「どういうことですか! 言いましたよね、自分は佐野崇さんの頼みを断れないんですよ!」

 家の近くの公園でわたしを待ち伏せていたKKが、声を潜めながら荒げるという器用なことをした。
 着信もショートメッセージも無視し続けたところ、わたしの行動範囲を読んで張り込んだとみえる。KKに先に気付いたのは、ベビーカーに乗った真人だった。
 真人が「けんとくん!」と叫んだ瞬間に、反射的にベビーカーを背後に隠す。そのまま固まったわたしに、KKは腰の低い笑みを浮かべながら近寄ってきた。そして言ったのだ。今までにも繰り返し聞いていた、崇さんの頼みを断れないという言葉を。
 周りを見渡すと、週末の公園には父親らしき男性も多い。
 ここなら、何か起きても助けてもらえるだろう。

「もういいですよ、嘘は」
 
 後ろ手でベビーカーを揺らして、KKとの距離がKKの足幅にして一歩よりも短くならないように注意しながら、言葉を続ける。

「どこで手に入れたのか分かりませんけど、柿澤さんは崇さんの電話番号をどこかで不法に手に入れたんでしょう。それで崇さんのフェイスブックもハッキングして、崇さんのふりをしてわたし宛の投稿をしてみせた。あなたは崇さんから何かを頼まれたりなんかしていない。崇さんについては、フェイスブック上の情報しかしらない」

「不法入手? ハッキング? どうして急にそんなことを言うんです?」

「柿澤さんが知ってることと知らないことですよ。旭岳でのプロポーズは、崇さんがフェイスブックに書いていたから知っていた。崇さんが同じ旭岳で死んだっていうのは、崇さんが自分でフェイスブックに書きようがないから知らなかった。最後の投稿は、随分前。真人のハーフバースデーのときですから」

 KKから目を離さないようにしたまま、ゆっくりと後退(あとじさ)る。
 真人がわたしの体の横から腕を伸ばそうとするのを、さりげなく制する。
 ざり、と音をたてて、KKがすり足で近づいてきた。
 
「それ以上近づかないでください。大声出しますよ」

 カバンの中から鍵を出すと、指の股に挟み込んで拳を作る。KKはちらりと目線をやると
 
「話を聞いてくださいよ。いいですか、落ち着いて、自分は嘘なんかついていません。本当に、死んだ後の崇さんが知らせてくれた情報しか知らないんです。自分の死んだときの話をする死者が居ますか? いや、居るかもしれないですけど、崇さんは積極的にそんな話をしたがる人ですか?」
「これ以上、崇さんの名前を出して騙そうっていうなら、本気で騒ぎますから」
 
 拳のなかの鍵を強く握りしめる。
 もはや私にとってKKは、崇さんの名を騙り近づいてきた不審者でしかなかった。
 
「目的はなに? わたし達に近づいて、旭岳の泊りがけ旅行になんて誘う理由は?」

 差し出した拳の周りに、一匹のトンボがよろよろと飛び始めた。このまま拳に止まられたら、間抜けなんてものじゃない。後ろでまた真人が手を伸ばす気配を感じる。体の前で、水平に半円を描くように拳を作った腕を回すと、思いのほかKKがたじろいだ。バランスを崩した彼は、大きく後ろに足を引いて、そのまま二歩、三歩、と後退した。
 彼はどんぐり目をさらに丸くして、演技がかった様子で両手を広げて見せた。

「分かりました、落ち着いたら返信くださいね。旅行は決定です。たか……あの人がそこは譲れないとうるさいものですから。いいですか、これは」

 そこで言葉を区切ると、KKはわたしを指さした。こちらに向けられたKKの白目に陽光が反射して、脂の張った水面みたいに見えた。

「美香さんと真人くんを守るためだと、あの人が言っている。叶えないとならない。頼むから、自分の話を聞いて欲しい。いいですか、旅行は絶対です。絶対に、行きますから。旭岳」

「どーぶつえん!」

 ずっと静かにしていた真人が、急に声を上げた。

「そう! 旭川動物園も行こうね!」

 パチン! と指を鳴らしてみせると、KKはそのまま帰っていった。
 わたしの後ろで「ばばーい」と真人が手を振った。振り向くと、ベビーカーのハンドルにトンボが止まっていた。薄い羽根に触れると、当たり前だけれどトンボはすぐに逃げていった。