「ここ──ですか」
「ああ」

クスキに案内されてたどり着いたのは、壱子も知っているとある神社だった。
訪れたことはないが、どことなく馴染みのある風景である。神社の造りは似たり寄ったりだから、過去の記憶と混同しているのかもしれないと壱子は納得した。
改めて見ればきちんと手入れがされており、打ち捨てられた和御魂が苦しみ荒御魂が呻く様子もない。
石造りの鳥居から真正面に見える拝殿はさほど大きくはない。おそらく参拝客で溢れかえるのは初詣くらいで、あとはお宮参りがちらほらといった具合だ。この地域の氏神を祀った神社なのだろう。
地域密着型SNS、あやエスの陰陽師として活動する壱子はこの神社にどこか同僚に抱くのと似たような親近感を覚える。畏れ多いことだし口には出さないけれど。
鳥居をくぐらず敷地の外から全体を眺める。御神木らしき大きな楠はとにかく大きい。そこがこの神社を「こじんまり」という形容からはみ出させる所以なのだと壱子は感じ取った。真下から見上げれば青空など覆い隠されそうに鬱蒼と茂った葉は確かに影を作るものの、陽光を遮り魔を呼ぶようには見えない。
ここはあやかしが棲みつくべき場所ではない。それが壱子の直感だった。

「あの、ここのどこにあやかしが──」
「行けばわかる」

壱子の問いを遮ってクスキはすたすたと歩き出す。轟然と顔を上げ参道の中央を突っ切る背中にのっぴきならないものを感じて、壱子は後に続いた。鳥居の前で礼をしている間にも彼との距離は開いていく。
左右に控える狛犬をちらりと見上げる。特におかしなところは無い。
石造りの一の鳥居、二の鳥居と進むと石畳の参道の脇はむき出しの土ではなく玉砂利が敷き詰められている。
なんとはなしに見て壱子は唇を引き結んだ。

「玉砂利が──黒い?」

清めの白で御祭神へと導く道筋が、漆黒に染められている。
黒い玉砂利自体は見たことがある。艶やかな黒は優美な佇まいで品格を漂わせて、庭造りに新たな奥行を与える効果を持つ。
しかしこの黒は──歪な、薄ぼんやりした影の色だった。
壱子がそれを認識した途端に、頭上の楠がざわざわと音を立て始める。否、最初から聞こえていたものを、壱子が認識していなかかっただけなのか。
すがすがしい空気にそよぐ木立ではない。
これは邪なるモノの兆しに怯える木霊の鳴き声だ。
木のウロが嘆く口のごとく開く。
ついに三の鳥居まで至ったその時、本来御神木として畏敬されるべきその芳香が、鼻の曲がるような饐えた悪臭として撒き散らされた。

「──なにこれ!」
「だからきみに依頼したんだ!」

立派な葉を茂らせた枝が苦悶に耐え兼ねたといったように震える。更に濃くなった匂いに壱子はハンカチを取り出して鼻と口を覆った。

「この匂い、なに? 血?」
「いや、血よりも深く、酷く、残酷な──そうだな、喩えるなら断末魔という絵の具を幾重にも塗り重ねて描いた無残なキャンバスの残骸だ」

この状況には詩的過ぎる喩えを用いたクスキだが優雅なのは口調だけで、袖口で口元を覆っている彼の顔は今や紙のように真っ白だ。
陰陽五行の理に従うならば木の怪には金の術だ。壱子は札を取り出し構える。するとあの匂いが濃くなり膝をついた。

「っぐ」

すかさず肩に回されたのは男の腕。支えられるように立たされる。
壱子は一度大きく息をつく。しかし悪臭という瘴気にあてられた腕はかたかたと震えて、思うように上がらない。
それでもなんとか持ち直したが、指先だけが異様に冷たい。冷や汗が噴き出る。

「──“(もく)の怪”」

詠唱と共に楠に近づき始める。
木のウロが更に歪み出したのは壱子の気の所為ではないだろう。

「“布都(ふつ)()ねられ朽ち果てよ”──」

札に紋様が浮き出ていく。それと同時に瘴気が最期の力を振り絞っていっそう濃さを増した。壱子は勢いのままハンカチを取り去って楠に駆け寄った。

「“仇なす香とも”──っ!?」

朗々とした唄声が断ち切られる。
壱子は──後ろから突き飛ばされた。
眼前のウロは彼女をすっかり呑み込まんと醜く口を開けている。
世界が揺らぐスピードがひどくゆっくりだ。
傷ついてささくれだっている樹皮の質感や、敷き詰めてある玉砂利の靄までもがくっきりと、不必要な程に壱子の目に焼き付けられる。
つい最近もこうして転びかけたことがある。
そうだ。その原因も──

「ごめんね」

クスキだ。

柔らかく、人あたりのいい声が無機質に落ちてくる。
前回のように後ろから助け起こされなかった壱子の体は、ウロに頭から呑み込まれた。