ローテーブルに並べられた、二人分の料理。自身の向かいに座った白川は、緊張でもしているのか表情が硬い。
もう一年以上も私以外の人間が立ち入っていない家に、クラスメイトである白川がいる。不思議な感覚だ。何故家に上げてしまったのだろう。そもそも、何故声を掛けたのだろう。まさかこんな形で、手料理を振る舞う事になろうとは。
――そんな思考は、目の前の丸焦げになったハンバーグからの現実逃避だろうか。
あの後白川と共にスーパーへ行き、普段買わない材料を買ってハンバーグを作った。人様に料理を振る舞うのなら、野菜炒めなんて質素なものは出せないと思ったからだ。
ハンバーグは母の得意料理だった為、作り方は知っている。しかしどうやら料理というものは複雑で、知識があれば完璧に作れる、という訳では無いらしい。捏ね方が悪かったのか肉汁は全てフライパンの中に溢れ出てしまい、焼き方に問題があったのか真ん中に割れ目が入り、更には真っ黒に焦げてしまっている。作ったハンバーグソースはなんだか色が黒く、とてもじゃないが美味しそうには見えない。
〈すまなかった〉
居た堪れなくなりながらも、料理の隣に置いたタブレットにペンを走らせる。
「い、いや、俺も料理出来ないし! ハンバーグってオーソドックスとは言われてるけど難しい……よな? うん。形になっただけで上出来じゃん……」
白川の精一杯のフォローが胸に刺さる。
絶妙なフォローをされる位なら、失敗した事を笑われた方が幾らかマシだった。いや、笑われたらそれはそれで手が出ていた様な気もするが。
しかし、見事な失敗具合である。誰もが作れるハンバーグを、ここまで失敗するなんて逆に才能ではないだろうか。そう内心自身を慰めながらも、皿の前に置いた箸を手に取った。そんな私を見て、白川も慌てて箸を手に取る。
「い、いただきます……」
白川の言葉にこくりと頷き、既に割れたハンバーグを箸で崩した。そしてそれを口に運びつつ、上目遣いに白川の表情を盗み見る。
「あ、意外と美味しい」
――意外と。
その言葉がぐさりと胸に突き刺さるが、白川の表情は僅かに緩んでいた。
〈悪かったな。意外と、なハンバーグしか作れなくて〉
「あ、悪いそういう意味じゃなくて」
白川は焦った様に否定するが、続きの言葉を発する前にもう一口ハンバーグを口に含んだ。
「うちの母親料理しないから、常に惣菜とか冷凍食品だったんだよな。それも離婚する前の話だから、考えてみれば、人の手料理って殆ど食った事無い……かも」
〈だったら学食行けばいいだろ。学食も一応は手料理だぞ。なんでいつもパンなんだ〉
「え、だって遠海が学食行かないから」
〈は?〉
白川がまた一口、ハンバーグを口にする。
その手を止めない所を見るに、そこまで不味いという訳でも無いのだろう。私からすれば、肉はパサついていて硬いし、ソースは分量が悪いのか味が濃いし、とても食べれたものでは無いのだが。
「遠海が学食行ってたら、俺も学食行ってたと思う」
〈いや、なんで私基準なんだ〉
「なんでだろうな」
ふふふ、と白川が意味有り気に笑う。気持ち悪い。
そんな彼を見ていて、ふと少し前に放課後の教室で聞いた、椎名さんの言葉を思い出した。
『もしかして白川くん、遠海さんの事好きだったりする?』
その問いに、白川は何も答えなかった。無言は肯定を意味する、なんて世間では言われがちだ。椎名さんの問いに、否定も肯定もしなかった白川は、一体何を考えているのだろう。
好きじゃないなら、好きじゃないで別に構わない。嫌いだったら、少しだけ悲しい。――では、好きだったら?
