――午前中の授業を終え、漸く訪れた昼休み。
お手洗いを済ませ、痛む足を引き摺りながら歩いていると背後から「遠海ちゃん」と声を掛けられた。聞き覚えのある声だが、誰だか思い出せない。足を止めて振り返り、声の主に視線を向ける。
「遠海ちゃん……で、合ってるよね? 違った?」
そこに立っていたのは、金髪を緩く巻き、大量のピアスを付けた――昨日の昼休みに教室を訪れた不良だ。そう言えば、昨日椎名さんに名指しされ、名前を覚えられてしまったのだった。
しまったな、今はタブレットを持っていない。スマートフォンも、カバンの中だ。
普段廊下で話し掛けられる事が無い為、完全に失念していた。私はタブレットが無いと、人と会話が出来ないのだった。
「あれ? どーしたの、無視?」
へらへらと不良は笑っているが、その言葉には棘がある。慌てて首を横に振ると、彼は「不思議な子だね」と言ってまた笑った。
「俺の事は知ってる?」彼の問いに、曖昧な反応を示す。「あー、知らないんだ。残念。俺は八神壮馬。名前だけなら聞いた事あると思うんだけどな」
そういえば、そんな名前の不良が居たな。確かに聞いた事がある。この人の事だったのか。
コクリと頷くと、不良生徒――八神は「遠海ちゃんよく見るとめっちゃ美人じゃん。連絡先教えてよ」と言って、ダボついたスラックスのポケットからやたら派手なケースを付けたスマートフォンを取り出した。不良と言うのは、名前を訪ねるノリで連絡先を聞いてくるのだな。素直に感心してしまう。
しかし現在、困った事に私は何も持っていない。どうする事も出来ず、その場に俯いた。ジェスチャーで伝えられる方法は無いかと思索するが、無理そうだ。
「えー、なに。人見知り? もしかして無口な子? そういう無口キャラって今時流行んないよ」
失礼過ぎる言葉を重ね、八神が私の肩に馴れ馴れしく腕を回す。
「俺と一緒に克服してこ? 人と関わるコツっていうの? 俺が優しく教えてあげるから」
あぁ、困ったな。こうして言葉の伝わらない場所で不良に絡まれるのは、思いの外怖い。
無意識的にスカートをぎゅっと握り、精一杯首を横に振ると耳元で軽い舌打ちが聞こえた。驚きと恐怖で、びくりと肩が跳ねる。
「もしかして揶揄ってる? 俺そういうの好きじゃないなー、人の優しさ無下にすんのとか? 良くないと思うんだけど」軽い口調は変わらないというのに、声のトーンは徐々に低くなっていく。「ねぇ? 遠海ちゃん。俺の仲良い先輩達に可愛がってもらえば? そしたら上手に喋れる様になるんじゃない?」
まずい。非常にまずい展開だ。こんな形で日常が壊れるとは思ってもいなかった。
これも全ては、あの時椎名さんが私の名を出さなければ――もしかして椎名さんはこうなる事を分かっていたのか? ダメだ、今考えても仕方がない。どうにかして逃げなければ。それとも、誰かに助けを求めるか。――そもそも、助けてくれるのか? 私は今まで人と関わろうとしなかったのに、人を突き放し続けたのに。そんな私が窮地に立たされたからといって、誰かに助けを求めるだなんて図々しいのではないだろうか?
