ややあって、多くの宮兵をともなって、皇帝が現れた。といっても、本人らしき人物は見えない。宮の前に停まった、馬車の中にいるのだろう。
私達の前には、体格の良い宦官が一人立っていた。何度か見たことがある。後宮のまとめ役をやっている人物だ。
彼は、怒りで顔を赤黒くしながら、雪朱様に言い放った。
「雪妃、いや唐雪朱、貴様皇帝陛下を
――呪ったな」
は?
呪った?雪朱様が、皇帝を?
あまりの言葉に、驚いて雪朱様を見る。
雪朱様は予想外の言葉に呆然としているようだった。その姿を見て、私は頭に血がのぼっていくのを感じた。
雪朱様がそんなことをするはずがない。
皇帝に恨みもないし、呪いなんて陰湿なことをする人ではない。彼女なら、正々堂々首をとりにいくだろう。
私は、声を張り上げた。
「恐れながら!」
「なんだ貴様は?」
男がじろりと私を見る。私はひるまない。こんな視線、義母の恐ろしさに比べればなんてことない。
「雪妃様つき女官の文莉莉と申します。雪妃様が呪ったとおっしゃる、そのいわれはなんでしょうか?」
「文......ああ、本屋の娘か。生意気な。ふん、いいだろう。教えてやる」
男が、奥の宮兵から木箱を受け取る。
私は絶句した。
両手で持ってちょうど良い大きさの箱には、びっしりと、皇帝への呪いの文言が刻まれていた。
「これが、皇帝陛下の通られる廊下の下にあった」
「その箱は......」
「猫鬼。猫を殺して箱に入れる呪いだ。聞いたことはあるだろ?」
大柄な宦官の言葉に、私の背筋に悪寒が走る。
聞いたことがあるなんてものではない。私は、その箱に見覚えがある。
後宮に来る前のことだが。
記憶が勝手によみがえる。
母上が死んだとき、枕元にはその箱があった。
私の母上も猫を使った呪い、『猫鬼』によって
――義母に呪い殺されたのだ。
「......なんで」
思わず身をかき抱く。母上が私の手の中で冷たくなっていった恐怖と悲しみが、ぶり返そうとしていた。
その呪い方を知っている。その箱の中身を知っている。
箱の中には――小さな猫の死体があった。
「ひゅっ」
小さな声が隣であがる。雪朱様の目が見開かれていた。その目から涙が零れ落ちる。
慰めたいのに、私の心はこわばって動けない。
「白っ......!白っ......!」
雪朱様は小さく猫のものだと思われる名前を繰り返す。私が後宮に入ったのは、一月前。それ以前に飼っていた猫なのだろう。彼女が時折見せる暗い表情の正体がわかった。
猫の死体は綺麗なものだった。白い毛並みもほんのり黒い耳も一か月前のものだとは思えない。しかし『猫鬼』とはそういうものなのだ。
懐いた猫を箱に入れて殺す。その死体は腐らず、周囲に呪いをまき散らす。
それが猫鬼。
「やはり貴様の猫か。『猫鬼』にはよくなついた猫が必要だという。この......悪女めが」
「わ、私じゃないわ!私がこんな、こんなこと!」
雪朱様が叫ぶ。
そうだ。可愛がっていた猫を殺すなんて、雪朱様がそんな酷いことをするはずがない。
そう弁明をしたいのに、母の死を思い出して、上手く呂律が回らない。
耳鳴りがする。雪朱様を庇う言葉を言うが、聞き入れてもらえない。
またか。また私は、大切な人を失うのか。
全ての声が遠くに聞こえる。ひと際若い宮兵のひとりがじっとこちらを見ていた。


――夢を見ていた。母上が亡くなった直後の夢。私は、本を読みあさっていた。幸い実家の職業上本は大量にあった。力だけじゃ守れなかった。私は知識をつけないと。昔、母上を守ると誓ったのに。本に涙が落ちそうになるのをこらえる。そこに
「にゃー」
家猫の一匹がすりよってきた。義母は多く猫を飼っていた。最近一匹減ったが。
当時私は、『猫鬼』についての本を読み漁っていた。
義母が猫を使って母上を呪い殺したという結論に達しようとしていたのだ。
「来るな。猫なんて嫌いだ」
私は、追い払う。
本に目を落とす。『猫鬼』は相手を三月のうちに呪い殺してしまう呪物である。作り方はよくなついた猫を殺して箱に入れ......
「にゃわー」
それでも、猫はうれしそうにその手にすり寄った。
その顔があんまり幸せそうで、猫があまりにも温かくて、胸がいっぱいになった。
思わず猫を撫でる。
私の涙は結局こぼれてしまった。

「母上......」
呟いたところで目が覚めた。調べものの途中で意識が飛んでいたようだ。急いで椅子から立ち上がる。
零れていた涙を袖で粗く拭い、頬を叩いて気合を入れた。
悠長なことはしていられない。
雪朱様が、『猫鬼』使いの疑いをかけられてから、二日がたった。彼女は今、後宮の北のはずれのほうにある、塔に幽閉されている。
私は、会うことも許されない。
皇帝側は呪いを解くまでそこから出さないという構えのようだ。
雪朱様の身分上、今殺されるというわけではないが、あまり時間はない。皇帝の呪殺は大罪だ。各方面への説明が終わったら、危険分子はすぐにでも殺したいのが本音のはずだ。
しかし
「猫鬼ならば、雪朱様のはずがない」
私はそう確信していた。
昔読んだ猫鬼にまつわる書物には、呪い返しのことが書いてあった。猫鬼の術者は言い当てられると呪いが一気に返ってくるのだ。疑いをかけられたとき、雪朱様は狼狽していたものの、他に変わった様子は無かった。
そのことは、もちろん大男に伝えたが、
「そんなことは聞いたこともない」
の一点張りだった。調べたところ、その本は南の希少本だったため、今から取り寄せることも難しい。
あの大男は頭が固い。どうにかしてその上司――皇帝に直談判しに行けないものか。
私は、一計を案じることにした。

「というわけで、よろしく頼む」
「そ、そんなぁ!莉莉の頼みなら受けたいけど......!で、でも」
友人の宦官、津津に頭を下げる。ちなみに、雪朱様の下に皇帝が来たとき、知らせてくれたのは彼である。津津は、宦官内でいじめられていたところを助けて以来、なにかと私の周りをうろちょろしている。
「男物の服を貸してくれるだけでいいんだ、頼む!」
「変装して直談判する気?そんなの、莉莉が危険だよ」
私は男装した上で皇帝のもとに忍び込むことを考えたのだ。幸い私は、体が軽い。忍び込むには持って来いだ。
「雪朱様を助けたいんだ」
私は頭を下げる。
「......お願いだ」
津津はそらしていた目を伏せ、ため息をつく。そして「わかったよ」と、頭をかいた。
「......莉莉が雪朱様のこと大切なのは、知ってる」
そういって、津津は自分の部屋から一着の服を取り出した。
「莉莉、くれぐれも危ないことはしないでね」
「ありがとう、津津」
私は、津津に礼を言う。彼はすこし照れたように頬をかいた。
ありがとう津津。捨てられた後宮であったが、大切なものが多く出来た。
津津、そして雪朱様。
私は、母上が死んだときから、生きながらえてしまったと、ずっと思っている。
どうせ死に損ないならば、大切な人達のためにどんなことだってできるだろう。
津津の「危ないことはしないでね」その言葉にだけは、私は頷くことはしなかった。

