数日後、壱子が大学の講義に出ているとポケットの中でスマホが震えた。この振動はあやエスの通知だ。
送り主が予想通りでないことを祈りつつ、今は講義に耳を傾けノートを取る。いくら家業が陰陽師であろうと今の壱子は学生だ。学業を疎かにしたくはない。これは壱子の意思でもあるし、彼女の自室に飾ってある写真の主──祖父の意思でもある。
──家業を言い訳にして学びを放り出すなら陰陽師になどなれぬ。知識は武器庫、知恵は羅針盤だ。その脳味噌に蓄えたモノは術よりも遥かにお前を守る。
温和な祖父が唯一厳しい顔で繰り返したこの教えは、壱子の背骨よりも彼女を支える柱となっている。
ゆえに彼女は周りから「お堅い」と揶揄されようとこのスタンスを変えるつもりはなかった。
講義が終わって初めて壱子はスマホを見る。案の定クスキからのメッセージだった。
『例の件について提案です』
喋る時は止めるまもなく喋るくせに文字になると文を区切るのね、と半目になりながらスクロールすれば、待ち合せ場所は壱子も知っている近所のカフェだった。テラス席の眺めが評判だが、壱子は雨宿りのために一度入っただけだ。そして今日、天気の崩れはなさそうだ──とまだ見ぬ眺望と美味しいカフェラテに思いを馳せていた壱子だが、続いて受信していた報酬についてのくだりに幻想が吹き飛んだ。
依頼料、成功報酬共に文字通り目が飛び出る金額である。うっかりゼロを多くタップしてしまったと言われるほうが納得できる。しかしあの男のことだ。ミスではないだろうし、もし万が一ミスタップだったとしても「一度提示したものだから」と譲らなさそうだ。交渉の余地はあると言っていたが、減額を交渉するというのも何か違う気がする。
たった一度の出会い、ましてあの短時間でのやりとりなのだが何故だか確信が持てた。
これほどの金額を提示するからには相当難易度の高い──命の危険も伴うあやかしなのだろう。
金額に浮かれるよりもそちらの方に思い至って、壱子はげんなりした。
「やあ、ごきげんよう!」
「……ごきげんよう」
お嬢様学校の挨拶か、と心の中だけで突っ込んだ壱子は嫌々席に着いた。
評判のカフェ、しかも興味のあったテラス席。
おしゃれなウッドデッキから見渡す街並みは爽やかな青空と時折迷い込む風に乗った花びらに演出されて、まさしく「映え」の塊だ。
こんな状況でなければ奮発して3Dラテアートでも注文して、ハッシュタグの装飾とともに写真投稿アプリに連投していただろう。
しかし。まさに「こんな状況」なのだ。
テーブルの向かいにはやはり着流しを纏った胡散臭い男──クスキ。
しかも彼が注文したのはちょうど今、壱子が思い描いていた3Dラテアート。しかも描かれているのはこのカフェのマスコット、仔ブタのぷぴちゃんなのだ。
ぽてっとした丸いフォルムにも関わらず、短い足を懸命に組んでコーヒーブレイクを楽しむ背伸びしたキャラが巷で人気なのである。
そんなぷぴちゃんが──よりによって、男の前にいる。
「これ、可愛いよね。ブヒちゃん」
「ぷぴちゃん、です」
クスキはこともあろうに、仔ブタにとっては屈辱的な呼び名で間違える蛮行を犯した。壱子の中で退治すべきリストに晴れて仲間入りである。
打ち合わせ内容以外の会話をしたくはなかったが、ぷぴちゃんの名誉には代えられなかった。
壱子は居合わせた店員によそ行き用の顔と声でミルクティーを注文する。今日は3Dラテアート大会で優勝した名物バリスタがシフトに入っているといくら勧められようが、同じものを頼む気はなかった。
そんな壱子の葛藤など露知らず、店員が離れたタイミングでクスキはテーブルに折り畳まれた懐紙を滑らせた。
「これは返すよ」
開けば見慣れた桜色だ。壱子の式神である。
結局、壱子はこれを通じて探りを入れなかった。術の跳ね返りを懸念したことも理由だが、他人のプライベートをこうした手段で覗き見ることに抵抗があったのだ。
