「だから、自分が佐野崇さんの電話番号を引き継いで、それで断れない立場になったんです」
「だからそれじゃ崇さんと会えない」
「自分が崇さんを知ったときにはもう崇さんは亡くなられてましたよ!」
「きゃーは!」
KKが音を立ててテーブルを叩く。真人が歓声をあげた。
テーブルの上で潰れた丸められた豆パンが、振動でずれた。開始早々にひっくり返されたオセロみたいだ。
「たいこ! バン! たいこ!」
「そうだねたいこだね。バン、バンね。でも、真人は叩いちゃだめだよ。お兄ちゃんが叩いちゃったけどね、テーブルはたいこじゃないからね」
KKをにらみながら真人の細い手首を掴むと、こっそりと握りしめられていたらしい垢にまみれた豆パンがこぼれ落ちた。
なんでこの子供はこんな汚らしいパンを握りしめいてるんだろう。わたしが相手を出来ないからかな。わたしが泣いている間ずっとDVDを見させているからかなあ。食育なんて文字を見るだけで苛立ちが止まらないからかなあ。しつけが出来ないだめな親だからかなあ。
パパが、崇さんが死んでいるからかなあ。
むわぁと心のなかで発酵する感情がある。怒りだ。崇さんへの怒りなどではない。わたしをこの状況に置いた世界への怒りだ。
世界には崇さんも真人もわたしも含むけれど、世界なのだから仕方がない。とにかく全てへの怒りだ。
「死人と知り合えるわけが無いだろうが!!」
叫ぶと同時に、テーブルの上のパンを薙ぎ払った。
間にテーブルを一つおいて座っていたママ友グループが、こちらを見たのが分かる。
見てんじゃねーよ。ママ友が居るやつが見てんじゃねーよ。どうせ夫も死んでないんだろうが。生きてるんだろうが。
「落ち着いて! 落ち着いてくださいって!」
「わたしのところにもっと早く来るはずだろうが! 会いに来るはずだろうが!」
腕をつかんでくるKKに抵抗するために、腕をめちゃくちゃに振り回す。左手がKKの頬をかすめる。崇さんが死んでから何をするにも外すことのなかった結婚指輪のダイヤが、KKの頬に赤い筋をつけた。
「でも自分の話を信じてくれてたじゃないですか!」
「それは――」
フェイスブックの中にいまだ留まったままの崇さんが、KKの名前をあげたからだ。それをどう伝えたらいいのかと、一瞬言葉につまったときだ。
「けんかは、だめー!」
真人がわたしたちの間に割って入った。
いつの間にか、一つテーブルを間に挟んで隣にいたママ友集団は去っていた。代わりに、若い父親らしい男が飲食スペースを囲む柵の向こうから二人覗いていた。さらにその後ろから、青いジャンパーに緑色のキャップを被った中年の男が一直線にこちらに向かってきていた。
「美香さん、スタッフ来てますよ!」
「見たらわかります」
「わかりますじゃなくて、自分DV男みたいになってません?」
「でぃーぶい?」
「真人はそんな言葉覚えなくていい」
真人の手を握りながら、急いでテーブルの周りを片付ける。
KKも、いつの間にか床に落ちていた紙パックを拾って、ベビーカーに積んだカバンを肩に書ける。わたしが手早く真人をベビーカーに乗せてベルトを締めるのと、スタッフが飲食スペースに入ってくるのとは同時だった。
相変わらずKKはうまくやっていた。真人を連れて、遠くの公園にまで遊びに連れて行ってくれるようになった。それも鬼門である土曜日日曜日に!(週末に公園に行くと、あまりにも普通の家族を見せつけられるので難しかったのだ)
わたしが一人で真人を外に連れて出られるのは近くの公園までだ。それだってよほど体調のいい時だけだ。真人とわたしを助けているのは確からしかった。頼れ、という崇さんの言葉は一部納得できた。
でも崇さんが会いに来るというのはどうなったのか?
まだ好きでいてくれるか、なんてフェイスブックでわたしに訊ねてきたのはわたしに早く会いたいからじゃないのか?
