朝起きて最初にするのは、ここがどこかを確認することだった。半開きの窓から吹き込む初夏の風を頬に受けながら、こざっぱりとした部屋を見渡してみる。昨日から変わりはないはずなのに、目が覚めたばかりの僕にとっては、まるで異世界で目覚める気分だった。

 ――さてと、まず確認することは

 暗く深い穴に落ちそうな気分をむりやり奮い立たせ、ベッドの脇に置いた手帳とスマホを確認する。半年前の交通事故で記憶障害を患って以来、僕の朝の始まりは、まずは昨日までの記憶を思い出すことから始まるといってよかった。

 まずは手帳をパラパラとめくり、記憶を掘り起こすキーワードを探っていく。ほとんどが殴り書きのメモばかりで、日常の些細なことが端的に切り取られている感じだった。

 そのワードから昨日までのことを思い出していくわけだけど、全てが思い出せるとは限らない。思い出せないものはどうやっても思い出せず、よくて七割、悪いときは半分も思い出せないこともあるから、僕の記憶の歴史は常に穴だらけだった。

 ワードを見返すこと数分、徐々に記憶が蘇ってくる。昨日は誰かと会っていたことまでは思い出したけど、誰となにを話したのかは結局わからなかった。気を取り直して他のワードを数日前まで遡ってみる。『遺書』、『死にたい』といった朝からダークになるワードが目につき、一気に気分が重くなっていく。どうやら数日前の僕は死にたいと思っていたようだ。なぜそう思ったのかを考えながら他のワードに目を通すと、気になるワードが唐突に目に飛び込んできた。

 ――炎上?

 いきなり脈略なくでてきたワードに、胸の奥が僅かに苦しくなっていく。関連しそうなワードを探してみると、『ネットのエッセイ』、『同じ高校の子』、『会う約束』といったワードが薄い線でひとくくりにされていた。

 ――そういえば

 それらのワードがつながった瞬間、ようやく数日前のことが記憶として蘇ってきた。確か、ネットの投稿サイトを利用してエッセイをいくつか投稿していて、その一つの投稿が炎上していたはずだ。

 そう思い出したところで、スマホを手にして投稿サイトへアクセスしてみる。主に記憶障害に関するネタを投稿していたけど、『大切な人が二人いた』というタイトルのエッセイだけが異常な閲覧数とコメント数になっていた。投稿した内容については、僕が書いたものに間違いはない。心の中に大切な人の影がどうしても二人いて、そのどちらが僕の大切な人なのかわからず途方に暮れて書いた記憶が微かに残っていたからだ。

 僕にとってはとても大切な問題だったけど、読者はそう思わなかったようで、コメントの大半が誹謗中傷に近いものばかりになっていた。浮気自慢だの、亡くなった人がかわいそうすぎるといったコメントが大半で、僕を擁護する内容はほぼ皆無だった。

 ただ、その中で唯一親身になってコメントをくれた人がいる。『明日晴』というネームで、たとえ大切な人が二人いたとしてもそれはそれで間違いではないとはっきり主張していた。

 その後、どういった経緯があったのかはわからないけど、どうやら僕はこの『明日晴』という子とこの数日間、会っていたらしい。それが『同じ学校の子』という意味らしく、さらには、名前は『牧山すみれ』ということになっていた。

 ようやく断片的に記憶が蘇ってきたけど、牧山すみれという人物のことは思い出せなかった。なのに、今日も会うことになっているようで、最悪なことにその約束の時間までほとんどないという状況だった。

 ――どうしようか

 とりあえず急いでベッドから降り、殺風景な部屋を無駄に徘徊しながら身支度を済ませる。基本的に僕の部屋には、過去の情報が一切ない。理由は僕の記憶障害によるもので、あまりに強い衝撃が記憶に蘇ると脳へのダメージが深刻になるらしい。そうなると、ワードを頼りに記憶を思い出すのも困難となるらしく、かろうじて生きていけるだけの記憶力さえも失いかねないというのが医者の説明だった。

 そういうわけだから、僕には事故を境とした過去の情報を与えられることはない。誰と過ごして、どんな人を大切な人と認識していたのかさえわからない。交通事故で失ったという情報も、同居する母親と兄を何度も問い詰めてようやく聞けた話で、どこでどんな事故だったかもわからないため、ネットで検索してもピンポイントで合致する情報を得ることはできなかった。

 おかげで、唯一わかるのは心の奥に刻まれたシルエットしかない。そのシルエットが二つあり、そのどちらからも無意識に胸が高鳴るような温かいなにかを感じるのだから、どちらが僕の本当に大切だった人なのか判断がつきようがなかった。

 白いシャツとハーフパンツに着替え、なにもない床に腰を下ろしながら考えてみる。

 一体どっちが本当に僕にとっての大切な人だったのだろうか。

 ひょっとしたら、コメントにあったように僕は浮気をしていて二人とも大切な人だと思っていたのだろうか。

 その答えを知りたい気持ちが、今になって強く蘇ってきた。どうやら僕は、この気持ちに毎日悩まされているみたいだ。だとしたら、その過程で『遺書』や『死にたい』とメモを残していたということになるのだろうか。

 いくら考えたところで結局答えはでないとわかり、この中途半端で厄介な記憶障害を忌々しく思い始めたところで、勝手知ったる我が家のごとく現れたのは、心の中にある影と一瞬重なりそうになった少女だった。
「泰孝、ちゃんと生きてた?」

