『卯野さんの記事“【緊急用】簡易結界作成法指南”が40回共有されました』
目覚めた壱子に降ってきたのは数秒遅れて彼女を追ってきたスマホだった。
落下したばかりで上も下もわからぬところに追撃されたため、うまくキャッチすることもできず、その役目は顔面が代わって引き受けた。
「いったあ……」
瘴気を撒き散らす木のウロに落ちるという非現実的な超常現象より、はるかに現実的かつ直接的な衝撃と痛みに涙目になりつつ画面を見れば、以前壱子が投稿していた記事についての通知だった。素人向けの簡易的な結界陣の張り方だが好評なようである。
それだけを確認してスマホをポケットにしまう。他の荷物は見当たらなかった。
真っ暗闇──とまではいかないまでも、薄暗がりである。
どこが地面で壁なのか区別はつかないが、ごつごつとした隆起が感じ取れる。本物の樹木らしさは伝わってきた。
明かりを取りたいところだが、火を焚く訳にもいかない。恐る恐る側面の枝らしきものに触れながら立ち上がった。
左足を軸にして、右足の爪先と踵で交互にとんとんと地面を打つ。そのまま右足をぺたりとつけたまま摺り足で進む。引く。軸の真後ろにつける。
フラットシューズの靴底越しに脈打つものを感じ取る。
土踏まずに感じたものをそのまま上へ──膝へ、腰へ、背骨を伝って頸、脳天へ──自然と壱子は真上を向いて瞳を閉じる。舞い降りる天啓があるならば逃すまいと手を伸ばす。
ぴんと伸びたその指先が、中指の爪先が、空を掻く。
ひとひらの葉が、彼女の爪を彩った。
同時にポケットの中のスマホが震える。
「すごい。電波通じるのね」
感情の乗らない感嘆と共に画面を開く。薄暗がりでは画面の光が眩しすぎて目を細めた。
『クスキさんからプライベートメッセージが届いています』
親指を滑らせてプッシュ通知からあやエスを開く。新着メッセージの一行目だけが瞬いた。
『ごめんよ』
何についての?
その疑問に応えるためなのか、それとも単に楽になりたいためなのか、次々と通知が重なっていく。
『痛かったかい』
『怪我をしていなければいいが』
『こんなつもりではなかった』
『きみを失いたくなくて』
降りしきるメッセージの雨に打たれながら壱子は返信ウィンドウを開く。すると先程指先に落ちてきた葉を追って、ひとひら、またひとひらと葉が降ってきたのだ。
画面を覆い隠さんばかりに舞うそれを腕で払い、壱子はキーボードに指を滑らせる。
『貴方の望みは?』
既読マークが表示される。
葉もメッセージもぴたりと止まった。
画面を見つめたまま、呼吸を平らかにすることだけを考える。
深呼吸三回分。
待ち望んだ通知に震えたスマホのせいで凪いだ呼吸は一瞬で浅くなった。
『助けておくれ』
返信ウィンドウを開く。文字ではなくスタンプ欄を選択する。
壱子の目に飛び込んできたのはぷぴちゃんが短い両腕で〇を描くスタンプだった。
「……依頼人が何者であろうと、引き受けたからには誠実に対応する。それがあやエスに登録している陰陽師に──いいえ、私が自分に課した掟です」
──だからこそ、依頼人には嘘をつかないで貰いたい。
決然とした面差しで壱子が見据える先に、クスキが出会った時と同じく懐手に構えて姿勢良く立っていた。
「嘘とは何を指すのかな。意図して伝えていないことはあるけれど、それは依頼内容に直接関係のないことだ。ああそれとも」
懐から手を出すと、彼は自分の頬を撫でる。何かを剥ぐ様に爪を立てればペキリと乾いた音がした。
「人間のふりをしていたこと?」
シミも傷もない、羨むほどになめらかな肌。
それが爪と共に剥がれ落ちていくのを壱子は黙って見つめていた。
ウロに落とされる直前に焼き付いた楠の傷ついた樹皮。
肌の下、剥き出しになったそれは遠い記憶の中で壱子を泣かせた、ささくれだって黒ずんだ、悪臭を放つ膿んだ皮膚だ。
数ヶ月前、病の床に就いた祖父から聞かされた懺悔が鼓膜の奥から蘇る。
──お前はまっすぐな娘だ。優しゅうて聡明な、自慢の孫だ。だからこそ言っておく。あやかし相手に人間の常識は通用せん。人間同士なら恩を仇で返すも割り切れる。祓ったあやかしに呪われるんも道理。けれどあやかしがお前に恩を感じてしもうたら──ああ、どうして人の倫に反したことを最後に教えにゃならんのか……
