日が暮れる頃、媛地家の屋敷の前では父がうろうろしていた。
 どうやら月夜が帰ってくるのをそわそわしながら待っていたようだ。

 縁樹とともに月夜が現れると、父は満面の笑みを浮かべながら走り寄った。
 それも、月夜ではなく縁樹に向かってだ。

 父にとっては娘の無事の帰宅より、自分に得となる縁樹のご機嫌のほうが重要なのである。


「烏波巳さま! うちの娘は何か粗相(そそう)がありましたでしょうか?」

 ぺこぺこ頭を下げながら訊ねる父の姿を、月夜は冷めた目で見つめた。
 そして縁樹も同じように冷めた表情で答える。


「とても有意義のある時間を過ごしました」
「それは大変よろしゅうございました!」

 大喜びの父の背後から母が飛び出してきた。


「まあっ! おかえりなさいませ。烏波巳さま、これからうちで夕餉(ゆうげ)を召し上がっていかれませんか?」
「いいえ、結構です。僕はもう帰らねばなりません」
「あら、そうですの……」


 母はあからさまに落胆したような顔つきになった。
 もしかしたらご馳走を用意して待っていたのかもしれないなと月夜は思った。

 母は見栄を張りたい人だ。
 来客があるときはいつも平常時より多くの食事を用意する。
 特に自分より身分の高い家門の来客の場合だとその気合いの入れようは凄まじく、数日前から時間をかけて準備しているほどである。

 とはいえ、月夜がそのご馳走にありつけたことは一度もないが。


「月夜さんにしっかり食べさせてあげてください」

 縁樹がそう言うと、母は苦笑いしながら了承した。


「も、もちろんでございます」
「ああ、それともうひとつ。月夜さんを僕の婚約者として夜会へお連れします。ご了承いただけますか?」

 それを聞いた父と母は跳び上がるほど喜んだ。


「月夜を婚約者にですか! 当然です。喜んで出席させますとも!」
「すばらしいことですわ。月夜が烏波巳さまの婚約者!」
「当日は多くの上級華族が集まるでしょう?」
「月夜はわが媛地家の誇りですわ」


 月夜は複雑な表情で両親を見つめた。
 なぜか、心に冷たい風が吹きすさんでいるようで、身体がどんどん冷えていくのを感じる。

 本当に、なんて自分本位な人たち。
 けれど、こんな状態でも月夜は両親の目が自分に向いていることにわずかながら喜びを感じずにはいられないのである。


 今までずっと、どれほど声を上げても、一度も答えてくれなかったから。
 この複雑な思いをどうすればいいのか、月夜は迷う。
 だから、あまり両親と会話をしないようにしている。