「よいしょ」
夜半、窓に足をかけ、そっと屋根に飛び移る。服は着替えてある。女官服では動きにくいし、万が一のとき、身分もバレやすい。
そのまま、ぴょんぴょんと屋根の上を越えていく。静かに、しなやかに、猫のように。
今日は満月だが、幸い雲が出ている。人にも見られる心配はない。私は夜目が効くし。
昔から義母は、私と母を殺そうとしていた。刺客が放たれたことも何度もあった。
そのため、母は私に体術、棒術、その他諸々を叩き込んだ。
母は強く、美しい人だった。津津は「商家の嫁がなんでそんな強いのさ」と言っていたが。そんなものだろう。今思えば、母は私が一人ぼっちになって生きていけるのか恐れていたのではないだろうか。
考えごとをしているうちに、後宮の塀まで来た。下の宮兵にばれないように慎重に足をかける。一生かかっても出ることが出来ない女性もいるその塀は、越えるとスッと寒気がした。その理由は、きっと高さだけではないだろう。
後宮は大きく東西南北に区分けされている。私のいたのは北のほう、冬宮があるエリアだ。そこからひたすら南下し、後宮の塀を越えた。
その更に南に皇帝の住む神清殿があるという。しかし......
「どうやって入ったものか......」
当たり前のことではあるが、皇帝の寝所の警備は厳重だ。
いや、そこは想定内なのだが。なのだが。突破する策が思いつかないまま、焦って来てしまった。
現場に来てみれば、事態が好転しないかと思ったのである。
「莉莉は、強くてとっても素敵だけれど......もう少し先のことを考えた方がいいわ」
ふと、雪朱様の言葉を思い出した。以前、女官のなくした簪を一緒に探して、式典前に服が泥だらけになったときの言葉だった気がする。
「にゃお~」
隣で呆れたような猫の声がした。実際の声ではなく、脳に直接訴えかけるような声。
「え!?」
すぐさま振り返ると、そこには猫らしきものがあった。
らしき、といったのはその体が青白く透けていて、目が四つあり、しっぽらしきものが数本生えていたからだ。猫ではない。かといって別の生物でもない。明らかにこの世のものではない!
「ば、ば、ばば、ば、化け猫......!」
必死に悲鳴をこらえる。実家には猫が沢山いたが、このような猫は見たこともない。あったとしても、本の中の化け物だ。
「にゃ」
私が絶句していると、猫(?)は不敵に鼻を鳴らして、「ついてこい」とでも言うように背中を向けた。その背中を見ていると、妙に安心感がわいてくる。
「私を......案内してくれているのか......?」
「にゃ」
なんだかもう、予想外すぎて、逆に落ち着いてきた。
猫の背中を観察する。透けていて良く見えないが、全体のシルエットは丸く、茶色っぽい。猫は、心残りがあると化け猫になるという。昔は愛された茶虎猫だったのだろう。彼にも心残りがあるのだろうか。
「にゃっ、にゃっ、にゃっ」
歩くたびに声がでるのが何とも可愛らしい。こうして見ると、ただの猫のように思えてくる。
ただ、体が透けて、目としっぽが沢山あるだけの普通の猫というのは。
「......ないな」
猫を追ううちに、神清殿から遠く離れたところまで来た。城の西の壁に近い、普段はあまり使われていなさそうな地域だ。そこの小さな一棟の前で、猫は止まった。
「ここに、入れば良いのか?」
そう聞いて猫のほうを振り向くと、
――猫はもういなかった。
「なんだったんだ......」
小さな棟はかなり古く、蜘蛛の巣を手で払いながら進む。その奥には美しい天女の像があった。月からこの国に舞い降り、繁栄をもたらした天女、皇帝はその子孫だ。
古びた棟にこんなに美しい像があることに違和感がある。
「......」
ふと思い立ち、天女の像をゆっくりと押す。私は息を飲んだ。闇がゆっくりと顔をだす。後ろが空洞になっていたのだ。
宮殿には、皇帝のための抜け道が多数存在しているらしい。そう本で読んだことがある。
ここは、神清殿への隠し通路だろうか。
ずーっと歩いて、前後の感覚があいまいになる。突き当りの板をずらした。

まず目に飛び込んできたのは月だった。
強い風に流されて、雲は流れていってしまったようだ。
私はだれかの部屋の鏡台の裏に着いていたらしい。その部屋の正面には一人の少年がいる。
窓を開け、月を見ていた少年は、その薄氷色の瞳をこちらに向けた。
彼の肩までの銀の髪がサラリと揺れる。銀の髪を持つ人物はこの国に一人だけ。
「それで君は、僕を殺すつもりなんだ?」
少年――皇帝は、柔らかく微笑んだ。