真人がKKを呼ぶ名前が「お兄ちゃん」から「けんとくん」に変わり、ときおり「パパ」と言い間違えるようになったあたりで、わたしは待ちきれなくなった。崇さんの来訪を。
そんな折、KKから泊りがけの旅行の提案があった。
小樽ではない。結局小樽の水族館には行っていないが、小樽ならわたしたちの札幌の家から日帰りで行ける。行き先は、旭岳だった。
「その地名を聞きたくもないっていう事情、知らないはずないですよね」
「え、いや、プロポーズの場所ですよね? だから佐野崇さんがそこを指定しているんです」
「プロ……」
崇さんの死んだ場所、旭岳。それは確かに過去に彼にプロポーズされた場所でもあった。晩夏の旭岳を霧が覆っていた。標高が上がり、ホテルに近づくにつれ空には雪がちらつきはじめた。崇さんが慎重に車を走らせて、わたしたちの車の前を大きなエゾシカが横切った。
霧のなかから鼻を出したエゾシカは、姿を見せる前に一体のエゾシカとしての山での暮らしがあるようには思えなかった。霧のなかから突然に生まれたような気がした。
翌日に旭山動物園で見たエゾシカはそのときに横切ったエゾシカの半分くらいの大きさしかなかった。
「これなら昨日見たなあ」
エゾシカの檻の前で笑う崇さんの顔が、目の前にぱっと浮かんだ。そのときのわたしの薬指には婚約指輪がはまっていた。
そこから巻き戻して、旭岳のホテルでわたしが急に熱を出したことを思い出す。そのときに見上げたロッジ風の天井と、サッシの間から出られなくなったアブの羽音。機械のように定期的に音を鳴らしているのが不思議だった。
フロントから薬を貰ってきてくれた崇さんが、こんなときに出していいか迷ったけれど、と前置きして見せてくれた婚約指輪。薬と指輪とどっちを先に受け取るのか迷って、指輪を受け取ったのだった。
――幸せだった。
自覚したところで、水銀みたいに胸に幸せが沈んでいった。今のわたしに過去の幸せは毒でしかない。幸せを幸せに戻すには、崇さんが再びわたしの前に現れる以外なかった。
というところまで考えて、フェイスブックに宿っているはずの崇さんからのメッセージが絶えている事実と、崇さんがわたしと会うためにKKを通じて旭岳を選んできた、ということに今更ながら強烈な違和感を覚えた。
そしてKKは、崇さんがどこで死んだのかを知らなかった。
そもそも、どうしてKKを信用しようと思ったのかというと、フェイスブックのアカウントに宿った崇さんが、KKのイニシャルをあげてきたからだ。死んだ人間がフェイスブックから連絡してくる? そんなことがあり得るだろうか? あり得たとして、生前関係のなかった他人をよこしてきて、その人に頼れなんて言うだろうか?
KKは何かを隠している。
そもそも荒唐無稽な話なのだ。信じたのは、わたしの胸に沈んだままの水銀みたいな幸福の記憶が、崇さんにまた会えるかもしれないという心にすがりたかったから。
KKは崇さんが旭岳ロープウェイの入り口で、遺体で発見されたということすら知らない。その癖に、崇さんが旭岳のホテルでプロポーズしたことは知っている。
KKの知る崇さん像におかしな偏りがある。
いったい、KKの言葉を信じていいものだろうか?
