亡くなった夫である崇さんのフェイスブックの更新通知が来た。彼が亡くなってもうすぐ一年経とうかというときだった。彼は三十歳の誕生日を迎える二十一日前に亡くなった。二歳年上のわたしは一緒に三十代になれる日を待っていたのに、永遠に叶わなくなった。
崇さんは北海道の旭岳ロープウェイの入り口で死んでいた。どうして彼がそこにいたのかは分からない。その日の朝、札幌の自宅マンションを出た彼は、仙台支店への出張にでているはずだった。
崇さんと思われる身元不明遺体の確認をして欲しいと道警から連絡を受けたとき、わたしは自宅に居た。朝早く彼を送り出した私は、午前中に、当時十一ヶ月の息子を児童館に連れて行き、帰宅して昼食を食べさせ、片付け、昼寝をさせようとしているときだった。
空は晴れていて、初夏の風が吹き、外を歩くだけで心が浮き立つ陽気だった。数日間の完全ワンオペ育児の開幕を応援されているような心地になって、いつになく前向きな気分で家事と育児をこなしていたというわけだ。
目立つ外傷は無し、と聞いていたとおり、長椅子のような寝台に横たえられた彼は、眠っているかのようだった。でもよく見れば、彼がただの容れ物に戻ってしまったという動かしようのない事実がそこにあった。心臓の止まった体は、魂という操縦者に乗り捨てられた容れ物でしかない。
事故か、事件か、自死か。現場の状況だけでは三つの可能性はどれも否定しきれず、警察は捜査を行う。検死が行われ、結果は心臓麻痺。彼の死は事故とされた。
とはいえ生命保険会社の審査は厳しかった。なにしろ崇さんは、息子・真人のハーフバースデーを機に、死亡時に八千万円もの保険金が支払われる生命保険に加入していた。そんな彼が加入から一年も経たずに亡くなったのだから、慎重な審査が必要と判断するのも納得のいく話ではある。遺族感情としては、不安と怒りしかなかったが。
崇さんが自死など選ぶはずはないのだ。だって彼はそういう人間を「くだらないもの」と嫌っていたのだから。
彼の加入していた生命保険は、加入から一年未満の自死での死亡保険金の支払いには応じていない。審査は二ヶ月に及び、崇さんの会社への聴取もあった。わたしも聞き取りを受けたが、受益者であるわたしからの聞き取りなど形だけだろう。
結果として、保険金は支払われた。自死じゃないんだから当たり前だ。ねらって心臓麻痺になんてなれるはずがないし、検死だってしたんだから。
「まま、すまほ! ぽちーん!」
「真人、ママのスマホ勝手に触らないで! ちょっとやだ! 押したの?」
死んだ人間のフェイスブックの更新通知なんて、たちの悪い冗談だと思った。開きたくなかったが、息子の真人がスマートフォンの画面をタッチしてしまった。フェイスブックの、崇さんのページが開かれた。
最新の更新は三十分前。
公開範囲は一部の友人。おそらく、私だけだろう。だってその内容が
『美香へ。もうすぐ会いに行けるかもしれない。まだ好きでいてくれるかな』
というものだったからだ。
不快でしかない。誰かが崇さんのページをハックして、わたしに接触しにきているのだとしか考えられない。だって死人がフェイスブックの更新をするなんて不可能なのだから。
崇さんが亡くなってからしばらくの間、わたしは崇さんの存在を家の中で探し続けていた。彼はわたしと真人を愛していたし、この家だけが彼の安らぎの場なのだから、化けて出るならわたしたちの家以外にありえないからだ。
通夜の前の晩、部屋に濡れた葉の匂いがした。
納骨の晩、眠るわたしと真人の隣に、彼の匂いが通りすがった。
それから二回、わたしと真人がお風呂に入っている間に、洗面所に人の気配がすることがあった。いずれもきっと崇さんだろうと思った。
でも、四十九日を待たずに彼の気配はぱったりと途絶えた。
彼はいつでも十五分前行動のひとだったので、早めに行ってしまったのだろうと思った。
「ぱぱのー?」
「やめてってば!」
「にこにこー」
また真人がわたしのスマートフォンを奪った。やられた。崇さんを名乗るいたずら投稿に、わたしが笑顔のスタンプで答えたことになっていた。
思えば、真人は崇さんとの最後の通話のときも、横から手を出して切ってしまった。
「いま児童館に来てる。そっちはもう搭乗口通ったの?」
あのとき、そう問いかけたわたしに彼はなにか言いたげだった。わたしは彼の搭乗便になんて興味がなかった。もう少し興味を持てていれば、彼が飛行機に乗っていないのではと気づけたのに。「うん」とか「ああ」とか彼が言って、台本にあるみたいな間があった。彼が口を開くのが、電話口の雰囲気で分かった。その瞬間に、横から手を伸ばした真人が通話を切ったのだ。