 黒い半そでシャツにジーンズ姿の少女は、ノックもなく部屋に入ってくると旧知の仲のように声をかけてきた。ショートカットの前髪をピンでとめておでこを出した顔には、息ができなくなるくらいに吸い込まれそうな黒い大きな瞳があった。

 ――この子の瞳、どこかで見たような気がする

 一瞬、胸の奥にある影と重なった少女が、記憶の底を激しく刺激してくる。まるで、遠い昔に遊んだ幼なじみのような懐かしさに似た感情がわきあがってきたけど、それがなにかわからないまま記憶はかすんで消えていった。

「ていうか、相変わらずボーってしてるよね。ま、とりあえず座って座って」

「いや、もう座ってるんだけど」

 軽いノリで勝手にくつろぎだす少女に、とりあえずツッコミを入れてみる。少女は「そっかそっか」と繰り返しながら、黒いバックからペットボトルのお茶を取り出してドンと机に置いた。

「それより、君は誰? もしかして君が牧山すみれ?」

 懐かしい感じはするものの、たとえ少女が昨日会った牧山すみれだったとしても、今の僕には初対面という認識しかない。そのため、少女に誰かと尋ねたところで少女は派手に肩を落とした。

「あのね、会って秒で人を傷つけるのはやめてくれる? もうちょっと気づかいがあってもいいんだけど」

「じゃあ、君は牧山すみれだったよね? とか?」

「うんうん、て、なんかそれもムカつくんだけど。ま、仕方ないか。泰孝の言うとおり、私は牧山すみれ。今度忘れたらぶっとばすからね」

「だったら、ヘッドギアつけておこうかな。忘れることには自信があるからね」

「なにそれ。やっぱ今ぶっとばす!」

 目をつり上げて右拳を上げたすみれが、きつく僕を睨んできた。会って間もないのに、この忙しさにはもう笑うしかなかった。

「それより、カンテラ祭のこと考えてみた?」

「カンテラ祭?」

「まさか、忘れてないよね?」

 ようやく怒りが収まったのもつかの間、再びすみれが目力をあふれさせて睨んでくる。さり気なく笑ってごまかしながら手帳を開くと、確かにカンテラ祭というワードがあった。

「会いたい人に会える?」

 カンテラ祭に紐づいた情報はそれだけだった。ただ、そのワードから昨夜なにかを調べていたような記憶がうっすらと浮かびあがり、やがて、僕の悩みを解決する手段としてすみれが持ち込んできたのが、このカンテラ祭ということを思い出した。

「そういうこと。わたしも調べてみたんだけど、ただの都市伝説というにはやっぱりもったいないんだよね」

 こめかみに人さし指をあてながら、すみれが机に置いたスマホの画面を向けてきた。

「色んな人が興味ある内容投稿しているし、インフルエンサーの中にもガチで体験したっていう人もいるし、これって試す価値があると思うよ」

 器用にスマホを操作しながら、すみれが画面に映る画像や動画を紹介していく。僕は使った記憶はないけど、ネットの世界には画像やショート動画を世界で共有するアプリがあるらしい。

「すごい洞窟だね」

 カンテラ祭に参加した人が投稿した画像の大半が、洞窟と思われるものばかりだ。それもそのはず、祭と言われているけど、実際カンテラ祭は一般的な祭のイメージとはかけ離れている。カンテラ祭は、その名の通りカンテラを手に洞窟を探検するのがメインの内容になっていた。

「やば、これってめっちゃ雰囲気あるよ」

 文字を書くように画面をスワイプさせていたすみれが、一気に声を弾ませながら画面を向けてきた。そこには淡い光の粒が被写体の周りを漂い、ただの薄暗い洞窟を幻想的な世界に変えていた。

「で、これがインフルエンサーのやつね」

 僕が吟味するのを待たずに、すみれは次から次へと画像を見せてくる。その度に「やば」とか「キモ」とか声を上げるから、僕にとっては画像を見るよりすみれを見ていたほうが楽しかった。

「なに?」

 僕の視線に気づいたのか、すみれがじろりと横目を向けてくる。その仕草がかわいくて、つい「かわいいなって思っただけ」と呟くと、瞬間的に顔を赤くしたすみれが固まってスマホを落とした。

「な、なに、急に」

「いや、別に意味はないんだ。ただ、そう思ったから口にしただけ」

 急にぎこちなく前髪をいじりだしたすみれがおかしくて、だめ押しをしてやる。すみれは、「からかうな!」と声をはりあげながらも、どこか嬉しそうにしているようにも見えた。

「ていうか、大切な人に会いたいんでしょ? こんなことしてる場合じゃないんだから」

 さらにいじりたくなる僕を牽制するように、すみれが話題をむりやり戻していく。大切な人という言葉に我に返った僕は、名残り惜しさを追いやって気持ちを切り替えた。

「でも、本当に会えるのかな?」

 気を取り直し、昨夜スマホでアクセスしていたカンテラ祭のホームページに再度アクセスしてみる。カンテラ祭の目玉は、会いたい人に会えるというもので、しかもその対象が亡くなった人に限定されていた。

「会えるんじゃないの? だって、会えたって言ってる人もたくさんいるし」

「でも、それってネットの情報だよね?」

「そうだけど、でも、こうしてたくさんの人が画像や動画をあげてるんだから、情報商材のcmより信用あるでしょ?」

 すみれが力説しながら、インフルエンサーとやらの画像を向けてくる。たとえはともかくとして、確かにいくつもの神秘的な画像を見ると不思議なことが起きそうな期待感は否定できなかった。

