「ほら、これ北海道の空気な」
僕は彼女の前にそれを置いた。
北海道で飲んだ炭酸水のペットボトルとその中に入れた北海道の空気。
困り顔の彼女が頭に浮かんで、僕は思わず微笑んだ。
「北海道に行ったお土産が空気って…って思うかもしれないけどさ、びっくりするぐらい空気が澄んでたんだ。土地が広いからかな?東京の息が詰まるあんな感じじゃなくて、そうだな…なんて言えばいいんだろ。僕らの故郷に似てるかな。あの伸び伸びできる、あんな感じ。君が行きたがってた理由が分かったよ…」
そこまで言って、僕は口を噤んだ。
「なんで、僕は一人で北海道になんて行ったんだろうね」
そう言って、僕は彼女に触れた。
ツルツルでひんやりとした、彼女のお墓に。
「なぁ、答えてくれよ」
永遠の眠りについた彼女は、僕の言葉に答えてはくれない。
仕事も、人付き合いも、恋人である僕との関係も、彼女はすべてが順調だった。
しかし、神様は良い人ばかりを死なせたがる。
平日の真っ昼間、道端で包丁を振り回したバカが、僕が世界で一番大切にしている人を死なせた。
付き合って三年記念に、旅行に行くことを約束していた。
そんな彼女の鞄の中には、たくさんの付箋がついた旅行雑誌があった。
それを見たとき、僕の中にあった感情が一気に塗り替えられた。
彼女を死なせたどうしようもないバカに対する怒りから、彼女が僕がいるこの世界にいないことに対する悲しみに。
彼女の葬式が終わって、地元の旧友と少し話をして、家に帰って、僕が一番最初に考えたことが「彼女と同じ世界に行く」だった。
部屋に首吊り自殺を連想させるような縄というかロープというか、そんなものはなくて、代わりに目についたのは電化製品とコンセントを繋ぐ延長コードだった。
延長コードに差してある扇風機やらゲームの充電器やらを一つずつ、ゆっくりと抜いていった。
最後にスマホの充電器を抜くと、ピロンと音がしてスマホに電源が入った。
真っ暗な部屋に差した一筋の光の先にあったのは、笑っている彼女の写真。
「絶対!行こうね、北海道!」
彼女のあの高くて甘い声が頭に響いたような気がした。
他人に言わせてみれば、たったそれだけのことかもしれないけど、僕はそれで死のうとしていた自分が急にアホらしくなって、写真の彼女に向かって、ただ一言、「ごめん」を言って手の平で涙を拭った。

「いつか、海外にも行ってみたいな」
海外の空気をペットボトルに詰める自分を想像した。
「想像すると面白いよね。…あ、けど海外って荷物検査あるんだっけな…どうしよう、何で空のペットボトル入ってるんですか?って聞かれたら」
「彼女にあげるためです、って答えたらいいかな?アホみたいって思われちゃうかも」
「まぁ、別にいいけどさ。愛する彼女に送るものだし」
出来ることなら、直接聞いてほしかった。
照れて真っ赤になる彼女にオーバーキルをかけたかった。
「また来るよ」
これ以上いると、泣いてしまうかもしれないと思った。
「行きたいところがあったらいってね」
返事が返ってこない事なんて、もうずっと前から知っている。
でも、期待している僕がそこにいた。
赤みがかかった葉っぱが、空を泳いだ。
もうすぐ、秋らしい。