『ごめん、真人が切っちゃった。なにか用だった? かけ直す?』
どうしてわたしは問答無用で即座にかけ直さなかったのだろう。彼の後ろに、空港を思わせるアナウンスや人の声などが全く入っていないことに、違和感を覚えなかったのだろう。かけ直す? と問うのは、暗にかけ直すのが面倒だと伝えるのと一緒だ。
『もう行かないとだから大丈夫』
『OK! がんばってね! わたしはこれから寝かしつけ!』
『美香もがんばれ〜』
メッセージのやりとりはそれで最後になった。彼がわたしに最後にくれた言葉は、がんばれ〜。
言葉のとおり、わたしは一人でがんばらなくてはいけなくなった。
「良いから寝なさい。お昼寝の時間」
「お昼寝つまらないから、いや」
「いやじゃない! き、ま、り!」
「きまり、いやー」
いたずらされたスマートフォンを真人から取り上げると、抱きかかえて寝室に連れていく。なかば抑え込むようにしてベッドで添い寝する様子は、寝技でもかけているみたいだ。二歳に満たないとはいえ子供の全力の抵抗はなかなかに手強く、いつもプロレスのようになる。やがて疲れた真人は、急に電池がきれたみたいに抵抗をやめて眠る。小動物めいた寝息が部屋に響く。
部屋を暗くして、無理にでも眠る姿勢を取らせるというのが、真人のお昼寝ルーティンだった。崇さんが死ぬ前から始めたものだが、あのころよりもずっと真人の力は強くなっているし、体力がついて昼寝の時間も減っている。
これから先、成長し続ける真人をどうやって一人で育てていけるだろうかと、暗い気持ちになる。そうして、寝息をたてる真人の背中にすがりながら、わたしはいつも泣くのだ。真人の背中は小さいけれど筋肉質で、精一杯に体を縮こませてすがってみると、崇さんにすがっているような気持ちになれた。
無理だよ、無理だよ、無理だよ。
助けてよ、帰ってきてよ。なんでいないの。
心のなかで崇さんを責めて、真人の小さな背中にすがりつく。そのひととき、わたしはたっぷりと悲しみに浸る。嵐のような日々のなかで、その瞬間だけわたしは、可哀想なひとりの女になれる。
ひとしきり泣いていると、冷蔵庫の中身が頭に浮かんでくる。組み立て式の棚が、ダンボールで梱包されたままの状態で玄関に放置されているのも思い出す。家事にもどる頃合いだった。
体を起こすと、気圧がおかしくなったみたいに、耳がつまっていた。泣きすぎたかもしれない。頭を振る。その瞬間、スマートフォンが鳴った。
真人が小さく唸って体をよじるので、スマートフォンを持って寝室から飛び出した。寝ついたところを起こされると、真人はひどい癇癪を起こすからだ。
誰からだろう、こんなときに。すぐに浮かんだのは、義実家。一周忌の法要について、確認があるのかもしれない。それとも実家だろうか。これも一周忌関連。花だけ送るとか、きっとそんな話。はたまた、わたしを心配してくれている友達かもしれない。今度お茶に行こうと誘ってくれていたから、その件か。彼の会社や生命保険会社とのやりとりはもう絶えて久しい。
答えはそのどれでもなかった。
着信画面を見て、自分の眉間にシワが寄るのが分かる。
亡夫、佐野崇の名前がそこにあった。
フェイスブックの、崇さんを名乗る何者かが投稿した言葉を思い出す。
『美香へ。もうすぐ会いに行けるかもしれない。まだ好きでいてくれるかな』
まだ好きでいてくれるか、なんて愚問だ。好きだよ、と届くものなら伝えたい。会えるものなら会いたいとも思う。
彼の方こそわたしへの愛があるのなら、四十九日を過ぎても地上にとどまって、わたしのそばに居る選択を取るはずだった。一方で、人間は死んだら魂など残さず消滅するし、仏弟子になるとかいう戒名は坊主の小遣い稼ぎでしかないし、四十九日前にわたしが家の中で感じていた『気配』は、ストレス状態におかれた遺族におこる幻臭と幻聴だと知っていた。
それでももし魂があるのなら、悪霊でもなんでもいいから、彼と再会したいと思っていた。せめて、最後の通話のときにこちらからすぐにかけ直さなかったことを、謝る機会が欲しかった。
受話器型のアイコンを上にスワイプすれば、彼と通話出来るかもしれない。なんて一瞬魔が差したのは、泣いたばかりだからだ。
