「――おい、遠海」
突如、自身を呼ぶ声と共に屋上の扉が開き、びくりと肩が跳ねた。
「俺がこき使われてる間に勝手に屋上行くとか酷くね」
やはり、というべきか、何故此処に、というべきなのか。顔を見せたのは、先程まで私の頭の中を埋め尽くしていた白川だった。
何か伝えなくては、とタブレットを探すも、まさか白川が此処まで来ると思っていなかった為にタブレットを持って来ていない。どうしたものかと考えあぐねていると、いつの間にか目の前まで来ていた白川が私に見慣れたタブレットとペンを差し出した。
「タブレット持たないとか、会話する気ゼロじゃん。俺以外が此処に来てたらどうするつもりだったの」
白川からタブレットを受け取ると、彼が当たり前の様に私の隣に腰を下ろした。慌てて電源を入れ、ペイントツールを開きペンを走らせる。
〈なんで此処が分かったんだ〉
「別に。この学校そんな広くないし、来るところって言ったら屋上位しかないっしょ。まぁ、いくつか空き教室は見て回ったけど……」
白川が言葉を区切り、長めの息を吐く。階段を駆け上がって来たのだろう、僅かに息が切れている。
「てかタブレット、机の上に置きっぱにするなよ。不用心だぞ。誰かが中身見るかもしんねぇじゃん」
〈見られて困るものは入れてない。筆談用のアプリと、ニュース、あと初期アプリ位だな〉
「社畜のサラリーマンかよ。スマホの方は?」
〈スマホにはもっと何も入ってない。写真も撮らないし〉
「マジかよ。ゲームとかしねぇの? SNSは?」
〈しないし、入れてない〉
パンの袋を開けた白川の顔が引き攣る。
〈そんなにおかしいか?〉
「おかしいっつーか……、お前普段何して生きてんの?」
〈読書か勉強〉
「じゃあ、漫画アプリとか入れればいいじゃん」
〈漫画は読まない。それに、書籍は紙媒体派なんだ。電子は好かん。目が疲れる〉
「俺と真逆だ。俺は漫画しか読まないし、紙の本は買わない。場所取るし」
会話が途切れ、沈黙が流れる。私と白川の間を風が吹き抜け、お互いの髪をふわりと揺らした。
この一週間、ずっと気になっていた事があった。本来であれば初日、遅くても二日目、三日目位には聞いておくべき事だったのだろうが、白川があまりに普通に接してくるものだから中々言い出す事が出来なかった。
暫し悩んだのち、ゆっくりとペンを動かしタブレットに文字を書く。
〈私の障害の事、気にならないのか?〉
ディスプレイに目を向けた彼が、ぴたりと動きを止める。
〈もう既に、来栖先生あたりから聞いてるとは思うが〉
「別に」白川がふい、とタブレットから顔を逸らして、「来栖先生からは何も聞いてねぇよ」
何かを深く考え込む様なその横顔は、いつもに増して真剣に見えた。
再び訪れる沈黙。私と白川の間を流れる風が心と心の境界線を表している様に思え、柄にもなく〝寂しい〟なんて感じてしまう。
話題を変えよう。白川に振れる話題などたかが知れているが、ペンを握り直し必死に頭を回しながら真っ白のディスプレイを見つめる。
「――それってさ」
ふいに白川が口を開いた。
「お前が冷淡少女って呼ばれてる事と関係あんの?」
その言葉に、何故だか心臓を冷たい手で掴まれた様な、全身から血の気が引いていく様な、妙な感覚に陥った。
冷淡少女と影で呼ばれている事を、特別気にした事は無かった。だというのに、白川にそれを知られていた、と考えるだけで何故だか絶望的な気持ちになる。
〈知ってたのか〉
「クラスの連中が話してんの聞いた」
【削除】ボタンを押し、真っ白に戻ったディスプレイを見て頭を悩ませる。
私の障害と、冷淡少女と呼ばれる様になった事に関係はあるのだろうか。完全な無関係では無いが、直接的に関係しているのかと問われればそうでは無い。
〈約、一年前〉
気が付けばペンを持つ手は動いていて、真っ白のキャンバスに自身の過去を書き始めていた。