「遠海ちゃんの事、特別に先輩に紹介してあげるよ。そしたらさ、もう二度と俺の事無視なんて――」
八神の言葉が、不意に途切れる。肩に回されていた腕も外され、開放感に包まれた。なんとか顔を動かし、八神の方に目を向ける。
「何やってんすか、こんな所で」
八神の腕を掴んでいたのは、見知った顔。黒檀の木の様に黒い髪に、整った顔立ち。白雪姫の様な男。
「は? 何お前。誰? 野郎はお呼びじゃねぇんだけど」
八神の顔から笑みが消える。完全に怒りスイッチが入ってしまった様だ。仲裁に入ってくれた彼――白川を睨みつける顔は不良そのもので、見ているだけで心臓が痛くなる。
なのに、その顔を向けられた白川は物怖じする様子は無く、「無理に女に迫るとか、見苦しいっすよ」と言って笑った。その顔は、昨日見せてくれた笑みとは似ても似つかない嘲笑。白川の顔も、八神と同じ位に怖い。
「俺優しいから教えてやるけど、俺この学校で一番こわーい先輩達と仲良いの。あんまナメた口利くと痛い目みるよ?」八神がにこにこと笑う。
「そうやってバックに怖い人ついてるアピすんの痛いんで、やめた方が良いんじゃないっすかね。つまりは、あんた一人じゃなんも出来ねぇって事っしょ」
負けじと、白川が八神の言葉に食らいつく。
やめろ。ダメだ、これ以上は。
咄嗟に白川のシャツを掴み、首を横に振った。しかし白川は私を一瞥する事無く、今も八神を睨みつけている。
「壮馬ぁ」
突如響いた、場違いにも程がある媚態全開の声。顔を見ずとも、その声だけで誰かが分かる。
私の苦手――嫌いと言う方が適切だろうか――な人物だ。次から次へと厄介事が舞い込み、うんざりとしてしまう。
「何してんのぉ」
八神の腕に絡みつくその人物――椎名さんは、一見八神の恋人の様だ。いや、様だ、では無く恋人なのかもしれない。椎名さんは比較的、恋人は頻繁に変わるらしく、八神も週一で変わる。現時点の二人が交際をしていても何も不思議な事は無い。
「遠海さん、タブレット持ってないじゃん」
椎名さんが私の手元を指差し、こてんと頭を八神の肩に倒した。
「タブレット?」
「うん」八神の問いに、椎名さんが頷く。「遠海さんは、筆談でしか喋らないんだよ」
喋らないんじゃなくて喋れないんだけどな。心の内でそう反駁しながらも、癪ではあるが今は椎名さんの登場を救いに思った。
「あー! 遠海ちゃんだったの。一年の中に筆談する子がいるってやつ」彼の言葉に、コクリと頷く。「あれでしょ? 冷淡少女」
続けられた八神の言葉に素直に頷く事も出来ず、視線を彷徨わせた。白川というと、冷淡少女と言ってゲラゲラと下品に笑う八神に相当な不快感を抱いている様だった。その顔は酷く歪んでいる。
「壮馬ぁ、白川くんまだ編入してきて二日目だし、壮馬の事も知らないしぃ、許してあげてよ、ね?」
「許す、ねぇ……」
八神は納得いっていない顔をしているが、椎名さんが念押しする様にもう一度「ね?」と甘えた口調で言った。
「ん、白川……?」そこで何かを思い出したのか八神の視線が白川の顔に向いた。「白川ってお前、あの噂の白雪姫じゃん!」
白川は変わらず不快感を露わにしているが、八神は気付いているのかいないのか、言葉を続ける。
「え、ほんとに男だったの。ウケんだけど。しかも白雪姫に激似じゃん! 今度女装してよ」
一体どの白雪姫と比べて激似と言っているのかは知らないが、八神の笑い声やその発言を聞いている限り、完全に白川を馬鹿にしているという事は分かった。今度は私が、そんな八神に苛立ってしまい、つい彼の胸倉を掴もうと手を伸ばしてしまった。しかし、その手は八神の胸倉に届く前に白川に絡め取られる。
「俺、女装した事ありますよ。女にしか見えなかったそうです」
白川の衝撃的な発言に、八神が「え! まじで!」と嬉々とした声を上げた。「写真ないの? 写真!」
「写真、あー、探せばあるかもしれないんで、まぁそれはまた今度って事で」白川が私の手を引き、踵を返す。「すみませんが、俺遠海に用事あったんで返してもらいますね」
