窓から吹き込む風が夏の到来を告げる中、僕はパソコンの画面から目を離して大きく伸びをした。
「今日の作業は順調ですか?」
病室のドアが開き、姿を現した看護師が声をかけてくる。彼女は半年近く僕の世話をしているらしいけど、まだ二十代の若い彼女に、僕は毎回はじめましてとなることもあって緊張しかなかった。
「順調かどうかはわからないかな。とりあえずは書いているけど、明日には忘れてしまうからね」
なんと答えるか一瞬考えた後、自分の持病を自虐して答える。十年前、僕は交通事故によって記憶障害となり、さらに医師の忠告を無視した結果、今日一日の記憶しか維持できなくなってしまった。
そのきっかけがなにかはわからない。昔は、メモを手がかりに記憶が蘇ったりしていたらしいけど、今となってはそれすらできなくなっていた。
ただ、重い記憶障害を抱える身になったとしても、今もエッセイを書くことだけは続けていた。そこになにか目的や理由はない。ただ、これだけは続けなければという気持ちがパソコンの前に向かわせている感じだった。
――大切な人の影、か
再びパソコンに目を向け、特別にディスクトップに保存されている記事に目を通す。かつての僕には、心の中に二人の人影がいたようだ。そのどちらが大切な人だったのかを知るためになにかをやろうとしたらしいけど、結局、どうなったかは残念ながら続きの記事がないためわからなかった。
さらに、不思議なことに今の僕には三人の人影が心の中にいる。なぜ一人増えているのかはわからない。人影の正体を知るすべがない以上理由を探ることはできないけど、いつも僕の中で温かな光を放っていることは間違いなかった。
「今日、すみれさんが面会に来るそうですね」
「え? すみれって誰?」
「すみれさんは、今書かれているエッセイのファンで、時々作業の手伝いに来られてるんですよ。ほら、毎回コメントされている人がいますよね?」
僕の問いに、なぜか一瞬ぎこちない表情を見せた看護師が、慌ててごまかすようにエッセイにコメントをくれたユーザーの一人を指さしながら説明してくる。確かに、昔からかかさずコメントを書いたり評価をしてくれるユーザーがいるけど、所詮はネットの中でのつながりでしかないはず。なのに、どういうわけかすみれという人だけは、時々僕に会いに来ているらしい。
その理由を考えながら窓際に身を寄せ、高くなった太陽に目を細めつつ、『明日晴』というすみれの存在に思いを馳せてみる。けど、考えたところで答えが出ないことはわかっていた。
――明日晴、か
すみれがネットで使う名前を心の中で呟いたところで、駐車場で車からおりてくる女性と目が合った。彼女は腕に小さな子供を抱いていて、なぜかその子の手をとって僕に手をふってきた。
「明日も晴れるといいな」
つられて彼女とその子供に手をふり返しながら、ふとそんなことを口にしたところで、胸の中にいる三つの人影が笑ったような気がした。
――了――
「今日の作業は順調ですか?」
病室のドアが開き、姿を現した看護師が声をかけてくる。彼女は半年近く僕の世話をしているらしいけど、まだ二十代の若い彼女に、僕は毎回はじめましてとなることもあって緊張しかなかった。
「順調かどうかはわからないかな。とりあえずは書いているけど、明日には忘れてしまうからね」
なんと答えるか一瞬考えた後、自分の持病を自虐して答える。十年前、僕は交通事故によって記憶障害となり、さらに医師の忠告を無視した結果、今日一日の記憶しか維持できなくなってしまった。
そのきっかけがなにかはわからない。昔は、メモを手がかりに記憶が蘇ったりしていたらしいけど、今となってはそれすらできなくなっていた。
ただ、重い記憶障害を抱える身になったとしても、今もエッセイを書くことだけは続けていた。そこになにか目的や理由はない。ただ、これだけは続けなければという気持ちがパソコンの前に向かわせている感じだった。
――大切な人の影、か
再びパソコンに目を向け、特別にディスクトップに保存されている記事に目を通す。かつての僕には、心の中に二人の人影がいたようだ。そのどちらが大切な人だったのかを知るためになにかをやろうとしたらしいけど、結局、どうなったかは残念ながら続きの記事がないためわからなかった。
さらに、不思議なことに今の僕には三人の人影が心の中にいる。なぜ一人増えているのかはわからない。人影の正体を知るすべがない以上理由を探ることはできないけど、いつも僕の中で温かな光を放っていることは間違いなかった。
「今日、すみれさんが面会に来るそうですね」
「え? すみれって誰?」
「すみれさんは、今書かれているエッセイのファンで、時々作業の手伝いに来られてるんですよ。ほら、毎回コメントされている人がいますよね?」
僕の問いに、なぜか一瞬ぎこちない表情を見せた看護師が、慌ててごまかすようにエッセイにコメントをくれたユーザーの一人を指さしながら説明してくる。確かに、昔からかかさずコメントを書いたり評価をしてくれるユーザーがいるけど、所詮はネットの中でのつながりでしかないはず。なのに、どういうわけかすみれという人だけは、時々僕に会いに来ているらしい。
その理由を考えながら窓際に身を寄せ、高くなった太陽に目を細めつつ、『明日晴』というすみれの存在に思いを馳せてみる。けど、考えたところで答えが出ないことはわかっていた。
――明日晴、か
すみれがネットで使う名前を心の中で呟いたところで、駐車場で車からおりてくる女性と目が合った。彼女は腕に小さな子供を抱いていて、なぜかその子の手をとって僕に手をふってきた。
「明日も晴れるといいな」
つられて彼女とその子供に手をふり返しながら、ふとそんなことを口にしたところで、胸の中にいる三つの人影が笑ったような気がした。
――了――