〈中学三年生の夏、母親と海に行ったんだ〉
自身の過去を、こうして思い返しながら人に話すのは初めてかもしれない。来栖先生にだって、入学当時『大きな精神的ショックが原因で、中学三年生の夏頃から声が出なくなった』としか話していない。勿論、精神科の診断書を提出している為、診断書に過去が書かれていれば認知している人は存在している事になるが。
〈私が海に行きたいって我儘を言って、連れて行ってもらった。うちは父親が居なかったから、母は仕事で忙しかったんだよ。でも私があまりに我儘を言うものだから、無理に休みを作ってくれたんだろうな〉
〈海に行った日、母親は酷く疲れた顔をしていたのを覚えてる。それを見て、少しばかり罪悪感を覚えた事も〉
【削除】ボタンを押さず、まるで日記でも書く様にキャンバス内につらつらと書いていく。不思議と、思い出す事や話す事に苦しさは感じなかった。
〈電車を降りて、海に向かっていた時だった。車が擦れ違うのがやっとの細い道を歩いていた。そこに、トラックが走ってきて〉
白川は、何も言わない。ただ黙って、私が区切りとして手を止める度に頷くだけだ。
〈トラック一台位であれば、細くても通れたんだ。でも、そのトラックは少し様子がおかしかったらしい。私はそのトラックの異変に気付かなくて、遠目に見える海にただはしゃぎながら道を走ってた〉
〈異変に気付いたのは、私を追いかけてた母だった。『そっちへ行かないで』って母が緊迫した声で叫んだのに、私はその言葉の重さに気付けなかった。それからは一瞬だったよ。母が私を突き飛ばしたと思ったら、トラックが母親を巻き込んで壁に激突してた〉
〈運が悪かったのか、なんなのか。トラックは倒れ込んだ私の両足までをも引き摺って、私も事故に巻き込まれた。折角母が、助けてくれたのに〉
〈のちに聞いた話だが、居眠り運転だったらしい。私の両足は神経がズタズタで、一生足に障害が残ると言われた。まぁ運が良くも今は杖無しに歩く事が出来ているけど、壁とトラックの間に押し潰されている母のあの痛ましい光景と、母の葬儀で揉める親戚、唯一の家族を喪った現実。その全ては私の精神を抉るには充分すぎたらしい〉
そこで、漸く白川が口を開く。
「それで、声を失った、と」彼の言葉に、コクリと頷く。「思ってた以上に残酷だな」
〈現実なんてそんなもんだ〉
「そうかもな、うちも似た様なもんだし。現実なんて――……」
白川の言葉が、ふと途切れる。
彼に目をやると、彼の顔には機械的な無表情が張り付けられていた。毎朝鏡で見る、自分の顔とよく似た表情だ。
「いや、全然似てねぇわ」白川が僅かに表情を崩す。「俺の話は、まぁよくある話だから」
〈聞いてもいい話か?〉
「何の面白みも無い話だけど、それでも良ければ」
白川の言葉に頷くと、彼が少し長めの溜息をついて、ぽつりぽつりと話し出した。
「俺さぁ、母親に疎まれてんだよね。昔はまぁ、普通の母親だったんだけど、数年前親父と離婚してから、どんどん親父に似ていく俺を疎む様になった。男を家に連れ込む事も多くなったし、なんか、変な男と再婚するかもしれないし」
〈変な男?〉
「母親、水商売やってんの。だから夜仕事行って、朝帰ってくるんだよ。そん時に、男連れてる事が多いんだよね。多分、客の一人だと思う」彼が自嘲気味に笑って、「丁度学校休みの時でさ、その男と喋ってんの聞いちゃったんだよ。『あいつが死ねば大金入るのに』って」
「……」
なんて返答すればいいかが分からず、ペンを強く握り締める。
「保険金殺人っての? 割と他人事じゃねぇなって」
はは、と白川が乾いた笑いを漏らす。しかしその笑いはやはり機械的で、初めて彼と話した時に見せてくれた笑顔とは程遠いものだった。胸がずきりと痛み、白川の横顔から視線を外す。
「――俺、白雪姫好きなんだよね」
は?