フェイスブックはハック出来たとして、彼の電話番号を手に入れるなどということが可能だとはわたしには考えられなかった。解約した彼の携帯電話番号は、今頃どこかの誰かが新規に契約する際の番号として再利用されているだろう。もしくは、再利用待ちをしているだろう。
どちらにしても、そんな崇さんの番号からわたしに電話をかけてくるなんて、この世ならざるものに姿を変えた崇さんにしか出来ないことのように思えたのだ。
チカッ、という音未満の音がして、リビングの電気がついた。寝室のドアの前で、リビングのドアの中心にはめられた細長いガラスから、LEDの光が漏れるのを見る。下の階の部屋と、ときおり電灯のリモコンが干渉しあい。混線するのだ。
リビングから漏れる光に気を取られた瞬間、手の中のスマートフォンは動きを止めた。息を引き取るみたいにして、スマートフォンは沈黙する。画面には、着信履歴だけが残されていた。
その日の夜のこと。
夜中に、真人のおむつの背中から排泄物が漏れていることに気付いたわたしは、超高速で頭を回転させながら出来るだけ被害を少なく抑えるべく奮闘していた。幼児が漏らしたときの最良の手順――こぼさないように服を脱がし、子供を洗い、寝具を剥がし、服を着せ、汚れものをつけ置き洗いし、子供を寝かしつける――を考えるとき、頭がそれでいっぱいになる。それにわたしは救われていた。
どうせ眠れなかったのだ。
普段から眠れないが、その日は崇さんのフェイスブックの件や、謎の着信の件など、考えることがたくさんあった。幼児のうんちのことだけ考えればよいというのは、つかの間、わたしの頭をシンプルにしてくれた。
すべてを終えて、久々にワインでも飲もうという気持ちになった。まだ完全な断乳は出来ていないが、夜の寝かしつけくらいしか「おっぱい」の出番はなくなっていた。もうお酒を解禁してもいいだろうと、わたしはわたしに言い訳をした。ワインは、崇さんの飲みかけだったものだ。ずっと冷蔵庫に入れっぱなしだったが、もともと発酵しているものだから問題ないだろうと判断した。それで悪酔いしようが、お腹を壊そうが、どうでも良いという気分だったのもある。わたしの健康はいまや真人の世話にだけ捧げられている。それをどうでもいい、とするのはわたしの立場からしたらヤケクソと言ってよかった。
「ワインの味ってわかんないんだよね」
どこにも居ない崇に話しかけるように、わたしはダイニングテーブルでひとり呟いた。
「これ味一緒かな、変わっちゃってるのかな」
視線の先には、崇の写真が置かれたキャビネットがある。結婚式の時に撮った、ぎこちない笑顔の崇が写真立てのなかに居た。
「答えてくれない人に聞いても仕方ないや」
目線を手元に落とす。ワイングラスなどというものは、崇は使わなかった。崇の流儀のとおり、わたしはマグカップにワインを注いで飲んでいた。マグカップを覗き込んだ瞬間に、頭の中身がふわりと浮かぶような感覚があった。
そのとき、またしてもフェイスブックの更新通知があった。
今度は迷わなかった。すかさず通知をタップすると、果たして、新たに崇の投稿があった。
『電話に出て欲しい。美香、お願い』
彼のアイコンで、彼の名前で、彼はそんな言葉を投稿していた。
心臓が大きく脈うつのは、アルコールの影響ではないだろう。
すぐに着信があるだろうという予感はあった。思い込みか、第六感か。スマートフォンが音と振動で着信を伝える瞬間に、カチッ、と頭のなかで音がした。
「来る」と思った瞬間に、それは来た。
着信画面に表示される佐野崇。亡夫の名前。
これは佐野崇からの電話だ。あの世(なんてものがあるとしたら)からわたしに会いに来てくれている、夫からの電話に違いない。
スマートフォンの着信で、マグカップの下三分の一ほどにたまった赤ワインの表面が揺れる。アルコールが鼻孔に突き刺さる。
スマートフォンを持ち上げるわたしの手にはいつの間にか汗が滲んでいて、機体は手首が痺れるくらいに重く感じた。あの日々。保険会社や崇さんの勤める会社や警察や義理の実家からの連絡を受けるのに忙しかった日々を思い出す。封書だろうが電話だろうが、こちらに向けて発信されるものを受け取るたびに一々心を乱されていた日々。
もう鳴らないと思っていた崇さんからの電話を受けるわたしは、今までの苦しみすべてを帳消しにするための最後の試練めいた気持ちで、汗で滑る指を電話のアイコンに重ねた。上にスライドする。
「もしもし? 崇さん?」
喉はからからに渇いていた。