一度抱いた違和感は消えない。わたしは旅行の返事を保留にした。
いまだ寝かしつけに「おっぱい」を必要とする真人が、わたしの胸のうえに重なるようにして眠りについていた。
札幌も八月の半ばには猛烈な暑さに見舞われるが、本州とは違い一週間ほどで引く。晩夏のころの今となっては、窓を開けていると寒いほどの風が吹き込んでくる。釘のいらない組み立て式の家具みたいに、わたしと真人は組み合って一つになっている。
夜は眠れない。
出張にいく前日の夜、なかなか寝室に入ってこなかった崇さんを思い出すから。リビングに続く扉の隙間から見えた、マグカップに入れたワインを一人で飲む崇さんの丸まった背中を。崇さんは痩せ型で、特別背が高いわけでもないのに猫背が癖になっておかしな形で背中が固まってしまっていた。背中を伸ばそうと素人ながらにマッサージをしていたけれど、結局内側に肩が入ってしまったままだった。
白木の棺桶に収まった崇さんの肩もやっぱり内側に入っていた。
箱のなかで寝かされた状態では気付きにくいけれど、わたしはずっとこの姿勢をほぐそうとしてきたんだから、気づかないはずはなかった。最後の夜にわたしは崇さんを放っておいてしまった。ダイニングテーブルの隣に腰掛けて、一緒にマグカップでワインを飲んでみたらよかった。
目を閉じて、あったかもしれない『あの日』のやりとりをイメージする。
彼の肩に手を添える。彼がわたしを見る。
わたしの好きな真っ黒な瞳にわたしは映らない。彼の目を覗き込み続けると、奥でなにかがうごめいている。
うごめいていると思ったものは、揺れる赤ワインの水面だった。いつの間にか彼の瞳は赤黒く濁っている。彼が口を開く。その言葉を聞いてはいけない。
「美香はさ、」
その言葉を聞いてはいけない。
「美香が俺と結婚したのは、」
聞かない。わたしは急いでリビングを出て、真人の待つ寝室に行く。彼が追ってくる気配がある。彼を部屋に入れたらいけない。たったの二歩で移動できてしまう短い廊下を斜めに渡り、寝室に駆け込む。
内開きのドアを押して閉めるときに、空気の抵抗がある。ドアを閉じる寸前、彼の赤黒い目がわたしの背後のベッドをとらえているのを見る。
「真人を見ないで!」
叫んで、ドアを閉じた。
ドアを隔てた廊下からは物音どころか、生き物の気配が何も感じられなかった。
「崇さん!!」
飛び起きようとしたが、胸にのしかかる真人の全体重によって阻まれた。
仰向けのまま天井に向けて手を伸ばして空をかく。真人は低く呻くと、太った青虫みたいにのっそりとした動きでわたしの胸から落ちた。
真人が叫んでしまう。また寝かしつけなくてはならない。一人の長い夜に、お母さんに戻らなければいけない。
ベッドマットの上で左右に転がりながら唸る真人を注視する。少しむずがったものの、癇癪を起こすことなく真人はまた眠りに戻ってくれた。
瞬間的な緊張から開放され、思わず吐いた息の重さに、なぜかわたしは傷ついた。
わたしがこんなことになったのは、すべては崇さんが死んだせいだ。さらに死後にKKとかいう男を遣わして、どこまでわたしを苦しめたら気が済むのだろう。KKは崇さんが死んだ場所すら知らなかったんだから――。
そうか。
枕元に置いているスマートフォンに手を伸ばす。
崇さんのフェイスブックのページを開いて、それから、そう多くはない彼の投稿を遡っていく。
「やっぱり……」
ある一つの投稿に行き着いて、わたしはKKの嘘に気付いた。
「どういうことですか! 言いましたよね、自分は佐野崇さんの頼みを断れないんですよ!」
家の近くの公園でわたしを待ち伏せていたKKが、声を潜めながら荒げるという器用なことをした。
着信もショートメッセージも無視し続けたところ、わたしの行動範囲を読んで張り込んだとみえる。KKに先に気付いたのは、ベビーカーに乗った真人だった。