何の脈絡もない発言に、ペンを握り締めたまま思わず固まる。再び彼に視線を向けるが、彼の表情は変わっていなかった。
〈なんだ急に〉
「白雪姫って生命力超強いじゃん。毒林檎食わされても尚生きてるって普通に凄くね? あと、俺王子様のキスで目が覚めるっていうベタなの好きだからさ、白雪姫好きなんだよ」
〈王子様のキスで目が覚める系は白雪姫だけじゃないが。それに、白雪姫はキスで目を覚ましたんじゃなくて〉
「あー! いいから! そういう現実的な話! どうせあれだろ、毒林檎が喉に引っかかってただけとかいう説だろ!」
〈知ってたのかよ〉
白川が溜息をついて、いつの間にか食べ終わっていたパンの空袋をくしゃりと握り潰した。
〈白川って、白雪姫みたいだな〉
「それ皆言うんだけどなんなの? 白雪姫好きだとは言ったけど白雪姫になりてぇとは言ってねぇよ。それに、そんな事言ったら遠海は人魚姫じゃん」
〈あんな哀れな女と一緒にするな〉
「王子様とか怠いだろって思ってたけど、俺遠海の王子様にだったらなってもいいかも」
〈仮に私が人魚姫だとしたら、お前が王子様になったら私に刺される事になるけどな〉
「あれ、人魚姫って王子様刺せなくて自害したよね? なんで刺す前提で話してんの?」
〈お前の為に自害はしない〉
そんな他愛のない話――と、いうよりも下らない話をしていると、校内から授業を知らせる予鈴が聞こえてきた。タブレットの上方に表示された時間を見て、思いの外長く白川と話し込んでしまった事を悟る。
タブレットと食べかけのパンを抱え、フェンスに掴まりながらその場に立ち上がった。
「なぁ、お前階段降りられんの?」
〈バカにするな。階段の昇り降り位は出来る〉
「でも、時間かかるだろ。その足で、ここから五分以内に教室に戻るって無理じゃね?」
「……」
白川の言う通り、私の足では階段を降りるだけで五分消費してしまいそうだ。
やはり、こんな場所来るべきじゃなかった。遅刻覚悟で戻るしかない。
そう、思った時。
白川に腕を掴まれ引き寄せられたと思ったら、急に身体が宙に浮いた。目の前には、下から見た白川の顔と青い空。次第に状況に理解が追い付き、浮遊感に恐怖を感じ始める。
「王子様の予行演習、という事で。落ちたくなかったら暴れるなよ」
これは所謂、お姫様抱っこという奴だ。
現実世界でこんな事する奴いたのか。――いやいや、そうじゃなくて。そんな事どうでも良くて。
私の声であるタブレットは腕の中。とてもじゃないが、文字を書いて見せられる状況では無い。
彼はこのまま何処まで行くつもりなのだろう。教室まで運ばれては堪ったものでは無い。とにかく、彼の腕から脱出しなければ。羞恥を通り越して最早使命感と変わったそれに、彼の肩を叩き足をバタつかせる。
「あんまり暴れると階段で落すぞ」
とんだ暴君だ。下ろすという選択肢はないのかこいつには。
それより今は、背と膝裏に回された腕や、密着した身体からダイレクトに白川の体温が伝わってきて落ち着かない。どくどくと鼓動は早くなる一方で、背や掌に変な汗が滲みだす。
あの日と、同じだ。初めて白川がバスに乗せてくれた時。あの時にも、今と同じ様な感情を抱いた。その感情と共に胸の中に芽吹いたものは、八神の元から連れ出してくれた時に葉を開き、それからというもの植物が育つ様に大きくなっている気さえしてくる。
――『人間の心はプランターである。この世に生を受けたと同時にプランターに土を敷かれ種が埋め込まれる。褒め言葉や好意、会話が肥料になり、人間は己の人生をかけて心の内に美しい植物を育てる』
思い出すのは、北条涼太の『植物』。違うあれはフィクションだ。作り物だ。北条涼太のファンとしては言いたくない事ではあるが、つまりは彼の空想の話に過ぎないのである。
羞恥と困惑、そして僅かな恐怖。そんな感情に苛まれている私を他所に、白川は何処か満足げな顔で歩き出した。
