「今回は……少し、派手ね」

とある住宅街の外れに流れる川にたどり着いた壱子は辺りを見渡した。
住所はここで間違いない。
見届けたいと言っていた依頼人だが、周囲には犬の子一匹見当たらない。怖気付いたのか、単なる冗談だったのか、はたまたどこからか見ているのか。
その居所を探るよりも、壱子にはすべきことがある。
ここに来るまでの道程でも、そして今、街灯が照らす範囲にも雨は降っていない。にも関わらず、彼女の耳はざあざあと降りしきる雨音を拾っている。
目を閉じれば土砂降りが打ちつけてくる錯覚でも起こしそうだ。
しかし、目を閉じるわけにはいかなかった。何せ目の前には──堂々たる太鼓橋が、ありきたりな街並みの景観をめちゃくちゃに崩壊させつつも、しれっと掛かっているのだから。

「本当にあったんだ」

画像ソフトに騙されていた方が気楽だったなと思いつつ、壱子は太鼓橋のたもとから川を覗き込む。水位は彼女の足首位までだろうか。
けれど、時折黒くうねる何かがぐいぐいと水位を押し上げていくようにも見える。

「目も耳も……当てにはならない、と」

壱子は奥歯に力を込めた。
ジャケットのポケットに手を突っ込んで橋を渡る。進みつつも時折フラットシューズの爪先で、踵で、橋桁にほとんど音のしないリズムを刻む。
土踏まず以外をぺたりとつけたまま摺り足で進み、それを追うもう片方の足と位置を合わせる。さながらクラシックバレエの基本ステップをなぞるようにして、偽りの雨音が織り成すグリッサンドの中、中央に至る。

雨音が、止んだ。

代わりに響いてくるのは赤ん坊の泣き声だ。
母を呼ぶには薄気味悪い頼りなげな呼び声を振りきるように、壱子は目を閉じて上を向く。
見えない雨粒を浴びるように身じろぎせず、ただまっすぐ立っていたのは一瞬か、それとも数分か。

「──そこ」

壱子が目を開くと同時に橋が崩れ落ちた。
砕けた橋桁が、欄干が、擬宝珠が、彼女の視線から水面を遮るようにばらばらと落ちていく。
しかし壱子の目はそれらを越した川底を──否、そこにいるモノを見ていた。
川面から突き出るのはむちむちと太った赤ん坊の腕だ。川底に沈んだそれは落下する壱子を呑み込まんばかりに口を大きく開けて泣き喚いている。

「おしゃぶりが必要なの?」

笑い飛ばした壱子の爪先が水面に触れる。その瞬間、川が山吹色に固まった。
突き出していた手は動かすことができずに凍りつく。肉付きのよいそれは枯れ枝のように生気を失い、代わりに指の間に水掻きが顕れ始める。

「赤ん坊の鳴き声でおびき寄せて引きずり込んでいたのね。さしずめ川赤子のやり口を学んだってところかな」

山吹色の水面に立つ壱子の周りには、彼女と共に落下した欄干も擬宝珠も見当たらない。やはり太鼓橋ごと幻覚だったようだ。

「お伽話みたいにお相撲で遊びたいなら可愛いものだけど」

壱子は瞳をきゅっと細める。闇色の虹彩が水面の山吹色を映し取る。
ジャケットのポケットから抜いた手がかざす白紙の札は闇夜に映えた。それを水面に押し当てれば、固まったはずの水面がぐにゃりと歪む。

「“水ノ怪、土の下にて涸れ果てよ──惑ひの(こえ)とも潰せ喉笛”」

朗々とした唄声に合わせてまっさらな札に紋様が綴られていく。山吹色の凝った水流の下で、其れは顔が破けんばかりに目を見開く。赤ん坊の鳴き声ではなく其れ自身の断末魔で痙攣した身体は、静寂と共に消滅した。

「よし、と」

見届けた壱子の体が水位の分だけがくんと落ちる。水の気を纏うあやかしに対抗するために張った土の気の術が役目を終えたのだ。目算通り、足首位までの水位だったが、それは靴がまるごと浸かる高さでもあった。

「ああ、濡れちゃった」

先程までこの世ならぬものと相対していたとは思えない気の抜けた声音で、肩を落として川岸へ歩く。草むらに上がれば雑草がぺたりとへばりついて、壱子は露骨に眉をひそめた。

「臭くなるかな……やぁね」
「漂白剤を使うと取れるって聞いたことはあるよ」

独り言に歌うような返事をされ、壱子の反応が遅れた。
瞬き二回分の間、壱子の瞳が声の主に奪われる。
飴色の長い髪が風もないのにふうわりと揺れる。やはり同じく飴色の瞳は街灯を反射して、作り物のようにきらめいた。
傷ひとつなく、おしろいをはたいたようになめらかな白磁の肌が羨ましいと、壱子は場違いにもそう思った。

「な、──!?」

声を上げたことで我に返った壱子は咄嗟に後ずさって距離を取る。
あからさまな警戒を向けられても其れは──男は、意に介した様子はなかった。
むしろ壱子の反応が興味深いようで、懐手のまま頷いている。
壱子より少し年上に見えるその男は和装だった。闇夜に映える黄朽葉色の着流しに柔らかな草色の羽織。どこかの温泉旅館の若旦那といった面持ちである。
よく言えば気品があり、悪く言うなら浮世離れしている。