ワインで焼けた喉から、酒臭い息が上がってくる。彼がこの臭いを、例えばわたしの隣でかいでいませんように。
「佐野美香さん? 佐野美香さんですか?」
「そうですけど、どなたでしょう?」
「自分、柿澤健斗って言います。突然のご連絡申し訳ありません。あの、旦那さんの佐野崇さんからのご依頼がありましてご連絡を差し上げた次第です」
げぇふ、とわたしは赤ワインの臭いのげっぷをした。せり上がってきて止まらなかったのだ。もちろん、通話口を手で抑えはしたが、思いのほか大きな音で鳴ったげっぷは向こうに聞こえたかもしれない。でも通話の相手が崇さんじゃないならどうでも良かった。
「あのう、お話しを続けてもよろしいでしょうか」
柿澤と名乗る男が、ひょうひょうとした様子で会話を続けようとしてくる。げっぷを思い切り聞かせておくべきだったと思いながら、「どうぞ」と続けた。マグカップのワインを一口すする。歯の一本一本までしぶが付きそうだ。
「自分は崇さんのちょっとした知り合いでして、彼に美香さんと息子さんのえーと」
「真人」
「真人くん! 真人くんのことを頼まれたんです。助けたいから、と」
「そうですか」
答えながら、わたしは消沈を隠さなかった。柿澤がなぜ崇さんの番号を使っているのかということに、即座に疑問を覚えることは出来なかった。それだけわたしの落胆は大きかったのだ。
崇さんとの最後のメッセージのやりとりも、最後の通話履歴も、スクリーンショットで残してある。佐野崇の名前が表示された「正しく最後の瞬間」が土足で蹂躙されたことへの苛立ちが、胃のあたりで膨らんできた。
「ぐぅぷ」
今度は遠慮なしに、通話口に注ぎ込むようにしてげっぷを吐いてやった。
真人の声が、寝室から廊下を通って、リビングにまで届いた。なにやらうなされている。真人は夜中に叫んで目を覚ますことがある。今日もそれだろうか、と開け放したリビングのドアの向こうの暗い廊下を見つめる。寝室のドアも開けてあるので、寝室でなにか動きがあればすぐに分かる。
七月のなかばであるが、北海道ではまだ夜は冷える。細く網戸を開けておいている寝室からリビングに向けて、冷気が這ってきていた。つま先がきんと冷える。頭と胃はずっと火照っている。ばらばらだ。体がばらばら。
「崇さんじゃないならもう連絡してこないでください」
通知がある。顔を話して画面を見れば、崇さんのフェイスブックの更新通知だ。
「そうは言っても、頼まれていますので。自分は断れない立場にあるんです」
もう一度げっぷをしてやりたかったが、もう出なかった。
通知をタップして、崇さんのフェイスブックの画面を見たら、すっかり酔いが冷めてしまった。
『KKに協力を頼んでいる』
KKとは。柿澤のことだろうか。さっき柿澤はフルネームをなんと名乗っただろうか。
「柿澤さん、わたしと真人を助けるとおっしゃいましたね? ひとつご確認なんですが」
「はい」
「フルネームはなんとおっしゃいましたっけ。聞いたはずなんですが、覚えられなくて」
「柿澤健斗です」
間違い無かった。
KK――柿澤は、この世で自由に動けない崇さんの代わりに、何事かを成そうとしているのだ。それはきっとわたしと真人のためになることだろう。信じるとか信じないとかいう問題ではなかった。
わたしはすがりたかった。崇さんの名前と崇さんのアイコンで動き続けるフェイスブックには、崇さんが宿っているという仮定に。
KKはうまくやっていた。
わたしは彼を柿澤さん、と呼んでいたが、心のなかではずっとKKと呼び続けていた。崇さんがフェイスブック内で彼をKKと呼んでいたからだ。と言っても『KKに協力を頼んでいる』の一言以降あらたな投稿は無かったが。
KKがどううまくやったかというと、まず真人と上手に遊ぶことができた。自称三十歳(崇さんが生きていたら同い年だ)の独身男性としては不自然なほど子供との接し方が自然だった。
初めてKKと会った日から、わたしは真人を連れていた。
会おうと提案された場所は、家から車で少し走ったところの屋内遊戯施設だ。ショッピングセンター内にあり、有料で遊べる。すでに真夏となっていて、室外での遊びは遠慮願いたい状況だった。わたしはKKの提案に少々驚きつつも乗った。
提案された施設は、まだよちよちの真人を連れて崇さんと一緒に行った場所だった。悪くない場所だった。ふわふわドームに一緒に入って、ボールプールの中で過剰にはしゃぐ崇さんは、いかにも優しい若い父親として動画に残っている。