そこで、僅かな疑問が生まれる。何故私は、白川に嫌われていたら悲しいと思うのだろう。どうだって良かったはずなのに、別に仲が良いという訳でもないのに。
そもそも、何故どうでもいい相手を、仲が良い訳でもない相手を家に上げているのだ。ここは母と二人で暮らしてきた大切な家だ。家賃も安くボロいアパートだが、母との思い出が詰まった、私が意地でも手放さなかった場所である。なのに何故、こんなにも簡単に――
「あのさ、突然なんだけど」
白川の言葉に思考が遮られ、顔を上げた。
最近、唐突に何かを深く考え込んでしまう事がある。それも、答えの出ない事ばかりだ。もう少ししっかりしなければ。そう思いつつ、グラスに汲んだ麦茶を口に含んだ。
「俺の事、雪斗って呼んでよ」
「――!」
なんの前触れもない白川の言葉に、思わずぐふ、と麦茶を吹き出す。幸い大きな被害は無かったが、口に含んでいた麦茶がボタボタと口から伝い落ちる。
「そんな驚く?」
にやけた顔の白川を尻目に、ティッシュを数枚毟り取り乱暴に口元や濡れた胸元を拭う。そしてペンを握り、殴る様に〈なんだ急に〉とタブレットに書いた。
その文字を見た白川が、先程と同じく意味有りげに笑ってグラスに口を付ける。私と同じ様に白川にも麦茶を吹き出させてみたいものだが、衝撃的な事は何も浮かばないうえに声が出ない為、その顔を睨みつけながらぎりぎりと悔しさに歯ぎしりする事しか出来ない。
「いや別に大した話じゃないんだけど」
そう前置きをして、白川が音を立てずにグラスをテーブルに戻した。
「雪斗って、親父が付けた名前なんだ。由来は聞いてないから知らないけど。そんで、白川は母方の姓。クラスの奴らからは別になんて呼ばれようがどうだっていいけど、なんか遠海にだけは白川って呼ばれるの気に食わないんだよな」
〈気に食わないってなんだよ〉
そんな事を言うなんて、狡いと思う。
男子の下の名前を呼ぶなんて、相当な勇気が無いと出来ない事だ。軽々と出来てしまう女子も居るのだろうが、少なくとも私には難しい話である。
――雪斗。……雪斗。
心の内で何度も白川の名を繰り返し、ペンを握り締める。
まだ声が出ないだけ幾らか呼びやすいのだろうが、もう一年も筆談を続けていれば書いた文字は自身の声も同然だ。当然、羞恥だって感じる。白いキャンバスに〝雪〟の字を書きかけ、慌てて【削除】ボタンを連打し掻き消した。
〈白雪、でどうだ〉
「は?」
〈白川の白と、雪斗の雪で、白雪〉
「……」
白川はなにやら難しげな顔をしてディスプレイを見つめている。
「……それ、フルネームで呼ばれてるのとそう変わらない気が」
〈気のせい〉
「気のせいではねぇだろうがよ。そんなに名前で呼びたくねぇか」
白川が口を尖らせ、不機嫌そうにテーブルに頬杖を突いた。食事中に肘を突くなんて行儀が悪い。その肘を払い除けると、彼が一層不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
〈お前が、私を真姫って呼ぶなら考えてやってもいい〉
最悪の交換条件だ、と自分でも思う。これで白川が何の躊躇いも無くさらっと私の名を呼べば、私は白川の事を名で呼ばなくてはいけなくなる。まだ、何の覚悟も出来ていないというのに。
余計な事を言った、と素早く【削除】ボタンを押すが、白川はしっかりとその文字を読んでいたらしい。「なんだよその交換条件」と言ってやや複雑な表情を浮べた。
〈呼べないのか?〉
「よ、呼べ、呼べなくは、ねぇよ。多分」
〈じゃあ呼んでみろ〉
「……」
私と白川の間に妙な沈黙が流れる。煽ったのは他でも無い自分だというのに、鼓動は徐々に早くなってゆきくらくらと眩暈がしてくる。
彼の頬も徐々に赤みを帯びてきて、とうとうこの空気感に堪えられなくなったのか白川が声を上げた。
「あぁ! もう! いいよ白川のままで!」
〈結局呼べないのかよ、ヘタレ〉
「うるせぇな!」
それから、食事を終えた後も暫く白川と他愛のない話を続けていた。
音楽の話や休日の過ごし方、お互いの好きな作品の話など。名前の呼び方の話が出たのは、あの一度限りだった。
今となっては、少し惜しい事をしたかもしれないと思う。機会を逃してしまった為に、今後白川を下の名前で呼ぶ事も、彼から真姫と呼ばれる事も無いだろう。
「そういえばさ」
白川がふと振り返り、本棚に目を遣る。
「この作家、好きなの?」
白川が指したのは、最も取りやすく、更には掃除もしやすい位置に並べられている北条涼太の本。思わぬ所で彼の本を指摘され、鼓動が早くなる。
〈好きだが、何かあるのか?〉
北条涼太の書く小説の魅力を語り倒したい衝動に駆られながらも、冷静を装い静かにタブレットにペンを走らせる。
「いや、この作家の本は全部揃ってるから」
白川が本の背表紙を徒に指先でなぞり、ぽつりと呟く様に言った。
――ん? 全部?