いくら相手が開けっぴろげとはいえ、何でもかんでも暴いていい理由にはならない。
陰陽師という人智を超えた力を得ているからこそ、力の使い所については自らを律しておくべきだと彼女は心得ている。
「きみは誠実だね。あれほどメリットを提示したのにこれを使おうとしなかった。高潔な魂には敬意を評します」
「……そんな。貴方の式神こそ、結局本当にただの護衛だったじゃないですか」
へらへらとした挨拶から急に真摯な態度で話されてペースが狂う。こう持ち上げられては壱子も悪し様には罵れない。
「やはり俺の目に狂いはなかった。早速で悪いけどこのまま退治に行こうか」
「はい!?」
「あっもちろんミルクティーを飲み終わってからで結構だよ。俺もブヒちゃんを味わいたいし。それに契約内容の確認も済ませてしまおうね」
もう訂正する気は起きなかった。
「──よし。それではここにサインを」
挑みきれないペン先が虚空を彷徨う。筆ならば墨が滴り落ちているところだ。
ちらりと無言の上目遣いで彼を見遣れば、やはり無言で「怖気付いたのかな?」と挑発してくる。簡単に煽られるような単純な性格はしていないと自負する壱子だったが──どうやらクスキの前では調子が狂うらしい。
予想通り、提示された額面から減額されることはなかった。
「きみの実力とそれを培う努力と才能を、きみ自身が蔑ろにしてはならない」と宣う口調は言葉の割に尊大で、一歩も引く気はなかった。
契約書を交わすという行為自体に仰々しさが否めなかったのだが、「自らの危険も顧みずあやかしに立ち向かうことを強いるのだから口約束は無効だ」とあっさり切って捨てられた。
このやりとりや身にまとうものからも並の家のものではないと察していたが──探りを入れたり当て推量で恥をかく前に、あっさり男の素性は知れた。
もちろん互いに交わした契約書のサインからである。
「本名、ですよね」
はたと気づいた壱子が一度決意したペン先を上げた。
今までSNSのアカウント名でやりとりしてきたが、これはその延長ではあるまい。
また逡巡材料を見つけてしまった壱子が戸惑っていると、彼はひょいと書面を取り上げる。
さらさらと記してから戻され、名を見て壱子は一瞬呼吸を止めた。
薬木
枝で引っ掻いたような細い文字で記された二文字は、眼前の彼本人よりも遥かに緊張感のある鋭さで壱子を威嚇している。
着流しを纏ってなお柔和な面差しからは想像がつかない張り詰めた字に、思わず壱子は彼を見つめた。
「ん? ああ読み方わからない? アカウント名と同じ、くすきだよ」
あやエスのアカウント名は匿名を推奨している。このSNS全盛時代にこんなネットリテラシーで彼はこの先やっていけるのか──場違いにも壱子は一抹の不安を覚えた。
しかし、壱子とて自分の本名をもじったアカウント名である。自分と似たり寄ったりの思考だったと気付かされて無性にいたたまれなさを感じるが、それを振り切るように自分もサインを終えて彼に──クスキに突き出した。
「壱子さん、ね。成程。だからウノなのか。はは、俺たち似たところがあるのかもね」
あっさり看破された挙句にMucho gusto.とスペイン語の挨拶までされてはお手上げである。
折り良くサーブされたミルクティーをひと口啜り、もう一度クスキを見やる。
透けそうな肌と掴みどころのないたたずまい。彼の周りだけ時間の流れがゆっくりと凝っているようだ。
今までの態度からも相当の場数を踏んでいることは確実だし、味方につければ神凪家のあやかし退治に有利かもしれぬ、とまで巡らせた思考は彼の手元を見て哀れ飛び散った。
真っ先にコーヒースプーンで潰されたのは、ぷぴちゃんの愛嬌ある糸目だった。
口にする順番にマナーなどない。写真を撮ってから食べる決まりも無い。そんなことは百も承知である。
だが、だが──よりによって顔からいかなくてもいいだろう!
