「信じて欲しいけれど、無理みたいだから」

 と車を走らせながらKKは言った。ハンドルを握る左手の指の付け根からは、血が流れている。
 それを眺めながら、ドアを開けたわたしが悪い。とリアシートに座るわたしは考えていた。
 痛みの残る後頭部のやや右寄りのところを、わざとシートのヘッドレストに押し付けては返ってくる痛みを何度も反復していた。思ったタイミングで想定した痛みが想定した場所に響くのは、気持ちいい。そしてそのくらいしかわたしにはやれることしかなかった。
 リアシートの隣にはチャイルドシートが設置されていて、そこに真人が座っていた。気に入りの棒状ゼリーを吸いながら、車窓の外のはたらくくるまの名前を上げ続けていた。

「これ、これやって!」

 真人が突き出してくるゼリーの包装に一センチほど中身が残っている。この下の方に残っているゼリーを自力で吸い込めない真人は、押し出して食べさせてくれとねだってくるのだ。

「わたしが手を貸さないと食べられないおやつ上げないで欲しいんですけど」
「真人がひとりで食べられるおやつなんてほとんど無いでしょ」

 進行方向に視線を置いたまま軽く答えるKKの言葉に、手に持ったゼリーを落とす。真人が「あーあ」と笑った。「まましっぱいしたね」「そうだね、まましっぱいしちゃった」
 子供というのは親の失敗が好きだ。

「本当に、失敗。話せば分かるなんてまだ思ってたわたしの失敗ですよ。まさかいきなり殴られるなんて思わなかった」
 
「殴り慣れてないんだよ。血が出て、美香が怪我をしたのかと思ってびっくりした。自分の血だったよ。利き手じゃない方で殴ったのも一応気遣いだったんだけど」

 へらりと笑って言うKKに、足が震える。違和感が無視できない大きさにまで膨らんでいた。

「た、崇さんの真似するのやめてください」

「真似?」

 ハンドルにもたれさせた左手に右手を重ねて、傷をなでるようにしながらKKがオウム返しにした。その瞬間、無理な追い越しをした赤の軽自動車を見て、舌打ちしたあとで「ハハッ」と笑った。

「右の後方見てみな。あれ覆面だよ。馬鹿だなーあいつ。で、真似ってなに?」

 その言葉でもう我慢の限界だった。

「話し方とか、全部ですよ!」

 そっくりどころじゃない。さっきから崇さんの言動そのままなのだ。
 利き手では絶対に殴らないところまで。

「ねー、まひちゃつまんない」

 真人が足をばたつかせ始めたので、KKはそれで話を打ち切りにするつもりのようだった。

 「左のドアのポケットのところにゼリーあるよ」

 ぶどう、もも、いちご、青りんごの四種類のゼリーが、透明のビニール袋にがさっと突っ込まれている。適当に選んで渡すと、真人は小さな指でそれを開けた。
 バックミラー越しに真人の姿を見るKKの目が、妙に温かいのが不気味だった。崇さんが死んだ一年前、真人はこのゼリーを自力で開けられなかった。
 


 とうとう車は旭岳に入った。
 ただひたすらに進んでいいく車のなかで、わたしはまた妙な妄想に取り憑かれ始めていた。KKの言葉は本当なのかもしれない。本当に崇さんの霊だか魂だかを知っているのかもしれない。
 もしかしたらもう、半ば、崇さんと同一化しているのかもしれない。KKの体を崇さんの魂が乗っ取っているとしたら、『もうすぐ会いに行ける』という彼のフェイスブックのメッセージも頷ける。
 そのために『KKに協力を頼んでいる』ということなのだ。

「どうして今日、ここじゃないと、だめだったの?」

 霧が濃くなってきた道を慎重に走らせる()にわたしは訊ねた。
 もうKKとは呼べず、しかし崇さんとも呼べない。だから「彼」なのだ。
 ふいに、道の途中にも関わらず彼は車を停めた。

「ここでやり直したかったからだよ」

 彼が前方を指さして言う。その指の先を目だけで追う。

「しかさん!」

 真人が甲高い声を上げた。
 そう、鹿さん。正確には()()()()だ。
 霧から生まれたようなエゾシカは当然に大きかった。あの時、崇さんがわたしにプロポーズをしたあの時の旭岳と全く同じ光景が、フロントガラスの向こうにあった。

「もう一度、家族になってくれますか」

 目の前を悠然と雄のエゾシカが横切っていく。
 KKが、柿澤健斗と記名された婚姻届を持ち出してくる。

「いまはこの名前だけどさ」
「いいの、会えたから。会いに来てくれたから」

 道を渡り終えたエゾシカは、霧に溶け込むようにして姿を消した。霧から生まれて、霧へと戻っていくエゾシカは、まさに奇跡。わたしたちに起こっている奇跡の象徴だった。