六時限目とHRが終わり、部活動が始まる前の煩雑とした職員室。人の出入りが激しい、嫌な時間だ。
二週間に一度の頻度で、私は担任の来栖先生に呼び出される。生徒指導、などといった堅苦しいものでは無く、来栖先生曰くただの雑談と近況報告だ。
とはいえ、足に障害を持ち、声も出せず筆談をする生徒など学校側からすれば問題児でしかないだろう。前に一度、教頭から私の話をされている来栖先生の姿を見かけた事があった。決して私を問題児だと言った訳でも、来栖先生が叱責されている訳でも無かったが、その場の空気は穏やかでは無かった。
タブレットとペンだけを手に、職員室の扉をノックする。そしてゆっくりと様子を伺いつつ扉を開くと、冷房特有の埃っぽいにおいと冷たい空気が蒸し暑い廊下に漏れ出た。
「あ、遠海さん、こっち!」
職員室の窓際、いつもの席に座る来栖先生が頭上で大きく手を振る。
周囲の先生が一気に来栖先生に視線を向けるが、彼女は一切気にしていない様だ。僅かに気まずさを感じながらもその場で小さく頭を下げ、いそいそと来栖先生の席まで足を運ぶ。
「いつもごめんね。此処まで来るの大変でしょう」
来栖先生は相変わらず、ふわふわとした声をしている。表情も柔らかく、比較的会話がしやすい先生だ。しかしこの〝雑談と近況報告〟は、私にとっては決して好ましいものでは無かった。早く回復しろと、催促されている気分になるのだ。
事前に開いておいたアプリに返事を書き、来栖先生にタブレットを見せる。
〈教室から遠くないので、大丈夫です〉
「あらそう? 足はまだ痛いの? リハビリの先生はなんて?」
〈痛みは相変わらずです。先生からも、特に変わった事は言われていません〉
毎回似たり寄ったりな私の返答に、来栖先生が困惑した表情を浮べる。彼女から見た私は、扱いづらい生徒なのだろうな。そんな事がひしひしと伝わってくる。
しかし、これ以外に言う事が無い。たったの二週間で足の痛みが回復する事は無いし、リハビリの先生とだって、毎度細かな話をしている訳でも無い。
「そういえば、白川くんが編入してきてもう一ヶ月が経つけれど、遠海さん、彼と仲良くなったのね」
唐突に白川の名を出され、鼓動がどきりと跳ね上がる。
〈別に、仲良くは無いです〉
「そうなの? でも毎日一緒に居るじゃない」
〈それは、彼が一方的に付き纏ってくるだけで〉
「それを、仲が良いと言うんじゃない?」
「……」
黙り込んだ私に、来栖先生は「ね?」と言って朗らかに笑った。
仲が良い、というのは、一体どんなものを指すのだろうか。中学の頃、私がまだ事故に遭う前は人並みに友達も居たし、楽しく学校生活を送っていたと思う。だが、その時の〝楽しい〟や〝嬉しい〟といった感情は、事故と共にあの場所に置いてきてしまった。故に、何をもって仲が良いというのかが今の私には分からないのだ。
「あのね、白川くんの事なんだけど」
来栖先生が、声のトーンを落とす。
「彼、初日にあんな自己紹介したじゃない? その、人付き合いも友達作りも怠いって」
白川が編入してきた日の事を思い出し、そういえばそんな事を言っていたな、なんて思いながら先生の言葉に頷く。
「私、実習の時や副担任だった時から色んな生徒の事見てきたけど、ああいった自己紹介をする子、初めてで……どうしていいか分からなくってね。いじめに遭ったりしないかとか、大きな問題が起こらないかとか、凄く心配していたの」
先生が眉尻を下げ、悲しげに笑った。
「でも、白川くんが遠海さんと話しているのを見て、凄く安心した。二人の会話内容は勿論私には分からないけれど、遠海さんも前に比べて口数……? が、増えたみたいだし」
〈確かに会話する頻度は増えましたが〉
今まで不要だった、モバイルバッテリーを購入した位だ。タブレットを使う頻度が増えた事は明白である。しかし、だからといって白川と私が仲が良い、というのは違う気がする。