壱子は熱いミルクティーが煮立ちそうな怒りの炎をふつふつと滾らせていた。
「ここ──ですか」
「ああ」
クスキに案内されてたどり着いたのは、壱子も知っているとある神社だった。
訪れたことはないが、どことなく馴染みのある風景である。神社の造りは似たり寄ったりだから、過去の記憶と混同しているのかもしれないと壱子は納得した。
改めて見ればきちんと手入れがされており、打ち捨てられた和御魂が苦しみ荒御魂が呻く様子もない。
石造りの鳥居から真正面に見える拝殿はさほど大きくはない。おそらく参拝客で溢れかえるのは初詣くらいで、あとはお宮参りがちらほらといった具合だ。この地域の氏神を祀った神社なのだろう。
地域密着型SNS、あやエスの陰陽師として活動する壱子はこの神社にどこか同僚に抱くのと似たような親近感を覚える。畏れ多いことだし口には出さないけれど。
鳥居をくぐらず敷地の外から全体を眺める。御神木らしき大きな楠はとにかく大きい。そこがこの神社を「こじんまり」という形容からはみ出させる所以なのだと壱子は感じ取った。真下から見上げれば青空など覆い隠されそうに鬱蒼と茂った葉は確かに影を作るものの、陽光を遮り魔を呼ぶようには見えない。
ここはあやかしが棲みつくべき場所ではない。それが壱子の直感だった。
「あの、ここのどこにあやかしが──」
「行けばわかる」
壱子の問いを遮ってクスキはすたすたと歩き出す。轟然と顔を上げ参道の中央を突っ切る背中にのっぴきならないものを感じて、壱子は後に続いた。鳥居の前で礼をしている間にも彼との距離は開いていく。
左右に控える狛犬をちらりと見上げる。特におかしなところは無い。
石造りの一の鳥居、二の鳥居と進むと石畳の参道の脇はむき出しの土ではなく玉砂利が敷き詰められている。
なんとはなしに見て壱子は唇を引き結んだ。
「玉砂利が──黒い?」
清めの白で御祭神へと導く道筋が、漆黒に染められている。
黒い玉砂利自体は見たことがある。艶やかな黒は優美な佇まいで品格を漂わせて、庭造りに新たな奥行を与える効果を持つ。
しかしこの黒は──歪な、薄ぼんやりした影の色だった。
壱子がそれを認識した途端に、頭上の楠がざわざわと音を立て始める。否、最初から聞こえていたものを、壱子が認識していなかかっただけなのか。
すがすがしい空気にそよぐ木立ではない。
これは邪なるモノの兆しに怯える木霊の鳴き声だ。
木のウロが嘆く口のごとく開く。
ついに三の鳥居まで至ったその時、本来御神木として畏敬されるべきその芳香が、鼻の曲がるような饐えた悪臭として撒き散らされた。
「──なにこれ!」
「だからきみに依頼したんだ!」
立派な葉を茂らせた枝が苦悶に耐え兼ねたといったように震える。更に濃くなった匂いに壱子はハンカチを取り出して鼻と口を覆った。
「この匂い、なに? 血?」
「いや、血よりも深く、酷く、残酷な──そうだな、喩えるなら断末魔という絵の具を幾重にも塗り重ねて描いた無残なキャンバスの残骸だ」
この状況には詩的過ぎる喩えを用いたクスキだが優雅なのは口調だけで、袖口で口元を覆っている彼の顔は今や紙のように真っ白だ。
陰陽五行の理に従うならば木の怪には金の術だ。壱子は札を取り出し構える。するとあの匂いが濃くなり膝をついた。
「っぐ」
すかさず肩に回されたのは男の腕。支えられるように立たされる。
壱子は一度大きく息をつく。しかし悪臭という瘴気にあてられた腕はかたかたと震えて、思うように上がらない。
それでもなんとか持ち直したが、指先だけが異様に冷たい。冷や汗が噴き出る。
「──“木の怪”」
詠唱と共に楠に近づき始める。
木のウロが更に歪み出したのは壱子の気の所為ではないだろう。
「“布都と刎ねられ朽ち果てよ”──」
札に紋様が浮き出ていく。それと同時に瘴気が最期の力を振り絞っていっそう濃さを増した。壱子は勢いのままハンカチを取り去って楠に駆け寄った。
「“仇なす香とも”──っ!?」
朗々とした唄声が断ち切られる。