彼が恥ずかしがるだろうから、と画面の端に小さく映すにとどめてしまったのは、失敗だった。真人のアップばかりが映るのが、もどかしい。真人は生きているが、崇さんは死人だ。死人が生きていたときの情報の方が、意味があるに決まっている。
一瞬でも崇さんのアップが映っていれば、大きな口を開けてはしゃぐ崇さんの目の奥がのぞけるはずだ。そこにもしかして何もない洞穴が空いているかもしれない、と、動画を再生するたびに考える。停止。拡大。解像度は下がり、目は潰れてしまう。わたしが見ていた崇さんの解像度もこんなものだったのかもしれない。だっていま思えば、あのはしゃぎ方は彼らしくなかったような気がする。結婚式の写真でも、ひきつった笑顔で映るくらい彼はシャイだったのだから。
KKはふわふわドームのなかのボールプールで、崇さんみたいにはしゃいでみせた。一年近く成長した真人の反応は、皮肉なことに、当時の崇さんに対するものよりも良かった。子供にとっての一年は、大人のそれとは比べ物にならないのだと思い知る。KKの投げるボールにきゃあきゃあ言って喜んだ。
「おにいちゃんボール! もっとボール!」
せがむ真人に、KKは奇声を上げてボールを投げて見せた。
こっそりアップにして映すと、その目は空洞ではなくて、薄い茶色の瞳が生者の特権とばかりに輝いていた。
なんだこいつ。
なんで崇さんが見るはずの真人の成長を見て、色素の薄い瞳を輝かせてんだ。崇さんは真っ黒の目をしていて、目頭にきれいな切れ込みがあって、目尻も切れ長でキュッと上がっていて、幅の広い二重で、そこだけでも完璧だったのだ。
それをなんだ。このKKはどんぐりみたいな丸い目頭に曖昧な目尻、二重の幅の広さは同じくらいだけれどまるで眠いみたいにしか見えない目をして、そこに生者の光なんかたたえやがって。代理人のくせに。
そんな風に苛立ちが募る。
でも真人のことを思えば、思い切り遊んでくれる大人と遊べるというのは良いことなんだろう。そう思い直すことにした。ここに再訪出来たのもKKのおかげだ。崇さんとの思い出の残る施設に、わたし一人で真人を連れてくるなんてそんな惨めなことは出来そうもなかった。周りは父親の居る家族か、母親同士のママ友グループかしか居ないのに、そこに未亡人のわたしが入る隙などありようもなかった。代理人KKのおかげで、真人は再びこの遊戯施設で遊ぶことが出来たのだから。
それに、わたしは真人と遊ぶ気力なんかなかった。仕方ないじゃない。誰にともなく言い訳するときに、わたしの体には怒りが満ちている。言い訳をしなくてはいられない状況に陥っている状況に。これは崇さんへの怒りでは断じてないはずだ。状況は状況で、その原因まで考えるほどわたしの頭は働いていないし、働いていたとしてもわたしが崇さんに怒りなど抱くはずがなかった。
だから真人と遊んでくれるKKは、うまくやっていると言ってよかった。
遊戯施設が入っている商業施設には、他にも小さな水族館があった。
「真人はおさかな好きだよね。水族館も行ってみる?」
施設内の飲食スペースで、買ってきた豆パンを与えながら真人にたずねた。
崇さんとわたしは、日本国内の色々な水族館に行った。まだ真人が生まれて間もない頃から。死ぬ前月に行った登別旅行でも、マリンパークニクスに行った。そんなことを考えながら、わたしは真人にそう聞いたのだ。
「ここの水族館はショボいから、また今度小樽にでも行こうよ。真人くんもそれがいいよねえ?」
真人の隣で幼児用の紙パックジュースにストローを刺していたKKが、そんなことを言った。KKの言葉にわたしは、真人が行儀悪く握り潰していた豆パンを取り上げようとしていた手を止めた。手のみではない。呼吸を含めた全身の動きが一瞬止まったのだ。
「なんて言いました?」
「真人くんもそれが――」
「その前ですよ」
「小樽にでも行こうって。ここの水族館はショボいんですよ」
先のKKの言葉は、崇さんの言葉と全く一緒だった。その前のわたしの言葉も、その時とほぼ一緒だ。何が起こっているんだろう。
結局崇さんの言う小樽行きは決行されなかったわけだけれど、その埋め合わせみたいにしてKKと小樽に行かなくてはいけないんだろうか。
「あなた、崇さんのどういう知り合いなんですか? 崇さんからどこまで聞いてるんですか? どうして崇さんの電話番号から連絡が出来るんですか?」