「会いたいんでしょ?」

「そうだね。でも、なぜ僕の中には二人いるのかわからないから、ちょっと怖い気もする」

「どうして?」

「だって、もし僕に大切な人がいて、にもかかわらず他にもいるとしたら、僕はその人を裏切っていたことになるよね。サイトで炎上したぐらいだから、僕のやっていたことも、これからやろうとしていることも、やっぱり間違いかもって気がしてね」

「そんなの気にすることないよ。泰孝の中に大切な人が二人いたとしても、それは泰孝にとって大事なことだから他人のコメントなんて気にするだけムダだよ。それに、事故で記憶を失っても心に残っているぐらいだから、どっちが事故で亡くなった人だとしても、泰孝にとっては大切な人には変わりないと思うけど」

 つい弱気になった僕に、すみれは力強く説教してきた。その目は本気で僕を想っているように見え、なんだかくすぐったい感じがしながらもどこか落ち着く感じがした。

「カンテラ祭で会えるのは亡くなった人だけだから、泰孝が会えるのは事故で亡くなった人だけだと思う。だから、泰孝にとって本当に大切な人だったのかどうかは、その時にはっきりするんじゃないの?」

「そうだね、そうすることにするよ。バカげた話なのに心配してくれてありがとう」

 すみれの説教が妙に心に染みて、僕は素直にすみれの言うことを受け入れることにした。すみれはというと、僕の礼に再び顔をうっすらと赤くして前髪をぎこちなくいじるだけだった。
 僕の一日は、ほとんどがこの狭い部屋の中で虚無の時間を過ごすことになる。今日みたいにすみれが尋ねてくるのはレアなことで、僕が接触するのは母親か兄の二人ぐらいだ。

 その理由は、記憶障害による脳や体への過度の負担を避ける為だった。あまりに強い刺激を受けると、記憶障害はさらに進行する恐れがあるし、そうなるとワードを手がかりに記憶を思い出すことも難しくなると医者は力説していた。

 だから、今日も僕はなんの意味をなさない時間をただ消費していく。これが苦痛かというと、最初は気が狂いそうになったけど今はあまり感じることはない。そうなったのは、兄が与えてくれたスマホによるのが大きかった。

 スマホを使ってネットの世界を探索する。顔も名前も知らない誰かのつぶやきや、写真、動画といったコンテンツを通じて、いつしか僕はなにもない部屋の中にいながら世界とつながっているような気分を手に入れることができた。

 以来、眺めるだけでは飽き足らず、今では炎上したとはいえエッセイを投稿し、なにもわからない誰かと擬似的な交流を持つまでになっていた。その結果すみれという少女に出会ったのだから、人のつながりは考えてみたら不思議なものがあった。

 ――でも、ちょっと変だよな

 ベッドに転がり、炎上したエッセイを眺めながら腑に落ちないモヤモヤ感と向き合ってみる。過去の投稿にもたまにすみれはコメントしているけど、どうやって僕にたどり着いたのかがよくわからない。同じ高校というからには面識はあったかもしれないけど、だからといってこのエッセイだけで僕にたどり着くのは疑問が残るし、そもそもいつ出会ったのかもよくわからないままだった。

 ――やっぱり、すみれがもう一人の大切な人なんだろうか?

 すみれとの間に特に深い関係があったとしたら、エッセイから僕にたどり着いても不思議ではない。事故の後の詳細を記してきたから、読む人によってはピンとくる可能性は高いだろう。

 それに、心の中にある影も時間と共にすみれと重なろうとしている。さらに、そうなっていくにつれて、僕の感情にも愛しさが増していることは否定できなかった。

 ――なんだか変な気分だな

 自分の気持ちと向かい合い、その身勝手な感情の起伏に自分でも笑うしかなかった。大切だった人を事故で失ったショックも忘れ、もう一人いた大切な人の影に気持ちをたかぶらせているのだから、浮気だの最低な人だの叩かれて当然かもしれない。

 ――もし、カンテラ祭で真相がわかったとしたら?

 あまり考えないようにしていた疑念が、不意に顔を覗かせてくる。もし、すみれがもう一人の大切な人だったとしたら、僕は大切な人を裏切った上に死なせたことになる。

『こんな奴と出会わなければ、娘は死なずにすんだんだ!』

 不意に頭に響く男の声。事故からしばらくして、朦朧とする意識の中に聞こえた大切な人の父親であろうその声だけは、全ての記憶を失いながらも脳の奥底に刻まれていた。

「本当に最低な奴かもしれないな」

 僕に向けられた憎悪の声に耳をふさぎながら、ただ懸命に言葉にできない感情のうねりに耐えつつ、真相を知ることに恐怖を抱き始める身勝手な自分から目をそらすしかなかった。
 カンテラ祭へ向かう日の朝、ちょっとしたトラブルが発生した。当然、僕一人で行くと思っていたのに、なぜかすみれが同伴することになっていた。

 洞窟探検にふさわしくトレッキング姿で現れたすみれは、ちゃんと一緒に行くと約束したの一点張りで、何度メモ帳を見返してもそんな約束のワードは見つからなかったので、僕としては途方にくれるしかなかった。

 結局、母と兄の説得もあり、最後は僕が折れる形ですみれと一緒に行くことになった。とはいえ、カンテラ祭がある場所は日帰りで行けるような場所にはない。つまり、一泊を要するのだけど、その点はなぜかすみれは問題視していなかった。