白川が向かっていくのは職員室の方向。その先には、空き教室しかない。一体何処へ連れて行かれるのかと思いながらも振り返ると、八神は私達に興味を失ったのか腕を組んだ椎名さんと楽しげに話していた。
しかし、椎名さんだけは八神の言葉に応じながらも、ずっと私達を見つめていた。
白川に手を引かれるまま辿り着いたのは、職員室の奥にある空き教室。空欄の室内札と埃臭い教室内を見るに、年単位で使われていなかった事が窺える。
「ほい」
私から手を離した白川が、スラックスのポケットから取り出した何かを私の手の内に落とす。
「とりあえず応急で」
よく見てみると、それは購買で売っている掌サイズの小さなリングメモ帳とボールペンだった。ぺらりと表紙を捲り、ボールペンをメモに走らせる。
こうして紙で筆談するのは久しぶりだ。タブレットの方が便利ではあるが、紙の方が書いていて落ち着く。
掌の上だった為安定感が無く殴り書きになってしまったが、なんとか書いた文字を白川に見せる。
〈女装、した事あるのか〉
メモを見た白川が、あからさまにその顔に不快感を表した。しかし心成しか、先程八神と話していた時の顔とは違って見える。
「嘘に決まってんじゃん」
何だ嘘だったのかよ。〈結構期待してたのに〉
「期待されても困る」白川が溜息をついて、「仮に女装した写真があっても、絶対に見せねぇからな」
つまらない奴だ。女装写真の一枚や二枚あれば、一生笑いものに出来るというのに。密かに落胆すると、そんな私を見抜いた白川が「お前まで食いつくなよ」と呆れた口調で言った。
会話が途切れ、溜息をひとつ。
何故、白川は私を助けてくれたのだろう。私に用事がある、というのは、あの場から連れ出すただの口実だ。そんなの、今の彼を見ていれば分かる。
もし、あの時白川が来てくれなかったら、私はどうなっていたのか。本当に、不良の先輩の元へ連れていかれてしまったのか。もし連れていかれていたら、どんな目に遭っていたのか。考えれば考える程、胃から何かがせり上がってくる様な恐怖感を覚える。
遅れてやってきた感情に手が震え、ボールペンの先がメモに擦れミミズが這った様な線を生み出した。
「あいつ、名前なんだっけ? 壮馬? とか呼ばれてたな」白川が私の感情に気付いているのかいないのか、独言を漏らす様に言う。「あいつは何もしてこないだろ。これ以上は」
胡乱な目を白川に向けると、「だって、あの女……えっと、椎名? だっけ。が、宥めてただろ」と軽い口調で続けた。
手の震えを抑えつけ、無理矢理メモに文字を紡ぐ。
〈そうとは限らない〉
「いや、大丈夫だって」スラックスのポケットに差し込まれていた白川の手が、徐に此方に伸ばされた。「遠海の事見てる奴、ちゃんと居るから。なんかあったら、その時は助けるから」
彼の手がぽんと頭の上に乗り、少々ぎこちない手付きで髪を撫でられる。
普段なら、振り払っていたはずの手。だが何故だか、今はその手が心地良く感じぎゅっとペンを握り締めた。
この男は何を思い、何を考えているのだろう。人付き合いも友達作りも怠い、恋愛もする気は無い、なんて自己紹介をしておいて、鬱陶しい程に私に構ってくる。こうして、私を助けてくれる。
顔を上げ、白川の目を真っ直ぐに見据える。色素の薄い茶色の目が私を見つめ返し、不覚にも鼓動が早まった。
「 」
ゆっくりと唇を動かし、紡いだ感謝の言葉。当然声は出ず、音も無い。しかし、メモを使わなかったのは、私なりの誠意であった。
「うん」白川が頷いて、柔らかく笑う。「どういたしまして」
昨日見た笑顔と同じだ。私を魅了させた、もう一度見たかったあの笑顔。
今朝バスの中で、心の内に芽吹いた感情。それは小さな植物の様で。
ざわざわと風が吹いた様にそれが揺れ、ゆっくりと、葉を開いた気がした。
彼の行動は私への同情か、それとも――
「遠海、次化学室。テルミット反応の実験だって」
〈は? 一人で行け〉
「辛辣」
そろそろ空腹を感じ始める、四時限目が始まる前の小休み。