「それで君は、僕を殺すつもりなんだ?」
「こ、殺す?」
皇帝の言葉に、私は面食らう。彼のあまりの美しさに呆けてしまっていたのも関係しているだろう。あるべきところに、あるべきものがある。この世のものと思えないほど整った顔立ちは、少しの幼さと微笑みで、かろうじて優しい印象を帯びている。
天女。そういえば、初代皇帝は月から来た天女を娶ったという。
私は一つ息を吐く。落ち着け、私。
「殺すつもりはございません。むしろ皇帝陛下をお助けするために参りました」
スッと居住まいを正す。蜘蛛の巣が頭に絡まっている姿だが、多少はましだろう。
「へえ、助けてくれるの」
皇帝は一切表情を変えない。柔和な笑顔のままだ。まるで、陽だまりの猫のようにあたたかい笑み。不審者だと声をあげ、逃げることもしない。
自分の生き死にが他人事であるかのようだ。
私は続ける。
「私は後宮で働く。宦官でございます」
ふーん、と興味があるのかないのかわからない返事を皇帝は返す。
どちらにせよ、話すしかない。
「――以前見つかった『猫鬼』の犯人は別におります」
猫鬼の名前をだしたとき、初めて皇帝が表情を変えた。ただ、一瞬のことだったので感情までは読み取れない。
私は丁寧に、以前読んだ書物のこと、それによると術者は言い当てられると呪いが返ってくるはずであることを伝えた。特に雪朱様は犯人ではないことを強調する。
「そういうわけで、まだ皇帝陛下の呪いは解けておりません。真犯人を言い当てなければ――」
「ねえ」
そのとき、黙って聞いていた皇帝が口を開いた。
「君、名前は」
「はい?り、李とでもお呼びください」
本名を明かすわけにはいかない。後宮から抜け出してきたこともあるし、雪朱様と仲の良かった女官だと知れたら、発言を信用してもらえない。
「じゃあ、李」
皇帝はふわふわと楽しげにこちらに近づく。跪いて話していた私の顎をそっともちあげた。薄氷の瞳に呆けたような私が映る。
「君が犯人を見つければいい」
「私が、ですか」
思わず息を飲む。
「李は雪妃を助けたいんでしょ?いいよ、信じてあげる」
彼の目の光が消える。底が見えず、怖い。真意まで見抜かれていたようだ。
皇帝は、スッと目をそらして、呟いた。
「ついでに僕も助けてよ」
その声音が、表情が、傷ついた猫のようでなぜか胸が苦しくなった。猫は死に際を見せない。弱った体を引きずって、いつの間にかいなくなるのだ。
少年の姿はまるでいなくなる前の猫だ。
「失礼いたします」
だから私は衝動的に
――皇帝の頭をなでた。
「は」
皇帝が固まる。彼が動揺したのは、これがはじめてだ。部屋に私がいた時も、呪いの話をしたときも、目に見えて動揺することはなかった。
それなのに、今は固まっている。
その間にも私は彼の頭を優しくなでる。銀の髪が私の手からこぼれた。猫よりも毛並みがいい。いや、毛並みというのは失礼か。
「......どういうつもり」
「え、えーと」
私も自分がわからない。正直皇帝本人よりも混乱している自信がある。こんな畏れ多いこと。でも、今はこうしなければ、彼はどこかに行ってしまう、そんな気がした。
「以前、別の本で読みました。猫鬼は殺された猫の悲しみからきているため、それをなぐさめると症状が和らぐ......と」
本当である。しかし、そこまで信憑性の高い本ではなかったが。
しかし、我ながらこれはひどい。
「申し訳ありません。今やめます」
私が手を放そうとしたとき、
「待って」
「え!」
皇帝が私の手をつかんだ。そしてまた、自らの頭に私の手を乗せる。そのまま独り言のように続ける。
「......痣が薄くなってる」
皇帝は袖をまくって見せた。上質な絹で出来た袖の向こうを見て、私は絶句する。
「呪詛......」
それは、猫鬼の箱の表面に書かれていた呪詛の言葉だった。それが皇帝の腕に痣のように浮かび上がっている。
「さっきまではもっと濃かったんだ」
「そんな」
そんななんでもないことのように言うな。言葉が喉まで出かける。
ここまで強い呪いの効果が、痣が出来るだけではないはずだ。もっと辛い症状も抱えているだろう。皇帝はそれでも笑っていたのだ。まるで猫鬼に侵されているのを隠していた母のように。
(母の苦しみに気づけなかった私に、何の生きる意味があるのか)
幼い頃の叫びを思い出す。私は泣き出してしまいたいような気持になった。
――皇帝はあと一月で呪殺される。
その事実に気づいてから、私はどうやらおかしくなってしまったようだ。
私が、後宮に入ったのが一月前で、猫鬼が仕込まれたのが推定二月前。猫鬼の発動条件の三月まで、あと一月かそこらしかない。
「......」
私は無言でなでるのを再開する。
しばらくそういう時間が続く。月夜の晩に囁きながら頭をなでる。見た目だけだと少年同士で睦あっているようにしか見えない。しかし、私は実は女であるし、そこに甘い感情はない。
ただ、切実さはあった。
「ふふっ」
しばらくなでていたら皇帝が目を細めた。本当に猫みたいだ。
「君は撫でるのが上手いね」
「......猫を撫でると、すぐ腹を見せると評判でしたので」
どうか、殺された猫の、この少年の、癒えない傷が癒えますように。そう念じながら優しく、撫でる。
月が目に見えて西に落ちたころ、私は手を放した。皇帝はじっとこちらを見つめたが、私も後宮に戻らなければならない。その旨を伝える。
「私も後宮での務めがあります。それに、猫鬼の犯人を捕まえなければならないですし」
「そう......」
すると彼は、しばらく思案した。
そして
「良いことを思い付いた」
そう言って手をたたく。ほころんだ花のような笑みは、見ていると心がじんわり暖かくなる。
彼は私の手をそっとすくいあげた。
「李、僕と契約を結ばない?」
「契約?」
彼の瞳に私が映る。
「君が猫鬼の犯人を見つけられるよう、僕から書状を出す」
「良いのですか」
皇帝からの書状があれば、一女官であっても行動しやすくなる。特に目上の妃に対して話を聞きやすい。
「その代わり5日に一度、こうして会って欲しい」
「会う?」
私は驚いて、聞き返す。むしろ、事件の調査報告が出来るぶん、私としてはありがたいが。
「君はこっちに来づらいだろうから、僕のほうから後宮に行く。だめかな?」
彼は命令してこない。本当に、想像していた皇帝像とはかけ離れている。
もしかしたら、心細いのかもしれない。呪いにかかっている15歳の少年なのだから、当たり前だ。
......安心させてやりたい、そう思った。私は17歳。彼より二つも年上なのだから。
私は、笑って答える。
「わかりました。お待ちしております」
「良かった。じゃあ、約束。」
「約束です。また5日後に」
こうして、私は皇帝と契約を結んだ。嘘と真が入り混じった期限付きの契約。
その約束を知っているのは、私達を除いては満月だけだった。
......そういえばあの化け猫は何だったのだろう?


そういうことで、翌日から事件の捜査を始めた。
「莉莉が無事で良かったよ!」
「津津は心配性だな。でもありがとう」
泣きついてきた宦官の津津に礼を言う。彼の男物の服は大変役にたった。
「あの服はもう少し借りさせてくれ」
皇帝は私のことを宦官だと思っている。今後会う時もあの服を着なければならないだろう。
「もういいけどさ。それで、どうやって犯人を見つけるつもりなの?」
「まずは、当時の状況を知りたいと思っている」
私は一月前から後宮に来たから、猫鬼が用意された二月前の様子を知らない。雪朱様に聞きに行きたいが、昨日皇帝から会うなと止められた。
「僕も二月前は、夏宮のほうにいたからなあ」
津津が申し訳なさそうに頭をかいた。
この後宮は、東西南北に区分けされていて、それぞれに春宮、秋宮、夏宮、冬宮と季節に対応した宮がある。
そこの主が、春妃を始めとした四妃である。ちなみに雪朱様の雪妃は、北の区画で冬妃の次の二位だ。
私はその更に更に下、ただの女官である。
「まずは、地道に聞き込みだな」
こちらには、皇帝の書状もある。頑張りあるのみだ!

「何も良い情報が無い......」
5日後皇帝に会った時、私は落ち込んでいた。あれから北の区画で色々と聞き込みをしてみた。
しかし、そこで得られた情報はだいたい似たようなものだったのだ。
「二月前に、雪妃は子猫を飼っていたわ。すごく可愛がっていて......。たしか、白という名前で、耳のほうが少しだけ黒い猫。わざわざ南方から取り寄せたんですって。最近見ないけれど」
と、いうもの。曖昧な情報が確定しただけ。雪朱様が犯人でない証拠や、真犯人の手がかりには程遠い。
「雪朱様が白という猫を飼っていたのは、本当」
猫鬼には、よく懐いた猫が必要だ。他の者が雪朱様の猫を攫って殺したとしても、呪いは成立しない。
ただ......。私は皇帝の痣を思い出す。呪いは確かに成立しているのだ。
駄目だ。思考が行き詰ってきた。
「ここは猫に注目して他に猫を飼っているものがいないか、調査を......」
「あのさ」
「もしくは捜索範囲を他の区画まで広げて......」
「ねえ」
「輸入元の南方も調べなきゃ......」
「李!」
集中して考えていたら、手の下から不満げな声がした。私は我にかえる。
「人をなでているのに、上の空だなんて、良い身分だね」
「申し訳ありません。皇帝陛下」
以前会ったときに約束した通り、皇帝は後宮の一室に秘密裏に来てくれた。
私は今日も男装している。
そして、彼の要望通り、こうして撫でて呪いを癒しているのだが......。
「本当に、私でよろしいのですか?後宮の妃の方々に慰めてもらったほうが」
お渡りを待ち望んだ彼女たちなら、よろこんで皇帝を癒すだろう。そうすると皇帝はにこやかに笑って言った。
「僕は彼女たちを信用できないんだ」
「そんな......」
私は絶句する。柔らかい皇帝の表情に反した棘のある表現に驚いたのだ。
「文官も、武官も、妃も、宦官も、みーんな信用できない」
「そんな、でも」
「うん。信用できる人間がどこかにいるはずだってことも分かってる。でも、僕はそれを見分ける術を知らないんだ」
皇帝は、暗い話はおしまいというように手をたたく。
「だけど、李。この時間限定で、君は信頼しているつもり。だから心して撫でて」
「......はい」
私がなでると皇帝は猫のように水色の瞳を細めた。
「こうしていると、まるで友達が出来たみたいだ」
「友達は、このようなことは致しません」
「じゃあ、母だ」
彼の口から出た、母という言葉にドキリとする。母はいまだに私の心の多くを占めている。皇帝はどうなのだろう。先の皇后は存命だというが。
「母......ですか。私は男ですよ」
「男、なんだ?」
「お、男です」
たじろいだ私に、皇帝は私の頬にそっと手を滑らせた。そして悪戯っぽく笑う。
「では、僕は男色の気があるのかもしれないなあ」
「......あの!」
からかうのもたいがいにしてほしい。先ほど皇帝は言ったではないか。誰も信用していないと。それは私も例外ではないだろう。
勇気をだして、皇帝に聞く。
「皇帝陛下は、どうして私の言葉を信じて下さったのですか?」
私は常々気になっていたのだ。私のような不審者をなぜここまで気にかけてくれるのか。
疑問を込めて皇帝を見る。
彼はにこりと笑って言い放った。
「その髪色が気にいったんだ」