煮え切らない態度の私を見て、来栖先生が困ったような顔をした。
「遠海さんは、白川くんの事が好きじゃない?」
来栖先生の言葉に、ペンを握る手に力が籠る。
「一方的に付き纏ってくる白川くんが、鬱陶しい?」
私を見つめる彼女の瞳は、とても優しい。問い詰めている様にも聞こえるが、決して詮索するつもりは無いのだという事が伝わってくる。
きっと、来栖先生ならどんな話だって真剣に聞いてくれるはずだ。私の中に芽吹いたこの感情の意味だって、彼女なら分かるかもしれない。
だが今の私には、何も言えない。いや、正確に言うのであれば話すのが怖い。
〈すみません、そういうの、よく分からないです〉
最初は本当に小さな、新芽の様なものだった。それが、白川と会話を交わす度、関わる度、幹を伸ばし、葉を付け始めた。これ以上それに、水を遣る様な事はしたくない。
〈今日はもう帰ります〉
「遠海さん……」
何か言いたげな来栖先生に後ろ髪を引かれながらも、深々と頭を下げ踵を返した。痛む足を引き摺って職員室を後にし、後ろ手に扉を閉め深く溜息をつく。
教室は同じフロアにある為、戻るのに時間は掛からない。だが、もしかするとまだ教室に人が残っているかもしれない。
――今は、誰かと顔を合わせる気分じゃない。
なるべくゆっくり戻ろうと、タブレットを胸に抱き、壁に凭れかかりながらだらだらと教室の方へ足を進める。
父は、私がまだ僅か三つの時に病気で亡くなった。詳しい病名などは聞かされていないが、病気が発覚した時には既に進行していて、末期だったらしい。
小学一年生の時に出会った女の子。クラスが離れても友情が途切れる事は無く、親友だった。しかし六年生に進級したと同時に、突如親の転勤で遠くへ引っ越した。
中学校に上がって、初めて人を好きになった。二つ年上の、先輩だった。しかし先輩には既に恋人が居て、更には卒業と共に引っ越し遠くの高校へと進学した。
そして中学三年生の夏――母を喪った。
全てが全て、不幸な別れだった訳では無い。しかし、母を喪って気付いた。私の周りの人は、私の大切な人は、いつもいつも離れていく。居なくなってしまう。
『遠海さんは、白川くんの事が好きじゃない?』
先程の、来栖先生の言葉を反芻する。
『一方的に付き纏ってくる白川くんが、鬱陶しい?』
白川は決して、悪い奴では無い。好きか嫌いかの二択だけで考えれば、好きな方だと思う。鬱陶しいと思う事も、今は無い。
寧ろ、心の何処かでは白川と関わる事を求めていた。好きじゃなかったはずの学校も、楽しいと感じ始めていた。
だがそれをはっきりと認めてしまえば、言葉にしてしまえば、いつかは白川さえも失ってしまう気がした。
人間を繋ぎとめておける方法など存在しない。特に、死からは逃れられない。
どれだけ友情を育んでも、いつか消えてしまう時が来る。事実、小学生の頃の親友だって、引っ越してから数回の手紙のやり取りはしたものの、いつの間にかそれも途絶えてしまった。
いつか、必ず別れが来る。それが分かっているのなら、一人で居た方が良いに決まっている。これ以上深入りする前に、白川との今後の関係は考えた方が良いかもしれない。
辿り着いた教室。タブレットを片手で抱え直し、引き戸の取っ手に手を掛ける。だが、その手は扉を開く前に止まった。
「――白川くん、なんでいつもあの子と居るの?」
教室の中から聞こえる、椎名さんの声。教室の扉に埋め込まれた小窓は、擦りガラスになっている為中は見えない。しかし彼女の言葉からして、白川もそこに居るのがわかった。何となく入るタイミングを失ってしまい、取っ手から手を離す。
「なんで、って?」
「いや、だってあの子喋らないし、笑わないし、なんか人寄せ付けないオーラ放ってるし、一緒に居てつまらないでしょ」