次の授業は移動教室なのだが、
「実験って怖くね? 俺の事だから何かやらかしそう」
どれだけ突き放そうと、白川は何故だか私が支度を終えるのを待っている。片手に教科書類を持ち此方を見つめている白川になんとなく気まずさを感じながらも、向かう先は同じ故に仕方なく共に教室を出た。
白衣とか着れんのかな、白衣はロマンだけど保護メガネはダサいよな、などと隣でぼやいている白川は、何故だか私と歩調を合わせている。他のクラスメイトは、もうとっくに化学室へと向かっていて、既に到着している生徒も少なくは無いだろう。
何故こうも彼は私に構うのか。今まで誰一人として私に深く関わろうとした人物は居なかったというのに。鈍く頭が痛み、溜息をつきながらこめかみを押さえた。
――白川が編入してきて、早くも一週間。
二日目の朝、白川がバスに乗せてくれたのはただの気まぐれだと思っていたが、彼は何を考えているのかこの一週間欠かさず私と同じ時刻のバスに乗り、私がバスに乗るのを補助してくれる。
それだけでは無い。初日のあの自己紹介は何だったというのか、彼は必要以上に私に話し掛けてくる。そのせいで、今までタブレットの充電は一日で半分も減らない程度だったのに、昼頃にはもう充電が一桁になってしまい自身の人生には無縁だと思っていたモバイルバッテリーを購入する羽目になった。
バスに乗る補助をしてくれているのは助かっているが、無駄な荷物を増やした挙句、モバイルバッテリーの充電作業という余計な手数を増やした白川には正直恨みしかない。しかしそう思いつつも話し掛けられれば無視は出来ない。そんな自分が、大概嫌になる。
――授業が終わった後の昼休み。
普段なら白川は当たり前の様に私の後を付いてきて、頼んでもいなければ許可もしていないのになぜか私と共に自席に並んで昼食をとる。その間も白川はずっと喋り続ける為、私は片手で文字を書きながら食事をしなければならなかった。
しかし今日の白川は、運が悪く先生に捕まり、授業で使った小道具の片付けを手伝わされていた。これはチャンスだ、と思い、私は痛む足を引き摺り急いで教室に戻り、買っておいたパンを抱えて一人屋上へと向かった。
――そして、今に至る。
この暑い九月に、わざわざ屋上で昼食をとる生徒は居ない。広い屋上に、私一人きりだ。
フェンスを背凭れにして座り、パンをちびちびと齧る。
「……」
やっと、一人になれた。ペンを片手にパンを食べるのは大変だったのだ。やっと白川と離れる事が出来た。せいせいする。
なのに、心中にはもやもやとした気持ちの悪い感情が回っていた。
なんで先生に捕まってるんだよ、断って逃げれば良かったのに。白川がいつも通り私と一緒にいれば、私はこうして痛い足に鞭打って屋上なんかに来なくて済んだのに。
矛盾した考えなのは分かっている。そんな事を思うのなら最初からこんな場所に来なければいいだけであり、小道具の片付けだって手伝ってやることも出来た。白川から逃げ、屋上を選んだのは他でも無い私だ。なのに、それを白川のせいにするだなんて間違っている。
回り続ける嫌な感情に食欲が失せ、食べかけのパンを袋の中に戻した。
「――おい、遠海」
突如、自身を呼ぶ声と共に屋上の扉が開き、びくりと肩が跳ねた。
「俺がこき使われてる間に勝手に屋上行くとか酷くね」
やはり、というべきか、何故此処に、というべきなのか。顔を見せたのは、先程まで私の頭の中を埋め尽くしていた白川だった。
何か伝えなくては、とタブレットを探すも、まさか白川が此処まで来ると思っていなかった為にタブレットを持って来ていない。どうしたものかと考えあぐねていると、いつの間にか目の前まで来ていた白川が私に見慣れたタブレットとペンを差し出した。
「タブレット持たないとか、会話する気ゼロじゃん。俺以外が此処に来てたらどうするつもりだったの」
白川からタブレットを受け取ると、彼が当たり前の様に私の隣に腰を下ろした。慌てて電源を入れ、ペイントツールを開きペンを走らせる。