「祖父は私の手本です。祖父の願いがあやエス設立のきっかけになったことは界隈では知られた話です。助けを求める者と力になりたい者。双方の架け橋こそがあやエスの理念なのです」
「……ああ、そうだね。謹厳実直を絵に描いたような人間だった。彼に失望したのはたった二回。甘味が好きだと聞いて、鯛焼きを買っていったらカスタードは邪道だと突き返されたこと。そして助けてもらった礼に掌中の珠を娶ってやろうとしたら烈火のごとく怒られたことだね」
「その掌中の珠が私だと?」
「そうさ。まあ童のうちに親元から引き離すのは確かに酷だとは思い直したけれどね。でも、あの呪いを抑え込んでくれた礼として孫娘に永遠の命と真心を捧げるんだもの。もっと感謝されても良いはずなんだけど」
おかしいよねえ、とクスキが首を傾げると振動で皮膚がぱりぱりと崩れ落ちていく。顕わになる爛れた中身に壱子はかすかに眉をひそめた。
「やはり気分が悪いかな? あの時のきみは大泣きしたものね。だから丁寧に隠してみたんだ。ほら、今の時代はおのこも化粧に余念が無いと言うじゃないか」
ふふ、と照れくさそうに微笑むクスキの瞳は輝く飴色ではなく、玉砂利と同じく影色だった。
「色の白いは七難隠す……確かに美しく装うだけで人間はたやすく俺を受け入れたね。あの茶屋できみを待っている時なんて、何人の女が俺に秋波を送ってきたことか。でもきみはそうじゃなかった。あの仔豚の泡の方が大事だったとは……盲点だったな」
ふむ、と顎に人さし指を当てて考えを巡らせるクスキに壱子は思い切って距離を詰めた。
「瘴気の原因は何ですか」
「俺だよ。クスキ、クスノキ、楠さ」
天気の話でもするように軽く返されて面食らう。そんな反応も織り込み済みなのか、崩れる頬で微笑むと、クスキは補足とばかりにまたしても言葉を続けた。
「あの楠がまじないに囚われたのはいつだったか……ともかく、忘れるくらい遥か昔さ。御神木とされる樹木ゆえ、祈りも呪いも溜め込んできた。それが原因かはわからないけれど、枝の一本一本、葉のひとひらにまでそれが満ち満ちた時、溢れたものが社を覆い尽くした。清めの白い玉砂利もどす黒く染まった」
それを聞いて壱子はあのぼやけた影色の玉砂利を思い出す。あれはどす黒いとは言いにくい色だった。
しかし玉砂利の「たま」は御魂に通じると聞く。それが影響を受けたということは祀られていた神自身も推して知るべしだ。
「井戸は涸れ鳥居は朽ち、社は崩れる寸前だ。俺の魂はすり減って荒ぶることもできず虫の息。そんな時ね、君のお祖父さんが救ってくれたのさ。おかげで玉砂利の色も薄くなった」
壱子の脳裏に古いスクラップブックの写真が過ぎる。あれは祖父が自らの業績をまとめたものだったか。
壱子がこの神社に感じていた既視感は、他の神社との記憶の混同ではなかったようだ。
「命の恩人に礼をしようときみのお家にお邪魔したんだ。郷に入っては郷に従えと言うだろう? だから人間の形を取ったし、手土産まで用意した。童の壱子に泣かれたのは悲しかったけど、初めて人間のふりをしたからどこか失敗していたんだろうと納得した。だけど、未だにわからないんだ」
そこで言葉を切ったクスキは目を細めて壱子に近づき見下ろした。
影色の瞳に最早光は無い。ぽかりと空いた眼窩はただあの日の童を見つめている。
「零落したトは言え、神が娶ろウト言うのに、何故素直二孫娘を差し出さナカったんだろウね?」
ウロの中でその疑問が幾重にも反響する。その残滓を断ち切るように壱子は手を突き出した。
「──“木の怪”」
握り込まれた札はあの日彼に渡したピンク色だ。
「“魑魅の虚飾を弥終に──黙せ嘆きの黒き虚よ”」
クスキの問いかけを覆う詠唱が淡々と終わりを宣告する。
壱子が見上げる中、その頬が、髪が、手が、ボロボロと崩れていく。
壱子は崩れゆくその手を取ってくるりとターンした。
まるで最後の思い出に一曲だけワルツを踊り、別離を惜しむ恋人のように。
フラットシューズの爪先がきゅっと音を立てる。
一瞬の、しかし長い長いフェルマータが消えるまで、壱子はそれを見下ろしていた。