崇さんのフェイスブックからわたしだけに向けて指示があったことで、わたしはすっかりフェイスブックの中で崇さんが意志を持って動いていると思いこむようになっていた。KKにまつわる疑問も、全て頭のなかから抜けた。崇さんが言うのだからそれでいいのだと納得していた。
けれど、KKにどこまで代理人として許していいのかという問題を、考えずにはいられなくなった。自然、KKがどのようにして崇さんの電話番号から連絡を取ってきていたのかということにも疑問は及ぶ。
真人が豆パンをきゅうきゅうに丸めて、テーブルの上にならべはじめた。一つ、二つ、三つ。同じ大きさになるように慎重にこねられたパンが、等間隔にならべられていく。
KKは「上手に出来てるね」と真人の作品を眺めて呟く。愛おしげに。まるで本物の父親みたいに。真人が示し始めている、発達の兆候に気づかないところなんかも、本当に本物の父親っぽい。崇さんも同じように言ったかもしれない。ああでも彼は生真面目だから、食べ物で遊んではいけない、が先に来そうだ。
どうかな崇さん。またフェイスブックを通じてわたしにメッセージを送ってよ。会いに来てくれるんでしょ。その準備がKKなんでしょ。
「柿澤さん、質問に答えてくれないんですか? 崇さんの電話番号はどうやって?」
等間隔に並べられた豆パンの丸を、一つ外してわたしの前に置く。真人は不満げに唸り声を上げると、取り返そうと体を乗り出した。乗り出した体の下敷きになって、他の豆パンの丸が潰れる。真人の手の届かないところに、わたしの目の前にある豆パンの丸を動かしていく。
右に手を伸ばせば左へ、左に手を伸ばせば右へ。最後には上に。真人の顔が真っ赤に染まる。
「そのへんにしてあげなよ」
真人の癇癪の気配を感じ取って、KKが言った。
「じゃあ答えてくださいよ」
真人の癇癪を盾にとって迫ると、KKがどんぐり目を大げさにすがめて見せた。酸っぱいものを突っ込まれたみたいに、顎に皺が寄って唇が突き出される。
「最近スマホを乗り換えまして、番号を新規に取得したんですよ。佐野崇さんの電話番号だと美香さんは言いますけど、あれは自分の番号です。そこで佐野崇さんと縁が出来てしまった」
「おかしいじゃないですか」
言いながら真人に丸くまとめられた豆パンを返してやる。
真人の喉がキィィという高音を発し始めたからだ。
「崇さんの番号は崇さんが死んで携帯を解約してからじゃないと、あなたのものになりませんよ。あなたは崇さんと、いつ、どこで、知り合ったんですか」
「だから、自分が佐野崇さんの電話番号を引き継いで、それで断れない立場になったんです」
「だからそれじゃ崇さんと会えない」
「自分が崇さんを知ったときにはもう崇さんは亡くなられてましたよ!」
「きゃーは!」
KKが音を立ててテーブルを叩く。真人が歓声をあげた。
テーブルの上で潰れた丸められた豆パンが、振動でずれた。開始早々にひっくり返されたオセロみたいだ。
「たいこ! バン! たいこ!」
「そうだねたいこだね。バン、バンね。でも、真人は叩いちゃだめだよ。お兄ちゃんが叩いちゃったけどね、テーブルはたいこじゃないからね」
KKをにらみながら真人の細い手首を掴むと、こっそりと握りしめられていたらしい垢にまみれた豆パンがこぼれ落ちた。
なんでこの子供はこんな汚らしいパンを握りしめいてるんだろう。わたしが相手を出来ないからかな。わたしが泣いている間ずっとDVDを見させているからかなあ。食育なんて文字を見るだけで苛立ちが止まらないからかなあ。しつけが出来ないだめな親だからかなあ。
パパが、崇さんが死んでいるからかなあ。
むわぁと心のなかで発酵する感情がある。怒りだ。崇さんへの怒りなどではない。わたしをこの状況に置いた世界への怒りだ。
世界には崇さんも真人もわたしも含むけれど、世界なのだから仕方がない。とにかく全てへの怒りだ。
「死人と知り合えるわけが無いだろうが!!」
叫ぶと同時に、テーブルの上のパンを薙ぎ払った。
間にテーブルを一つおいて座っていたママ友グループが、こちらを見たのが分かる。
見てんじゃねーよ。ママ友が居るやつが見てんじゃねーよ。どうせ夫も死んでないんだろうが。生きてるんだろうが。
「落ち着いて! 落ち着いてくださいって!」
「わたしのところにもっと早く来るはずだろうが! 会いに来るはずだろうが!」
腕をつかんでくるKKに抵抗するために、腕をめちゃくちゃに振り回す。左手がKKの頬をかすめる。崇さんが死んでから何をするにも外すことのなかった結婚指輪のダイヤが、KKの頬に赤い筋をつけた。