そこで漸く彼の言葉に違和感を覚え、思わず〈北条涼太を知ってるのか〉と問うた。
「え? なんで?」
白川は目を丸くして、問い返してくる。
〈全部揃ってるから、って言っただろ。それだと、北条涼太が出してる本を全て把握してる事になる〉
「あー」
白川がなるほど、と言って曖昧に笑った。
「純粋に、この作家有名だから出されてる本がどれだけあるか知ってただけだよ。でも別に、名前見た事ある程度」
今度は私がなるほど、と納得し、彼の言葉に小さく頷いた。
確かに北条涼太は有名だ。それに、受賞してからまだ二年程しか経過していない為、出版されている本も少ない。
しかし、白川は小説は読まないと言っていたはずだ。小説を読まない人間からすれば、有名な作家だろうと覚えるに至らないのではないだろうか。私だって、有名な漫画家の名前を出されたとしても知っていると言えるか怪しい。歴史に残る漫画家の代表作ですら、答えられない程だ。そんな疑問を抱くが、それ程北条涼太は魅力的な作家なのだろうな、と自身を無理矢理納得させた。
「もう二十一時か」
白川が壁時計を見遣り、何処か残念そうに言った。
「そろそろ帰るわ」
随分と長く話し込んでしまった様だ。学校でも常に会話を交わしているというのに、何故だか白川とは会話が尽きる事はない。
「今日はありがとな。手料理美味しかったし、遠海の私服も見れたし良い日になったわ」
名前は呼べない癖に、こういう事はさらっと言うのだから困る。
顔に熱が上るのを感じながらも、〈その手料理は丸焦げだったけどな〉と書いたディスプレイを見せた。
玄関に向かう白川の後を追いながら、一人ぼんやりと明日の事を考える。
明日もきっと、白川は家に帰らず何処かで時間を潰すのだろう。それは今日と同じスーパーの近くかもしれないし、何処か別の場所かもしれない。
彼には、彼の事情がある。だが、私は白川が一人外で時間を潰しているのが嫌だった。靴を履いて、玄関扉に手を掛けた白川の袖を掴み引き止める。
〈明日は何が食べたい?〉
そう書いたタブレットを、白川の胸に押し付けた。首を傾げつつタブレットを受け取った彼の視線が、ディスプレイに落ちる。
「え……」
白川は驚いた様に僅かに声を漏らしただけで、そのまま口を噤んでしまった。
余計な事を言ったかもしれない。彼はもう、ここに来るつもりは無かったのかもしれない。手料理を美味しいと言ってくれた事も、全てお世辞だったかもしれない。
羞恥に似た複雑な感情が一気に押し寄せ、白川の手に持たれていたタブレットを引ったくる様に掴んだ。しかし、白川はタブレットを強く掴んだまま離そうとしない。
「……中華」
ぼそりと呟かれた言葉に、顔を上げ彼と視線を合わせる。
「中華料理が食べたい」
そうしっかりと口にした白川の顔は仄かに赤く染まっていて、気まずいのか視線が僅かに泳いでいる。取り敢えず何か反応を示さねばと、こくりと頷いて見せると、白川がやっとタブレットを離した。
「じゃあ、今日はありがとう。また明日」
やや早口でそう言って、白川は逃げる様に去って行った。扉が閉まったのを確認してから、玄関にぺたりと座り込む。
――明日も、来てくれるんだ。
それが嬉しくて、何故だかほっとして、火照る顔を両手で包み込んだ。そしてそのまま顔を覆い、身体を折り曲げ蹲る。
中華料理のレシピ、覚えないとな。
頭の中は明日の事ばかりで、その晩のスマホの検索履歴が中華料理のレシピで埋まったのは言うまでもない。
それからというもの、毎日白川を我が家に招く様になり、学校が終わった後も彼と共に過ごすのが日常となった。
学校が終わり次第共にバスで最寄りのバス停まで戻り、時に何処かの店に寄り道などをしながら我が家へと二人で帰る。そしてローテーブルで課題を熟し、十八時頃に夕飯の買い出し。夕飯の後は他愛の無い会話をする事が殆どだが、時々白川はスマホで漫画を、私は読書を、などと個々思い思いの時間を過ごす事もあった。
今まで一冊も所持していなかった料理の本は増え、料理の腕は劇的に上がった。今やハンバーグを焦がす事も無い。これも全ては、白川の御陰だと言える。
十一月中旬。制服の上にコートが必要になり、マフラーや手袋を使い始める生徒がちらほらと見え始めた頃合い。私と白川は学校帰り、一軒の本屋に寄っていた。
私の影響か紙の本や小説を読む様になった白川は小説コーナーへ。白川の影響で漫画も読む様になった私は漫画コーナーをふらついていた。
びっしりと並べられた漫画達を眺めながら、何か面白そうな作品は無いかと物色する。最近クラスメイト達がよく話している作品や、アニメ化、実写化が決まった作品は平積みにされており、古い作品などは本棚に押し込まれている。表紙だけで購入する人も割と多いと聞く為――所謂ジャケ買いという奴だ――本棚に押し込まれた本達はあまり手に取って貰えないのだろう。本棚に詰め込まれたものは、背表紙が色褪せていたりシュリンクが破れていたりするものが複数あった。本が好きな人間からすると、悲しい光景である。