目覚めた壱子に降ってきたのは数秒遅れて彼女を追ってきたスマホだった。
落下したばかりで上も下もわからぬところに追撃されたため、うまくキャッチすることもできず、その役目は顔面が代わって引き受けた。
「いったあ……」
瘴気を撒き散らす木のウロに落ちるという非現実的な超常現象より、はるかに現実的かつ直接的な衝撃と痛みに涙目になりつつ画面を見れば、以前壱子が投稿していた記事についての通知だった。素人向けの簡易的な結界陣の張り方だが好評なようである。
それだけを確認してスマホをポケットにしまう。他の荷物は見当たらなかった。
真っ暗闇──とまではいかないまでも、薄暗がりである。
どこが地面で壁なのか区別はつかないが、ごつごつとした隆起が感じ取れる。本物の樹木らしさは伝わってきた。
明かりを取りたいところだが、火を焚く訳にもいかない。恐る恐る側面の枝らしきものに触れながら立ち上がった。
左足を軸にして、右足の爪先と踵で交互にとんとんと地面を打つ。そのまま右足をぺたりとつけたまま摺り足で進む。引く。軸の真後ろにつける。
フラットシューズの靴底越しに脈打つものを感じ取る。
土踏まずに感じたものをそのまま上へ──膝へ、腰へ、背骨を伝って頸、脳天へ──自然と壱子は真上を向いて瞳を閉じる。舞い降りる天啓があるならば逃すまいと手を伸ばす。
ぴんと伸びたその指先が、中指の爪先が、空を掻く。
ひとひらの葉が、彼女の爪を彩った。
同時にポケットの中のスマホが震える。
「すごい。電波通じるのね」
感情の乗らない感嘆と共に画面を開く。薄暗がりでは画面の光が眩しすぎて目を細めた。
『クスキさんからプライベートメッセージが届いています』
親指を滑らせてプッシュ通知からあやエスを開く。新着メッセージの一行目だけが瞬いた。
『ごめんよ』
何についての?
その疑問に応えるためなのか、それとも単に楽になりたいためなのか、次々と通知が重なっていく。
『痛かったかい』
『怪我をしていなければいいが』
『こんなつもりではなかった』
『きみを失いたくなくて』
降りしきるメッセージの雨に打たれながら壱子は返信ウィンドウを開く。すると先程指先に落ちてきた葉を追って、ひとひら、またひとひらと葉が降ってきたのだ。
画面を覆い隠さんばかりに舞うそれを腕で払い、壱子はキーボードに指を滑らせる。
『貴方の望みは?』
既読マークが表示される。
葉もメッセージもぴたりと止まった。
画面を見つめたまま、呼吸を平らかにすることだけを考える。
深呼吸三回分。
待ち望んだ通知に震えたスマホのせいで凪いだ呼吸は一瞬で浅くなった。
『助けておくれ』
返信ウィンドウを開く。文字ではなくスタンプ欄を選択する。
壱子の目に飛び込んできたのはぷぴちゃんが短い両腕で〇を描くスタンプだった。
「……依頼人が何者であろうと、引き受けたからには誠実に対応する。それがあやエスに登録している陰陽師に──いいえ、私が自分に課した掟です」
──だからこそ、依頼人には嘘をつかないで貰いたい。
決然とした面差しで壱子が見据える先に、クスキが出会った時と同じく懐手に構えて姿勢良く立っていた。
「嘘とは何を指すのかな。意図して伝えていないことはあるけれど、それは依頼内容に直接関係のないことだ。ああそれとも」
懐から手を出すと、彼は自分の頬を撫でる。何かを剥ぐ様に爪を立てればペキリと乾いた音がした。
「人間のふりをしていたこと?」
シミも傷もない、羨むほどになめらかな肌。
それが爪と共に剥がれ落ちていくのを壱子は黙って見つめていた。
ウロに落とされる直前に焼き付いた楠の傷ついた樹皮。
肌の下、剥き出しになったそれは遠い記憶の中で壱子を泣かせた、ささくれだって黒ずんだ、悪臭を放つ膿んだ皮膚だ。
数ヶ月前、病の床に就いた祖父から聞かされた懺悔が鼓膜の奥から蘇る。
──お前はまっすぐな娘だ。優しゅうて聡明な、自慢の孫だ。だからこそ言っておく。あやかし相手に人間の常識は通用せん。人間同士なら恩を仇で返すも割り切れる。祓ったあやかしに呪われるんも道理。けれどあやかしがお前に恩を感じてしもうたら──ああ、どうして人の倫に反したことを最後に教えにゃならんのか……