真人が「けんとくん!」と叫んだ瞬間に、反射的にベビーカーを背後に隠す。そのまま固まったわたしに、KKは腰の低い笑みを浮かべながら近寄ってきた。そして言ったのだ。今までにも繰り返し聞いていた、崇さんの頼みを断れないという言葉を。
周りを見渡すと、週末の公園には父親らしき男性も多い。
ここなら、何か起きても助けてもらえるだろう。
「もういいですよ、嘘は」
後ろ手でベビーカーを揺らして、KKとの距離がKKの足幅にして一歩よりも短くならないように注意しながら、言葉を続ける。
「どこで手に入れたのか分かりませんけど、柿澤さんは崇さんの電話番号をどこかで不法に手に入れたんでしょう。それで崇さんのフェイスブックもハッキングして、崇さんのふりをしてわたし宛の投稿をしてみせた。あなたは崇さんから何かを頼まれたりなんかしていない。崇さんについては、フェイスブック上の情報しかしらない」
「不法入手? ハッキング? どうして急にそんなことを言うんです?」
「柿澤さんが知ってることと知らないことですよ。旭岳でのプロポーズは、崇さんがフェイスブックに書いていたから知っていた。崇さんが同じ旭岳で死んだっていうのは、崇さんが自分でフェイスブックに書きようがないから知らなかった。最後の投稿は、随分前。真人のハーフバースデーのときですから」
KKから目を離さないようにしたまま、ゆっくりと後退る。
真人がわたしの体の横から腕を伸ばそうとするのを、さりげなく制する。
ざり、と音をたてて、KKがすり足で近づいてきた。
「それ以上近づかないでください。大声出しますよ」
カバンの中から鍵を出すと、指の股に挟み込んで拳を作る。KKはちらりと目線をやると
「話を聞いてくださいよ。いいですか、落ち着いて、自分は嘘なんかついていません。本当に、死んだ後の崇さんが知らせてくれた情報しか知らないんです。自分の死んだときの話をする死者が居ますか? いや、居るかもしれないですけど、崇さんは積極的にそんな話をしたがる人ですか?」
「これ以上、崇さんの名前を出して騙そうっていうなら、本気で騒ぎますから」
拳のなかの鍵を強く握りしめる。
もはや私にとってKKは、崇さんの名を騙り近づいてきた不審者でしかなかった。
「目的はなに? わたし達に近づいて、旭岳の泊りがけ旅行になんて誘う理由は?」
差し出した拳の周りに、一匹のトンボがよろよろと飛び始めた。このまま拳に止まられたら、間抜けなんてものじゃない。後ろでまた真人が手を伸ばす気配を感じる。体の前で、水平に半円を描くように拳を作った腕を回すと、思いのほかKKがたじろいだ。バランスを崩した彼は、大きく後ろに足を引いて、そのまま二歩、三歩、と後退した。
彼はどんぐり目をさらに丸くして、演技がかった様子で両手を広げて見せた。
「分かりました、落ち着いたら返信くださいね。旅行は決定です。たか……あの人がそこは譲れないとうるさいものですから。いいですか、これは」
そこで言葉を区切ると、KKはわたしを指さした。こちらに向けられたKKの白目に陽光が反射して、脂の張った水面みたいに見えた。
「美香さんと真人くんを守るためだと、あの人が言っている。叶えないとならない。頼むから、自分の話を聞いて欲しい。いいですか、旅行は絶対です。絶対に、行きますから。旭岳」
「どーぶつえん!」
ずっと静かにしていた真人が、急に声を上げた。
「そう! 旭川動物園も行こうね!」
パチン! と指を鳴らしてみせると、KKはそのまま帰っていった。
わたしの後ろで「ばばーい」と真人が手を振った。振り向くと、ベビーカーのハンドルにトンボが止まっていた。薄い羽根に触れると、当たり前だけれどトンボはすぐに逃げていった。
「信じて欲しいけれど、無理みたいだから」
と車を走らせながらKKは言った。ハンドルを握る左手の指の付け根からは、血が流れている。
それを眺めながら、ドアを開けたわたしが悪い。とリアシートに座るわたしは考えていた。