「でも自分の話を信じてくれてたじゃないですか!」
「それは――」
フェイスブックの中にいまだ留まったままの崇さんが、KKの名前をあげたからだ。それをどう伝えたらいいのかと、一瞬言葉につまったときだ。
「けんかは、だめー!」
真人がわたしたちの間に割って入った。
いつの間にか、一つテーブルを間に挟んで隣にいたママ友集団は去っていた。代わりに、若い父親らしい男が飲食スペースを囲む柵の向こうから二人覗いていた。さらにその後ろから、青いジャンパーに緑色のキャップを被った中年の男が一直線にこちらに向かってきていた。
「美香さん、スタッフ来てますよ!」
「見たらわかります」
「わかりますじゃなくて、自分DV男みたいになってません?」
「でぃーぶい?」
「真人はそんな言葉覚えなくていい」
真人の手を握りながら、急いでテーブルの周りを片付ける。
KKも、いつの間にか床に落ちていた紙パックを拾って、ベビーカーに積んだカバンを肩に書ける。わたしが手早く真人をベビーカーに乗せてベルトを締めるのと、スタッフが飲食スペースに入ってくるのとは同時だった。
相変わらずKKはうまくやっていた。真人を連れて、遠くの公園にまで遊びに連れて行ってくれるようになった。それも鬼門である土曜日日曜日に!(週末に公園に行くと、あまりにも普通の家族を見せつけられるので難しかったのだ)
わたしが一人で真人を外に連れて出られるのは近くの公園までだ。それだってよほど体調のいい時だけだ。真人とわたしを助けているのは確からしかった。頼れ、という崇さんの言葉は一部納得できた。
でも崇さんが会いに来るというのはどうなったのか?
まだ好きでいてくれるか、なんてフェイスブックでわたしに訊ねてきたのはわたしに早く会いたいからじゃないのか?
真人がKKを呼ぶ名前が「お兄ちゃん」から「けんとくん」に変わり、ときおり「パパ」と言い間違えるようになったあたりで、わたしは待ちきれなくなった。崇さんの来訪を。
そんな折、KKから泊りがけの旅行の提案があった。
小樽ではない。結局小樽の水族館には行っていないが、小樽ならわたしたちの札幌の家から日帰りで行ける。行き先は、旭岳だった。
「その地名を聞きたくもないっていう事情、知らないはずないですよね」
「え、いや、プロポーズの場所ですよね? だから佐野崇さんがそこを指定しているんです」
「プロ……」
崇さんの死んだ場所、旭岳。それは確かに過去に彼にプロポーズされた場所でもあった。晩夏の旭岳を霧が覆っていた。標高が上がり、ホテルに近づくにつれ空には雪がちらつきはじめた。崇さんが慎重に車を走らせて、わたしたちの車の前を大きなエゾシカが横切った。
霧のなかから鼻を出したエゾシカは、姿を見せる前に一体のエゾシカとしての山での暮らしがあるようには思えなかった。霧のなかから突然に生まれたような気がした。
翌日に旭山動物園で見たエゾシカはそのときに横切ったエゾシカの半分くらいの大きさしかなかった。
「これなら昨日見たなあ」
エゾシカの檻の前で笑う崇さんの顔が、目の前にぱっと浮かんだ。そのときのわたしの薬指には婚約指輪がはまっていた。
そこから巻き戻して、旭岳のホテルでわたしが急に熱を出したことを思い出す。そのときに見上げたロッジ風の天井と、サッシの間から出られなくなったアブの羽音。機械のように定期的に音を鳴らしているのが不思議だった。
フロントから薬を貰ってきてくれた崇さんが、こんなときに出していいか迷ったけれど、と前置きして見せてくれた婚約指輪。薬と指輪とどっちを先に受け取るのか迷って、指輪を受け取ったのだった。
――幸せだった。
自覚したところで、水銀みたいに胸に幸せが沈んでいった。今のわたしに過去の幸せは毒でしかない。幸せを幸せに戻すには、崇さんが再びわたしの前に現れる以外なかった。
というところまで考えて、フェイスブックに宿っているはずの崇さんからのメッセージが絶えている事実と、崇さんがわたしと会うためにKKを通じて旭岳を選んできた、ということに今更ながら強烈な違和感を覚えた。
そしてKKは、崇さんがどこで死んだのかを知らなかった。
そもそも、どうしてKKを信用しようと思ったのかというと、フェイスブックのアカウントに宿った崇さんが、KKのイニシャルをあげてきたからだ。死んだ人間がフェイスブックから連絡してくる? そんなことがあり得るだろうか? あり得たとして、生前関係のなかった他人をよこしてきて、その人に頼れなんて言うだろうか?