「髪色......?」
翌日、水たまりに映った自分の顔を見て、私はひとり呟いた。私の髪色は母と同じ茶色である。黒髪が多いこの神月国では少し珍しいが、そう少ない色でもない。それこそ妃にもこの髪色は数人いる。東の区画の主、春妃もこの色であるという。雪妃様が言っていた。
「茶色......」
先ほどから引っ掛かっている。最近この色をどこかで見たような気がするが、思い出せないのだ。
今日は南区画に来た。ここらへんで猫を飼っている妃を探そうと思ったのだ。猫鬼に使われたのは雪朱様の猫とよく似た、別の猫ではないか、そう考えたのである。
猫を飼っている妃に会って、後宮の猫事情を聞きだすのだ。ちなみに今は女官服である。
「!」
考え込んでいると、視界の端で何かが動いた気がした。
私は動いたほうに体を向け、構える。
廊下の横は小さな庭のようになっている。そこの柏の木があきらかに揺れたのだ。
「何者だ?」
私が問うと、呼応するように木がゆさゆさと揺れた。
「そこの人~助けてくれませんかぁ?」
なんだか気の抜けるような声がして、私の肩の力がぬける。どうやら誰かが木に引っ掛かっていたようだ。化け猫のことといい最近は不思議なことばかりおこる。
「ちょっと待っていてくれ」
私は、廊下の欄干をひらりと飛び越え、庭に向かう。そう大きい木でもなかったため、難なく登れた。
「大丈夫か?」
「すごいなぁ~」
木の上では、呑気そうな少女が引っ掛かっていた。小脇にかかえて木から降りる。タンっと小気味よい音を立てておりると、少女がぱちぱちと不揃いな拍手をした。
愛らしい顔立ちをした少女だ。金色の髪には淡い色の桃花の飾りがついている。せっかくの柔らかそうな衣は、ひっかけたのかぼろぼろである。
少女はそんなことは気にせずに頭を下げた。
「ありがとうございます~私、とっても困っていたんです。
――あれ、この前も助けてくれた人じゃないですかぁ?」
よく見ると、彼女は見たことがある。大事な式典前に簪を失くしてしまった彼女だ。簪探しを手伝って雪朱様に怒られてしまった、あの時の。
どうやら彼女は「うっかり」な性分らしい。私は思わず苦笑する。
「礼には及ばない。でも何であんなところに」
「ああ~それは」
少女は懐から大事そうに何かをとりだす。それは
「にゃあ~」
小さな三毛猫だった。
「これは......」
「へくしゅっ。友達の猫なんです。はくっしゅ。遊びに来たら、偶然木にひっかかっているのを見つけて~。へくしっ」
助けようとして、自分も引っ掛かってしまった、とのことだった。
それはそうと
「くしゃみが出ているようだが、大丈夫か?」
私はヒョイと猫を預かった。猫は耳だけをぴくぴく動かした。以前本で読んだことがある。特定のものに対して、くしゃみをしてしまう体質があると。
もしかしたら彼女もそうなのかもしれない。猫に反応して、くしゃみをしてしまう体質。
その旨を伝える。
「へくしっ、ありがとうございます~ここに来るといつもこうなんです~」
「......友達には悪いが、次は君の部屋で会ったほうが良いかもな」
くしゃみだけで済めば良いが、体質は下手をすると生死にも関わるらしい。私がそう言うと、少女は少し顔を暗くした。
「でもですね~私のいる宮の近くでもくしゃみが出ることがあるんですよお」
ふと、私は気づいた。彼女がくしゃみをしてしまうということは、そこに猫がいるということではないか。
「いつから、くしゃみが出るんだ?」
歩きながら少女に尋ねる。
「三月前からですかね~今もよくします」
三か月前。事件の少し前だ。
もう少し踏み込んで聞いてみる。
「......えーと、貴女の名前は」
「申し遅れましたぁ。わたし、桃妃の花結結と申します~」
え?
私は今までの不敬な言葉使いを思い出して青くなる。
彼女は、西区の四の妃、桃妃であった。

