数日後、壱子が大学の講義に出ているとポケットの中でスマホが震えた。この振動はあやエスの通知だ。
送り主が予想通りでないことを祈りつつ、今は講義に耳を傾けノートを取る。いくら家業が陰陽師であろうと今の壱子は学生だ。学業を疎かにしたくはない。これは壱子の意思でもあるし、彼女の自室に飾ってある写真の主──祖父の意思でもある。

──家業を言い訳にして学びを放り出すなら陰陽師になどなれぬ。知識は武器庫、知恵は羅針盤だ。その脳味噌に蓄えたモノは術よりも遥かにお前を守る。

温和な祖父が唯一厳しい顔で繰り返したこの教えは、壱子の背骨よりも彼女を支える柱となっている。
ゆえに彼女は周りから「お堅い」と揶揄されようとこのスタンスを変えるつもりはなかった。


講義が終わって初めて壱子はスマホを見る。案の定クスキからのメッセージだった。

『例の件について提案です』

喋る時は止めるまもなく喋るくせに文字になると文を区切るのね、と半目になりながらスクロールすれば、待ち合せ場所は壱子も知っている近所のカフェだった。テラス席の眺めが評判だが、壱子は雨宿りのために一度入っただけだ。そして今日、天気の崩れはなさそうだ──とまだ見ぬ眺望と美味しいカフェラテに思いを馳せていた壱子だが、続いて受信していた報酬についてのくだりに幻想が吹き飛んだ。
依頼料、成功報酬共に文字通り目が飛び出る金額である。うっかりゼロを多くタップしてしまったと言われるほうが納得できる。しかしあの男のことだ。ミスではないだろうし、もし万が一ミスタップだったとしても「一度提示したものだから」と譲らなさそうだ。交渉の余地はあると言っていたが、減額を交渉するというのも何か違う気がする。
たった一度の出会い、ましてあの短時間でのやりとりなのだが何故だか確信が持てた。
これほどの金額を提示するからには相当難易度の高い──命の危険も伴うあやかしなのだろう。
金額に浮かれるよりもそちらの方に思い至って、壱子はげんなりした。



「やあ、ごきげんよう!」
「……ごきげんよう」

お嬢様学校の挨拶か、と心の中だけで突っ込んだ壱子は嫌々席に着いた。
評判のカフェ、しかも興味のあったテラス席。
おしゃれなウッドデッキから見渡す街並みは爽やかな青空と時折迷い込む風に乗った花びらに演出されて、まさしく「映え」の塊だ。
こんな状況でなければ奮発して3Dラテアートでも注文して、ハッシュタグの装飾とともに写真投稿アプリに連投していただろう。
しかし。まさに「こんな状況」なのだ。
テーブルの向かいにはやはり着流しを纏った胡散臭い男──クスキ。
しかも彼が注文したのはちょうど今、壱子が思い描いていた3Dラテアート。しかも描かれているのはこのカフェのマスコット、仔ブタのぷぴちゃんなのだ。
ぽてっとした丸いフォルムにも関わらず、短い足を懸命に組んでコーヒーブレイクを楽しむ背伸びしたキャラが巷で人気なのである。
そんなぷぴちゃんが──よりによって、男の前にいる。

「これ、可愛いよね。ブヒちゃん」
「ぷぴちゃん、です」

クスキはこともあろうに、仔ブタにとっては屈辱的な呼び名で間違える蛮行を犯した。壱子の中で退治すべきリストに晴れて仲間入りである。
打ち合わせ内容以外の会話をしたくはなかったが、ぷぴちゃんの名誉には代えられなかった。
壱子は居合わせた店員によそ行き用の顔と声でミルクティーを注文する。今日は3Dラテアート大会で優勝した名物バリスタがシフトに入っているといくら勧められようが、同じものを頼む気はなかった。
そんな壱子の葛藤など露知らず、店員が離れたタイミングでクスキはテーブルに折り畳まれた懐紙を滑らせた。

