僕らの手はずっと繋がれていた。
 電車の中で僕らは笹山先生の話で盛り上がった。
「まさか将哉の指導医が笹山先生だったなんて思ってもいなかった」
「ははは、僕も笹山先生から歩実香の事訊いてびっくりしたよ。仲良かったんだったんだってね」
「うん、ほんと笹山先生には助けてもらったなぁ。それにいろんな事教えてもらったし、あの先生がいたから何とかやっていけたのかもしれないわ」
「でもほんとにめちゃ怖いよ」
「そうね、仕事に対しては本当に厳しかった。私も結構怒られたくちかなぁ。でも、多分ね将哉ほどじゃないと思うんだ」
「おいおい、それ、どうして言えるんだ」
「だってさぁ、病院で笹山先生が電話してた時言ってたじゃない《《脅えるな》》ってね。将哉相当仕込まれてんだなぁって思ったから」
「まいったなぁ」
 こうして話をしていると、今までの歩実香と何らかわりがない。
 でも歩実香は僕に何かを告げに来ていた様にも思える。
 秋田で一体何があったんだと言うんだ。
 確かにお互い連絡する回数もそしてすれ違いも多くなった。遠距離と言う事はこういう事なのかもしれない。そんな想いが無いと言ったらそれは嘘になるだろう。
 毎日の業務に翻弄され、毎日新しい事の経験の連続。
 実際余裕と言う言葉は存在しえなかったかもしれない。
 それでも時間を作る気になればいくらでもつくれたはずだ。初期研修、《《レジデント》》とも呼ばれ昔は寝る間もなきくらい振り回されれて一人前の医者に育て上げられる。体育会系の世界ともいえるこの2年間。しかし、今はその内容も見直されしっかりとしたカリキュラムと労働条件下の元研修が行われている。
 最も今いる外科の笹山先生の下では毎日が戦場の様だ。

 彼女は、医者は戦地にいる傭兵の様なものだ。
 特に外科は自分の技量をどこまでのしあげられるかが生命線だ

 そう僕に話したことがある。
 実際、彼女のその姿は毎日自分と戦っているような感じを受けている。
 だからと言って歩実香との連絡を……いや多分、歩実香の事を気遣う事が出来なかったわけではなかったはずだ。

 東京駅、東北新幹線のホーム。
 白地に赤のラインのこまち号はすでにホームに入っていた。
 盛岡で切り離され、高架軌道を降り一路秋田に向かう新幹線。
 僕が大曲の花火を見に行った帰りに秋田から乗った新幹線。
 今度は僕が歩実香を秋田へ見送る側となった。
「今日は本当にありがとう。ごめんね、いつもいきなりで」
「そんな事ないさ、歩実香とあえて嬉しかったよ」
「うん、私も………」
 ホームに発車のアナウンスが流れる。
「もう乗らないと………」
「うん、歩実香」
「何?」
 一瞬胸の奥がいたい様に詰まった。それでも
「歩実香、愛してる。もう少し、もう少しの間待っていてくれ」
「うん」下をうつむき、歩実香は頷いた。
 その時、このまま行かせていいのか? 胸の奥底から湧き上がる歩実香への想い。
「歩実香……」

 まもなくドアが閉まります……

 歩実香、歩実香を行かせてはいけないと言う想いが……
 今ならまだ……
 静かに新幹線のドアは閉まった
 ゆっくりとホームから流れる様に走り出す車両
 離れていく、また離れていく
 その車両を眺めながら僕はようやく気が付いた。

 僕は、歩実香を想う気持ちの苦しさから逃げていたことを。
 離れている時間が長くなればなるほど、苦しみは増す。
 その苦しみを僕は自分のためだけの事に向け、その苦しみから逃れようとしていた事に。
 もしかしたら……歩実香も
 歩実香の気持ちを僕は何も考えていなかったんだと
 それに気が付くことが遅すぎた。
 もっと早く気が付けば……いやまた僕は自分から逃げ出していた事を。


 新幹線は東京駅のホームを離れた。
 言えなかった。
 そしてもし言えなくても、それを私は手紙に書いていた。
 それさえも将哉に渡す事が出来なかった。
 将哉は何かを感じ取っていた様だった。でも、本当の今の私の心の中までは知ることは出来ない。
 でも、もしかしたら……これでよかったのかもしれない。
 鞄から将哉に渡すはずだった手紙を眺め、そしてまた鞄の奥に仕舞い込んだ。
 流れる窓の光が次第に暗闇に変わり始める。
 陽の光が注いでいた東京。今日、晴れていてよかった。
 二人で少しの時間だったけど、一緒にいられて嬉しかった。
 その想いをしっかりと持ち、私は秋田へと戻った。

 身を刺すような冷たい風が私を出迎える。
 この現実を私は受け止めないといけない。今日将哉と逢い、私の心は将哉にある事を確かめた。でも、将哉はこんなにも荒れ果ててしまった私を本当に受け入れてくれるのか。
 今まで起きた私の事を全て話す、伝えるつもりだった………