〈なんで此処が分かったんだ〉
「別に。この学校そんな広くないし、来るところって言ったら屋上位しかないっしょ。まぁ、いくつか空き教室は見て回ったけど……」
白川が言葉を区切り、長めの息を吐く。階段を駆け上がって来たのだろう、僅かに息が切れている。
「てかタブレット、机の上に置きっぱにするなよ。不用心だぞ。誰かが中身見るかもしんねぇじゃん」
〈見られて困るものは入れてない。筆談用のアプリと、ニュース、あと初期アプリ位だな〉
「社畜のサラリーマンかよ。スマホの方は?」
〈スマホにはもっと何も入ってない。写真も撮らないし〉
「マジかよ。ゲームとかしねぇの? SNSは?」
〈しないし、入れてない〉
パンの袋を開けた白川の顔が引き攣る。
〈そんなにおかしいか?〉
「おかしいっつーか……、お前普段何して生きてんの?」
〈読書か勉強〉
「じゃあ、漫画アプリとか入れればいいじゃん」
〈漫画は読まない。それに、書籍は紙媒体派なんだ。電子は好かん。目が疲れる〉
「俺と真逆だ。俺は漫画しか読まないし、紙の本は買わない。場所取るし」
会話が途切れ、沈黙が流れる。私と白川の間を風が吹き抜け、お互いの髪をふわりと揺らした。
この一週間、ずっと気になっていた事があった。本来であれば初日、遅くても二日目、三日目位には聞いておくべき事だったのだろうが、白川があまりに普通に接してくるものだから中々言い出す事が出来なかった。
暫し悩んだのち、ゆっくりとペンを動かしタブレットに文字を書く。
〈私の障害の事、気にならないのか?〉
ディスプレイに目を向けた彼が、ぴたりと動きを止める。
〈もう既に、来栖先生あたりから聞いてるとは思うが〉
「別に」白川がふい、とタブレットから顔を逸らして、「来栖先生からは何も聞いてねぇよ」
何かを深く考え込む様なその横顔は、いつもに増して真剣に見えた。
再び訪れる沈黙。私と白川の間を流れる風が心と心の境界線を表している様に思え、柄にもなく〝寂しい〟なんて感じてしまう。
話題を変えよう。白川に振れる話題などたかが知れているが、ペンを握り直し必死に頭を回しながら真っ白のディスプレイを見つめる。
「――それってさ」
ふいに白川が口を開いた。
「お前が冷淡少女って呼ばれてる事と関係あんの?」
その言葉に、何故だか心臓を冷たい手で掴まれた様な、全身から血の気が引いていく様な、妙な感覚に陥った。
冷淡少女と影で呼ばれている事を、特別気にした事は無かった。だというのに、白川にそれを知られていた、と考えるだけで何故だか絶望的な気持ちになる。
〈知ってたのか〉
「クラスの連中が話してんの聞いた」
【削除】ボタンを押し、真っ白に戻ったディスプレイを見て頭を悩ませる。
私の障害と、冷淡少女と呼ばれる様になった事に関係はあるのだろうか。完全な無関係では無いが、直接的に関係しているのかと問われればそうでは無い。
〈約、一年前〉
気が付けばペンを持つ手は動いていて、真っ白のキャンバスに自身の過去を書き始めていた。
〈中学三年生の夏、母親と海に行ったんだ〉
自身の過去を、こうして思い返しながら人に話すのは初めてかもしれない。来栖先生にだって、入学当時『大きな精神的ショックが原因で、中学三年生の夏頃から声が出なくなった』としか話していない。勿論、精神科の診断書を提出している為、診断書に過去が書かれていれば認知している人は存在している事になるが。
〈私が海に行きたいって我儘を言って、連れて行ってもらった。うちは父親が居なかったから、母は仕事で忙しかったんだよ。でも私があまりに我儘を言うものだから、無理に休みを作ってくれたんだろうな〉
〈海に行った日、母親は酷く疲れた顔をしていたのを覚えてる。それを見て、少しばかり罪悪感を覚えた事も〉
【削除】ボタンを押さず、まるで日記でも書く様にキャンバス内につらつらと書いていく。不思議と、思い出す事や話す事に苦しさは感じなかった。
〈電車を降りて、海に向かっていた時だった。車が擦れ違うのがやっとの細い道を歩いていた。そこに、トラックが走ってきて〉
