朝起きて最初にするのは、ここがどこかを確認することだった。半開きの窓から吹き込む初夏の風を頬に受けながら、こざっぱりとした部屋を見渡してみる。昨日から変わりはないはずなのに、目が覚めたばかりの僕にとっては、まるで異世界で目覚める気分だった。

 ――さてと、まず確認することは

 暗く深い穴に落ちそうな気分をむりやり奮い立たせ、ベッドの脇に置いた手帳とスマホを確認する。半年前の交通事故で記憶障害を患って以来、僕の朝の始まりは、まずは昨日までの記憶を思い出すことから始まるといってよかった。

 まずは手帳をパラパラとめくり、記憶を掘り起こすキーワードを探っていく。ほとんどが殴り書きのメモばかりで、日常の些細なことが端的に切り取られている感じだった。

 そのワードから昨日までのことを思い出していくわけだけど、全てが思い出せるとは限らない。思い出せないものはどうやっても思い出せず、よくて七割、悪いときは半分も思い出せないこともあるから、僕の記憶の歴史は常に穴だらけだった。

 ワードを見返すこと数分、徐々に記憶が蘇ってくる。昨日は誰かと会っていたことまでは思い出したけど、誰となにを話したのかは結局わからなかった。気を取り直して他のワードを数日前まで遡ってみる。『遺書』、『死にたい』といった朝からダークになるワードが目につき、一気に気分が重くなっていく。どうやら数日前の僕は死にたいと思っていたようだ。なぜそう思ったのかを考えながら他のワードに目を通すと、気になるワードが唐突に目に飛び込んできた。

 ――炎上?

 いきなり脈略なくでてきたワードに、胸の奥が僅かに苦しくなっていく。関連しそうなワードを探してみると、『ネットのエッセイ』、『同じ高校の子』、『会う約束』といったワードが薄い線でひとくくりにされていた。

 ――そういえば

 それらのワードがつながった瞬間、ようやく数日前のことが記憶として蘇ってきた。確か、ネットの投稿サイトを利用してエッセイをいくつか投稿していて、その一つの投稿が炎上していたはずだ。

 そう思い出したところで、スマホを手にして投稿サイトへアクセスしてみる。主に記憶障害に関するネタを投稿していたけど、『大切な人が二人いた』というタイトルのエッセイだけが異常な閲覧数とコメント数になっていた。投稿した内容については、僕が書いたものに間違いはない。心の中に大切な人の影がどうしても二人いて、そのどちらが僕の大切な人なのかわからず途方に暮れて書いた記憶が微かに残っていたからだ。

 僕にとってはとても大切な問題だったけど、読者はそう思わなかったようで、コメントの大半が誹謗中傷に近いものばかりになっていた。浮気自慢だの、亡くなった人がかわいそうすぎるといったコメントが大半で、僕を擁護する内容はほぼ皆無だった。

 ただ、その中で唯一親身になってコメントをくれた人がいる。『明日晴』というネームで、たとえ大切な人が二人いたとしてもそれはそれで間違いではないとはっきり主張していた。

 その後、どういった経緯があったのかはわからないけど、どうやら僕はこの『明日晴』という子とこの数日間、会っていたらしい。それが『同じ学校の子』という意味らしく、さらには、名前は『牧山すみれ』ということになっていた。

 ようやく断片的に記憶が蘇ってきたけど、牧山すみれという人物のことは思い出せなかった。なのに、今日も会うことになっているようで、最悪なことにその約束の時間までほとんどないという状況だった。

 ――どうしようか

 とりあえず急いでベッドから降り、殺風景な部屋を無駄に徘徊しながら身支度を済ませる。基本的に僕の部屋には、過去の情報が一切ない。理由は僕の記憶障害によるもので、あまりに強い衝撃が記憶に蘇ると脳へのダメージが深刻になるらしい。そうなると、ワードを頼りに記憶を思い出すのも困難となるらしく、かろうじて生きていけるだけの記憶力さえも失いかねないというのが医者の説明だった。

 そういうわけだから、僕には事故を境とした過去の情報を与えられることはない。誰と過ごして、どんな人を大切な人と認識していたのかさえわからない。交通事故で失ったという情報も、同居する母親と兄を何度も問い詰めてようやく聞けた話で、どこでどんな事故だったかもわからないため、ネットで検索してもピンポイントで合致する情報を得ることはできなかった。

 おかげで、唯一わかるのは心の奥に刻まれたシルエットしかない。そのシルエットが二つあり、そのどちらからも無意識に胸が高鳴るような温かいなにかを感じるのだから、どちらが僕の本当に大切だった人なのか判断がつきようがなかった。

 白いシャツとハーフパンツに着替え、なにもない床に腰を下ろしながら考えてみる。

 一体どっちが本当に僕にとっての大切な人だったのだろうか。

 ひょっとしたら、コメントにあったように僕は浮気をしていて二人とも大切な人だと思っていたのだろうか。

 その答えを知りたい気持ちが、今になって強く蘇ってきた。どうやら僕は、この気持ちに毎日悩まされているみたいだ。だとしたら、その過程で『遺書』や『死にたい』とメモを残していたということになるのだろうか。

 いくら考えたところで結局答えはでないとわかり、この中途半端で厄介な記憶障害を忌々しく思い始めたところで、勝手知ったる我が家のごとく現れたのは、心の中にある影と一瞬重なりそうになった少女だった。