 夜遅くようやく家に着いた
「ただいま」
「おかえりなさい。将哉さんには逢えたの?」
「うん、指導医の先生が気を使って将哉に時間を作ってもらえたから」
「そう、良かったわね」
「うん、ごめん疲れたから………」
 部屋に入り将哉からのメッセージがスマホに来ているのに気づく。

 今日、歩実香にあえて本当に嬉しかった。
 歩実香、もし何か悩んでいることがあるのなら、なんでも打ち明けてほしい。
 歩実香と別れた後僕は気が付いた。
 また君から逃げていたんだと。
 本当に済まない。やっぱり僕には歩実香が必要なようだ。

 今度は僕がまた秋田に行くよ


「馬鹿」
 泣きながら一言つぶやき
「馬鹿なんだから、そんなんじゃないわよ。ただ将哉に逢いたかっただけ、ただせっかく買ったコートを届けたかっただけ。
 何センチになってんの
 笹山先生にしっかり絞られて早く一人前の医者になってよ

 将哉が秋田に来るの期待しないで待っている」

 また、意地を張る。
 それでも将哉が何かに気が付いてくれた事、それだけでも私の心は少し楽になった。

 元に戻ろう。初めの頃の気持ちをもう一度思い出そう。
 私のいけない所、弱い所

「私は自分に蓋をして意地を張る」

 それはただ自分の自己満足に過ぎていなかったんだ。
 もっと素直に、もっと寄り添いたい人の元に私は心を向けるべきだった。
 今まで起きた事
 私の心の隙間がそうさせた。

 前を向き歩き出す勇気と想いが私の心に芽生えた新芽から聞こえてくる。

 またちゃんと将哉に向き合えるように


 12月、秋田は冬の最中にある。
 今年は雪が多い年の様だ。例年秋田市ではあまり雪は積もらないが今年は違った。
 一晩に車が埋もれるほど積もる雪の日
 通勤時間もかかるようになる。
「ほんと今年は雪多いね」
 秋ちゃんが疲れた様に言う。
「大曲の方はもっと多いんでしょ」
「ふぅ、言わないでよ。もう秋田までの通勤が難しく感じているんだから。旦那からは近くの病院に移れってうるさいし」
「もしかして考えてるの?」
「んー、本当はね、近くの病院で空きがないか探してはいるんだけどね」
「そっかぁ、もし秋ちゃんがこの病院辞めちゃったら寂しくなるなぁ」
「そんなこと言わないでよ。大曲なんて車で行ける距離よ。会おうと思えばいつでも会えるじゃない」
「そうだけど………」
「悲しい顔すんじゃないの。今すぐって訳じゃないんだから……そ、それにね。旦那が……そろそろ子供ほしいって、言ってくれてる」
「子供………」
「うん、 私たちずっと子供作るの我慢していたんだ。ほら、私達反対押し切って早くに結婚したじゃない。生活の基盤もしっかりしないまま子供産んで『ほらみれ』何て言われたくなかったんだ。それに生まれてきた子供に不憫な思いもさせたくなかったし。ようやく旦那の仕事も安定してきたし、そろそろね。ほらもう年もいい年だし」
「子供かァ……年の事言われると私も当てはまるなぁ」
「ああ、ごめん、ごめん。でもさぁ歩実香、将哉さんの研修後1年ちょっとじゃない。そうすれば彼も落ち着くだろうし、あなたも将哉さんに就いていけるんじゃない」
「そうね………」
「後少しの辛抱だよ歩実香」

 後少しの辛抱………

 その数日後私は真壁信二から連絡を受け久しぶりに食事の誘いを受けた。
 彼とはしばらく距離を置き、そしてあの時の彼の言葉に対し私ははっきりとした返事を返していない。
 ハッキリと私の気持ちを彼真壁信二に告げなければいけない。

「本当に久しぶりだね。君とこうしてまた食事が出来るなんて。本当に体調もいい方向に向いてくれよかったよ」
 初めて彼と食事を共にしたあのホテルのレストラン。
 クリスマスも近くなったこともあるんだろう。今日は室内にあるグランドピアノが静かな曲を奏でてくれている。
「ありがとうございます。本当に先生のおかげですね」
「そんな事は無いさ、君が前を向いて立ち直ってくれたんだ。君の力さ」
 久しぶりに過ごした彼との時間。不思議と前の様に何かに寄り添うような気持が今はしない。
「今の君の方が僕は好きだ。誤解しないでほしい、今の君は前に進もうと光を戻している。あの時の君は僕が必要だったんだろう………も、もしかしたら僕じゃなくても良かったのかもしれないが。でも僕はあの時の君へ………」
 彼は話を途中でさえぎり、ボケットから小さな個箱を取り出し、私へ………

「僕と………結婚を前提に付き合ってほしい」

 彼のその真剣なまなざしが私を見つめていた。