白川は、何も言わない。ただ黙って、私が区切りとして手を止める度に頷くだけだ。
〈トラック一台位であれば、細くても通れたんだ。でも、そのトラックは少し様子がおかしかったらしい。私はそのトラックの異変に気付かなくて、遠目に見える海にただはしゃぎながら道を走ってた〉
〈異変に気付いたのは、私を追いかけてた母だった。『そっちへ行かないで』って母が緊迫した声で叫んだのに、私はその言葉の重さに気付けなかった。それからは一瞬だったよ。母が私を突き飛ばしたと思ったら、トラックが母親を巻き込んで壁に激突してた〉
〈運が悪かったのか、なんなのか。トラックは倒れ込んだ私の両足までをも引き摺って、私も事故に巻き込まれた。折角母が、助けてくれたのに〉
〈のちに聞いた話だが、居眠り運転だったらしい。私の両足は神経がズタズタで、一生足に障害が残ると言われた。まぁ運が良くも今は杖無しに歩く事が出来ているけど、壁とトラックの間に押し潰されている母のあの痛ましい光景と、母の葬儀で揉める親戚、唯一の家族を喪った現実。その全ては私の精神を抉るには充分すぎたらしい〉
そこで、漸く白川が口を開く。
「それで、声を失った、と」彼の言葉に、コクリと頷く。「思ってた以上に残酷だな」
〈現実なんてそんなもんだ〉
「そうかもな、うちも似た様なもんだし。現実なんて――……」
白川の言葉が、ふと途切れる。
彼に目をやると、彼の顔には機械的な無表情が張り付けられていた。毎朝鏡で見る、自分の顔とよく似た表情だ。
「いや、全然似てねぇわ」白川が僅かに表情を崩す。「俺の話は、まぁよくある話だから」
〈聞いてもいい話か?〉
「何の面白みも無い話だけど、それでも良ければ」
白川の言葉に頷くと、彼が少し長めの溜息をついて、ぽつりぽつりと話し出した。
「俺さぁ、母親に疎まれてんだよね。昔はまぁ、普通の母親だったんだけど、数年前親父と離婚してから、どんどん親父に似ていく俺を疎む様になった。男を家に連れ込む事も多くなったし、なんか、変な男と再婚するかもしれないし」
〈変な男?〉
「母親、水商売やってんの。だから夜仕事行って、朝帰ってくるんだよ。そん時に、男連れてる事が多いんだよね。多分、客の一人だと思う」彼が自嘲気味に笑って、「丁度学校休みの時でさ、その男と喋ってんの聞いちゃったんだよ。『あいつが死ねば大金入るのに』って」
「……」
なんて返答すればいいかが分からず、ペンを強く握り締める。
「保険金殺人っての? 割と他人事じゃねぇなって」
はは、と白川が乾いた笑いを漏らす。しかしその笑いはやはり機械的で、初めて彼と話した時に見せてくれた笑顔とは程遠いものだった。胸がずきりと痛み、白川の横顔から視線を外す。
「――俺、白雪姫好きなんだよね」
は?
何の脈絡もない発言に、ペンを握り締めたまま思わず固まる。再び彼に視線を向けるが、彼の表情は変わっていなかった。
〈なんだ急に〉
「白雪姫って生命力超強いじゃん。毒林檎食わされても尚生きてるって普通に凄くね? あと、俺王子様のキスで目が覚めるっていうベタなの好きだからさ、白雪姫好きなんだよ」
〈王子様のキスで目が覚める系は白雪姫だけじゃないが。それに、白雪姫はキスで目を覚ましたんじゃなくて〉
「あー! いいから! そういう現実的な話! どうせあれだろ、毒林檎が喉に引っかかってただけとかいう説だろ!」
〈知ってたのかよ〉
白川が溜息をついて、いつの間にか食べ終わっていたパンの空袋をくしゃりと握り潰した。
〈白川って、白雪姫みたいだな〉
「それ皆言うんだけどなんなの? 白雪姫好きだとは言ったけど白雪姫になりてぇとは言ってねぇよ。それに、そんな事言ったら遠海は人魚姫じゃん」
〈あんな哀れな女と一緒にするな〉
「王子様とか怠いだろって思ってたけど、俺遠海の王子様にだったらなってもいいかも」
〈仮に私が人魚姫だとしたら、お前が王子様になったら私に刺される事になるけどな〉
