声をかけてきたのは、高校の同級生の神崎(かんざき)くんだった。
 同じクラスになったことは一度もない。ただ、名字に同じ文字が入っているからなんとなく印象に残っていた。
 それに、とかく噂の多い人だった。成績が優秀だということと、女遊びが激しいということで。

 高校生なのに家を離れてひとり暮らしをしているのは、取っ替え引っ替え女を連れ込むためだとも囁かれていた。
 下世話な噂は皆大好きだから、受験関連のストレス発散を兼ね、水面下でどんどん広まっていく。しかもおそらくは尾ひれ背びれをつけて。
 彼のクラスと教室が隣り合うでもない私の元へも、その噂は詳細までしっかり届いていた。

 彼と言葉を交わすのは、初めてだった。

 公園から歩いて一分かかるかかからないかの場所に建つ彼の自宅アパートに促され、濡れた髪を拭くようにとタオルを手渡された。
 最後に、男物ですけど、とだぼだぼのTシャツとズボンみたいなハーフパンツを差し出された。
 普段なら、見知らぬ男子の服に袖を通そうとはきっと思わなかった。けれど私はそれを受け取った。非日常特有の不可思議な感覚に、すっかりあてられてしまっていたせいだ。

 なぜひと目で私を認識できたのか、それも後ろ姿だけで。
 手渡された服に着替え、髪を拭きながら思う。

「ほとんどはじめましてなのに、なんで私の名前、知ってたの?」
「いや、なんとなく……名字に入ってる字が同じだったから印象に残ってた」

 着替えている間廊下に出てくれていた神崎くんは、律儀にも質問に答えてくれる。

「へぇ。一緒だね、私も名字で覚えてた」

 Tシャツに袖を通し終えてからそう返すと、神崎くんはその日初めて声をあげて笑った。
 本当は名字と一緒に過激な噂の数々も記憶していたのだけれど、もちろんそんなことはわざわざ言わなかった。

 さして新しくもなさそうなアパートの二階、窓からは雨の音が響いてくる。
 向かって右側の出窓からは確かに、先ほどまで私が彷徨い歩いていた公園の景色が覗いていた。

 ……あそこをひとりでふらふら歩いていたのか、自分は。
 辟易の溜息が出た。この暗がりの中を、と思えばなおさら怖くなる。

 出窓に沿って設置されたシンプルなデスクの上には、ノートや問題集がところ狭しと広げられていた。勉強中だったらしい。
 わざわざ勉強を中断してまで外に出て、私に声をかけてくれたのだろうか。もしそうだとしたら申し訳ないな、と思う。

「……私さ」

 彼の手を煩わせた罪悪感を唐突に紛らわせたくなった私は、家に帰れない――否、帰りたくない理由を切り出した。
 なにを訊かれたわけでもなかったけれど、テスト前の大事な時期に勉強の邪魔をしてしまったことが気懸かりで、つい言い訳したくなったのだ。
 結果的に、気が滅入るほどに重い話ばかりしてしまった。これはむしろ迷惑だったかなと気づいたのは、父親との確執についての詳細すべてを話し終えた後。途中からは涙まで落としながら喋り続けていた。

 それなのに、神崎くんは話を中断しようとしなかった。
 途中から勉強を再開しようともしなかったし、早く帰れとも言わなかった。

 不意に、学校で囁かれている噂が頭を巡った。女を取っ替え引っ替え……接してみた限りでは、そうしたイメージはさっぱり湧かない。
 整った顔をしているとは思う。だが、そういう火遊びが難なくできてしまえそうな、いわゆるチャラチャラしたタイプには見えなかった。

 ……いや、単純に私が女として捉えられていないだけかもしれない。
 自虐めいた考えが頭を過ぎり、「もうちょっとしたら帰るよ、今日はありがとう」と、私はわざとへらへら笑って伝えた。
 笑う私の顔を見て、神崎くんは不機嫌そうに眉を寄せた。

「……そろそろ服、乾くと思うから」

 素っ気なく告げられ、目を逸らされる。
 気に障るようなことを言ってしまったかな、と怯んだものの、ひとりで考えても答えなど出るはずもない。
 涙に濡れた私の笑顔はさぞ汚かっただろうし、だからかもしれない――そう思うことにした。