世の中にはまだまだ不思議が溢れている。

平安の昔、あやかしの息遣いはすぐ隣で聞こえていた。
海を開いた昔、あやかしは息を潜めて向こう側にいた。
電子の網で世界が縮んだ今──あやかしは、隣人の顔をして暮らしている。



『東通り一丁目、和菓子屋の名物ばーちゃんが煮干しばっか食べるようになったって。まさか化け猫に喰われて成り代わられたとか!』
『北山三丁目、雑木林に遊びに行った子どもが次々行方不明。“秘密基地”に何かある可能性』

神凪壱子(かんなぎいちこ)が見出しに目を通している間にも、怒涛の勢いで画面が更新されていく。次々と新規の投稿が生まれては滝の如く文字を押し流していく。
あからさまなガセネタは流れのままに追いやって、信憑性の高そうなものをブックマークした。

あやかしSOS、略称あやエス。
近隣のあやかしの目撃情報や被害相談、対策等の記事を専門とする地域密着型SNSである。
SNSの性格上、胡散臭い投稿も一定数は散見されるものの、基本的にユーザーは深刻な悩みを抱える者、そしてそれに真摯に向き合う者で構成されている。
その真摯に向き合う者、のひとりが神凪家きっての才媛と名高い女子大学生陰陽師、神凪壱子だ。

この国が今の名前で呼ばれるよりも遥か昔。正史の裏でひそやかに綴られてきたのは人あらざるモノ──あやかしとの秘史である。
それを今に連綿と伝える由緒正しき血族、神凪家。
時の帝より賜りしその名は歴史の表舞台に於いて、凡庸な中流貴族として浮かず沈まずの小舟が如く、静かに大河に揺られてきた。
そして表舞台の緞帳が下りたその裏では──時代に即したあやかし退治を担うことで、歴史の轍にその名を刻んでいる。


画面上部に吹き出しが下りてくる。

『卯野さんにプライベートメッセージが届いています』

相談者からの依頼を引き受けると、他者からは読めないやりとりに移行するのだ。ちなみに卯野とは壱子のアカウント名である。
「壱」をスペイン語で言い換えて、漢字を当てただけだが気に入っていた。
そして「卯野」に依頼してきた相手は「クスキ」と名乗っている。

『二丁目の端にある川で行方不明者が増えているそうです。友人が何かの鳴き声を聞いたとか』
『雨が降っていないのにザーザーと雨音が止まないそうで』
『それが聞こえたらフラフラ歩いて行ってしまい、橋の向こうから二度と帰れなくなると、近所の児童生徒の間ではもっぱらの噂だそうです』

この手の話において「友人の友人」もしくはそれに類するものは情報源として心許ない。辿って確かめようとすると彼らもまた「友だちが従兄弟から聞いた話」などと言って逃げてしまうのだから。
逃げ水のような話に関わっているほど壱子は暇では無い。これはハズレを引いたと見なして、メッセージを切り上げるタイミングを見計らっていた時だった。

『疑っていますね?』

そのひとことと共に添付されたのは太鼓橋の写真だった。
住宅街のど真ん中である。夜間のため、街灯に照らされているのは電柱に月極駐車場の看板、築数十年は経っていそうなアパートと、その街並みは何処にでもある、何の変哲もない風景だ。
その中にぽつんと──存在感を何ひとつ主張することなく、太鼓橋が掛かっている。
普通、この手の捏造写真ではいかにも怪しい感じをよそおうために巨大な画像をコラージュしたり、霧でぼやかしたりして演出という名の加工に余念が無い。
しかし、それはただそこにあった。
人工的な明かりに照らされた朱塗りの橋は特段艶々した風合いを見せることなく、近くの塀と同じスケールと質感を漂わせている。
いきなり住宅街に時代がかった太鼓橋が現れているのだから異様な雰囲気なはずなのだが、どうにもしっくり馴染みすぎている。
壱子は別にウィンドウを開くと、前に聞いていたその住所で航空写真を検索する。
リアルタイムの更新ではないが撮影日付はそう昔ではなかった。
俯瞰のものと歩く目線に下ろしたものの両方で確かめる。電柱に月極駐車場の看板、アパート……角度を調節すればSNSの画像とそのまま重なりそうだ。
しかし──当然、太鼓橋はなかった。
今時は素人でも画像加工ソフトを少し弄れば業者顔負けのものが作れる。真贋の区別をつけるのに難儀する程だ。
壱子に人並み外れた技術系の素養はない。
しかし、彼女は──陰陽師だ。

すうと瞼を下ろした壱子はモニタを拒絶するように天井を見上げる。
瞼の裏側、緋色に染まるスクリーンを探るように息を詰める。
朱塗りの橋、鳴き声、降らない雨音。
目をつむって考えを整理しながらモニタに手を伸ばす。指で画像を見ようとしているかのようだ。
しかし指先が液晶パネルに触れる直前で──彼女は、目を見開いた。
姿勢を正してキーボードに向かう。

『今夜、拝見します』

ひとことだけ送信すればすぐに返信が来た。

『立ち会っても構いませんか?』
『もちろん。場合によってはお引き取りをお願いするかもしれません。その際はあしからず』

その後は時間帯等の打ち合わせを軽く済ませてやりとりを終えた。
壱子も支度に入る。
カレンダーを見れば今日は新月だった。

「うーん、おあつらえ向き」

日付の変わる二時間前。それが待ち合わせ時刻だ。
良い子はぐっすり眠っている時間だ。美容のためにも時計が天辺を越える前に眠りたい。学生と陰陽師という二足の草鞋を履く生活ゆえに、壱子の睡眠時間は不規則だ。
支度中に覗き込んだ鏡の奥では頬にできたニキビがしっかり自己主張している。その赤さが恨めしい。
はああ、とらしくない溜息をついて愚痴を追い出す。すうと顔を上げて鏡を伏せ、気分を切り替えた。
高い位置でひとつに括った髪を払うと珊瑚色の飾り紐がしなやかに揺れる。
まなじりとくちびるに艶やかな朱がいくさ化粧として良く映えた。
しかし着込む衣装は街に溶け込む、ありふれた普段着だ。充電を済ませたスマホをジャケットのポケットに突っ込む。

「いってきます。おじいちゃま」

パソコンの電源を落とした壱子は隣に置かれた写真を柔らかく見つめる。
その一瞬だけ年相応に幼く見えた視線も、顔を上げれば凛と大人びた神凪の名を背負うものに変わる。
部屋の明かりを消して玄関へ至る。
足に馴染むお気に入りのフラットシューズの爪先を三度リズミカルに鳴らして、夜の街に踏み出した。