KKは何かを隠している。
そもそも荒唐無稽な話なのだ。信じたのは、わたしの胸に沈んだままの水銀みたいな幸福の記憶が、崇さんにまた会えるかもしれないという心にすがりたかったから。
KKは崇さんが旭岳ロープウェイの入り口で、遺体で発見されたということすら知らない。その癖に、崇さんが旭岳のホテルでプロポーズしたことは知っている。
KKの知る崇さん像におかしな偏りがある。
いったい、KKの言葉を信じていいものだろうか?
一度抱いた違和感は消えない。わたしは旅行の返事を保留にした。
いまだ寝かしつけに「おっぱい」を必要とする真人が、わたしの胸のうえに重なるようにして眠りについていた。
札幌も八月の半ばには猛烈な暑さに見舞われるが、本州とは違い一週間ほどで引く。晩夏のころの今となっては、窓を開けていると寒いほどの風が吹き込んでくる。釘のいらない組み立て式の家具みたいに、わたしと真人は組み合って一つになっている。
夜は眠れない。
出張にいく前日の夜、なかなか寝室に入ってこなかった崇さんを思い出すから。リビングに続く扉の隙間から見えた、マグカップに入れたワインを一人で飲む崇さんの丸まった背中を。崇さんは痩せ型で、特別背が高いわけでもないのに猫背が癖になっておかしな形で背中が固まってしまっていた。背中を伸ばそうと素人ながらにマッサージをしていたけれど、結局内側に肩が入ってしまったままだった。
白木の棺桶に収まった崇さんの肩もやっぱり内側に入っていた。
箱のなかで寝かされた状態では気付きにくいけれど、わたしはずっとこの姿勢をほぐそうとしてきたんだから、気づかないはずはなかった。最後の夜にわたしは崇さんを放っておいてしまった。ダイニングテーブルの隣に腰掛けて、一緒にマグカップでワインを飲んでみたらよかった。
目を閉じて、あったかもしれない『あの日』のやりとりをイメージする。
彼の肩に手を添える。彼がわたしを見る。
わたしの好きな真っ黒な瞳にわたしは映らない。彼の目を覗き込み続けると、奥でなにかがうごめいている。
うごめいていると思ったものは、揺れる赤ワインの水面だった。いつの間にか彼の瞳は赤黒く濁っている。彼が口を開く。その言葉を聞いてはいけない。
「美香はさ、」
その言葉を聞いてはいけない。
「美香が俺と結婚したのは、」
聞かない。わたしは急いでリビングを出て、真人の待つ寝室に行く。彼が追ってくる気配がある。彼を部屋に入れたらいけない。たったの二歩で移動できてしまう短い廊下を斜めに渡り、寝室に駆け込む。
内開きのドアを押して閉めるときに、空気の抵抗がある。ドアを閉じる寸前、彼の赤黒い目がわたしの背後のベッドをとらえているのを見る。
「真人を見ないで!」
叫んで、ドアを閉じた。
ドアを隔てた廊下からは物音どころか、生き物の気配が何も感じられなかった。
「崇さん!!」
飛び起きようとしたが、胸にのしかかる真人の全体重によって阻まれた。
仰向けのまま天井に向けて手を伸ばして空をかく。真人は低く呻くと、太った青虫みたいにのっそりとした動きでわたしの胸から落ちた。
真人が叫んでしまう。また寝かしつけなくてはならない。一人の長い夜に、お母さんに戻らなければいけない。
ベッドマットの上で左右に転がりながら唸る真人を注視する。少しむずがったものの、癇癪を起こすことなく真人はまた眠りに戻ってくれた。
瞬間的な緊張から開放され、思わず吐いた息の重さに、なぜかわたしは傷ついた。
わたしがこんなことになったのは、すべては崇さんが死んだせいだ。さらに死後にKKとかいう男を遣わして、どこまでわたしを苦しめたら気が済むのだろう。KKは崇さんが死んだ場所すら知らなかったんだから――。
そうか。
枕元に置いているスマートフォンに手を伸ばす。
崇さんのフェイスブックのページを開いて、それから、そう多くはない彼の投稿を遡っていく。
「やっぱり……」
ある一つの投稿に行き着いて、わたしはKKの嘘に気付いた。