「これは返すよ」

開けば見慣れた桜色だ。壱子の式神である。
結局、壱子はこれを通じて探りを入れなかった。術の跳ね返りを懸念したことも理由だが、他人のプライベートをこうした手段で覗き見ることに抵抗があったのだ。
いくら相手が開けっぴろげとはいえ、何でもかんでも暴いていい理由にはならない。
陰陽師という人智を超えた力を得ているからこそ、力の使い所については自らを律しておくべきだと彼女は心得ている。

「きみは誠実だね。あれほどメリットを提示したのにこれを使おうとしなかった。高潔な魂には敬意を評します」
「……そんな。貴方の式神こそ、結局本当にただの護衛だったじゃないですか」

へらへらとした挨拶から急に真摯な態度で話されてペースが狂う。こう持ち上げられては壱子も悪し様には罵れない。

「やはり俺の目に狂いはなかった。早速で悪いけどこのまま退治に行こうか」
「はい!?」
「あっもちろんミルクティーを飲み終わってからで結構だよ。俺もブヒちゃんを味わいたいし。それに契約内容の確認も済ませてしまおうね」

もう訂正する気は起きなかった。

「──よし。それではここにサインを」

挑みきれないペン先が虚空を彷徨う。筆ならば墨が滴り落ちているところだ。
ちらりと無言の上目遣いで彼を見遣れば、やはり無言で「怖気付いたのかな?」と挑発してくる。簡単に煽られるような単純な性格はしていないと自負する壱子だったが──どうやらクスキの前では調子が狂うらしい。

予想通り、提示された額面から減額されることはなかった。
「きみの実力とそれを培う努力と才能を、きみ自身が蔑ろにしてはならない」と宣う口調は言葉の割に尊大で、一歩も引く気はなかった。
契約書を交わすという行為自体に仰々しさが否めなかったのだが、「自らの危険も顧みずあやかしに立ち向かうことを強いるのだから口約束は無効だ」とあっさり切って捨てられた。
このやりとりや身にまとうものからも並の家のものではないと察していたが──探りを入れたり当て推量で恥をかく前に、あっさり男の素性は知れた。
もちろん互いに交わした契約書のサインからである。

「本名、ですよね」

はたと気づいた壱子が一度決意したペン先を上げた。
今までSNSのアカウント名でやりとりしてきたが、これはその延長ではあるまい。
また逡巡材料を見つけてしまった壱子が戸惑っていると、彼はひょいと書面を取り上げる。
さらさらと記してから戻され、名を見て壱子は一瞬呼吸を止めた。

薬木

枝で引っ掻いたような細い文字で記された二文字は、眼前の彼本人よりも遥かに緊張感のある鋭さで壱子を威嚇している。
着流しを纏ってなお柔和な面差しからは想像がつかない張り詰めた字に、思わず壱子は彼を見つめた。

「ん? ああ読み方わからない? アカウント名と同じ、くすきだよ」

あやエスのアカウント名は匿名を推奨している。このSNS全盛時代にこんなネットリテラシーで彼はこの先やっていけるのか──場違いにも壱子は一抹の不安を覚えた。
しかし、壱子とて自分の本名をもじったアカウント名である。自分と似たり寄ったりの思考だったと気付かされて無性にいたたまれなさを感じるが、それを振り切るように自分もサインを終えて彼に──クスキに突き出した。

「壱子さん、ね。成程。だからウノなのか。はは、俺たち似たところがあるのかもね」

あっさり看破された挙句にMucho gusto.とスペイン語の挨拶までされてはお手上げである。
折り良くサーブされたミルクティーをひと口啜り、もう一度クスキを見やる。
透けそうな肌と掴みどころのないたたずまい。彼の周りだけ時間の流れがゆっくりと凝っているようだ。
今までの態度からも相当の場数を踏んでいることは確実だし、味方につければ神凪家のあやかし退治に有利かもしれぬ、とまで巡らせた思考は彼の手元を見て哀れ飛び散った。
真っ先にコーヒースプーンで潰されたのは、ぷぴちゃんの愛嬌ある糸目だった。
口にする順番にマナーなどない。写真を撮ってから食べる決まりも無い。そんなことは百も承知である。
だが、だが──よりによって顔からいかなくてもいいだろう!

壱子は熱いミルクティーが煮立ちそうな怒りの炎をふつふつと滾らせていた。