私は基本的に表紙デザインや絵柄よりもストーリーを重視する為、平積みされたものよりも本棚に詰められた漫画を重点的に見て回った。
「……」
漫画コーナーのすぐ近くにある、料理本コーナー。
周囲に白川が居ない事を確認してから、そっと料理本コーナーへと足を向けた。
どれだけ料理の腕が上がっても、満足する事は無い。寧ろ、腕が上がれば上がる程、料理への関心は上がっていく。
ふと〝男性が喜ぶ味付け料理 全集〟と背表紙に書かれた本が目に留まり、その本を本棚から抜き取った。パラパラとページを捲り、書かれたレシピに目を走らせる。
さば味噌、唐揚げ、ハンバーグ、肉じゃが、ガーリックチャーハン、等。なんだ、どれもオーソドックスな料理ばかりじゃないか、なんて思うも、調味料や作り方を見てみればアレンジが施されていて、男性好みの味付けに工夫されている様だった。
この本は、是非じっくりと読んでみたい。白川が帰った後の、一人の時間にでも読むとしよう。数冊持っていた漫画と共に、その本を胸に抱えた。
「――遠海、本決まった?」
丁度タイミングが良く、小説コーナーから白川が戻ってきた。その手には数冊の小説が持たれていて、彼はすっかり読書好きになってしまったのだと実感する。夏には、紙の本は読まないなんて言っていたのに。
彼の問いに頷くと、白川の視線が私の胸に抱えられた本に落ちた。
料理本――特に男性好みの味付けの料理が乗った本を選んでいるなんて絶対に知られたくはない。さりげなく体を捻って、抱えた本を隠す。しかし、私が立っているのは料理本コーナーの前。
「料理、もう充分上手いじゃん」
呆気なく、料理本を物色していたのがバレてしまった。
「もうハンバーグも焦がさなくなったし」
〈黒歴史を蒸し返すな〉
流石に外で、タブレットで筆談はしない。最近では、白川に教わってインストールしたSNS型メッセージアプリで白川にメッセージを送り、会話をしている。
私が選んだ本がどんな本か、というのには興味が無かったのか、将又家にあるものと何ら変わりない料理本だと思い込んだのか白川はスマホに視線を落としたままで、もう私の腕に抱えられた本に目を向ける事は無かった。
「あのハンバーグがあったから今があるのに」
〈私にとってあのハンバーグは一生の恥だ〉
「恥、ねぇ。可愛いと思うけど」
可愛いって、なんだよ。
最近、白川は時々〝可愛い〟なんて言葉を私に使う。それも、今の様に全く嬉しくない時にだ。可愛いと言われて悪い気はしないが、言うならばもっと他の所を褒めて欲しいものである。
いや、事実料理を作れば「美味しい」「料理上手くなったな」と毎度褒めてくれるし、勉強を教えてみれば「教えるのが上手い」「分かり易い」なんて言ってくれるし、新しい服の一着でも買えば「似合ってる」と言ってくれるのだが、黒歴史を可愛いと言われたい訳では無い。私にとってあのハンバーグは一生の恥なのだ。どれだけ可愛いと言われようがその気持ちは変わらない。
白川をじとりとした目で暫し見つめた後、スマホをスカートのポケットに押し込みレジの方へを足を向けた。
「そんなに怒んなくても」
別に怒ってない。
そう言いたくても、スマホはポケットの中だ。わざわざ出すのも面倒に思い、彼の言葉を無視してレジの最後尾に並んだ。
*
「そういえば、次の休み何すんの?」
料理を作り終え、配膳が終わった頃。白川が、唐突にそんな事を言い出した。
学校が休みの日は、彼は朝から我が家で過ごす。白川の話によると、母親は朝の九時頃に帰ってくるらしい。その為、八時半頃には彼は既に我が家にいる。
最初の頃は、流石に朝食や昼食まで私に作らせるのは申し訳ないと思っていたのかコンビニで弁当などを買ってきていたが、最近では朝も昼も夜も私が作る様になった。
白川は父親と仲が良い様で、父親から養育費の一環として月に定額小遣いを貰っているらしい。離婚の原因こそ知らないが、彼の父親は母親の性格を熟知しているのだろう。養育費を振り込んでも白川に充てられる事が無いと分かっているらしかった。しかしその小遣いだって、自由に遊びまわれる程の額では無い。それならばと、ある程度自由に金が使える私が負担する事にしたのだ。せめて、我が家でとる食事分位は。
〈次の休みは、病院の日だ。忘れてた〉
スケジュール帳を確認すると、次の休日には〝病院〟の文字が書かれていた。もう前回の病院から二週間も経ったのか、などと思いながらスケジュール帳を閉じる。
〈白川には悪いが、今回も病院が終わるまで何処かで時間を潰していて貰うしかないな〉
「あ、その事なんだけど」
先程スーパーで買ってきた炭酸飲料を飲みながら、白川が淡々とした口調で言葉を続けた。
「次の病院、俺も一緒に行こうかなと思って」
白川は時々スーパーで炭酸飲料を買っては、中途半端に飲み残して帰っていく。グラスに注いで飲んでくれれば残りは私が消費できるというのに、ペットボトルに直で口を付けて飲むから残された側としては困ってしまう。中身の残ったペットボトルを見ながら悶々とする此方の身にもなって欲しいもので――
え?