「つまらねぇって思ってたら最初から絡んでねぇよ。それに、喋らないんじゃなくて喋れないんだよ。クラスメイトなのに、そんな事も知らなかったのか」
「……知らなかった訳じゃないけど。ってか何? なんでそんなに遠海さんの事庇うの? もしかして白川くん、遠海さんの事好きだったりする?」
「……」
白川の返事は無い。此処からでは中が見えない為、当然白川の表情も分からない。
何故、そこで黙ったのか。その沈黙には何の意味が込められているのか。別に白川が私をどう思っていようが関係ないはずなのに、何故だかその問いの答えが無性に気になってしまい、酷くもやもやする。
「え……? ほんとに遠海さんの事好きなの? なんで? だって冷淡少女だよ? 好きになる要素ないじゃん!」
白川の無言を肯定と捉えたのか、椎名さんがやや苛立った様子で早口で捲し立てた。
椎名さんは、誰にでも優しい女の子。幾ら皆から距離を置かれている〝冷淡少女〟の事であっても、自ら悪く言ったりはしない。――そんなの、ただの見せかけだ。
クラスに大きなカーストは存在しないが、それに似た暗黙のルールがある。その中でも、椎名さんは必ず名が上がる程の立ち位置だ。正直、今更椎名さんの本性を知った所で特別驚きはしなかった。寧ろ、そうだろうな、という納得の方が勝る。
どちらかと言えば今は、椎名さんよりも白川の本性の方が気になった。人には必ず裏表がある。白川の裏の顔とは、どんな顔なのだろう。今私は二人の間に居ないのだから、本音を言うには絶好の機会だ。
どうせ、障害があって可哀想だから、とか、見ていて不憫だから、なんて言うに決まっている。彼が私に構う理由なんて、それ位しか考えられない。
なのに――
「それって、誰基準で話してんの?」
白川の、酷く冷めた声。顔を見なくとも、今彼がどんな顔をしているかが分かる。
「え、誰って……」
「好きになる要素が無い、って、それお前の基準だろ。別に無理してお前に遠海の事好きになれとは言わねぇよ。嫌いなら嫌いでそれでいい。でもその基準を、俺に押し付けんな」
白川がそこで、言葉を区切る。しかし椎名さんは何も言わない。
「喋れないから、笑わないから何だ。俺は別に困ってない。そもそも、冷淡少女って勝手に呼び始めたのお前らだろ。遠海はまぁ、辛辣ではあるが別に冷淡ではねぇよ」
「……なにそれ、変なの」
「お前から見たら、俺は変なんだろうな。まぁ、俺は遠海から変だと思われてなければそれでいいよ」
「……どうせ、遠海さんからも変だって思われてるよ」
「それを決めるのはお前じゃない」
白川の言葉の後に、ガタン、と大きな音がした。二人のどちらかが、机や椅子を蹴ったのだろうか。穏やかでない空気に、流石にそろそろ仲裁に入った方が良いのではないかと引き戸の取っ手に手を伸ばす。しかし、それを遮る様に扉が勢いよく開いた。
「……」
扉を開いたのは、椎名さんだった。鋭い眼光で私を睨めつけた後、低い声で「盗み聞き?」と問う。慌てて腕に抱えたタブレットを開くが、椎名さんは私を一瞥する事無く「趣味悪すぎ」とだけ言い残してその場を去っていった。
椎名さんの後ろ姿に目を向けるが、彼女は一度も振り返る事無く大股で廊下を歩いていく。その背からは機嫌の悪さが滲み出ていて、彼女と決して仲が良い訳では無いというのに何故だか明日彼女と顔を合わせるのが憂鬱に思えた。
「遠海?」
教室の中から白川に声を掛けられ、ふと我に返る。どうするべきかとあたふたしていると、彼が上履きの踵を床に擦りながら此方に歩いて来た。
「来栖先生との話、終わった?」
教室の扉に凭れ掛かり、廊下に立ち竦む私に彼が何事も無かったかの様に問う。ぎこちなくもタブレットを起動し、急いでキャンバスに文字を書くと、珍しく彼が私のタブレットを自ら覗き込んだ。
〈待ってたのか?〉
「あぁ、うん。だって、帰りもバスだろ」
彼の言葉に、こくりと頷く。
「先生、何だって?」
〈いや、特には〉
「なんだよそれ」