「本当に、私がここにいてよろしいでしょうか」
冷や汗をかきながら私は言った。周りの女官の視線が痛い。目の前には美しい器に継がれたお茶と甜點(おやつ)がならんでいる。大変美味しそうな月餅だが、妃二人に囲まれていては、喉を通るものも通らない。
「いえ~。莉莉さんは、私の恩人ですから」
桃妃がひらひらと手を振る。私は彼女とその友人の夏妃に、お茶に招待されたのだ。
そう、夏妃。
夏妃だ。
なんと南の区画の主である、夏妃が目の前にいるのだ。
式典以外で初めて見る夏妃は眦に紅をさした気の強そうな少女であった。皇帝の年齢を鑑みてか、後宮の年齢層は比較的低めだ。
漆黒の髪は大きく結われ、赤を基調とした衣には金の刺繍がされている。赤は夏妃だけの色で、本当の真紅は彼女しか身につけることを許されない。随従を従えて茶会の席に彼女が現れたとき、私は間抜けな顔をしていただろう。
母が昔言っていた。「偉い人は怖い人よ」と、だから私は権力に弱い。
「ふにゃぁ~」
茶会の席に夏妃が座ると、三毛猫がそこにすりよった。そのまま夏妃の女官に回収される。桃妃の体質のことを私が伝えたから、その配慮であろう。
夏妃は口をきっと結んでいたが、こほんと咳払いをしてから話し出した。
「莉莉、といったかしら。あたしからも例を言うわ。大公を助けてくれてありがとう」
夏妃は真正面から、こちらを見る。印象的な黒い目で見つめられると、心臓が跳ねる思いだ。
しかし、「大公」とはあの三毛猫のことか。ずいぶんまた立派な名前である。
「しかも、結結は二回も助けられたのでしょう?こんなお茶じゃ足りないくらい」
「い、いえ、そんな大したことはしておりません」
私が慌てると、桃妃がのんびりとした声をあげた。
「えへへ~。助けられちゃいました」
「結結!」
夏妃がきつい眼差しで桃妃をにらむ。
「どうして得意げなのよ。貴女も妃の端くれなのだから、しゃんとしなさいと......」
「あわわ。華那、すとっぷ。莉莉さんの前ですよぉ~」
「そうやって話をそらそうとしても無駄」
異国風の言葉を使う金髪の桃妃と、神月国有数の名家の子女である夏妃。不思議な組み合わせだ。
「......お二人はご友人なのですか?」
私がそう尋ねると
「違うわ」
「そうですよ~」
真逆の答えが返ってきた。どうやら二人は仲良しなようだ。なんだか雪朱様のことを思い出してしまった。
雪朱様のために誓ったではないか。必ず真犯人を見つけてみせます、と。
私は決意を改めて口を開いた。権力に怖気づいている場合ではない。
「あの。ひとつお願いがあるのですが」
「何かしら?一つくらいなら、よろしくてよ」
「なんですか~?」
二人が、各々の形で答えてくれる。
「この後宮で猫を飼っている方を教えてほしいのです」
「「猫?」」
「だめでしょうか?」
虚を突かれたような顔を夏妃がする。
「そんなことは言ってないじゃない。でも、猫、猫ねぇ......」
怪訝そうな顔をした後、夏妃は指をおり始めた。
丁寧に教えてくれる。
「あたしと、西の菊妃と葛妃、北の雪妃、東はいないわね。あとはうちの区画の......ねえ、これ女官も入るのかしら?結構な数になるけれど」
「はい出来れば」
「莉莉、だったかしら。貴女物好きね」
夏妃が呆れたような表情になる。ここ神月国では、猫は国獣として大切にされている。ゆえに飼っている妃も多く、猫鬼が禁忌とされているのだ。
夏妃がお茶を飲みながら、女官から宦官まで更に詳しく飼い主を挙げていく。
「華那は、猫好きですからね~。詳しいですよぉ」
桃妃は月餅を食べて足をぷらぷらさせていた。その間にも夏妃はつらつらと言い連ねていく。
「......のところの宦官とあとは鵜妃のところの女官。そうね。これで全部よ」
全てを聞き終えた私の中に、ふと疑問が生まれた。
「先ほどから気になっていたのですが、何故東には猫がいないのですか?」
夏妃があげた妃にも、女官にも、宦官にも、東区画で猫を飼っている者はいなかった。
夏妃はちらりと東の方を見やって答える。
「東はね、春妃が猫嫌いなのよ」
「何故お嫌いかはわからないんですけどね~。向こうは猫禁止なんですよぉ~」
桃妃がそう続ける。
猫好きがいれば、猫嫌いもいるだろう。しかし区画ごと猫を禁じるとは、よっぽどだ。
私が考え込んでいると、夏妃は場を切り替えるようにこちらを扇で指した。
瞳の奥に好奇心が見える。
「貴女の質問には答えたわ。そろそろ、こっちも聞きたいのだけれど」
「私も気になります~莉莉さんって何者なんですか~?」
「な、何者?」
二人は顔を見合わせた。
「だって~」
「ねえ」
「さっきの身のこなしに、そつのない所作、普通の女官じゃありませんよぉ~」
私は面食らう。体術は多少自覚していたが、所作など考えたこともなかった。
「母が礼儀に厳しい人ではありましたが......」
「だったら、お母さまがどこかのご令嬢だったのかもね」
「わたし、きになりますよ~。もしかして......」
女三人、かしましく茶会は進む。
気づいたころには夕方になっていた。
「そろそろお暇しなくては」
桃妃と夏妃に別れを告げると二人はにこやかに応じてくれた。
「ぐっばい、莉莉~。わたしと華那とまた遊んでくださいねぇ。華那の猫好きリスト、あれ、お友達候補リストなんですよ~」
夏妃が小さく悲鳴をあげて桃妃に詰め寄る。
「ちょっと結結!余計なこと言わないでよ」
「あ!華那そんなに近づくとくしゃみが......へくちっ」
どうやら、夏妃の服に猫の毛がついていたようだ。
最後まで元気な二人だ。くしゃみも......
くしゃみ?
私を違和感がおそう。今日聞いた話はどこか矛盾していた。
どこだ。どこが矛盾していた?
頭を使うのは苦手だが、頑張るしかない。

帰り道、思考を整理する。
猫にくしゃみをしてしまう体質の桃妃は、東区画に宮がある。
東区画は猫嫌いの春妃が治めているはずだ。
しかし、桃妃は三月前からくしゃみが出るという。
「ここがおかしい」
【誰かが、東区画で隠れて猫を飼っていた?】
謎が解けたら、また次の謎だ。三月前ということは、猫鬼事件との関連もあるかもしれない。
次に皇帝に会ったとき、彼に相談してみるか。


「で、李は美しい女人たちと遊んでいた、と」
「違います!情報収集です」
皇帝に相談したところ、ひどい感想が返ってきた。自分の性別に嘘を混ぜて先日のお茶会の話をしたのだ。
「いいよ。李も男の子だ。多少の浮気は許すよ」
「ご冗談を」
私は皇帝に冷ややかな目線を送る。この口説くような台詞にも慣れてきた。
今日も皇帝は、白銀の髪が輝いていて、まるで天女のようである。本人には口が裂けても言えないが......神々が作ったようなその美貌に少し見惚れる。
そして、変化に気づいた。
「......皇帝陛下。貴方、お疲れですね」
「!」
先ほどまで、余裕の笑みを浮かべていた皇帝の表情が一瞬にして消える。そのあと、悪戯がバレた子供のようなバツの悪い顔をした。こうやって見ると、やはり彼は青ざめている。
「――気づかれたのは初めてだ」
「なんで、隠していたんですか」
「だってつけこまれるだろう?」
彼の袖からチラリと腕が見える。腕の痣が濃くなっていた。
まただ。
また、そうやって傷を隠す。猫のように。......母のように。
「そんな、つけこむだなんて」
彼は一体どんな生活を送ってきたのだろう。彼が痛みに悲鳴をあげなくなるまでに、いくつ、傷つけられたのだろう。
私の心の中に怒りとも悲しみともつかない感情が広がっていくのを感じた。
「李?」
そんな私を、皇帝が心配そうに見る。
なんで私の心配をするんだ。大変なのは貴方のほうだろうに。
生きることに執着しない彼のために、一体何ができるだろうか?
私は考えた末、一つの結論に達した。
声を絞り出す。
「私が守ります」
「え?」
私は意を決して、彼の目を見る。
白銀の髪を持つ皇帝。たった15の男の子。
これは私のけじめだ。誓いだ。
「私が陛下をお守りします。呪いだって解呪いたしますし、頭も何度だって撫でて差し上げます」
「急にどうかした?僕なら大丈夫......」
「だから――そんな悲しいことを言わないでください」
彼はポカンと目を丸くした。
私はまっすぐ彼を見つめる。これが私の思いだ。どうか、貴方の痛みを教えて欲しい。出来ることなら、癒したい。そういう、わがままな願い。
皇帝はそんな私を見て、少し顔をゆがめた。眩しいものを見るような、泣き出しそうな、そんな顔をする。
そして、
「李、ごめん」
「!」
全身がぬくもりに包まれる。彼がそっと私を抱きしめていた。
雪朱様にだきしめられたことは何度もあった。でも、それとは違う。
暖かくて、骨ばっていて、緊張する。
耳にかかった銀髪から、甘い、茉莉花の香りがした。
心臓が早鐘をうつ。
「へ、陛下!?」
「僕ね。猫を飼っていたんだ」
そんな私にはお構いなしに皇帝は話を続けた。
抱きしめられているから、彼の顔は見えない。
「星星っていう、茶色の猫」
「茶色の......」
私は、いつか会った化け猫を思い出した。彼は茶虎の猫であった。もしかしたら皇帝の飼い猫だったのかもしれない。
でも、化け猫になったということは。
「母上に、殺されたんだ」
「皇太后に......?」
皇帝の声には感情が乗っていなかった。当たり前のことのように、簡単に。
私には想像もつかない地獄の中を、彼は生きてきたのだろう。
「そのときに決めたんだ。もう大切なものは作らないって」
決めたのになあ。そう言って、彼は私の耳元でため息をついた。頭の重みと温かさが肩に伝わる。
「李は、いなくならないでね」
ささやくような言葉に応えるように、私は彼の背に手をまわした。
「はい。私はお傍におります」
これは、期限つきの逢瀬だ。事件が終わったら、私はただの女官に戻るし、皇帝は妃を娶る。
何故だか今は、そのことを考えたくなかった。