壱子は──後ろから突き飛ばされた。
眼前のウロは彼女をすっかり呑み込まんと醜く口を開けている。
世界が揺らぐスピードがひどくゆっくりだ。
傷ついてささくれだっている樹皮の質感や、敷き詰めてある玉砂利の靄までもがくっきりと、不必要な程に壱子の目に焼き付けられる。
つい最近もこうして転びかけたことがある。
そうだ。その原因も──
「ごめんね」
クスキだ。
柔らかく、人あたりのいい声が無機質に落ちてくる。
前回のように後ろから助け起こされなかった壱子の体は、ウロに頭から呑み込まれた。
穏やかで実直な優しい祖父。
声を荒らげることなど殆どなかった彼が激情をあらわにしたあの時──壱子はまだほんの子どもだった。
「そんなあべこべな約定は反故だ。誰が可愛い孫娘を×××に遣るものか!!」
「ふむ。まあ一理ある。貴殿の立場にしてみればそういうものか」
「立ち去れ」
「承知した。だが最後にひと目──」
「ならぬ」
「はは。爺様の護りは鉄壁だ。まあ今でなくとも次の×××がある。われてもすえに、とはよく言ったものだね」
「去ね!」
そうだ。
決して部屋から出てはならぬときつく言いつけられ、おとなしく絵を描いていたあの日。壱子は激昂した祖父の声を初めて聞いた。何が起きたのかと恐ろしさのあまり部屋を飛び出し、祖父を呼びながら廊下を駆けて──客間の襖を思い切り引いたのだ。
「おや、まだいとけない童じゃないか」
ここで出会うも奇しき運命の戯れか──
そう呟く声の主はあまりに人間離れした×××をしていて、壱子は腰を抜かして泣き喚いた。
祖父は時遅しと判っていつつも客人の視線から遮らんと掻くように壱子を抱き上げたが、そこにいつもの優しい笑顔はなく、憤怒に波打った皺に刻まれた面相はこの世のものとは思えず、それが更に壱子を怖がらせた。
自分をひと目見て泣き出したというのに客人はまったく気分を害した様子も見せずに、穏やかな声音のまま壱子に語りかけた。
「童、この爺様の言うことを良く聞いて育つのだよ。いずれお前は──」
『卯野さんの記事“【緊急用】簡易結界作成法指南”が40回共有されました』
目覚めた壱子に降ってきたのは数秒遅れて彼女を追ってきたスマホだった。
落下したばかりで上も下もわからぬところに追撃されたため、うまくキャッチすることもできず、その役目は顔面が代わって引き受けた。
「いったあ……」
瘴気を撒き散らす木のウロに落ちるという非現実的な超常現象より、はるかに現実的かつ直接的な衝撃と痛みに涙目になりつつ画面を見れば、以前壱子が投稿していた記事についての通知だった。素人向けの簡易的な結界陣の張り方だが好評なようである。
それだけを確認してスマホをポケットにしまう。他の荷物は見当たらなかった。
真っ暗闇──とまではいかないまでも、薄暗がりである。
どこが地面で壁なのか区別はつかないが、ごつごつとした隆起が感じ取れる。本物の樹木らしさは伝わってきた。
明かりを取りたいところだが、火を焚く訳にもいかない。恐る恐る側面の枝らしきものに触れながら立ち上がった。
左足を軸にして、右足の爪先と踵で交互にとんとんと地面を打つ。そのまま右足をぺたりとつけたまま摺り足で進む。引く。軸の真後ろにつける。
フラットシューズの靴底越しに脈打つものを感じ取る。
土踏まずに感じたものをそのまま上へ──膝へ、腰へ、背骨を伝って頸、脳天へ──自然と壱子は真上を向いて瞳を閉じる。舞い降りる天啓があるならば逃すまいと手を伸ばす。
ぴんと伸びたその指先が、中指の爪先が、空を掻く。
ひとひらの葉が、彼女の爪を彩った。
同時にポケットの中のスマホが震える。
「すごい。電波通じるのね」
感情の乗らない感嘆と共に画面を開く。薄暗がりでは画面の光が眩しすぎて目を細めた。
『クスキさんからプライベートメッセージが届いています』
親指を滑らせてプッシュ通知からあやエスを開く。新着メッセージの一行目だけが瞬いた。
『ごめんよ』
何についての?