そこでやっと、白川の言葉に理解が及び、炭酸飲料を見つめていた目を彼の顔へと遣る。
暫く白川の顔を見つめるが、彼はそれ以上の言葉を続けようとはしなかった。
病院、一緒に行くって言った? 何故? 今までそんな事一度も言わなかったというのに。
驚きや困惑では無く、ただただ出てくるのは疑問のみ。握ったペンをタブレットに走らせ、〈なぜ〉と一言だけ問うと白川が妙な表情を浮べた。
「部外者って付き添ったらだめなの?」
私の問いへの返答は無く、質問に質問を重ねられ頭を抱えそうになる。
私が知る限りでは、部外者が付き添ってはいけない、といった規則は無い。友達に病院へ付き添って貰った、なんて言う人も世の中にはいる為、不可能では無いだろう。
しかし、白川が私の病院に付き添う理由が無い。カウンセリングもリハビリも、この一年間一人で通ってきた。そしてその間、不便を感じた事は一度も無い。
「え? そんな駄目? 頭抱える程?」
気が付けば私は、右手にペンを握ったまま頭を抱えていた。
この厄介男の相手をするのは非常に疲れる。誰か会話だけでも代わってくれないか。
〈そんなに一人で時間潰すのが嫌なら、病院の予約日変えて貰うが〉
「別に時間潰すのが嫌な訳じゃねぇよ。俺が今までどんだけ一人で時間潰してきたと思ってんだ」
〈じゃあなんで〉
彼の表情だけではあまりに情報が少なく、真意を知る事は出来ない。混乱する頭で、キャンバスの余白に〈何で〉〈何のために〉〈分かる様に説明しろ〉と殴り書いていく。
「いやまぁ、深い意味は無いんだけど」
〈説明になってない〉
「いずれ家族になるんだから、主治医に挨拶しておかないと――」
白川が最後までいい終わる前に、握っていたペンを彼の額目掛けて投げつける。見事白川の額に叩き付けられたペンは跳ね返り、床の上を数回バウンドしたのち転がった。
――いずれ、家族になる。
その告白にもプロポーズにも似たふざけた答えに、無様にも鼓動を高鳴らしながら、冷静に冷静にと心の内で唱えペンを拾い上げた。
〈バカな事言ってないで真面目に答えろ〉
「真面目に、ねぇ……」
白川がやや困った様に眉を下げ、ペンを叩き付けられたせいで赤くなった額を撫でた。
「いや、まぁ明確な理由は無いんだよな。多分、言葉悪いけど〝気まぐれ〟が一番近しい気がする。ただ、遠海がどんな病院通ってんのか気になっただけ。迷惑なら、別にいいけど」
〈どんな病院って、何の面白みも無い普通の市立病院だぞ〉
「俺市立病院行った事無い」
〈お前怪我とか病気とかしなさそうだもんな〉
「馬鹿にされたのは分かるしキレたいところだけど事実だから何も言えない……」
白川が不満げな顔をしながらも料理に手をつける。馬鹿話をしていたせいで、すっかり料理が冷めてしまった。温め直すか尋ねようとペンを握るが、白川は何も気にしていない様で、次々と料理が口の中に吸い込まれていく。
そんな白川を見て、呆れ半分の溜息をつき、自身も箸を手に取った。
休日である、土曜日の十三時。二週間に一度通っている市立病院の精神科待合室にて、設置された黒いソファに私と白川は並んで座っていた。
カウンセラーとの筆談用にタブレットとペンは持参しているが、白川と会話する時はスマホを使う事が多くなった。食事の際は白川にまでスマホを持たせる事になってしまう為タブレットで筆談をしているが、それ以外の時はメッセージアプリを使った方が早いという事が分かり、今では学校でもそのアプリを使用している。
少し前までは、病院ではスマホの電源を切る、が常識とされていたが、最近ではその常識も薄れてきていた。待合室に座っている患者の殆どがその手にスマホを持っていて、中には最新のポータブルゲーム機で遊んでいる子供もいる。流石に、電話をしようとする者は居ないが。
科によってはスマホ含む電子機器の電源を切る様に言われる、もしくは回収されるところもあるのだろうが、病院側もある程度スマホの使用を認めているらしい。そのお陰で、白川と会話をするのにスマホが使えて楽だった。
「市立病院って意外とでかいんだな」
ソファに深く沈み込んだ白川が、ぽつりと呟く。
〈まぁ、殆どの科が入ってるからな〉
メッセージアプリで白川に返事をすると、彼の視線が手元のスマホに落ちた。すると白川が何やらスマホを器用に操作し、私に一件のメッセージを送ってきた。――いや、メッセージでは無く、可愛らしい絵柄のスタンプだ。「なるほど」の文字が添えられたくまのスタンプは、白川が使うには可愛すぎるもので違和感しかない。
最近、白川は会話中にスタンプを多用する様になった。私が使うならまだ分かるのだが、言葉を発する事が出来る白川が使うのは謎だ。それに、そのスタンプは有料のアイテムだった。何故金を払ってまでスタンプを使うんだ、なんて疑問も浮かぶ。
〈最近よくそのスタンプ使ってるな〉
