背後からかかった低い声に、心臓が派手に軋んだ。
 ……まさか。これではまるであの日と同じだ。記憶が綯い交ぜになり、なかなか振り向けずにいる私へ、畳みかけるように声が続く。

「部屋から見えたから、走ってきた。神谷に会いたくて」

 ……部屋から見えたって、なに。
 あれから三年以上経っているのに、君はまだあの部屋に住んでいるのか。君が選んだ大学に通うなら、もっと近くて便利な物件なんていくらでもあるだろうに。

「……まだ、あそこに住んでるの?」
「うん。神谷と一緒に過ごした部屋だから、どうしても引っ越せなくて」

 ゆっくりと振り返った先には、記憶よりもほんの少し大人になった神崎くんがいた。
 私が知る神崎くんより髪が伸びていて、それに妙に饒舌だ。けれど、どことなく緊張の滲む顔を見る限りでは、単に必死に口を動かしているだけなのかもしれない。

 神崎くんは傘を持っていなかった。
 うっすらと雨に濡れた髪と肩が視界に入り込み、どれだけ急いで飛び出してきたんだと笑ってしまいそうになる。

 それなのに、私は笑えなかった。
 それどころか、じわじわと涙が瞼を覆い始め、そして。

「お父さん、再婚したの」
「うん」
「今日、そのお祝いだったの。私、ちゃんと……お祝いできた」
「……うん」

 久しぶりの再会だというのに、随分と脈絡のない話を切り出してしまった。そんなことより話すべきことはたくさんあるはずで、でも。
 瞼を覆っていた涙が、許容量を超えてぽたりと落ちる。
 いつの間にか私のすぐ傍まで近づいていた神崎くんは、あの冬の日と同じく、涙の伝う頬を指先でそっと撫でてくれた。

 その瞬間、声が勝手に喉を通った。
 心の底にのさばり続けてきた思いが、ぽろぽろぽろぽろ、堰を切ったように溢れて零れ落ちていく。

「神崎くんに、会いたかった」
「……うん」
「ずっと会いたくて、けど、怖くて、ここには……来れなかったの」

 涙で霞んだ視界の端へ、伸びてくる両腕が覗いた。
 きつく身体を締めつける感触と、細い雨が柔らかく髪を叩く感触が、融け合ってひとつになる。

「神谷に話さなきゃいけないこと、いっぱいある」
「……っ、う、ん」
「だから待ってた。あれから何回も窓の外眺めて、神谷がふらふら歩いてないか、いっつも探してた」
「……馬鹿すぎ……」
「うん。けど東京まで追いかけるのは怖くてできなかった。ごめん」

 ……怖かった、なんて。
 初めて、この人の心の内側を明かしてもらえている気がした。それが苦しいくらいに嬉しくて、少しも声を出せそうになくなる。

 面倒。
 そのひと言であれこれ片づけては、いろいろなものからひたすら逃げ続けてきた私たちは、今からでも取り戻すことができるだろうか。

 全部聞きたい。全部伝えたい。私はそう思っている。
 もしかしたら、君も一緒なのかもしれない。

「なにから話す? っていうか、今彼氏とかいたりしない?」

 感動的な再会のはずが、間の抜けた問いかけが降ってくる。焦った声がおかしくて、つい噴き出してしまった。
 首を軽く横に振って否定すると、ほっとした顔の神崎くんと目が合った。縋りつくように、私は彼の首元に腕を巻きつける。

「……ごめん。もうちょっとだけ、こうしててほしい……」

 痛む喉から無理やり声を絞り出した途端、背中に回る腕の力が強まった。
 応えるように、私もまた腕に力を込める。

 そのとき、雲の切れ間から陽の光が覗いた。
 西日が照らし出す雨の筋は、そのどれもがキラキラと輝いていた。鮮やかな光の線――夢の世界にでも迷い込んでしまったのではと錯覚するほどの。

 その光を瞼の内側に焼きつけながら、私はそっと目を閉じた。



〈了〉