「少し、楽になってきた気がする」
皇帝がそういったのは、彼が私を抱きしめてから、しばらくたった頃だった。
「良かったですね」
「李。頬が赤いよ」
「あ、貴方が急に抱きしめるからです。全く......」
呪いの緩和になったのなら、良かったですが。そう言って私が頬をふくらませると、皇帝は花がほころぶように笑った。
「李はかわいいね」
「なっ......!」
「そんな可愛い李に贈り物」
私が真っ赤になったのを横目に、彼は文机から書類を取り出した。
「これは......名簿、ですか?」
「正解。正確に言えば、過去三月以内に行商を呼んだ宮の名簿」
私は驚く。皇帝も裏で色々と調べてくれていたのだ。私としては、体調のほうも大事にしてほしい。だが、事件の解決が彼の生死に関わっているし、これで東区画で秘密に猫を飼っている妃がわかる。
この後宮に野良猫はいないため、どうしても猫は行商から買う形になるのだ。
とにかく、すごくありがたい名簿である。
「陛下、ありがとうございます」
私は名簿に手を伸ばした。皇帝がひょいっと高く名簿を掲げる。
「あの......陛下?」
皇帝は、私より背が少しだけ高い。年齢的には私が上だが、そうおかしいこともない。ただ、そのせいで名簿を掲げられると、届かない。
しょうがないので、私はぴょんぴょんと跳ねる。
「陛下!お戯れを!やめて!ください!」
「ふふ」
「何を笑っているんですか」
私にはその名簿が必要なのだ。怒りながら跳ぶ。そうすると皇帝は可笑しそうに笑った。
「じゃあ、李。これを渡す代わりに......友達になってくれない?」
「そんなもの!なくても!なりますよ!!」
私が跳ねながらそう言うと、皇帝は心底嬉しそうな顔をした。
月はない、新月の夜だった。呪いの発動まで、あとたったの半月である。


「ねえ莉莉、本当に行くつもりなの?」
翌日、皇帝からもらった名簿を見た私は、東区画に向かっていた。
急ぎ足で進む私を、おびえきった津津がなんとか止めようとしてきた。
「止めるな、津津。私は事件を解決せねばならないんだ」
「だからって、春妃様のもとに行くだなんて......」
そう。昨日貰った名簿を見たところ、三月以内に東区画では、行商の来歴がある妃は、東区一の妃、春妃のみだった。
これは、一つの可能性を導きだす。
【猫嫌いのはずの春妃が猫を飼っている?】
しかも、彼女が呼んだ行商人は南から来ている。これは雪朱様の猫の出身と同じである。
ばらばらだった物事が、春妃を中心にまとまってきている。
「とにかく春妃様に事情を聞くしかない」
幸いこちらには、皇帝の書状もある。これは皇帝にしか使えない紙に、「この者の言うことを聞くように」と書いてある。
これさえあれば、門前払いは無いはずだ。......多分!
「莉莉って、時々無鉄砲だよね......」
津津が呆れたようにつぶやく声が聞こえた。
「それのおかげで、この前私は、桃妃や夏妃とも仲良くなれたんだぞ」
私は得意げに言ってみる。とはいっても、向こうの厚意に甘えただけだが。
「す、すごい!莉莉、その話詳しく......」
「すまないが、また後でな」
私は名残惜しそうな津津をおいて、春宮に向かった。


「春妃様はいらっしゃいません」
宮の前で二時間ほど待たされた後、私はそう言われた。がっくりくる。女官服が風に揺れて大変寒い。
居るかどうかの確認に二時間もかかるものか。
どうやら、ただで通してはくれなさそうだ。
「こちらには皇帝陛下の書状もあります。どうかお目通り願えないでしょうか」
「いらっしゃらないと言っております」
侍女は、書状を一瞥すると無機質にそう言った。
「でしたら、帰ってこられるのをお待ちいたします」
「春妃様はそういったことは好みません」
取り付く島もない。ここはいったんあきらめるふりをして、忍び込むか。
「わかりました。春妃様の猫について知りたかったのですが......」
「今、なんとおっしゃいましたか」
私が物騒な計画を考えていると、侍女が聞き返してきた。
「ですから春妃様の猫を......」
私がそう言うと、彼女は目に見えて青くなり、宮のほうにひっこんでいった。
しばらくして戻ってくる。
そして、唖然としている私に言い放った。
「春妃様がお会いになるそうです」


宮の奥に通されると、そこは月の都のようだった。磨かれた家具がきらびやかに並んでいる。
春妃は部屋の中央で、長椅子にもたれていた。一目で彼女が春妃だとわかるほど、美しい。透けるような薄青色の衣に亜麻色の髪が映えている。歳は18、19といった風情で、女性らしい柔らかな体つきをしていた。
「待たせてごめんなさいね。なにか行き違いがあったみたい」
ゆったりと、甘い口調で春妃が話す。
「いえ、それで春妃様にお話しを伺いたいのですが......」
猫のことで、と付け加える。
「あらあら、言っていなかったかしら?わたし、猫は苦手なの」
「そうですか......」
「だって、ほら。いっぱい鳴くじゃない。にゃあにゃあって」
そう言って可愛らしく笑った。彼女の柔らかい口調はつい心を許してしまいたくなる。それほどに魅力的だった。
でも私はこれで丸め込まれるわけにはいかない。雪朱様と皇帝を助けるためにも切りこまなければ。
「でも、春妃様は猫を飼っていらっしゃいますよね」
その途端、春妃の雰囲気が変わった。口元は相変わらず微笑んでいるが、目だけが笑っていなかった。一瞬の後、また元の柔らかい雰囲気に戻る。
「そうね。嫌いだけれど、飼っていないとは言ってないわ」
やはり推論は当たっていた。春妃は猫嫌いにもかかわらず、猫を飼っている!
「いつからですか?」
「ええと、三月前から」
私は推理を広げる。三月前から飼っている白猫を途中で猫鬼に使ったとする。しかし桃妃は今もくしゃみがすると言っていった。
となると、
【今飼っている猫は雪朱様の猫ではないか】
雪朱様に罪をなすりつけるためには、彼女の猫を行方不明にする必要がある。その上、自分の猫がいるという証明にもなるから一石二鳥だ。
「耳だけが黒い白猫ですか?」
「あらあら、怖い顔。でも残念。わたしの猫は黒い猫なの」
春妃は、侍女に何かを耳打ちする。どうやら猫を持ってきてくれるようだ。
しかし、本当に黒い猫だったとしたら、私の推理は外れたことになる。
奥から侍女が布を被せた檻を持ってきた。
その中にいたのは、
「......黒猫、ですね」
「ええ、黒猫ですわ」
春妃が勝ち誇ったように、微笑む。
猫の体は柔らかい黒色だ。春妃の膝に乗せられて、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
私の推理の勝ち負けは明確だった。
「話を聞いていただき、ありがとうございました」
「あら、もう行ってしまうの?ゆっくりしていけばいいのに」
「いえ、他にも調査がありますので」
春宮の廊下を渡る間、私は無言で下を向く。
私は甘かった。これからの作戦を練り直さなくてはならない。
だって