「うちの親、そういうの無関心なんだよね。ていうか、そもそも親はいないから、結局はどうでもいいんだけどね」

 久しぶりの外の世界に目がくらむ中、電車に乗って灰色の車窓に目を向けたところで、すみれが唐突に切り出した。

「どういうこと?」

「なんかさ、泰孝が泊まりで出かけるのを気にしてるみたいだから。別に気をつかわなくていいってことを言いたいの」

「いや、そうじゃなくて、親がいないっていうのを聞いたつもりだけど」

「ああ、そういうこと? それなら簡単な話かな。わたしには両親がいなくて、今は両親の親戚みたいな人と暮らしてるの。まあそこが笑えるくらいにひどくてね。自分の娘にしか関心なくて、わたしはいてもいなくてもどうでもいい存在ってわけ」

 けらけらと笑いだしたすみれだったけど、その目が笑ってないことに気づいた。つまり、今のすみれの言葉は精一杯のつよがりでしかなかった。

「つらい?」

「なにが?」

「いや、親がいなくて一人だとつらいのかなって思っただけ」

「別に。それに、願ったところで昔に戻れるわけでもないし、そんなこと考えたら余計つらくなるだけだもん。だったらおとなしくあきらめたほうがいいし、お父さんもお母さんも好きでいなくなったわけじゃないからね」

 わずかに瞳の端に涙を滲ませながらも、すみれは変にハイテンションで言葉を紡ぎ出していた。きっとそこには僕なんかでは想像できないような苦しさがあるのだろう。そう考えたら、それ以上すみれの傷に触れるのはやめたほうがよさそうだった。

「それより、カンテラ祭に参加できてよかったよね。実際、抽選に当たった時は人生の運を使い切ったかと思ったよ」

 妙になり始めた空気を払うかのように、すみれがガッツポーズをとりながら無理やりのような笑顔を見せてくる。すみれのいうとおり、カンテラ祭は知る人ぞ知る祭だけど、気軽にいつでも参加できるものではなかった。

 その理由に、カンテラ祭にまつわる特別な事情が関係している。カンテラ祭は、もともと都市伝説的な話のあったものを町おこし的に利用した背景がある。一部の人で行っていたことを自治体が一般に公開して観光スポットにしたのが始まりで、当初は狙い通りの効果があったらしい。

 けど、その反響とは裏腹に、洞窟内で命を断つ者が多発したことで事態は一変していったという。なぜ命を断つ者が多発するのかについては諸説あるみたいだけど、最も言われているのが、亡くなった人に会ったことによる後追い自殺だった。

 そうした背景もあり、一度は洞窟の立ち入りを禁止したらしいけど、目を盗んで入る者が後をたたなくなったたことで、かえって事故が多発する結果となってしまい、苦肉の策として、今では夏前の一定期間公開し、参加者を抽選にするという方式で対応しているとのことだった。

 その抽選に、すみれは見事当選した。参加にあたって当初はすみれ一人で参加するつもりだったけど、三人までペアを組めるとわかって急遽僕を誘ったわけだ。すみれがなぜ応募しようと思ったのかは知らないけど、僕としては偶然にもありがたいチャンスをもらったことにはなる。

「すみれは、なぜカンテラ祭に参加しようと思ったの?」

「秘密」

 ひょっとしたら、すみれの参加理由を聞いていたかもしれない。そのため、忘れたのかと怒られるのを覚悟しながらさり気なく聞いてみると、返ってきた答えは素っ気ないものだった。

「秘密?」

「そう、秘密なの。ていうか、女の子になんでもかんでもしつこく聞くのは、ぬれたままの雑巾で床をふくぐらい最悪なことだからね」

 ビシッと人差し指を向けながら、すみれが鋭く睨んできた。相変わらずなたとえはともかく、要するに聞かれたくないというのはなんとなくわかった。

 ――両親に会いたいのかな?

 スマホを手にショート動画の吟味を始めたすみれを盗み見ながら、すみれのカンテラ祭に参加する理由を考えてみる。思いつくのは、やはりすみれの両親だった。

 すみれの口ぶりからして、すみれの両親はもうこの世にいないのだろう。その結果、辛い人生を送っているとしたら、ちょっと、いや、だいぶかわいそうに思えてきた。

「なにじろじろ見てるの?」

「え?」

「さっきから気持ち悪いくらいじろじろ見られてるんだけど」

「ああ、ごめんごめん。ただ――」

「ただ?」

「真剣にスマホを見てる顔がかわいいなって思っただけ」

 適当にごまかすつもりでついた言葉だった。

 なのに、すみれはいきなり特大級の右ストレートを僕に浴びせると、顔を真っ赤にして前髪をいじり始めるだけだった。
 田舎町の無人駅周りは、ネットの画像から想像する以上に人も建物もなかった。唯一の救いは、カンテラ祭の時期ともあって、タクシーだけは駅前にとまっていてくれた。

 タクシーに乗り、日が暮れる前に目的地へと向かう。カンテラ祭は、田舎町のさらに人里離れた山の中で行われているため、今日は近くの宿で一泊することになっていた。

 タクシーで走ること一時間、カンテラ祭を主催する神社で大急ぎで受付を済ませた後、宿についた頃にはすっかり日も暮れていた。

「なんか、写真と違って雰囲気あったよね」

 タクシーからおりて空を掴むように伸びをしたすみれが、率直な感想を口にする。確かに、壮大に感じる山々を背にした神社には妙な格式高い威厳があったし、木々の隙間から見えた洞窟の入り口からは、この世の果てみたいなオーラが感じられた。

