玄関の施錠を終えた壱子は「ただいま」と口に出しそうになって慌てて唇を噛み締めた。この式神を通してあの男に筒抜けになっていたら大変だ。
もちろん、帰路で破り捨てるつもりだった。川に投げるか、途中で撹乱のために大きく迂回してコンビニに寄り、ライターを買って燃やす算段までしていたのだ。だが、壱子のそんな計画を嘲笑うように式神はポケットから離れようとしなかった。つまんで引っ張り出そうとするとポケットがひっくり返るレベルでしがみついて離れない。ド根性式神なんて聞いたことがない。
結局ライターも買ったが、火がつかなかった。不良品ではない。点火はできるのに式神に近づけた瞬間炎が消える。
もう一度コンビニに戻り、トイレを借りて流そうかとも思ったが、もし失敗した時にとんでもないことになりそうで断念した。
そんなわけで壱子は泣く泣くポケットの中身と別れられないまま帰ってきたのだ。
我が家だと言うのになんとも言えない居心地の悪さを味わいながら、ジャケットを脱いでハンガーに掛ける。それを見計らったかのようにスマホの着信音が響いて、壱子は慌てて画面をつけた。

『メッセージ1件』
『着きましたか?』

あやエスのプッシュ通知だ。送り主が誰かなんて考えるまでもない。
一瞬躊躇して、返信画面を開いてからはひと息で入力、送信した。

『ええ』

たったふた文字の素っ気なさ。しかし壱子の心情としてはぐしゃぐしゃに丸めた新聞紙並に顔をしかめて、泥団子のような濁声で、絶滅寸前の海亀のように鹿爪らしく返している。
どうせこの式神がGPSのようなものだ。嘘をついたところで始まらない。
それならとびきり正直な気持ちで返してやらねば、女がすたるというものだ。

『無事に着いたなら安心しました』
『式神は処分します』
『淑女の寝所には招かれざる客でしょうから』
『貴方のものはお好きなように』

ぽんぽんと連投されるメッセージに壱子が目を丸くしていると、ハンガーにかけたジャケットが──否、ポケットが震えている。
しばしジャケットを無言で見つめ、壱子は恐る恐る手を伸ばすが、ポケットの中身は一瞬だけ早かった。
先程までのド根性が嘘のようにしゅぽんと音を立てて飛び出ると、宙に浮いたまま自らを切り刻んで果てたのだ。しかも床を見ても紙屑は跡形も残っていない。

「な、なんなのよ」

呆気にとられた壱子の手の中でまたスマホが震える。

『睡眠不足は美容の大敵です』
『ニキビ、早く治るといいですね』
『おやすみなさい』

目にした瞬間、力んだ親指がサイドボタンを押してしまい画面オフになる。
真っ暗な画面に写った自分の頬にわなわなと触れる指先は、確実にぷっくり腫れたニキビを感じていた。

「…………あやかしの前にあいつを退治したほうが世のため人のためね」