痛みの残る後頭部のやや右寄りのところを、わざとシートのヘッドレストに押し付けては返ってくる痛みを何度も反復していた。思ったタイミングで想定した痛みが想定した場所に響くのは、気持ちいい。そしてそのくらいしかわたしにはやれることしかなかった。
リアシートの隣にはチャイルドシートが設置されていて、そこに真人が座っていた。気に入りの棒状ゼリーを吸いながら、車窓の外のはたらくくるまの名前を上げ続けていた。
「これ、これやって!」
真人が突き出してくるゼリーの包装に一センチほど中身が残っている。この下の方に残っているゼリーを自力で吸い込めない真人は、押し出して食べさせてくれとねだってくるのだ。
「わたしが手を貸さないと食べられないおやつ上げないで欲しいんですけど」
「真人がひとりで食べられるおやつなんてほとんど無いでしょ」
進行方向に視線を置いたまま軽く答えるKKの言葉に、手に持ったゼリーを落とす。真人が「あーあ」と笑った。「まましっぱいしたね」「そうだね、まましっぱいしちゃった」
子供というのは親の失敗が好きだ。
「本当に、失敗。話せば分かるなんてまだ思ってたわたしの失敗ですよ。まさかいきなり殴られるなんて思わなかった」
「殴り慣れてないんだよ。血が出て、美香が怪我をしたのかと思ってびっくりした。自分の血だったよ。利き手じゃない方で殴ったのも一応気遣いだったんだけど」
へらりと笑って言うKKに、足が震える。違和感が無視できない大きさにまで膨らんでいた。
「た、崇さんの真似するのやめてください」
「真似?」
ハンドルにもたれさせた左手に右手を重ねて、傷をなでるようにしながらKKがオウム返しにした。その瞬間、無理な追い越しをした赤の軽自動車を見て、舌打ちしたあとで「ハハッ」と笑った。
「右の後方見てみな。あれ覆面だよ。馬鹿だなーあいつ。で、真似ってなに?」
その言葉でもう我慢の限界だった。
「話し方とか、全部ですよ!」
そっくりどころじゃない。さっきから崇さんの言動そのままなのだ。
利き手では絶対に殴らないところまで。
「ねー、まひちゃつまんない」
真人が足をばたつかせ始めたので、KKはそれで話を打ち切りにするつもりのようだった。
「左のドアのポケットのところにゼリーあるよ」
ぶどう、もも、いちご、青りんごの四種類のゼリーが、透明のビニール袋にがさっと突っ込まれている。適当に選んで渡すと、真人は小さな指でそれを開けた。
バックミラー越しに真人の姿を見るKKの目が、妙に温かいのが不気味だった。崇さんが死んだ一年前、真人はこのゼリーを自力で開けられなかった。
とうとう車は旭岳に入った。
ただひたすらに進んでいいく車のなかで、わたしはまた妙な妄想に取り憑かれ始めていた。KKの言葉は本当なのかもしれない。本当に崇さんの霊だか魂だかを知っているのかもしれない。
もしかしたらもう、半ば、崇さんと同一化しているのかもしれない。KKの体を崇さんの魂が乗っ取っているとしたら、『もうすぐ会いに行ける』という彼のフェイスブックのメッセージも頷ける。
そのために『KKに協力を頼んでいる』ということなのだ。
「どうして今日、ここじゃないと、だめだったの?」
霧が濃くなってきた道を慎重に走らせる彼にわたしは訊ねた。
もうKKとは呼べず、しかし崇さんとも呼べない。だから「彼」なのだ。
ふいに、道の途中にも関わらず彼は車を停めた。
「ここでやり直したかったからだよ」
彼が前方を指さして言う。その指の先を目だけで追う。
「しかさん!」
真人が甲高い声を上げた。
そう、鹿さん。正確にはエゾシカだ。
霧から生まれたようなエゾシカは当然に大きかった。あの時、崇さんがわたしにプロポーズをしたあの時の旭岳と全く同じ光景が、フロントガラスの向こうにあった。
「もう一度、家族になってくれますか」
目の前を悠然と雄のエゾシカが横切っていく。
KKが、柿澤健斗と記名された婚姻届を持ち出してくる。
「いまはこの名前だけどさ」
「いいの、会えたから。会いに来てくれたから」