その疑問に応えるためなのか、それとも単に楽になりたいためなのか、次々と通知が重なっていく。
『痛かったかい』
『怪我をしていなければいいが』
『こんなつもりではなかった』
『きみを失いたくなくて』
降りしきるメッセージの雨に打たれながら壱子は返信ウィンドウを開く。すると先程指先に落ちてきた葉を追って、ひとひら、またひとひらと葉が降ってきたのだ。
画面を覆い隠さんばかりに舞うそれを腕で払い、壱子はキーボードに指を滑らせる。
『貴方の望みは?』
既読マークが表示される。
葉もメッセージもぴたりと止まった。
画面を見つめたまま、呼吸を平らかにすることだけを考える。
深呼吸三回分。
待ち望んだ通知に震えたスマホのせいで凪いだ呼吸は一瞬で浅くなった。
『助けておくれ』
返信ウィンドウを開く。文字ではなくスタンプ欄を選択する。
壱子の目に飛び込んできたのはぷぴちゃんが短い両腕で〇を描くスタンプだった。
「……依頼人が何者であろうと、引き受けたからには誠実に対応する。それがあやエスに登録している陰陽師に──いいえ、私が自分に課した掟です」
──だからこそ、依頼人には嘘をつかないで貰いたい。
決然とした面差しで壱子が見据える先に、クスキが出会った時と同じく懐手に構えて姿勢良く立っていた。
「嘘とは何を指すのかな。意図して伝えていないことはあるけれど、それは依頼内容に直接関係のないことだ。ああそれとも」
懐から手を出すと、彼は自分の頬を撫でる。何かを剥ぐ様に爪を立てればペキリと乾いた音がした。
「人間のふりをしていたこと?」
シミも傷もない、羨むほどになめらかな肌。
それが爪と共に剥がれ落ちていくのを壱子は黙って見つめていた。
ウロに落とされる直前に焼き付いた楠の傷ついた樹皮。
肌の下、剥き出しになったそれは遠い記憶の中で壱子を泣かせた、ささくれだって黒ずんだ、悪臭を放つ膿んだ皮膚だ。
数ヶ月前、病の床に就いた祖父から聞かされた懺悔が鼓膜の奥から蘇る。
──お前はまっすぐな娘だ。優しゅうて聡明な、自慢の孫だ。だからこそ言っておく。あやかし相手に人間の常識は通用せん。人間同士なら恩を仇で返すも割り切れる。祓ったあやかしに呪われるんも道理。けれどあやかしがお前に恩を感じてしもうたら──ああ、どうして人の倫に反したことを最後に教えにゃならんのか……
「祖父は私の手本です。祖父の願いがあやエス設立のきっかけになったことは界隈では知られた話です。助けを求める者と力になりたい者。双方の架け橋こそがあやエスの理念なのです」
「……ああ、そうだね。謹厳実直を絵に描いたような人間だった。彼に失望したのはたった二回。甘味が好きだと聞いて、鯛焼きを買っていったらカスタードは邪道だと突き返されたこと。そして助けてもらった礼に掌中の珠を娶ってやろうとしたら烈火のごとく怒られたことだね」
「その掌中の珠が私だと?」
「そうさ。まあ童のうちに親元から引き離すのは確かに酷だとは思い直したけれどね。でも、あの呪いを抑え込んでくれた礼として孫娘に永遠の命と真心を捧げるんだもの。もっと感謝されても良いはずなんだけど」
おかしいよねえ、とクスキが首を傾げると振動で皮膚がぱりぱりと崩れ落ちていく。顕わになる爛れた中身に壱子はかすかに眉をひそめた。
「やはり気分が悪いかな? あの時のきみは大泣きしたものね。だから丁寧に隠してみたんだ。ほら、今の時代はおのこも化粧に余念が無いと言うじゃないか」
ふふ、と照れくさそうに微笑むクスキの瞳は輝く飴色ではなく、玉砂利と同じく影色だった。
「色の白いは七難隠す……確かに美しく装うだけで人間はたやすく俺を受け入れたね。あの茶屋できみを待っている時なんて、何人の女が俺に秋波を送ってきたことか。でもきみはそうじゃなかった。あの仔豚の泡の方が大事だったとは……盲点だったな」
ふむ、と顎に人さし指を当てて考えを巡らせるクスキに壱子は思い切って距離を詰めた。
「瘴気の原因は何ですか」
「俺だよ。クスキ、クスノキ、楠さ」
天気の話でもするように軽く返されて面食らう。そんな反応も織り込み済みなのか、崩れる頬で微笑むと、クスキは補足とばかりにまたしても言葉を続けた。