なんとなくそう送ってみると、白川が「送る相手、遠海しかいないんだよ」と言った。
〈じゃあなんで買ったんだ〉
「可愛いし、このアプリと言えばスタンプじゃん」
〈それは知らんが。でも、送る相手が居ないなら買わなくても良いんじゃないか〉
「……」
白川がじとっとした目で此方を見つめ、不満げに溜息を漏らす。
そこでふと、編入初日の事を思い出した。夏休みが明けて三日が経った、九月三日の事。
あの時、白川は妙な自己紹介をした。
――『勉強は嫌い、運動も嫌い、学校がそもそも好きじゃない。人付き合いも友達作りも怠い。恋愛は、まぁ興味無くは無いけど、付き合うとか面倒なんでする気はないです。よろしくしたくないけど、一応よろしく』
送る相手がいない、なんて言って私に乱用する位なら、何故あの時あんな自己紹介をしたのだろう。友達が欲しい、仲良くして欲しい、と言っていれば、今頃白川は色んな相手にそのスタンプが使えたのではないだろうか。
〈学校で友達を作ればいいだけの話だろ。お前があんな自己紹介するから人が寄らなくなったんじゃないか〉
「あー……」
白川が曖昧な反応を示し、徐に私に凭れ掛かり肩に頭を乗せた。
突然のその行動に驚くが、最近白川の距離が近くなったからか少し前までの様に過剰な反応をする事は無くなった。寧ろ、こうして近くにいる方が安心する様になった気さえする。
触れ合った場所が熱を帯びるのを感じながらも、その体温が心地良い。なんだかこのまま、眠ってしまいそうになる。
「――話してなかったっけ、あの自己紹介の理由」
白川の言葉に、ふと意識が引き戻された。
そうだ、自己紹介の話をしていたのだった。片手でスマホを操作し、〈多分聞いてない〉とメッセージを送る。
彼は最初こそ、その顔の良さと編入生という珍しさから好奇の目で見られていたが、今では白川に自ら関わろうとする人間は居なくなっていた。私の様に特別避けられている訳では無さそうだが、私が居なければ彼は常に一人だ。最初は冷淡少女の私とばかりつるんでいる故に同類だと思われているのではないかと案じたものだが、特にそういった目で見られている様子も無く、彼自身が自ら一人を望んでいる様にも感じた。
「中学の頃はさ、それなりに仲良い奴とかいたんだよ。放課後どっか店寄ったり、遊んだりする位には仲良い奴。こう見えて、告白とかもたまにされてたし」
〝告白〟の言葉に、そりゃこの見た目していれば女子からは好かれるだろうな、なんて思う。更には、自分が持て囃される見た目をしてるって無自覚だったのかよ、と思わずツッコミそうになってしまうが、ここで茶々を入れても仕方が無い為黙って頷いた。
「親が離婚した事は成り行きでクラスの連中に話してたし、旧姓も、聞かれれば答えてた。あ、俺白川になったの高校に入ってからなんだよ。前に言っただろ、白川は母親の姓だって。普通だったら離婚後直ぐに姓が変わるんだけど、その辺はまぁ、学校側が配慮してくれたのか中学卒業までは旧姓のままだったんだよ」
旧姓。思い返してみれば、白川の両親が離婚する前、彼がなんという姓で生きていたのかなんて考えた事が無かった。
中学生は好奇心旺盛な時期だ。なんでも知りたがる多感な年齢でもある。きっと離婚の事だって、原因やその当時の状況などを根掘り葉掘り聞いてくる子達も居たのだろう。なんとなく、想像がつく。
「――北条涼太」
白川が呟く様に、とある人物の名を口にする。
「遠海なら、直ぐに誰か分かるよな」
分かるも何も、北条涼太は私がずっと焦がれていた小説家だ。白川は前に、私の家の本棚を見て彼の名を出した。私が知らない訳が無いと、白川も知っている筈だ。
彼は何故、この話の流れで北条涼太の話題を持ち出したのだろう。そう疑問に思ったのも束の間、ある憶測が頭の中に浮かぶ。いや、違うだろ。そんなまさか。
「それ、俺の父親なんだよね」
「――!」
まるで大した事ではないとでも言う様に、さらりと告げられた言葉。しかし私は、予測していたとはいえ過剰に反応してしまい、思わず持っていたスマホを落としそうになってしまった。
白川がメッセージアプリを閉じ、検索エンジンを開いた。そして慣れた手つきで〝北条涼太〟と検索をかけ、ヒットした顔写真を私に見せる。
「――……」
今まで幾度と無く見た、北条涼太の写真。しかし、今その写真を見せられて絶句した。
何故、初めて白川を見た時に気付かなかったのだろう。そう思ってしまう程、その顔は白川にそっくりだ。
彼からその事実を聞かされた後だから思う事なのかもしれないが、無言で北条涼太の写真を見せられたとしても二人が親子だという事に気付く気がした。それ位に、似ている。
