『雨が涼しくて気持ち良かったから、ちょっと長くなっちゃった』

 あの日、ただの散歩にしては遅く帰宅した後。
 私が咄嗟に口に乗せた言葉を、父は嘘だと見抜いていた。多分、彼女さんも。

 でも、ふたりともそれ以上なにも言わなかった。
 以来、私はどちらともほとんど口を利いていない。

 それから、下校後や週末などに、ときおり神崎くんの自宅へ遊びに行くようになった。
 抱き合うこともあるし、キスをすることもある。キスは初めてではなかったけれど、大人のキスは神崎くんとが初めてだった。

 本人に好きだと伝えてはいないし、伝えられてもいない。ただ、一緒に勉強していてふと鉛筆が止まったときだったり、息抜きにとふたり分のコーヒーを淹れているときだったり……神崎くんは隙を見ては私に触れたがった。
 最初こそ心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いたけれど、一度触れ合ってしまえば、後はもう雰囲気に流されるばかりだ。
 どうしてそんなことをするのか、わざわざ問う気にはなれなかった。はっきりした答えを知るのが怖かったからだ。

 例の噂は嘘だった。神崎くんは、女の子を取っ替え引っ替えなんてしていなかった。
 彼の部屋には、私以外の誰かが出入りしている雰囲気がちっともない。本人もまた、『友達どころか家族だって滅多に来ない』と不機嫌そうに口を尖らせていた。

 ひとり暮らしの理由は、単に実家から学校までの距離が遠すぎるという、それだけの話らしい。神崎くんの実家はかなりの田舎で、交通の便が非常に悪いそうだ。
 私たちが通う高校は県内でも指折りの進学校で、隣の市から通ってくる生徒も少なくない。三年間通い続けるつもりなら、確かに実家を離れたほうが、他の方法より効率的なのかもしれない。

 例の噂の出どころは、高校に入ってすぐの頃に付き合った女子だという。多分だけど、と、神崎くんは口数少なく教えてくれた。
 勢いに押されるまま付き合い始めたら、我侭がすさまじかったらしい。彼女のせいで碌に勉強の時間が取れなくなってしまった神崎くんは、辟易しながら別れを切り出したそうだ。
 そうしたら思いきり平手打ちされた挙句、『あいつは女と見れば誰でも食い漁る最低男だ』とかなんとか、さんざんなことを言いふらされたのだとか。

「あんまりじゃない、それ? なんでちゃんと言い返さなかったの?」
「面倒くさかった。それに、その噂があれば、普通の神経してる女なら誰も俺に寄ってこなくなる。だったら別にそれでいいかと思って」

 淡々と語る彼の声を聞き入れた途端、ちくりと胸になにかが刺さった。だが、その痛みの原因を追うよりも先に、妙な感心が胸を満たしていく。
 神崎くんは整った顔をしているし、クールな印象もある。となれば声をかけてくる女の子は多いはずだ。年頃の男の子なのだし、興味だって皆無ではないだろうに、その辺をばっさり〝面倒〟と言いきってしまえるとは。

 けれど、そう言いながらも神崎くんはどこか寂しげだった。
 この人は、別にひとりでいるのが特別好きというわけではない。長い時間ではないにしろ、傍でふたり一緒に過ごしたことで、その程度なら私にも理解できる。

 噂のおかげで女子から声をかけられる機会は激減したものの、同時に男子からも敬遠されるようになったという。
 女子に注目される同性に対する男子たちの複雑な心境も分からないではないが、その点は、神崎くんにしてみれば盲点だったのかもしれない。

 面倒くさい。
 再びそう零した神崎くんは本当に面倒そうで、やはり寂しそうにも見えた。

 その頃になって、胸の奥がじくじくと痛み始めた。
 さっきのひと言が妙に引っかかる。淡々と語られたせいで、余計に。

『普通の神経してる女なら』

 ……どうせ私は〝普通〟じゃない。
 いや、それ以前の問題だ。私たちは付き合っているわけでもなんでもないのだから。

 神崎くんは、私と下校したり遊びに行ったりしたがらない。この部屋以外の場所で私と過ごすのが、あまり好きではないらしい。
 ふたり一緒にいるところを他人の目に晒したくなさそうな態度を、ここまで露骨に取られてしまうと、寂しくもなるし卑屈な気分にもなる。
 その癖、この部屋の中では人が変わったように私に触れたがる。それでいて、そういうことをする理由を話してくれはしない。

 遊ばれているわけではないと思う。さりげないその優しさを信じたい、とも。
 でも、言葉にしてもらえない不安は、気持ちとは裏腹に、日に日に私の心を食い潰してはそれを餌に肥え太っていく。

 じくじく、じくじく、胸の奥が重くて痛い。
 その痛みは、初めて彼と言葉を交わした夜に降っていた細い雨に――不快な感触と生ぬるさによく似ていた。