「あれ、人魚姫って王子様刺せなくて自害したよね? なんで刺す前提で話してんの?」
〈お前の為に自害はしない〉
そんな他愛のない話――と、いうよりも下らない話をしていると、校内から授業を知らせる予鈴が聞こえてきた。タブレットの上方に表示された時間を見て、思いの外長く白川と話し込んでしまった事を悟る。
タブレットと食べかけのパンを抱え、フェンスに掴まりながらその場に立ち上がった。
「なぁ、お前階段降りられんの?」
〈バカにするな。階段の昇り降り位は出来る〉
「でも、時間かかるだろ。その足で、ここから五分以内に教室に戻るって無理じゃね?」
「……」
白川の言う通り、私の足では階段を降りるだけで五分消費してしまいそうだ。
やはり、こんな場所来るべきじゃなかった。遅刻覚悟で戻るしかない。
そう、思った時。
白川に腕を掴まれ引き寄せられたと思ったら、急に身体が宙に浮いた。目の前には、下から見た白川の顔と青い空。次第に状況に理解が追い付き、浮遊感に恐怖を感じ始める。
「王子様の予行演習、という事で。落ちたくなかったら暴れるなよ」
これは所謂、お姫様抱っこという奴だ。
現実世界でこんな事する奴いたのか。――いやいや、そうじゃなくて。そんな事どうでも良くて。
私の声であるタブレットは腕の中。とてもじゃないが、文字を書いて見せられる状況では無い。
彼はこのまま何処まで行くつもりなのだろう。教室まで運ばれては堪ったものでは無い。とにかく、彼の腕から脱出しなければ。羞恥を通り越して最早使命感と変わったそれに、彼の肩を叩き足をバタつかせる。
「あんまり暴れると階段で落すぞ」
とんだ暴君だ。下ろすという選択肢はないのかこいつには。
それより今は、背と膝裏に回された腕や、密着した身体からダイレクトに白川の体温が伝わってきて落ち着かない。どくどくと鼓動は早くなる一方で、背や掌に変な汗が滲みだす。
あの日と、同じだ。初めて白川がバスに乗せてくれた時。あの時にも、今と同じ様な感情を抱いた。その感情と共に胸の中に芽吹いたものは、八神の元から連れ出してくれた時に葉を開き、それからというもの植物が育つ様に大きくなっている気さえしてくる。
――『人間の心はプランターである。この世に生を受けたと同時にプランターに土を敷かれ種が埋め込まれる。褒め言葉や好意、会話が肥料になり、人間は己の人生をかけて心の内に美しい植物を育てる』
思い出すのは、北条涼太の『植物』。違うあれはフィクションだ。作り物だ。北条涼太のファンとしては言いたくない事ではあるが、つまりは彼の空想の話に過ぎないのである。
羞恥と困惑、そして僅かな恐怖。そんな感情に苛まれている私を他所に、白川は何処か満足げな顔で歩き出した。
六時限目とHRが終わり、部活動が始まる前の煩雑とした職員室。人の出入りが激しい、嫌な時間だ。
二週間に一度の頻度で、私は担任の来栖先生に呼び出される。生徒指導、などといった堅苦しいものでは無く、来栖先生曰くただの雑談と近況報告だ。
とはいえ、足に障害を持ち、声も出せず筆談をする生徒など学校側からすれば問題児でしかないだろう。前に一度、教頭から私の話をされている来栖先生の姿を見かけた事があった。決して私を問題児だと言った訳でも、来栖先生が叱責されている訳でも無かったが、その場の空気は穏やかでは無かった。
タブレットとペンだけを手に、職員室の扉をノックする。そしてゆっくりと様子を伺いつつ扉を開くと、冷房特有の埃っぽいにおいと冷たい空気が蒸し暑い廊下に漏れ出た。
「あ、遠海さん、こっち!」
職員室の窓際、いつもの席に座る来栖先生が頭上で大きく手を振る。
周囲の先生が一気に来栖先生に視線を向けるが、彼女は一切気にしていない様だ。僅かに気まずさを感じながらもその場で小さく頭を下げ、いそいそと来栖先生の席まで足を運ぶ。
「いつもごめんね。此処まで来るの大変でしょう」
来栖先生は相変わらず、ふわふわとした声をしている。表情も柔らかく、比較的会話がしやすい先生だ。しかしこの〝雑談と近況報告〟は、私にとっては決して好ましいものでは無かった。早く回復しろと、催促されている気分になるのだ。