「チェックインしてくるね」

 リュックを背にし、すみれが足早に古民家のようなただずまいの宿に入っていく。その背中を追いかけていくと、人の良さが全身から溢れ出ている初老の男性が出迎えてくれた。

「長旅だったでしょう?」

 はるか東の都会から来たと告げると、初老の主人は糸目になって笑みを浮かべた。どうやら愛想がいいだけでなく話好きみたいで、一瞬迷ったけど主人につきあうことにした。

「毎年こんなに賑わっているんですか?」

 小さな宿とはいえ、明らかにカンテラ祭の参加者と思われる人が受付で列を作っていた。

「おかげさまで、この時期はたくさんのお客様がお越しになられますよ。昔は、自然しかない閑散地でしたが、今では町の目玉になっていますからね」

「そうなんですね」

「ところで、お二人さんもやっぱり誰かに会いに来られたのでしょうか?」

 軽く咳払いをした主人が、妙な質問をしてきた。カンテラ祭に参加するということは、目的は会いたい人に会うしかないはず。そう不思議に思っていると、主人は白髪頭をかきながら小さく頭を下げた。

「いえ、最近はカンテラ祭の目的とは違った目的で来る方もいらっしゃいまして。ほら、最近は色んな方が動画や写真を撮られていますからね。それはそれでかまわないのですが、中にはこの地で人生を終わらせるつもりで来る人もいますものですから。まあ、その点ではあなたは大丈夫だと思いますが」

 にこりと笑う主人の顔から、わずかに見えていた心配の色が消えたように見えた。どうやら主人は、来訪客の相手をしつつ来訪の真意を推し量っていたみたいだった。

「そんなに、自殺する人が多いのですか?」

「そうですね、まあ残念ながら少なくはないです。考えてみたら当然ですが、死者に会いに来るわけですから、なにかしらの不幸は抱えているものでしょう」

 すっと窓の外に視線を移した主人の横顔に、微かに影が広がっていく。考えてみたら、主人はこの場所で多くの命を断った者を見てきたわけだから、その胸に抱いてる悲しみは計り知れないものがあるのかもしれなかった。

「私はいつも思うのです。人の幸せとはなにかって。いや、たいそれたことを言うつもりはないのですが、ここにいると時々考えてしまうものでして」

「それで、答えは見つかったのですか?」

「いえ、残念ながら胸を張って言えるものはありません。ただ、人の幸せとは、なるとか感じるとかいうものではないのではと、最近思うようになったのです」

 目を細めた主人の呟きからは、妙な重みが伝わってきた。

「だとしたら、幸せとはなんですか?」

「いることだと思います」

「いること?」

「はい、幸せとはなにかについては人それぞれだと思います。しかし、どんな思いであろうとこの世に存在していなければ意味がありません。つまりですね、人の幸せの形というのは、ここにいて誰かに影響を与えることではないかと思うのです」

 言い終えた後、主人は照れ隠しのように白髪頭に手を伸ばした。その仕草に素直に笑えなかったのは、主人の言葉を受け入れられなかったからだった。

 なぜなら、僕は今、母親と兄の世話をうけなければまともに生きることができない。つまり、僕の存在は確実に家族に不幸をもたらしていることになるだろう。

 ――それに

 脳裏に浮かぶしわがれた男の声。娘の不幸を呪うかのように僕にぶつけてきたあの声に、幸せの欠片は微塵も感じられなかった。

「実は、僕は記憶障害を持っています。一日が終わって眠ってしまうと、記憶を失った状態から一日が始まります。なので、家族の助けがなければ一人で生きていくことができません。そんな僕であっても、存在することで誰かを幸せにしている、もしくはすることができるでしょうか?」

「できますよ。たとえあなたがなにもできなかったとしても、きっと誰かを幸せにすることはできると思います」

 半分は疑いを込めて、半分は期待を込めた僕の質問に、主人は迷いなく断言するように答えた。

「泰孝、行くよ」

 にっこり笑う主人の横から、チェックインを終えたすみれが姿を見せる。その姿に、一瞬胸が苦しくなるのを感じたのは、なぜかわからなかった。
 山菜と地元名物の肉料理を堪能し、見事な露天風呂で疲れを癒やした後、つかの間のひとときをすみれと過ごすことになった。

 とはいっても、特に会話があるわけではない。すみれは心配していたスマホの電波が届いているのを確認するなり、今日の出来事をSNSにまとめている。いつの間にか撮っていた写真をアップしていたらしく、時折コメントに鼻歌まじりに返信している様子は、見ていてやっぱり飽きがこなかった。

 ――さてと

 すみれが没頭している間、僕も今日一日の出来事を手帳にワードとしてまとめていく。この時点で忘却は始まっているから、全てを詳細に記すことはできないけど、いつもより多めとなったワードに、つい一人笑みがこぼれてしまった。

 ――最後の仕上げに

 一通り作業が終わると、すみれの小さなバックに手を伸ばした。バックの中には花柄のかわいい封筒と白い封筒が二つあった。考えるに、白い封筒のどちらかが僕のチケットだろう。僕は実物を見ていないと思い出すことができないから、記憶を思い出すきっかけの一つになるようにチケットを確認しておくことにした。

「ちょ、なにしてんの!」

 封筒に手をかけた瞬間、畳に寝転んでいたすみれが叫び声を上げた。なにごとかと固まった僕に対し、すみれは一瞬でバックひったくった。

「なにって、明日のチケットを確認しようとしただけなんだけど」

「あのね、女の子のバックを勝手に開けるのは、最後に食べようと残していたショートケーキのイチゴを横取りするより重罪なんだから!」

 顔を赤くして声を荒げるすみれが、今まで一番の勢いで睨んでくる。相変わらずのたとえは置いとくとして、すみれの瞳に睨まれるとどうしても胸が苦しくなって言葉に詰まる自分がいた。