「祖父は私の手本です。祖父の願いがあやエス設立のきっかけになったことは界隈では知られた話です。助けを求める者と力になりたい者。双方の架け橋こそがあやエスの理念なのです」
「……ああ、そうだね。謹厳実直を絵に描いたような人間だった。彼に失望したのはたった二回。甘味が好きだと聞いて、鯛焼きを買っていったらカスタードは邪道だと突き返されたこと。そして助けてもらった礼に掌中の珠を娶ってやろうとしたら烈火のごとく怒られたことだね」
「その掌中の珠が私だと?」
「そうさ。まあ童のうちに親元から引き離すのは確かに酷だとは思い直したけれどね。でも、あの呪いを抑え込んでくれた礼として孫娘に永遠の命と真心を捧げるんだもの。もっと感謝されても良いはずなんだけど」
おかしいよねえ、とクスキが首を傾げると振動で皮膚がぱりぱりと崩れ落ちていく。顕わになる爛れた中身に壱子はかすかに眉をひそめた。
「やはり気分が悪いかな? あの時のきみは大泣きしたものね。だから丁寧に隠してみたんだ。ほら、今の時代はおのこも化粧に余念が無いと言うじゃないか」
ふふ、と照れくさそうに微笑むクスキの瞳は輝く飴色ではなく、玉砂利と同じく影色だった。
「色の白いは七難隠す……確かに美しく装うだけで人間はたやすく俺を受け入れたね。あの茶屋できみを待っている時なんて、何人の女が俺に秋波を送ってきたことか。でもきみはそうじゃなかった。あの仔豚の泡の方が大事だったとは……盲点だったな」
ふむ、と顎に人さし指を当てて考えを巡らせるクスキに壱子は思い切って距離を詰めた。
「瘴気の原因は何ですか」
「俺だよ。クスキ、クスノキ、楠さ」
天気の話でもするように軽く返されて面食らう。そんな反応も織り込み済みなのか、崩れる頬で微笑むと、クスキは補足とばかりにまたしても言葉を続けた。
「あの楠がまじないに囚われたのはいつだったか……ともかく、忘れるくらい遥か昔さ。御神木とされる樹木ゆえ、祈りも呪いも溜め込んできた。それが原因かはわからないけれど、枝の一本一本、葉のひとひらにまでそれが満ち満ちた時、溢れたものが社を覆い尽くした。清めの白い玉砂利もどす黒く染まった」
それを聞いて壱子はあのぼやけた影色の玉砂利を思い出す。あれはどす黒いとは言いにくい色だった。
しかし玉砂利の「たま」は御魂に通じると聞く。それが影響を受けたということは祀られていた神自身も推して知るべしだ。
「井戸は涸れ鳥居は朽ち、社は崩れる寸前だ。俺の魂はすり減って荒ぶることもできず虫の息。そんな時ね、君のお祖父さんが救ってくれたのさ。おかげで玉砂利の色も薄くなった」
壱子の脳裏に古いスクラップブックの写真が過ぎる。あれは祖父が自らの業績をまとめたものだったか。
壱子がこの神社に感じていた既視感は、他の神社との記憶の混同ではなかったようだ。
「命の恩人に礼をしようときみのお家にお邪魔したんだ。郷に入っては郷に従えと言うだろう? だから人間の形を取ったし、手土産まで用意した。童の壱子に泣かれたのは悲しかったけど、初めて人間のふりをしたからどこか失敗していたんだろうと納得した。だけど、未だにわからないんだ」
そこで言葉を切ったクスキは目を細めて壱子に近づき見下ろした。
影色の瞳に最早光は無い。ぽかりと空いた眼窩はただあの日の童を見つめている。
「零落したトは言え、神が娶ろウト言うのに、何故素直二孫娘を差し出さナカったんだろウね?」
ウロの中でその疑問が幾重にも反響する。その残滓を断ち切るように壱子は手を突き出した。
「──“木の怪”」
握り込まれた札はあの日彼に渡したピンク色だ。
「“魑魅の虚飾を弥終に──黙せ嘆きの黒き虚よ”」
クスキの問いかけを覆う詠唱が淡々と終わりを宣告する。
壱子が見上げる中、その頬が、髪が、手が、ボロボロと崩れていく。
壱子は崩れゆくその手を取ってくるりとターンした。
まるで最後の思い出に一曲だけワルツを踊り、別離を惜しむ恋人のように。
フラットシューズの爪先がきゅっと音を立てる。
一瞬の、しかし長い長いフェルマータが消えるまで、壱子はそれを見下ろしていた。