「それを知ったクラスの連中がさ、親父が賞取った本持って俺の所来て『サイン貰えないかな』なんて言ってくんの。今まで特に仲良くなかった訳でも無い奴らもみんな。そこまでは、別に良かったんだよ。親父は昔から小説家目指してて、全然売れなかったし才能を買われる事も無かったけど、夢を追ってる姿はかっこよかったし、憧れてた。だから、親父の夢が叶って、著名人になって、俺も鼻が高かった。まぁ中学生なんて馬鹿だから、そんなもんだよな」
「……」
「事が大きく変わったのはその直後。癇癪起こした母親が、仕事着のまま……あ、仕事着ってアレな、水商売してる女が着てる派手なドレス。昼間の学校に乗り込んできたんだよ。俺に、親父を連れ戻してこいって。俺は特別親父に可愛がられてたし仲も良かったから、俺の言う事なら聞くと思ったんだろうな。まぁ母親は父親に愛情があった訳じゃなくて、完全に世間体と金目当てなんだけど。でも、俺からしたら昼間の教室に母親が乗り込んでくるとか堪ったもんじゃないじゃん。クラスの連中の目もあったしさ」
白川の言葉には答えず、メッセージアプリを開いたままのスマホを握り締めただぼんやりとディスプレイを見つめる。
「そっからかな。学校で俺が悪目立ちする様になったの。別のクラスの知らねぇ奴からも、『あいつの母親学校乗り込んできたんだって』とか陰で言われる様になって。でも別に、そうやって陰でなんか言われたり、孤立したりする事自体は大してつらいと思わなかったんだよ。ただ苦しかったのは……、今までずっと仲良くて、常につるんでた奴らが一気に掌返して俺から離れていった事。それが唯一の傷になった。まぁ、学校に水商売丸出しの恰好で乗り込んでくる母親を持つ男となんか仲良くしたくねぇよな、理解は出来んだけどさ」
彼の言葉が途切れたタイミングで、握り締めていたスマホを持ち直し文字を打ちこむ。
〈だから、あんな自己紹介したのか〉
「そう。最初から友達とか恋人とか作らなければ、最初から嫌われていれば、何かがあっても傷付かない。そう思ったから」
〈じゃあ、なんで私にはこうして絡むんだ。なんで私に、この話をしたんだ〉
私のメッセージを見た彼が、ふふ、と笑った。此処からでは顔は見えないが、乾いた笑いでは無い事は確かだった。
「編入生の俺が来ても我関せずで窓の外見てるし、初っ端から筆談だし。校内案内も即答で断るし。変わってんなこいつ、と思ってたけど、その変わってる所に惹かれたっていうか。なんか、あー、こいつ俺と似てんなって思ったっていうか。お前だけは、他の奴らとは違って信じられるんじゃないかって思った。そんだけ」
再び、白川が笑った。その拍子に、私の肩に乗せていた彼の頭が僅かに揺れて、髪が頬を擽る。
「今は、遠海の事信じてるよ。それに――」
ピコン、と、白川の言葉を遮る様に待合室に設置されていたモニターから電子音が鳴った。モニターに表示されているのは、自身の受付番号。
「ほら、行ってこい」
私に凭れ掛かっていた白川が身体を起こし、私の背を押した。
振り返り白川に目を遣るが、彼の表情はいつも通りだ。大事な話をしていたはずなのに、彼は平然としている。
モニターに表示された番号は点滅しており、これ以上白川と話している余裕は無さそうだ。渋々と診察室へ向かい、軽くノックをして扉を開いた。
「こんにちは」
診察室を開いた先に居たのは、いつも通り優しい表情を浮べているカウンセラーの瀬那新先生。短髪に黒ぶち眼鏡が良く似合う男の先生だ。
クリーム色のテーブルを挟んで瀬那先生の向かいに座り、ぺこりと浅く頭を下げた。
「遠海さん、今日はいつもと少し違うね。何かあった?」
瀬那先生の言葉に返答しようと手元に視線を落とすが、白川との会話の途中だった為片手にはスマホが握られたままだった。慌ててスマホをポケットに押し込み、カバンの中からタブレットとペンを取り出す。そんな私を見て、瀬那先生が「慌てなくていいよ」と朗らかに笑った。
〈いつも通りです。多分〉
「多分?」
〈直前まで友人と話していて。会話の途中だったので〉
「そうだったんだね。直前、という事はメールでもしていたのかな」
〈いえ、その友人が今日は付き添ってくれていて。最近ではアプリで会話する方が楽なので、スマホを使う事の方が多いです〉
そう書いたタブレットを見せると、瀬那先生が驚いた様に目を瞬かせた。
「今までも、こうしてお友達と一緒に来た事はあった?」
〈今日が初めてです〉
「そっかそっか。そのお友達と、今日一緒に来る事になった経緯を聞いても良いかな?」
「……」
瀬那先生の言葉に、数日前の事を思い出す。
そういえば、瀬那先生には白川の話をした事がなかった。白川と毎日家で過ごしている事も、学校で常に行動を共にしている事も、瀬那先生は知らない。
何処から話せば良いのだろうか、と考えあぐねていると、先生が言葉を続けた。
「ここ最近の遠海さんが、前より僕と長くお話してくれる様になった事に関係があるのかな」
その言葉の意味が分からず、ペンを握ったまま首を傾げる。