――犯人は春妃だ。

どうやら推理は当たっていたようだった。春妃は自分の猫を猫鬼に使い、雪朱様の猫を今飼っている。速足で歩きながら、考えを巡らせた。
確かに、春妃の猫は黒猫だった。普通の人ならば騙せたであろう。ただ、私は猫について色々と調べてきた。
あれは、シャム猫。成長によって色が変わる猫だ。
子猫時代は白に近い色をしており、大人になるにつれ黒くなる。南のほうの猫。
それに
「喉を鳴らしていた」
喉を鳴らす猫は一般的に、懐いていると言われる。しかし、それだけではない。
危機を感じていても鳴らすのだ。
その時はたいてい、懐いている時より声が低く、毛が逆立っている。
あの猫もそうだった。あの黒猫は春妃を警戒している。
【春妃は猫鬼の犯人で、雪朱様の猫を飼っている】
早く、皇帝に相談しなければ。
といっても会えるのは四日後だ。どうにかして早く会えないものか。
猫鬼の犯人だと名指しするなら、公衆の面前がよいと思う。呪い返しがどういう形で来るかわからない。下手をすれば、自分が春妃を害したことになるかもしれない。
だから、皇帝に相談したかった。
――が。
「悪いな。娘」
ガツンと音がして、目の前に火花が散った。男の声が遠くで聞こえる。私は殴られたらしかった。痛みで意識がとぎれていく。
ふと、皇帝のことが頭に浮かんだ。守ると誓ったのに。一人にしないと言ったのに。
どうやら、次の逢瀬には行けないようだ。


殴られてから、七日は経った頃だろうか。私は目を開けた。
いや、本当のことを言うならば、殴られてから一時間後には意識は戻っていた。
部屋(元は物置?)の警備が厳しく、なかなか動けなかったのだ。
体術を習ったと言っても、十人力なわけではない。食事の際も、警備がついていたし、機を伺う必要があった。
しかし今は、
「......静かだ」
警備についていた宦官の多くが皆どこかに行ってしまった。
私は縛られた縄を身じろぎしてほどく。
これは、母が最初に教えてくれた技だ。
「お、おい!何をしている!?」
残っていた宦官が騒ぎだしたので、地面を蹴る。
彼の突き出した槍の切っ先が頬をかすめた。
崩れた体勢を生かして腰にひねりを加える。
「ぐはっ」
そして、顎を踵で打ち抜いた。
気絶した宦官を部屋の隅に運ぶ。
おそらく、私を監禁したのは春妃だろう。あとは、雪朱様のところに来た大柄な宦官も関わっている。他でもない。彼に殴られたのだ。
共謀して皇帝を呪って雪朱様に罪を擦り付けようとしている。
「許せない」
ただ、とりあえず脱出しなければならない。話はそれからだ。
部屋から抜け出したはいいが、どこが出口なのだろう。
上のほうから光が差し込む。
窓は小さく通り抜けは出来なさそうだ。
そこから上弦の月が見えた。満月まで、あと七日。
目線を下におろす。
「え!」
「にゃ~お」
と猫がいた。
しかもただの猫ではない。薄ぼんやりと光っている。その尾は何本にも分かれていて、目も四つある。
「......星星!」
茶色の化け猫だった。皇帝が飼っていた猫。
「にゃ!」
名前に短く返事をすると、星星は私を先導して歩きだす。
どうやら、出口に案内してくれるようだ。
「にゃ、にゃ、にゃ、にゃ」
動く度に声がでる。それも相変わらずだった。
あれから、色んなことがあった。皇帝と友人にもなった。
「なあ、星星。陛下の前には表れないのか?」
化け猫になっていることを、皇帝は知らない。化け猫でも、顔を見せれば彼はきっと喜ぶはずだ。私だって母上に化けてでも出てきて欲しい。
「にゃ、にゃ、にゃ、にゃ」
聞こえないふりをするように、こちらを見ずに星星は歩く。彼なりにいろんな考えがあるのだろう。
長い廊下を何度、曲がっただろうか。
前の方に灯りが見えた。
「星星。あれは......」
私が、訊ねようと下を見た時、星星はもういなかった。
灯りはどんどん増えていき、鎧の擦れる音も聞こえてきた。
どうやら宮兵のようだ。
なぜ、ここに宮兵がいるのだ。あの大柄な宦官が呼んだのか。私を助けに来たわけでもなかろうし。
とにかくどこかに隠れなければ。
私は焦る。
そうやって、あたりを見回す私の影を宮兵の一人が目ざとく見つけた。
「......」
無言で近づいてくる。思ったよりも小柄だ。
逃げようとする私の手を取ると、
「李」
そう、私を呼んだ。この呼び方をする人は一人しかいない。
こんな所にいるはずもない人。
誰よりも優しい人。
私が守ると決めた人。
「......陛下!」

私がそう言うと、皇帝は無言で私を壁に押し付けた。
優しく掴まれたものだから、反応できずにされるがままになる。
皇帝がいるということは、先ほどの宮兵は皇帝が率いていたのだろう。
「......」
「あの、陛下」
彼はそのまま壁に手をつく。すっぽりと覆われて。視界が暗くなった。
「あ、この格好は女官の潜入調査でして」
「......」
「えーっと」
銀のまつ毛が触れそうなほど近い。
半月の夜。ここだけはその光も入らない。
彼しか、見えない。
「もしかして、怒っていらっしゃいますか」
彼は珍しく無表情だ。そうしていると、まるで氷で出来ているようだ。
「......あたりまえでしょ」
彼は静かに怒っている。
「ねえ、李。君までいなくなったら、僕は」
「で、でも犯人が分かりました。春妃です。彼女が犯人なんです」
私がそう言うと、皇帝は大きなため息をついた。
「全く君は......。いっそ閉じ込めて、鍵をかけてしまおうか」
「へ、陛下?」
私が混乱していると、皇帝はゆっくりと顔を近づけてきた。
「そうすれば、君は勝手にいなくならない」
私の顎をやさしく、上げる。
あまりのことに目をつむったその時、
――彼は口づけを私の額におとした。
「え」
私は耳まで真っ赤になっていくのを感じた。茉莉花のような香りが甘く思考を痺れさせる。どういうことだろう。これは。彼なりの友情の証だろうか。友情の口づけ。あるかもしれない。いや、無いか。
皇帝の方をちらりと見ると、
「今は、これくらいで勘弁してあげる」
彼は涼しい顔である。
「え、いや、あの」
「ほら、春妃を捕まえに行くよ」
皇帝が悪戯っぽく笑って、私の手を引く。
猫鬼事件が終わろうとしていた。