「悪かったよ。最後に食べるショートケーキのイチゴがそんなに大事なことだとは思わなかったよ」

「馬鹿にしてる?」

「半分」

「ぶっとばす!」

 つい笑って答えた僕に、すみれが右拳を振り上げて威嚇してくる。慌てなだめに入るも、すみれの怒りは僕の背中に放たれることになった。

「それより、スマホの作業は終わったの?」

「もう、白々しく話を変えるのは相変わらずなんだから」

 さらにもう一発おみまいしようとしていたすみれだったけど、僕のなだめがきいたのか、壮大なため息と共にこぶしを力なくおろした。

「ま、今回は反応のコメントもよかったから、これくらいで許してやる」

「それは助かるよ。すみれの友達に感謝しないとね」

 恐る恐る距離をとりながらそう口にした瞬間、一瞬ですみれの表情が曇るのがわかった。

「わたし、友達いないんだけど」

「え?」

「だから、リア友はゼロ更新中って言ってるの。ま、別にこうしてネットのやりとりはできてるから別にいいんだけどね。顔も名前もわからないから、リアルより気もつかわなくていいし、みんな優しいしから楽でいいしね」

 わずかにトーンの落ちたすみれの声が微かにふるえていた。そこには、つよがりではなくつよがろうとあがいているすみれの本音があるような気がした。

「でも、寂しくはない?」

「別に。リアルでさ、馬鹿みたいに必死になるのも疲れちゃったし、どうあがいてもわたしの運命は変わんないしね。それは泰孝も同じでしょ?」

「まあ、どうだろうね」

 不意に同意を求められ、返す言葉を見つけられずに濁すしかなかった。僕の場合とすみれの場合とでは、比較するのはおかしいだろう。言葉の端から友人関係に苦労しているのはわかるし、なにより両親を失っているのが大きかった。

 それに対し、僕はというと家族に恵まれているし、なにより記憶障害によってある意味不幸を簡単に忘れられる幸せを持っていると言えるだろう。

 結局、それ以上は会話もないまま、明かりをつけたままでと言い残してすみれは布団に入っていった。

 ――疲れていたのかな?

 横になったすみれから、すぐにかすかな寝息が聞こえてくる。あっけらかんとして明るい性格なのに、その背負ってしまった不幸を考えると、すみれの背中が小さく見えてしかたなかった。

「……、ママ」

 慣れない明るさに微睡んでいたところで、不意にすみれのかすれた声が聞こえてきた。なにごとかと半身起き上がったけど、それ以上は動くことも声をかけることもできなかった。

「……、パパ」

 一拍のすすり泣く声のあと、すみれが小さな肩をふるわせながら声をもらした。その壊れそうな背中からは、とても昼間のあっけらかんとした姿は想像できなかった。

「大丈夫、ここにいるよ」

 薄いタオルケットをかけてやりながら、嘘でもいいからと声をかける。なぜそんなことを言ったのかは、自分でもわからなかった。

 ただ、なんでもいいから声をかけないと、このまますみれが消えてしまいそうに思うくらい、なにかを背負ってしまったすみれの背中が儚く思えてしかたがなかった。
 微かな物音で目が覚めると、妙な違和感が襲ってきた。木造の天井や畳の匂い、さらには眩しい朝日が射し込む窓から見える山々の姿は強烈な違和感しかなかった。

 ――ここはどこだ?

 気持ちを落ち着かせながら部屋を見渡したところで、どうやら僕は旅館の一室にいることがわかった。隣に敷かれた布団に人気はなかったけど、どうやら誰かと泊まっていたらしい。

 ――兄貴と来たのかな?

 穏やかな日差しに目を細めつつ、手帳を開いていつもの日課を行ったところで冷や汗が一気にふきだしてきた。

 ――女の子と泊まっていた?

 手帳のワードを手がかりに、急いで記憶を掘り起こしていく。少しずつ蘇った記憶をつなぎ合わせた結果、ようやくすみれという少女とカンテラ祭に来たことを思い出した。

 ――すみれはどこだ?

 とりあえず状況をのみ込んだあと、姿のないすみれを探してみる。部屋の中を探した結果、見つかったのは『先に行ってるね』という書き置きと、白い封筒に入ったカンテラ祭のチケットだけだった。

 ――一人で行きたい理由でもあるのかな?

 急に一人になった寂しさを感じつつ、身支度をすませながらすみれのことを考えてみた。

 僕の記憶が正しければ、すみれはカンテラ祭に参加しようとした理由を語っていない。手帳を見ても、関連するワードがないから間違いないだろう。

 ならばと、スマホを手に投稿サイトにアクセスしてみる。僕のエッセイは更新が止まっているけど、炎上は収まるどころか勢いを増していた。その中で新たなすみれの投稿がないか調べてみたけど見つけることはできなかった。

 気持ちを切り替え、今度は明日晴のページにアクセスしてみる。すみれは、画像やショート動画を中心に作品を投稿していて、ちょっとした人気の作者になっていた。直近の作品を調べてみたけど、ヒントになるような手がかりは見つけられなかった。

 ――なにか不思議だな

 すみれの作品を見ながら、ふとこの世界のつながりの不思議さが胸にこみあがってくる。僕もすみれも、この世界では重大な問題を抱えて生きていながら、けど、投稿サイトでは全く別人のようにふるまっている。さらには、投稿サイトを通じて僕らは出会い、誰かが投稿したカンテラ祭の情報を頼りにここまで来ていた。

