白川の手術が終わったのは、十八時を少し回った頃だった。手術に時間が掛かったのか、それともこれが妥当な時間なのかは私には分からない。
 手術が終わるまでの間、警察が来て色々と事故の説明をされた。軽自動車を運転していたのは老人で、赤信号だという事に気付かず横断歩道に突っ込んでしまったらしい。
 それ以外にも色々と状況確認等をされたが、細かい事はよく覚えていない。多分、白川が庇ってくれた、自分は事故の瞬間を見ていない、位の事しか伝えていない気がする。警察は家族が来たらまた改めて説明する、などと事務的に伝えて帰っていった。

 手術が終わり、もう彼此一時間が経つ。ICUに入れられた白川には沢山の管が繋がれていて、私はそれをガラス越しに見ている事しか出来なかった。
 幸いにも命に関わる怪我では無く、現在はバイタルが安定しているらしい。手術を担当した医者からそう聞いた。しかし今後脳に血種が出来る可能性もあり、今はまだICUから出られないのだとか。
 意識が戻り、血圧も安定して自力でナースコールが押せるようになったら一般病棟に移れるよ、と医者は優しく言って、私の頭をぽんと撫でた。何処か、カウンセラーの瀬那先生に重なる優しそうな医者だった。この人に任せれば、きっと白川は目を覚ましてくれるだろう、なんて錯覚してしまう位には。

 長く暖房の効いた病院にいたからか、喉が渇いてしまった。その喉の渇きに気付いたのはICUの中で眠る白川を見つめ一時間半が経過してからの事だったが、精神的に限界だったのだろう。時計を見た瞬間、今まで感じなかった右足首の痛みが突然現れ、その場に崩れ落ちそうな程の疲労感に襲われた。
 大学病院程大きな施設であれば、何処か探せば自販機があるはずだ。白川が着ていた黒のコートを抱き締めたままICUの前から離れ、ふらふらと覚束ない足取りで廊下を歩く。途中、看護婦や医者と擦れ違う度に「足を怪我しているのではないか」と心配されたが、今は誰とも話す気分になれなかったうえに、足の治療も受ける気にはなれなかった為、全て首を横に振ってその場をやり過ごした。
 幸いにも、自販機は直ぐに見つかった。通話可能エリアのすぐ傍に、メーカーの違う自販機が三つ置かれている。ぼんやりと並んだラベルを眺めるが、何を見ても〝飲みたい〟という感情が湧かない。きっと身体が、甘いものやさっぱりしたもの、苦いもの温かいもの、などといったものを欲していないのだろう。ただ漠然と、喉を潤したいと思うだけだ。これ以上眺めていても仕方が無いと、並ぶ飲み物の中で最も価格が安い水を選んだ。
 ガタン、と取り出し口の中に落ちた水が、人のいない夜の院内に響く。
 疲労故か、ペットポトルのキャップを開けるという、たったそれだけの動作に随分と時間が掛かってしまった。中々力が入らず、キャップの凹凸が手指を刺激してじんじんと痛む。
 漸く、カチリと音を立ててキャップが開いた頃。腕に掛けた白川のコートから、僅かに振動が伝わってくるのを感じた。それがスマホのバイブ音だという事に気付き、開けたばかりのペットポトルのキャップを閉めながら通話可能エリアに向かう。そしてコートからスマホを取り出すと、白川のスマホのディスプレイに〝父〟の文字が書かれていた。
 応答マークをスライドし、スマホを耳に当てる。

『――もしもし?』

 スマホ越しに聞こえてきた、何処か温かさを感じさせる低い男性の声。その声を聞いて、最も重要な事を思い出した。
 そうだ、私は声が出ないのだから、人と電話が出来ないのだった。電話に出る事は出来ても、会話が出来ない。何故、何も考えず出てしまったのだろう。
 声を失ってからというもの、人から電話が掛かってくる事は無く、この様な状況に直面する事自体が無かった。故に、恐らく昔の癖でつい反射的に出てしまったのだろう。自分の迂闊さにうんざりしながらも、どう応答しようかと考えあぐねる。すると、電話の向こう側から『もしかして、君が遠海さんかな』と優しげな声が聞こえた。

『もし間違いないなら、スマホのマイク部分を一度指先で叩いてみてくれるかな』

 何故、言葉を発していないというのに私だと気付いたのだろう。そう疑問に思いながらも、言われた通り指先で軽くマイク部分を叩く。

『あぁ、やっぱり君が遠海さんだったんだね。病院の人にスマホを預けているかもしれないと思って電話を掛けたんだが、君が出るとは思わなかった。すまない、配慮が欠けていたね』

 彼がそこで一度言葉を区切るが、私への配慮かすぐさま言葉を続けた。

『君に幾つか質問をしたいのだが、YESなら一回、NOなら二回、マイク部分を叩いて応えてくれると助かる。出来るかな』

 そんな方法で、本当に伝わるのだろうか。メールに切り替えた方が確実なのではないか。なんて不安を抱くも、今はそれすらも伝えられない。今出来るのは、彼の言う事に従う事だけだ。指先でもう一度マイクを叩くと、『ありがとう、助かるよ』と優しい声が返ってきた。
 どうやら、これでちゃんと受け答えが出来ているらしい。杞憂に終わって良かったと安堵する。

『雪斗の手術は終わったかな』トン、と一回マイクを叩く。

『容態は安定している?』再び、一回。

『もう目を覚ました?』今度は、二回。

『君はまだ病院に居るのかな』一回。

 私の反応は全て伝わっている様で、彼が長い溜息をついたのち『なるほど』と零した。

『今、タクシーで病院に向かっているんだ。恐らくあと十分程で着くと思うから、君には申し訳ないがもう少し病院で待っていてくれるかな。少し君と話がしたいんだ』

 私と?
 一体何を話すというのだろうかと、思わず固まってしまう。
 もしや、息子を事故に遭わせたなんて、と、この疫病神と罵られるのだろうか。――いや、罵られて当然の事を、私はしたのだけど。
 マイクを一度叩くと、彼は『ありがとう、では失礼するよ』と変わらずの優しい声で告げて、電話を切った。プツ、と電波が切断された音を最後に、スマホからは何も聞こえなくなる。
 音の聞こえないスマホを耳に当てたまま、暫くその場に立ち尽くし壁に貼られた〝通話可能エリア〟と書かれた張り紙を見つめる。
 あと十分。それは、短くも長くも感じられる時間だ。
 とりあえず、白川が眠るICUまで戻ろう。あまり院内を無駄にうろうろしていれば、会えるものも会えない。
 先程買った水の存在も、喉の渇きも忘れたまま、ただこれから会う白川の父親とどの様な会話をすればよいのかと、働かない頭をなんとか動かし廊下を歩いた。

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