宮兵とともに春妃の部屋に入ると、相変わらず彼女は長椅子に座っていた。傍には、あの大柄な宦官も控えている。
「あらあら、皆さん怖い顔。どうかされましたの?」
「しらばっくれても無駄だ。春妃」
「あら、貴女......。」
私の顔を見て、春妃は無表情になる。全ての感情をそげ落としたような顔だ。
「隆章。だから私は、余計なことをするなと言ったのよ。どうせやるなら、殺して頂戴」
「申し訳ありません」
隆章と呼ばれた宦官は、妃に頭を下げた。そんな彼を春妃は一瞥する。
「まあ、いいわ。貴女の推理を聞かせてくださいな」
私は、推理を全て話す。
春妃が皇帝に猫鬼をかけたこと。
雪朱様の飼っていた猫は春妃が奪って飼っていること。
そうして、宦官を使って罪を雪朱様に擦り付けようとしたこと。
シャム猫の件まで全てを話したとき、春妃は大きなため息をついた。
「残念だわ。正解よ。猫鬼が見つかったときに思いついた策だけれど。
あらあら、お姉さまに怒られてしまうわ」
「お姉さま?」
何を言っているのだ。猫を殺し、皇帝を呪い殺そうとし、雪朱様を陥れ、怒られるだけですむはずがないだろう。
第一、お姉さまとは誰だ?
「追い詰めたと思っているでしょうけれど、追い詰められているのは、貴女たち」
「どういうことだ」
春妃はにこりと笑っていった。
「だって猫鬼を依頼したのは、お姉さま。
――皇太后様なんですもの」
私は絶句した。横にいる宮兵の恰好をした皇帝は、身じろぎもしなかった。
口元だけで、「そういう人なんだ」と呟く。
「この件は皇太后様がもみ消すわ。わたしも隆章もきっと助けてくださるの」
春妃は歌うようにそう言う。まるで夢見る乙女のような口ぶりだ。
私は、絶望して声が出ない。

その時、凛とした声がした。

「母上はそんな甘い人じゃないよ」
皇帝だ。彼は静かに冑を脱いだ。
銀の髪がさらりとこぼれる。月に照らされて、きらきらと輝いた。
「え?」
春妃が動揺する。
だって、この国いる者ならば誰もが知っている。銀の髪は特別だと。
そして彼は白魚のような細い指を春妃に向けた。
「春妃こと、昌莉花。猫鬼の犯人は貴女だ」
これは、呪い返しだ。

その瞬間、辺りが嵐のような騒音に包まれた。
「なーお」
「なーお」
「なーお」
「なーお」
沢山の猫の泣き声が響きわたる。猫の影が春妃を中心に渦を巻く。
「何?いや、やめて」
とぎれとぎれに、春妃の悲鳴が聞こえるが、猫の声でよく聞こえない。
それどころか、影が春妃に覆いかぶさって、その姿も見えない。
渦はどんどん加速していく。
私は息を飲み、皇帝の手をぎゅっと握りしめた。
「「「「「「「「なーお」」」」」」」」
最後に大きな声が聞こえたかと思うと、春妃がばたりと倒れた。
「梨花様!」
大柄な宦官がかけよる。春妃の美貌は、衰え、跡形もなくなっていた。
そこにいたのは、枯れ木のようにやせ細った老婆だ。
「ごめん、なさい。ごめん、なさい」
春妃がうわ言のようにつぶやく。
皇帝は、膝をついた。どうやら気が抜けてしまったようだ。
「陛下!」
私は急いでうけとめる。
袖から見える腕の痣は消えていた。
私はほっとする。
皇帝を、愛しい人を今度こそ猫鬼から守れたのだ。
「李?」
「良かったです。本当に、良かった。」
そんな我々を月は静かに照らしている。
こうして、呪いは返された。
猫鬼事件は一応の幕を閉じたのである。


次に皇帝に会ったのは、七日後のことだった。
その間にあったことを、書いていきたいと思う。
まず、疑いが晴れた雪朱様は解放された。
「莉莉!本っ当にありがとう!」
涙ながらに抱き着いてきた雪朱様を、私は受け止める。
「白のことも、ありがとう!!」
そうなのだ。春妃に飼われていた白(もはや黒だが)も雪朱様と再会した。
「にゃ~ん」
甘えたような声をさして、雪朱様にすり寄る白は、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
今度こそ親愛の意味だろう。

津津は、相変わらず私の周りをうろちょろしている。
「失礼な!莉莉がいなくなったとき、桃妃と夏妃に助けを求めたのは僕だぞ!」
そのことは、本当に感謝している。おかげで、あのとき春宮に皇帝と宮兵が来てくれた。
「僕、もう怖いものないかも」
あまり調子に乗っていると、いつか痛い目を見るかもしれない。
「莉莉に言われたくないよ!」
肝に銘じておこう。

桃妃と夏妃は、皇帝に相談しにいってくれたらしい。
「あたしは、別に。妃として後宮の平和維持は務めだから......」
「莉莉さんのこと、華那もすっごく心配していたんですよお」
「結結!!」
「へふふ。華那、痛いれふ~」
彼女たちには改めてお礼をしに行かなければならないだろう。
「それにしても、莉莉が陛下と知り合いだったなんてね」
「そうですね~。妃としてはライバルが増えそうです」
会いにいった帰り、何やら彼女たちがにやにやとこちらを見ていたが、なんだったのだろうか。

最後に春妃と大柄な宦官だが、今は投獄されているという。皇太后はあくまで無関係を貫いているが、完璧な彼女が初めてぼろを出したと国中で噂されているらしい。

そうして、最後。私と皇帝のことだ。

七日後、いつもの部屋に行くと彼は私を待っていた。
多分、会えるのはこれで最後だろう。
私は雪朱様のことや最近の後宮のことなど他愛もないことを話した。
前回、春妃の宮では女官の恰好をしていたから、正体はバレているかもしれない。でも、そんなことは、もうどうでもよかった。どちらにせよ、私は一介の女官なのだから。
皇帝は頷いて静かに話を聞いていた。
夜更け、もう話すことがなくなってしまった時、私は別れの時間が近づいてきているのを感じていた。
「もう......行かなければなりません」
私は言って立ち上がった。その袖が緩く引かれる。
「!」
「行くな」
皇帝が私の袖をつかんでいた。満月に照らされて、彼の顔が見える。
真剣な目をしていた。
そんな表情の彼は、冷たく、熱く、少し、怖い。
命令しない彼の、初めての命令。
「は......」
私は頭が混乱する。
この逢瀬は、期限付きのものだ。事件が解決した今、わたしが彼の隣にいられる理由は何もない。
私と彼は生きる世界が違う人だ。
(応じちゃ駄目だ......)
自分を強く律する。
きっとここで断ったら、皇帝は「そっか」というだろう。そして、「冗談だよ」と言って悪戯っぽく笑うんだ。
それきり私と二度と会わない。
そんなことまでわかる。
彼は、皇太后のことに私を巻き込んでしまうのをきっと恐れているだろうから。
私はまた日常に戻れるだろう。そこには、今まで通りの平和がある。分相応の平和が。
わかっている。
――それでも

「はい。私は、お傍にいます」
あの日、誓ったんだ。この人を守ると。
ひとりぼっちの皇帝の支えになりたいと、そう思ったんだ。
「李!」
私の言葉を聞いて、皇帝は私を抱きしめた。
「君が、君が好きだ」
皇帝は甘く、優しく囁いた。偽りだらけの関係だったけれど、?から出た真もあるのかもしれない。
私は思わず笑顔になる。
「私も、貴方が好きです」


更に一か月後
「そうは、いいましたが!これはどういうことなんですか!?」
私は皇帝に詰め寄っていた。
「皇帝が新しく妃を娶っただけだよ。李は祝福してくれると思ったんだけどな」
皇帝は陽だまりの猫のように笑う。
「だからって、こんな」
「新しい妃は、元春妃の家の傍流でね。平民に嫁いでいたところの娘なんだ」
なんて人だ。そこまで調べていたなんて。
「知っています。でも、一女官を春妃にするだなんて」
私が怒って跳ねるたびに、薄青の衣がゆれる。
薄青を纏うのを許されているのは、この後宮でただ一人。春宮の主しかいない。
皇帝はそんな私を抱きしめた。
「よろしくね。春妃。
――文莉莉さん」
「っ~!」

神政国の皇帝は、猫を飼っているという。茶色の毛並みをした、はねっかえりの小柄な猫。
これは、呪いと後宮、そして恋の物語だ。