なんと伝えれば良いか分からず、ペンを指の間でくるくると回す。椎名さんとの会話を、尋ねても良いものか。白川が何も言わないのなら、私も黙っているべきだろうか。
しかし、引っ掛かるのは椎名さんの言葉。
『どうせ、遠海さんからも変だって思われてるよ』
確かに、白川の事を変な奴だと思った事はある。編入初日、あんな自己紹介をしていたのに、何故私に此処まで関わるのだろうと疑問にも思った。
しかし、椎名さんの言葉を肯定する事はしたくない。椎名さんの言う〝変〟は、きっと言葉の意味が違う。
胸の内で、葉を付けて幹を伸ばした感情がざわざわと揺れる。
〈私は〉
僅かに震える手で、タブレットに文字を紡ぐ。今も変わらず白川が覗き込んでいる為、言葉の選択を間違う事は許されない。
〈白川の事を、変だとは思ってない〉
あまり、余計な事を言うべきじゃない。ただ簡潔に、誤解されない様に。
〈椎名さんの事は、気にするな〉
〈彼女はああいう人だから〉
〈クラスメイトだからといって、無理に関わる必要は無い〉
手は、今も震えたまま。
言葉は間違っていなかっただろうか。余計な事を言ってはいないだろうか。白川にまで、盗み聞きしたと誤解されるのでは無いだろうか。――いや、盗み聞きは本当の事なのだが、誤解などでは無いのだが。
しかし、白川に趣味が悪いと思われるのは嫌だ。決して盗み聞きしようとした訳では無い、という事だけでも弁解しておくべきでは無いか。
考えれば考える程思考は絡まってゆき、正解が分からなくなる。
すると、何故だか白川が突如吹き出し、「慰めてくれてんだ、珍しい」そう朗らかに言った。
――あ、笑った。
こんな状況だと言うのに、頭を回っていた思考は吹き飛び、白川のその笑顔に釘付けになる。
それは、編入初日からもう一度見たいと思っていた笑顔だ。裏表を感じさせない、屈託の無い笑顔。葉の付いた幹に、ぽつぽつと幼い蕾が付いていく様な、温かくて、優しくて、心地良い、変な感覚だ。
「別に、あいつの言う事なんか気にしてねぇよ。てか、俺椎名の事そんな好きじゃないし、好きじゃない奴から嫌味言われてもなんとも思わないっていうか」
ポケットに差し込まれていた白川の手が此方に伸び、
「俺は、お前に〝変〟だって思われてないって分かっただけで充分だよ」
ぽん、と私の頭を撫でた。
彼にこうして頭を撫でられるのは二回目だ。あの時は気付かなかったが、彼の手はとても男性らしく、私よりも大きい。頭のてっぺんで感じる彼の体温が何故だか懐かしく思えて、なんとなくその手に自らの手を重ねた。
骨ばった手や指は、当然女性のそれとは違う。腕を掴まれた事はあっても、こうして手に触れたのは初めてだ。
「……早く、帰らないとな」
白川がぽつりと、何処か切なげに呟いて私の頭から手を離した。
「荷物、お前の分まで持ってくるから此処で待ってろ」
離れた手を名残惜しく思っていると、彼が私から顔を背けて教室の中へと駆けて行った。
――あれ。
私の荷物と自身の荷物を纏める白川の背を見つめながら、先程の事を思い出す。
来栖先生と話した後、私はこれ以上白川に深入りする前に、彼とのこれからの関係を考えた方がいいかもしれないと思っていた。だって、人は皆いつか離れていってしまうのだから。永遠なんてものは、存在しないのだから。
なのに何故、私は白川に「変だとは思ってない」なんて伝えたのだろう。白川と距離を置くのなら、変な奴だと突き放してしまえばよかったのに。
「何難しい顔してんの?」
二人分の荷物を手に戻って来た彼が、私の顔を覗き込む。そんな彼に、ディスプレイを突きつける様に見せた。
〈やっぱ、お前は変な奴だと思う〉
「なぜに」
〈気が変わった〉
胸の内の幹に付いた、小さな蕾。それらが、いつか花開く事はあるのだろうか。その瞬間に期待してしまう反面、そんな日が来てしまう事を恐ろしく思っている自分もいた。