「今まで……そうだね、大体夏頃位までかな。悪く聞こえてしまうかもしれないけれど、遠海さんは僕と事務的な会話しかしてこなかったんだよ。好きな事を聞いても、最近何をしているか聞いても、〈特に何もない〉というだけでね。でも最近になって少しずつ言葉が増えてきて、読書を趣味にしている事とか、好きな作家の事とか、今まで読まなかった漫画を読む様になった事とか、料理をする様になったとか、色々教えてくれる様になって、話す時間が前に比べて平均で十五分も増えてるんだよ」
〈そんなに増えてましたか〉
「遠海さんは気付いていなかったんだね。僕は遠海さんの心に何か変化があったんだと思っていたんだけど、そのお友達が遠海さんを変えたんじゃないかな」
心の、変化。
自分では、細かな事は分からない。瀬那先生と事務的な会話しかしていなかった自覚すらなかった位だ。私は相当鈍いのかもしれない。
しかし、私の心に変化を与えたとすれば、それは紛れもなく白川だろう。
〈先生、人の心に花が咲く事はありますか?〉
私の言葉に、瀬那先生が首を傾げて「ん?」と問い返した。
だいぶ不可解な質問をしてしまった様だ。慌てて【削除】ボタンを押し、ディスプレイにペンを走らせる。
〈これは好きな本の影響だったりするんですけど。ある人に出会ってから、心の中に芽が出て、幹を伸ばして葉を付けて、蕾が付いた、気がしたんです。例え話なんですけど〉
「なるほど」
〈それが、その蕾が、花開く事はあるのかなと思って〉
瀬那先生が考え込む様にうぅんと唸る。しかしその顔には、優しい笑みが浮かんでいた。
「読書家、というだけあって遠海さんは面白い事を言うね。その花が開くかどうかは、遠海さんとその相手の子次第じゃないかな。これは僕の憶測だけど、その〝ある人〟というのが、今日一緒に来ているお友達なんじゃないかな?」
「……」
瀬那先生から視線を外し、空いた左手で髪の毛先を弄りながら曖昧に頷く。すると瀬那先生は、何故だかとても嬉しそうに笑った。
「そのお友達、僕にも紹介してくれないかな」
〈紹介、ですか。不真面目な奴ですけど〉
「構わないよ、ここに連れておいで」
瀬那先生に促されるまま、タブレットとペンをテーブルに置いて席を立つ。そして診察室の扉を開いて頭だけを外に出し、遠目に見える白川に向かって手招きをした。
私の姿を見て数秒固まった彼が、一度振り返ったのち自身を指差して見せる。そのジェスチャーに頷くと、白川がいそいそとソファから立ち上がった。
「え、何。なんで俺?」
此方に来るなり、白川が困惑の声を上げる。それに対して何も返答する事が出来ず、診察室の扉を大きく開いてとりあえず中に入るようにと促した。
「急に呼んでしまってごめんね。驚いたかな」
瀬那先生の言葉に、「あぁ、はい。ちょっとだけ」と白川が曖昧に答える。
私の隣の席に腰掛けた彼は、なんだか落ち着かない様子で瀬那先生の顔を見たり俯いたりを繰り返していた。こんな白川の姿が見れる事は殆ど無い為、なんだか面白く感じる。
「なんて呼んだらいいかな」
「えっと、白川、で」
「白川くんね。僕は、遠海さんのカウンセリングを担当している瀬那です。よろしくね」
瀬那先生が朗らかに笑って、首下げ名刺を手に持って見せた。その名刺には、瀬那新の名と一緒に顔写真が印刷されている。
どの位前に撮影されたものなのだろうか。前髪が長く表情の無い写真の中の瀬那先生は、とても今の先生と同一人物には見えない。しかし掛けている眼鏡が同じな為、瀬那先生で間違いはないのだろう。
「あの、なんで俺呼ばれたんですか。部外者が付き添いとか、まずかったですか」
「いやいや、そんな事はないよ。ただ、この一年ずっと一人だった遠海さんが初めて人を連れて来たから、どんな子なのかなと気になってね」
「え、親戚とかは……」
白川の問いに、何処まで答えて良いか困ったのだろう。瀬那先生がちらりと此方に視線を遣った為、素早くタブレットに〈私に付き添ってくれる親戚はいない〉と書く。
「白川くんにとって、遠海さんはどんな存在なのかな」
「……どんな、って言われても」
白川が困惑したように、まぁその、などと言い淀む。
そして何故だか、彼の視線が此方に向いた。視線が交わると、焦った様に直ぐに逸らす。明らかに挙動不審な白川を見て、妙な不信感が募っていくのを感じた。
白川は、私をどう思っているのだろう。そんなに、パッと出てこないものなのだろうか。
確かに私も、瀬那先生に同じ事を問われたら直ぐには出てこないかもしれない。だが白川の事は、今は良い友人だと思っている。一緒にいて、安らぐ友人だと。
「遠海さん、少し、白川くんと二人で話してみてもいいかな」
唐突に瀬那先生に話を振られ、慌てて顔を上げた。瀬那先生の顔は、変わらず穏やかだ。私のいない所で二人が私の話をするのは気分がいいものでは無いが、先生の頼みであれば従う他無い。小さく頷き、タブレットとペンをカバンに押し込んだ。