 だとしたら、僕らはどっちの世界を生きているのだろう。目の前のリアルな世界なのか、あるいはネットに広がる全く違う世界なのだろうか。

「朝からなに考えてんだろう」

 飛躍していく自分の思考がなぜかおかしくて、一人愚痴るように自虐する。結局、どっちの世界で生きているのかは大した問題ではなく、大事なのは、僕はこのリアルな世界にもネットの世界にも存在しえるということなのかもしれなかった。

 そう結論づけてチェックアウトすると、見事なほどの青空が僕を待ち受けていた。

 ――この空を見たら、リアルな世界も捨てたものではないかもしれないな

 そんなことを考えながら、急に一人になったことにかすかな不安と寂しさを感じつつ、カンテラ祭がある神社へと向かった。
 カンテラ祭が行われている神社は、一見したら朽ちかけた佇まいにも関わらず、観光客や参加者で賑わっていた。その様子にオカルトとしての町興しは成功しているなと感じながら受付でチケットを渡すと、神社には不釣り合いな作業着姿の係員が洞窟内でのルールの説明をしてくれた。

 といっても、ルールは大したものではなかった。洞窟内でのスマホの撮影は許可されているけど、明かりとして利用できるのは神社で用意されたこの鉄製の古いカンテラのみとのことだった。つまり、スマホを明かりの代わりにしたり、カンテラの中にあるロウソクの火が消えたら強制終了になるとのことで、あとは些末な注意事項しかなかった。

 ロウソクの火が消えるのにかかる時間は、およそ三十分。ただし、なんらかの理由によって途中で火が消えた場合、その時点で終了となるから注意が必要とのことだった。

 説明が終わり、砂利で舗装された小道を洞窟へ向かって歩いていく。他の参加者が見えないことを係員に尋ねると、午前の部は僕で最後らしく、既に他の参加者は挑戦中とのことだった。

 ――だとしたら、すみれは既に中にいるのか

 山肌の岩盤にぽっかりと空いた穴を見つめながら、速くなっていく鼓動に息をのむ。すみれがなにを思ってこの中をさまよっているのかはわからないけど、ただ、すみれの望むなにかが見つかってくれればと密かに願った。

 洞窟の入口に立ち、係員からロウソクの火をつけてもらう。普通より大き目のロウソクに仄かな明かりが灯るのを確認すると、僕は大きく深呼吸して洞窟に足を踏み入れた。

 ――想像していたより雰囲気があるな

 数メートル歩き、外の明りが消えてカンテラの明りのみになったところで、急に寒気が襲ってきた。洞窟の中は天井が見えないくらい広く、四方に枝分かれした迷路のような作りになっている。一応、このカンテラに位置情報がわかる装置がついているらしく、迷っても係員が探しに来るから問題はないらしい。

 そんな気休めを感じながら、あてもないごつごつした道を右に左にと進んでいく。カンテラが照らす淡いオレンジの光が浮かび上がらせるのは、どこまでも続く黒い岩壁だけだった。

 ――本当に会えるのだろうか?

 変化のない景色に、一抹の不安がよぎっていく。このカンテラ祭は、ある意味ゴールのない迷路をさまようようなものだ。そのため、目的を見失わないようにしなければいけないと、すみれが教えてくれたインフルエンサーがしつこくコメントしていた。

 ――でも、今さら会ったところでなにになる?

 変化のない景色に意識がのみ込まれそうになるなか、胸にわきあがるのは数々の自問自答だった。

 自分の胸の中に潜む二つの影のうち、どちらが大切な人だったのかを知りたくて参加したはずなのに、なぜか気持ちは当初の勢いを失うばかりだった。

 ――すみれはどうしてるんだろう?

 歩いてる間、気づくとすみれのことばかり考えていた。突然、記憶障害の僕の世界に現れたすみれは、なぜか遠い昔を思い出させる懐かしい瞳をしていた。その瞳で僕を見つめ語る姿に、僕は普通ではないなにか特別な感情をいつしか抱いていた。

 でもそれは、恋というには違うようなが気した。とはいえ、そうだとしてもネットの世界で大切な人を裏切った愚か者のレッテルを貼られているわけだから、この気持ちは決して許されないのかもしれない。

 でも、この瞬間の僕を支えているのは、いまだ形にならない大切な人の影ではなくすみれの存在だ。あてもなく、ただ昨日までの記憶を思い出すだけの毎日を過ごすしかない僕にとって、すみれの存在がいつしか救いになっていた。

 ――僕はこれからどうなるのだろう?

 押しつぶされそうな闇の圧迫感の中、ずっとふたをしていた不安が一気に膨れ上がってきた。

 ――僕は、このまま生きていけるのか?