「な、あなた、だれ」
「ううん……同業者、とは違うけどまあ遠からず。そう、きみに縁のあるモノだ」

僅かに首を傾げて応えた彼はゆったりと微笑んでみせた。街灯の明かりがスポットライトのように彼を引き立たせている。

「どうしてここに……貴方まさか、メッセージをくれてたひと?」

名前を出さずに問うたのは、無闇に自分の持ちうる情報を出さない壱子の処世術でもあり、もしハズレだった場合でも、依頼人の個人情報を明かさない誠実さの現れでもある。
それを知ってか知らずか、和装の男は素直に頷いた。

「はじめまして、「卯野」さん。立ち会いの許可をありがとう」
「……いったい何処で見ていたと言うの。辺りには人どころか犬猫すらいなかったはず」

眉間に力を込める壱子とは対照的に、男──あやエスのアカウントではクスキと名乗っている──は肩の力を抜いている。

「気配を消す術くらい心得ているさ。さて夜も遅いし本題に入ろうか。あやかし退治をお願いしたい」
「はい!?」

壱子の眉間がぐにゃりと歪むレベルにひそめられるが彼は何処吹く風だ。

「俺も無力という訳ではないんだが、少し厄介でね。きみの実力ならお願いできそうだ。もちろん報酬は約束する。額面については後日、改めてあやエスのアカウントからメッセージを送るよ。もちろん交渉の余地はあるから安心しておくれ」
「えっ、あっ、あの」

立て板に水どころかこれではゲリラ豪雨だ。あやかし相手には遅れを取らない壱子だが、目を白黒させて男の言葉の渦潮に呑まれている。
そこまで言い切るとクスキは懐中時計を取り出して盤面を見る。大袈裟にため息をつくと額に手を当てかぶりを振った。

「ああ、こんな時間だ。きみの力を見たくてあやかしの力が強くなる時間帯を優先したけど、申し訳なかったね。早く帰って休みなさい。明日は大学なのかな。課題は済ませてあればいいけれど。家はここから遠い? 危ないから送ろうか」

澱み無く降ってくる言葉の大雨と共に寄せられる顔は無駄に整いすぎていて、壱子は瞬きを繰り返すことで無意識にその顔面偏差値の高さから放出される圧力を跳ね返そうとしていた。

「よ、余計なお世話! です!」
「おおっと手厳しい」

手を上げて降参の意を示したクスキは、そのままバイバイとでも言うようにひらひらと振って見せる。
大きな手のひら。柔和な顔立ちだがやはりそれは成人した男のものだ。
良いようにからかわれていると憤慨した壱子はそのまま背を向けて歩き出す。しかし十歩も進まないうちに「あっ待って」と間の抜けた声をかけられてつんのめった。
びっしょり濡れたフラットシューズではうまく爪先を支えきれずに転びかける。
しかし壱子を支えたのは──腹部に回された男の腕だった。

「すまないね。でも転ぶよりいいだろう」

後ろから抱き起こされるように体勢を戻される。振り向けば至近距離でクスキが壱子を見つめていた。
初対面の素性も知らない相手でなければときめいてもいいシチュエーションだが、いかんせん警戒心が先に立つ。

「俺の分身をつけておくよ。最近物騒だからね」

ぴんと立てた人さし指と中指に挟まれているのは人型に切り取られた白い和紙──壱子達陰陽師が用いる式神にそっくりだ。
クスキはそれを壱子のジャケットのポケットにぐいぐい突っ込む。普通の和紙なら確実に折れ曲がってぐしゃぐしゃになるが、やはり人智を超えた式神なのか頭だけポケットから出してちょこんと収まっている。

「ち、ちょっと! まだ何も言ってない」

慌てた壱子がポケットからそれを引っ張り出そうとして悪戦苦闘していると、クスキは壱子の背中にひっついて腹部に腕を回したまま、突き出した両手を水でも受けるようにそろえて上に向ける。

「はい」
「はい? なに、言われなくても返すけど」
「そうじゃないよ。俺だけ出すのは不公平だろ。卯野さんのもおくれ」
「はあ!?」

高い声で不機嫌さも露わに威嚇するが、クスキはお手を待つように手のひらを向けたままだ。

「これはきみにも悪くない話だよ。家にいながらにして俺のことを探れる。本名、住所、同居人の有無、結界の共鳴具合から判別できる術の属性。そしてこれが一番重要なところなんだけど」

そこでピタリと口を噤んだ男に、壱子はただならぬものを感じた。

「な、なによ」

男の唇が壱子の薄い耳朶に寄せられる。

「……俺が女性を連れ込んでいない清廉潔白な男かどうか」

声になるかならないかの吐息で囁かれて、壱子の背筋がぞわりと震える。
悲鳴を上げる寸前でクスキは壱子を解放した。

「安心して。その式神も俺も紳士だから」
「よ、よくこの流れでぬけぬけと! 私が貴方の情報を探れるってことは、貴方だって同じように私を探れるってことでしょう!」
「おっと鋭い。でも俺はそんなストーカーまがいのことしないよ。単純に心配だから護衛をつけるだけ」

家に着いたら捨てていいよ、と続けた言葉に嘘はなさそうだ。
壱子は式神が突っ込まれたのとは反対のポケットから自分の式神を抜き取り、クスキの手に押し付けた。一目見て頬をほころばせる。

「わあ可愛い。ピンクの和紙だ。これ自分で染めたの?」
「どうでもいいでしょ、私帰る!」
「うん。気をつけてね」

和紙を街灯に透かしながら手を振った男に見切りをつけて、壱子は夜の街に駆け出した。