道を渡り終えたエゾシカは、霧に溶け込むようにして姿を消した。霧から生まれて、霧へと戻っていくエゾシカは、まさに奇跡。わたしたちに起こっている奇跡の象徴だった。
KK――いや、崇さんと、真人との新しい生活は幸福そのものだった。
週末の公園ももう怖くない。わたしたちは幸せで完璧な家族の姿を見せつけるように、毎週末公園に向かう。
真人が夢中になって蟻の巣を覗き込み、一匹一匹を指先で潰して等間隔に並べている。
「蟻のお尻は甘いんだよ」
KK――崇さんが蟻のお尻を前歯で噛んで見せた。
「ちょっと、虫、苦手なんじゃなかった? 苦手だよね」
「そうだっけ」
「そうだよ、パパ」
「そうだったかもしれない」
面倒そうに言って、彼は口をゆすぎに行った。
「パパ! スマホ、水に落とさないでよ!」
入籍してすぐのころ、スマートフォンをトイレに落として故障させた彼の、新しい機種代を出したのはわたしだ。
名前を呼ぶ必要がないのはとても助かるな、と、パパ呼びをするたびに思う。ああ家族とは美しいな。家族が揃うのは素晴らしいな。
パパ、と彼に呼びかけるたびに、エゾシカの姿がおぼろげによぎる。
あの雄のエゾシカは、一頭で居たけれど、番が居るのだろうか。あんなに美しく雄々しいのだから居ないはずはないけれど、奇跡の具現化なのだとしたら、難しいのかもしれなかった。
崇さんはわたしたちのマンションに戻ってきた。KKの姿を借りてではあるけれど。
彼はそれまでの仕事をやめて、新しい仕事を始めたいと言った。
わたしには手を付けないままの保険金もあるし、崇さんの名義でのマンションのローンも、死亡にともない無くなっている。
あの世から帰ってきたばかりだし、彼も体を休めたいのだろうと思う。
これで崇さんも「美香が俺と結婚したのは、お金目当てじゃないよね?」なんて二度と言わないだろう。そりゃあ確かに崇さんの収入と、それがもたらしてくれる安定は結婚するにあたっておおいに魅力的だったけれど、それでもちゃんと愛があったし。愛が前提だし。そんなことも分からないなんて死ぬ前の崇さんはアホだ。
二十四時間、毎日、彼と真人と一緒に居られるのも、仕事人間だった彼が生きていたころには考えられないことだった。見た目は変わっても、彼は彼。崇さん。わたしは崇さんの魂に惹かれているのだから、なんの問題もなかった。
彼が崇さんの魂を持っている限りは。
幸せだった。クローゼットの奥の、彼のキャリーバッグを開けるまでは。
「なに、これ」
などと呟いてみたものの、どこか予感はあった。だって彼は昨日もゴキブリを殺した。崇さんは虫が大の苦手だったのに。
先週風邪をひいたときに病院で薬をもらった際も、飲み忘れたり、まとめて飲んで帳尻合わせをしたりした。崇さんだったら、アラームをかけて几帳面に薬を飲むはずなのに。
壊れた、と言って買い替えたはずのスマホがなぜか彼の私物のスーツケースの底から出てきた。
どうか壊れていますように。そう祈りながら充電コードをつなぐ。
あっさりと充電中をつげるライトが点く。電源を入れる。電話帳を開く。
結婚後に買い替えたスマホの中身は見せてもらっていたが、こちらは見たことがなかった。
震える手で、電話帳を開く。スクロール、スクロール。随分と登録された友人が多い。そのほとんどが知らない人だ。
でも、ある名前が表示された瞬間、わたしの指は止まった。
日本に五家族しかいないらしい珍しい名字の女性は、彼の会社の総務部の事務員と同姓同名だった。崇さんの死にあたって、彼女と何度かやりとりがあったので覚えている。
電話でしかやり取りしたことがないけれど、気さくで話しやすい人だった。声の印象から、おそらく同年代だろうと思っていた。それはKK、いや、柿澤健斗とも同年代ということだ。
そして崇さんの死に際し、生命保険会社は崇さんの勤めていた会社にも審査のために聞き取りに言っていた。高額の保険金の噂が、社内に流れていてもおかしくなかった。
柿澤健斗は、実にうまくやったというわけだった。