 岩壁に背を預け、滲んだ汗を拭いながら底の見えない天井を見上げる。この洞窟は、まさにあてのない日々を過ごす僕の人生みたいだった。このまま、なにもない世界で右も左もわからないままさまよい続けるだけだとしたら、僕の人生になにか意味があるのだろうか。

 ――馬鹿、なにを考えているんだ

 不意に脳裏によぎる『遺書』のワード。かつての僕には、今のように塞ぎこんで人生を悲観した時が本当にあったのかもしれない。

 耳鳴りのする静寂と、押しつぶされそうになる暗闇の中、唯一の頼りはわずかなカンテラの明かりだけだ。僕の人生にも、このカンテラの明かりに代わるものがあるとしたら、それはなにでいつ見つかるのだろうか。

 わからない。ただわかるのは、このカンテラの明かりだけでは、到底人生の暗闇に立ち向かうことはできそうにないということだった。

 そんな虚しさを自嘲気味に笑ったときだった。

 なにげなく持ち上げたカンテラが、視界の隅になにかをとらえた。

 ――え? これって

 重い腰を上げて再度カンテラを高く持ち上げる。

 揺らめく炎が照らしたのは、すみれのバックに入っていた花柄の封筒だった。力なく伸ばした手で拾い上げると、封筒の表には、はっきりとした意志を示すかのような力強い文字で『遺書』と書かれていた。
 一気に脱力した体を地面におろし、震える手で封筒を開く。カンテラを持ち上げてその中身を確認すると、数枚の薄いピンクの用紙が折りたたまれて入っていた。

 ――遺書や死にたいというワードは、僕ではなくすみれのことだったのか?

 否応なくせり上がる心音に耳が塞がれる中、手帳にあったワードが頭の中をぐるぐると回り始めていく。あのワードは、なにかの表紙にすみれが口にしたのを拾っていたのだろう。確かにすみれの環境は良いとはいえないとしても、死を覚悟しているような雰囲気はなかったはず。

 でも、それはあくまでも僕の感覚でしかない。すみれは、本当は極めて重大な問題を抱えていたのかもしれない。現に、すみれはここに来る理由や目的を教えてくれなかった。仮に最悪な結末を考えていたとしたら、それを隠すのは当然のことだろう。

 急に直面する現実に、頭痛がひりひりと頭蓋に広がっていくのを感じた。強い刺激は避けるべきたけど、すみれの遺書には目を通さなければならないという強迫観念に似た思いが、わきあがる不安を消していった。

『わたしを忘れたパパへ

 わたしのパパは、高校の先生をしていました。けど、交通事故に遭ってママと記憶を失い、さらには記憶障害を患って生きていくことになりました。
 おかげで、わたしはパパとママを失い、親戚の家で暮らしていくことになりました。
 パパとママがいなくなってからのわたしの日常は、それまでの幸せな日々とは真反対の日常になりました。家にも学校にも居場所がなく、生きる意味も目的もないまま、ただ、漠然とした時間の中で溺れるように息をするのが精一杯でした。
 そんな生活にわたしはもう限界を感じ、生きていくことが嫌になりました。このまま、どこか遠くに行って消えてしまいたいと思います。
 最後に、記憶を失ってわたしを忘れてしまったパパへ伝えたいことがあります。
 パパ、言うことをきかなくてワガママなわたしを今まで優しく育ててくれてありがとね。こんな結果になってしまうけど、パパとママと過ごした日々は本当に幸せでした。パパが、大切な人の影が二人いるとエッセイに書いているのを見た時は、わたしやママのことを完全には忘れてなかったんだなって思えて嬉しかったよ。
 これから、パパはまだまだ病気と戦い続けることになると思います。その日々にはわたしの存在は邪魔だと思うので、パパが少しでも良くなることを祈りながらこのままお別れしたいと思います。

 PS パパと最後の旅行すごく楽しみにしています。ママに会えることを願って――
                   すみれ』

 ――え? これって、どういう……

 遺書を読み終えた瞬間、言葉にならない衝撃と息苦しさに、僕は叫びとも呻きともわからない声を上げた。

「おいおい、まってくれよ、ちょっとまってくれよ!」

 明かされた事実を前に、自分の不甲斐なさに全身が震えるほどの怒りを感じた。記憶を失ったとはいえ、最も忘れてはいけない存在を忘れてしまっていた事実に、呆然としながら地面を叩き続けた。

 ――すみれ

 漆黒に染まる天井を見上げながら、胸に宿る二つの影を思い浮かべてみる。それまで漠然としていた影がはっきりとした色を帯び始め、やがてすみれの姿になるのと同時に、もう一つの影がすみれと同じ瞳をした妻の姿に変わっていった。

「ああ、なんでこんな大切なことを忘れていたんだ?」

 力なく持ち上げたカンテラが照らす淡い光の空間に浮かぶ家族の姿。その屈託ない笑顔で見つめてくる二人に、嗚咽をもらして泣くしかなかった。

 ――いや、泣いてる場合じゃないだろ!

 打ちひしがれる絶望感にのみ込まれていく中、カンテラを手に急いで立ち上がった。すみれの遺書がここにあるということは、すみれは近くにいるはずだ。だとしたら、なんとしても最悪の結果は避ける必要があった。

 そう自分を奮い立たせた時だった。

 ――っ、落ち着け!

 突然、雷のように走った頭痛に、駆け出した足がもつれて前のめりに倒れそうになる。なんとか身を持ち直し、息切れするほど速くなった鼓動を落ち着けようとしたが、頭痛はおさまるどころか目眩まで引き起こし始めた。

『強い刺激は記憶障害を悪化させる――』

 不意に過ぎる医者の声。このまま進めば、記憶障害がどうなるかは絶望しかないだろう。だが、それでも構わなかった。今ここですみれを助けることができるのは、父親である僕だけだった。

 そのために犠牲がいるなら甘んじて受けるつもりだ。すでにすみれは多くの犠牲を払っているから、それに比べたら僕の犠牲など些末なことだった。

 そう覚悟を決め、震える足にムチを打って立ち上がる。

 タイムリミットを告げ始めたカンテラを手に、闇の中をすみれの背中を目指して走り出した。