「良いから寝なさい。お昼寝の時間」
「お昼寝つまらないから、いや」
「いやじゃない! き、ま、り!」
「きまり、いやー」

 いたずらされたスマートフォンを真人から取り上げると、抱きかかえて寝室に連れていく。なかば抑え込むようにしてベッドで添い寝する様子は、寝技でもかけているみたいだ。二歳に満たないとはいえ子供の全力の抵抗はなかなかに手強く、いつもプロレスのようになる。やがて疲れた真人は、急に電池がきれたみたいに抵抗をやめて眠る。小動物めいた寝息が部屋に響く。
 部屋を暗くして、無理にでも眠る姿勢を取らせるというのが、真人のお昼寝ルーティンだった。崇さんが死ぬ前から始めたものだが、あのころよりもずっと真人の力は強くなっているし、体力がついて昼寝の時間も減っている。
 これから先、成長し続ける真人をどうやって一人で育てていけるだろうかと、暗い気持ちになる。そうして、寝息をたてる真人の背中にすがりながら、わたしはいつも泣くのだ。真人の背中は小さいけれど筋肉質で、精一杯に体を縮こませてすがってみると、崇さんにすがっているような気持ちになれた。
 無理だよ、無理だよ、無理だよ。
 助けてよ、帰ってきてよ。なんでいないの。
 心のなかで崇さんを責めて、真人の小さな背中にすがりつく。そのひととき、わたしはたっぷりと悲しみに浸る。嵐のような日々のなかで、その瞬間だけわたしは、可哀想なひとりの女になれる。
 ひとしきり泣いていると、冷蔵庫の中身が頭に浮かんでくる。組み立て式の棚が、ダンボールで梱包されたままの状態で玄関に放置されているのも思い出す。家事にもどる頃合いだった。
 体を起こすと、気圧がおかしくなったみたいに、耳がつまっていた。泣きすぎたかもしれない。頭を振る。その瞬間、スマートフォンが鳴った。
 真人が小さく唸って体をよじるので、スマートフォンを持って寝室から飛び出した。寝ついたところを起こされると、真人はひどい癇癪を起こすからだ。
 誰からだろう、こんなときに。すぐに浮かんだのは、義実家。一周忌の法要について、確認があるのかもしれない。それとも実家だろうか。これも一周忌関連。花だけ送るとか、きっとそんな話。はたまた、わたしを心配してくれている友達かもしれない。今度お茶に行こうと誘ってくれていたから、その件か。彼の会社や生命保険会社とのやりとりはもう絶えて久しい。
 答えはそのどれでもなかった。
 着信画面を見て、自分の眉間にシワが寄るのが分かる。
 亡夫、佐野崇の名前がそこにあった。
 フェイスブックの、崇さんを名乗る何者かが投稿した言葉を思い出す。

 『美香へ。もうすぐ会いに行けるかもしれない。まだ好きでいてくれるかな』
 
 まだ好きでいてくれるか、なんて愚問だ。好きだよ、と届くものなら伝えたい。会えるものなら会いたいとも思う。
 彼の方こそわたしへの愛があるのなら、四十九日を過ぎても地上にとどまって、わたしのそばに居る選択を取るはずだった。一方で、人間は死んだら魂など残さず消滅するし、仏弟子になるとかいう戒名は坊主の小遣い稼ぎでしかないし、四十九日前にわたしが家の中で感じていた『気配』は、ストレス状態におかれた遺族におこる幻臭と幻聴だと知っていた。
 それでももし魂があるのなら、悪霊でもなんでもいいから、彼と再会したいと思っていた。せめて、最後の通話のときにこちらからすぐにかけ直さなかったことを、謝る機会が欲しかった。

 受話器型のアイコンを上にスワイプすれば、彼と通話出来るかもしれない。なんて一瞬魔が差したのは、泣いたばかりだからだ。
 フェイスブックはハック出来たとして、彼の電話番号を手に入れるなどということが可能だとはわたしには考えられなかった。解約した彼の携帯電話番号は、今頃どこかの誰かが新規に契約する際の番号として再利用されているだろう。もしくは、再利用待ちをしているだろう。
 どちらにしても、そんな崇さんの番号からわたしに電話をかけてくるなんて、この世ならざるものに姿を変えた崇さんにしか出来ないことのように思えたのだ。
 
 チカッ、という音未満の音がして、リビングの電気がついた。寝室のドアの前で、リビングのドアの中心にはめられた細長いガラスから、LEDの光が漏れるのを見る。下の階の部屋と、ときおり電灯のリモコンが干渉しあい。混線するのだ。
 リビングから漏れる光に気を取られた瞬間、手の中のスマートフォンは動きを止めた。息を引き取るみたいにして、スマートフォンは沈黙する。画面には、着信履歴だけが残されていた。