「あの楠がまじないに囚われたのはいつだったか……ともかく、忘れるくらい遥か昔さ。御神木とされる樹木ゆえ、祈りも呪いも溜め込んできた。それが原因かはわからないけれど、枝の一本一本、葉のひとひらにまでそれが満ち満ちた時、溢れたものが社を覆い尽くした。清めの白い玉砂利もどす黒く染まった」
それを聞いて壱子はあのぼやけた影色の玉砂利を思い出す。あれはどす黒いとは言いにくい色だった。
しかし玉砂利の「たま」は御魂に通じると聞く。それが影響を受けたということは祀られていた神自身も推して知るべしだ。
「井戸は涸れ鳥居は朽ち、社は崩れる寸前だ。俺の魂はすり減って荒ぶることもできず虫の息。そんな時ね、君のお祖父さんが救ってくれたのさ。おかげで玉砂利の色も薄くなった」
壱子の脳裏に古いスクラップブックの写真が過ぎる。あれは祖父が自らの業績をまとめたものだったか。
壱子がこの神社に感じていた既視感は、他の神社との記憶の混同ではなかったようだ。
「命の恩人に礼をしようときみのお家にお邪魔したんだ。郷に入っては郷に従えと言うだろう? だから人間の形を取ったし、手土産まで用意した。童の壱子に泣かれたのは悲しかったけど、初めて人間のふりをしたからどこか失敗していたんだろうと納得した。だけど、未だにわからないんだ」
そこで言葉を切ったクスキは目を細めて壱子に近づき見下ろした。
影色の瞳に最早光は無い。ぽかりと空いた眼窩はただあの日の童を見つめている。
「零落したトは言え、神が娶ろウト言うのに、何故素直二孫娘を差し出さナカったんだろウね?」
ウロの中でその疑問が幾重にも反響する。その残滓を断ち切るように壱子は手を突き出した。
「──“木の怪”」
握り込まれた札はあの日彼に渡したピンク色だ。
「“魑魅の虚飾を弥終に──黙せ嘆きの黒き虚よ”」
クスキの問いかけを覆う詠唱が淡々と終わりを宣告する。
壱子が見上げる中、その頬が、髪が、手が、ボロボロと崩れていく。
壱子は崩れゆくその手を取ってくるりとターンした。
まるで最後の思い出に一曲だけワルツを踊り、別離を惜しむ恋人のように。
フラットシューズの爪先がきゅっと音を立てる。
一瞬の、しかし長い長いフェルマータが消えるまで、壱子はそれを見下ろしていた。
『三丁目の御神木が枯れていた!』
『楠って虫が寄らない木でしょ? それが枯れるなんてヤバくない?』
『凶兆としか言えないっつの』
地域密着型SNSの名は伊達では無い。あやエスの話題は例の神社のことで満開だった。
壱子がいくらスクロールして飛ばそうとしても、すぐさまおすすめトピックに出てきてしまうのだから諦めてログアウトした。
幸い、陰陽師としての依頼はなく、大学生としての課題も片付けたところなのだ。
例のスクラップブックでも読み返して事件に浸る無為な休日を過ごすのも悪くない──と本棚を開いてはたと気づいた。
当事者に話を聞いた方が有益だ。
そうと決まれば善は急げだ。
壱子は急いで支度を整える。財布の中身に行きつけの和菓子屋のポイントカードが入っているのを確認すると、スマホを取りだし電話をかけた。呼出音もそこそこに元気なしわがれ声が応対する。数ヶ月前まで寝込んでいたとは最早誰も信じないだろう。
「──もしもし、おじいちゃま?」
「おお、壱子か! 何かあったか」
「うん。昔、おじいちゃまが大活躍した神社の事件があったでしょう。散々な目にあったから聞いて欲しくて」
「何ィ!? まさかあの神様気取りの魑魅が求婚してきたとでも言うのか」
「その通り。例の鯛焼き買っていくから、愚痴に付き合って」
「粒あんで頼むぞ。カスタードなんぞは──」
「「邪道だ!」」
芝居がかった鹿爪らしいユニゾンが電話口の向こうとこちらで反響する。呵呵大笑にいったん別れを告げて、壱子は実家への道を走り出した。
あやかしの息遣いを耳にすることは難しい。
鬼と呼ばれた異形の姿は既にない。
天狗の如く空を飛ぶのは人間の発明品だ。
しかし、あやかしはそこにいる。
心通わせることもある。
厄介な縁を引き寄せることもある。
それを見定め彼岸と此岸の架け橋となるのが──『あやかしSOS』の役目である。