事前に開いておいたアプリに返事を書き、来栖先生にタブレットを見せる。
〈教室から遠くないので、大丈夫です〉
「あらそう? 足はまだ痛いの? リハビリの先生はなんて?」
〈痛みは相変わらずです。先生からも、特に変わった事は言われていません〉
毎回似たり寄ったりな私の返答に、来栖先生が困惑した表情を浮べる。彼女から見た私は、扱いづらい生徒なのだろうな。そんな事がひしひしと伝わってくる。
しかし、これ以外に言う事が無い。たったの二週間で足の痛みが回復する事は無いし、リハビリの先生とだって、毎度細かな話をしている訳でも無い。
「そういえば、白川くんが編入してきてもう一ヶ月が経つけれど、遠海さん、彼と仲良くなったのね」
唐突に白川の名を出され、鼓動がどきりと跳ね上がる。
〈別に、仲良くは無いです〉
「そうなの? でも毎日一緒に居るじゃない」
〈それは、彼が一方的に付き纏ってくるだけで〉
「それを、仲が良いと言うんじゃない?」
「……」
黙り込んだ私に、来栖先生は「ね?」と言って朗らかに笑った。
仲が良い、というのは、一体どんなものを指すのだろうか。中学の頃、私がまだ事故に遭う前は人並みに友達も居たし、楽しく学校生活を送っていたと思う。だが、その時の〝楽しい〟や〝嬉しい〟といった感情は、事故と共にあの場所に置いてきてしまった。故に、何をもって仲が良いというのかが今の私には分からないのだ。
「あのね、白川くんの事なんだけど」
来栖先生が、声のトーンを落とす。
「彼、初日にあんな自己紹介したじゃない? その、人付き合いも友達作りも怠いって」
白川が編入してきた日の事を思い出し、そういえばそんな事を言っていたな、なんて思いながら先生の言葉に頷く。
「私、実習の時や副担任だった時から色んな生徒の事見てきたけど、ああいった自己紹介をする子、初めてで……どうしていいか分からなくってね。いじめに遭ったりしないかとか、大きな問題が起こらないかとか、凄く心配していたの」
先生が眉尻を下げ、悲しげに笑った。
「でも、白川くんが遠海さんと話しているのを見て、凄く安心した。二人の会話内容は勿論私には分からないけれど、遠海さんも前に比べて口数……? が、増えたみたいだし」
〈確かに会話する頻度は増えましたが〉
今まで不要だった、モバイルバッテリーを購入した位だ。タブレットを使う頻度が増えた事は明白である。しかし、だからといって白川と私が仲が良い、というのは違う気がする。
煮え切らない態度の私を見て、来栖先生が困ったような顔をした。
「遠海さんは、白川くんの事が好きじゃない?」
来栖先生の言葉に、ペンを握る手に力が籠る。
「一方的に付き纏ってくる白川くんが、鬱陶しい?」
私を見つめる彼女の瞳は、とても優しい。問い詰めている様にも聞こえるが、決して詮索するつもりは無いのだという事が伝わってくる。
きっと、来栖先生ならどんな話だって真剣に聞いてくれるはずだ。私の中に芽吹いたこの感情の意味だって、彼女なら分かるかもしれない。
だが今の私には、何も言えない。いや、正確に言うのであれば話すのが怖い。
〈すみません、そういうの、よく分からないです〉
最初は本当に小さな、新芽の様なものだった。それが、白川と会話を交わす度、関わる度、幹を伸ばし、葉を付け始めた。これ以上それに、水を遣る様な事はしたくない。
〈今日はもう帰ります〉
「遠海さん……」
何か言いたげな来栖先生に後ろ髪を引かれながらも、深々と頭を下げ踵を返した。痛む足を引き摺って職員室を後にし、後ろ手に扉を閉め深く溜息をつく。
教室は同じフロアにある為、戻るのに時間は掛からない。だが、もしかするとまだ教室に人が残っているかもしれない。
――今は、誰かと顔を合わせる気分じゃない。
なるべくゆっくり戻ろうと、タブレットを胸に抱き、壁に凭れかかりながらだらだらと教室の方へ足を進める。